――頭が痛い。
何故だ、と理由を探してみればすぐに思い当たる。
アレは翡翠色の髪をした、かわいらしい西洋人形の外見だった。だが口を開けばからから空虚なあざけり声を放つばかりで、その外面が正しく外面だけのお飾りそのものであることを俺に教えてくれた。鈴音について行った『闇の福音』ことエヴァンジェリンの別荘で出会ったアレは、いったい何だったのだろうか。
記憶を手繰るも具体的な情報が出てこない。人間だった頃、かの魔法使いと大したかかわりを持っていなかったせいだろうが――人形が開口一番に発したセリフが、どうにも俺の頭に引っかかっていた。
「ねぇ、説明すると言って僕をここに呼んだんじゃないのかい」
数日前の気分を悪くする出来事に悩んでいた思考は、フェイトの催促する声によって現実に引き戻される。ぐでりとへしゃげるように寝転んでいた机には積み上げられた紙束がそこやかしこにあった。その間を縫うように置かれていた紙コップを手に、フェイトは湯気を立てるコーヒーをひとくち、ごくりと喉を鳴らした。
「せやったな。けどまだ鈴音らが来とらんからちと待たなアカンわ」
すまんと両手を顔の前で合わせると、フェイトはやれやれといった風にため息をついた。座る椅子の傍らには黒いランドセルが置かれていた。今日は日曜日で学校はないはずなのだが、そう疑問に思っていると彼はその中から冊子を取り出して机の上に置いた。
「なんや、宿題か?」
尋ねるとちらりと俺の方を見て頷いた。その眼は依然と変わらず無機質だったが、ありありとした不満が覗いているように俺には感じられた。
「なぜ僕が小学生の勉強などをしないといけないんだろうね」
「そらフェイトが麻帆良の小学生やからやろ」
「何かの問題の原因に大っぴらに事実を言われると、ふてぶてしさに感心すら覚えるらしいね」
いっしょに取り出した筆箱の中からシャーペンを手に取ると、フェイトはぺらぺらと立ち読みするような早さで冊子のページをめくり、すらすらと答えを書き込んでいた。けだるい体を持ち上げて近くによれば、じとりとした目がこちらを向いた。
「なんだい?」
「や、真面目やなーて感心しとるんや」
「宿題をやらなかったら犬上のように立たされて晒し者にされるからね。そんな無様な真似になりたくないだけさ」
口を動かしながらも手は止まらない。あっという間に明日の日付が書かれたところまで進めると、フェイトはその冊子を閉じてランドセルに仕舞った。開かれたその中は几帳面にノートや教科書が並べられ、ゴミひとつもない綺麗なものだった。
「まぁきっちりしとるのはエエことやわ。ガンドルフィーニ先生も褒めとったで、フェイトは無駄なく風紀委員の仕事をしとるって」
魔法生徒であるフェイトは風紀委員として麻帆良の治安維持に協力している。場所柄ぶっとんだ行動をとる生徒の多いここで、風紀委員に小太郎と共に異例の抜擢をされて一週間足らずでフェイトの名前は麻帆良に広まっていた。無口無愛想なくせに馬鹿みたいに強く、阿保くさいほど生真面目な小学生風紀委員がいると。
学生同士の乱闘騒ぎを治め、迷子を保育園まで案内し、木の上に飛んでいった風船を捕まえ、川に流れてされていた猫を助けてとフェイトは抜群の活躍を披露している。彼はきっと偉大なる魔法使いになれますよ、と興奮気味にガンドルフィーニ先生が語っていたのを鼻高々に聞いたものだ。
「超鈴音のように不真面目ぶりを皆の前で叱責されたくないだけさ」
反対に鈴音はフェイトに任せたネと、スタートダッシュが一番大事なのヨと、風紀委員の仕事をボイコットして計画のための準備に時間を割いていた。そのせいで昨日ついに班長である高音・D・グッドマンから雷を落とされ、本日彼女同行の見回りに連れ出され、今日計画についてフェイトと協力者に説明する時刻になっても約束の場所に現れていなかった。
「さて、では次だ」
こくりと紙コップに残っていたコーヒーをすべて胃の中に流し込むと、フェイトはまた新しい冊子を机の上に取り出した。小器用にシャーペンを指で回して、その切っ先を俺の方へ向ける。
「僕の代わりに終わらせてくれるかい」
「宿題をか? そらフェイトの為にならんからアカンで」
「僕は人間に例えれば大学卒業程度の学力はあるから問題ないさ」
「それだけ賢いんやったらさっきみたいにぱぱっと終わらせればエエやろ」
かりかりと頭をかきながら冊子をのぞき込めば、大きな文字で『国語』と書かれていた。
「人間の感情の機敏など、人形である僕に理解できるはずもないさ」
「せやったら考える機会やろ」
「……おかしいね、わからないと言えば親や兄姉に値する関係性を作る相手が答えを教えてくれるんだろう」
犬上がそう言っていたよ、と口にして椅子から立ち上がったフェイトはコーヒーを入れ直して戻ってきた。ことりと、ふたつの紙コップが机に置かれ、白く立ち上る湯気の向こう側で彼はじっと俺の方を見つめていて――苦笑が俺の口をついて出た。
「しゃあない、今回は俺が教えたるわ。そんかわりに自分でちゃんと書けよ」
「無論だ。以前犬上があからさまに違う丁寧な字で宿題を提出して立たされていたからね、そんな迂闊なことはしないさ」
思い浮かぶ刹那と小太郎の姿も追加されて、俺の唇はだらしなく緩んでしまった。
うららかな春の日差しも、ほんのりとあたたかな風も侵入を拒まれている。白いカーテンは閉め切られ、天井に着いた蛍光灯が照らす室内で、吹いてくる風は空調から洩れてくる涼しく人工的なものだけだった。
「はやー、遅くなりました」
フェイトの『国語』の宿題が終わるのと、眼鏡三つ編みの少女が部屋に入ってくるのはほぼ同時だった。彼女はきょろきょろと室内を見渡してから、とてとてとこちらに駆け寄ってきた。オコジョの俺が言うのもおかしな話だが、小動物のように愛らしかった。
「超さんは?」
「あいつは風紀委員の仕事で遅うなるで」
そう返事を返すと、彼女は俺の方をまじまじと、食い入るような視線を向けてきた。じろじろと、俺から目線を外すことなく机のまわりを一周すると、天を仰ぐように両手をあげて呟いた。
「オコジョがしゃべるなんて非科学的ですっ!」
その声は信仰を打ち砕かれた信者のように悲痛な色をしているように俺には感じ取れた。
「オコジョがしゃべるなどとは……夢? ですがしっかりとこの耳で聞きましたし、眼で見て実在した存在を否定してしまえば科学者として……なるほど、わかりました。オコジョロボですね!」
声を上げた少女はぶつぶつと呟くと、びしりと俺の方を指さしてから首根っこをむんずとつかみ上げる。胸元に手繰り寄せて、口を開かせ、腹を触り、尻尾を持ち上げて肛門を見つめてから、少女は重い溜息を吐いた。
「オコジョです……」
「そらオコジョやろ」
「しゃべります……」
「そらしゃべれるんやからしゃべるやろ」
俺の言葉を聞くと、少女は机の上にあった紙コップを手にコーヒーを一気に飲み干した。フェイトから冷めた視線が注がれるが彼女は気にしない。フェイトの存在など彼女の感覚に触れていないかのようで、少女の意識は俺の方にしか注がれていないように思われた。
「本当に魔法などという非科学的なものが……いえ、茶々丸の起動時に知ったはずですがやはりそれは私の知る科学とは相反した幻想に彩られたもので、信じてしまえば私が信奉する科学の概念が破壊されてしまい科学者としての矜持が……ですが目に見えたものを信じないというのは、そこに疑問を呈し仮説を立証しないということもまた科学者としてはあるまじき姿でして――」
「なんなんだい、この人は?」
「鈴音の言っとった協力者らしいわ」
頭を振りながら喚いては俺を見て、またぶつぶつと自分自身を納得させようと言葉を並び立てる少女を目の前に、俺はまた苦笑が口からこぼれた。先とは違う意味でそれは漏れたという確信が俺は抱けた。
○
自動ドアが開けば、屋外よりも涼しい気温が私の肌に触れる。微かに汗ばんだ肌着が冷たくなり火照っていた体温を下げる。切れる息を整えつつ、私は慣れた手つきでエレベーターの前に立ってボタンを押した。
押しボタンの傍に付いた電工パネルが徐々に数を減らしていく。その数が1へと至るのを待つ私の胸中は穏やかではなかった。
「見ているがいいネ、吠え面かかせてやるヨ」
扉が開き、エレベーターの中に乗り込みひとりになってから発した言葉は意図して口から出したものだ。私の脳裏に先ほどまで一緒だった高慢ちきな金髪が揺れる。
「素晴らしい人だと、私では敵わないと、諸手を合わせて誓わせてやるのダ」
私は入学式以降、もっといえば風紀委員として任命されて以降、その仕事を私はすっぽかしていた。だがそれには大きな理由があるのだ。火星で起きた悲劇を消滅させるため、より良い未来を生み出すため、時を越えて過去を訪れた私には行わなければならないことがある。
火星では味わえなかった夢のようなこの時代を、この平和を、謳歌せねばならない。それはカラクネも言っていたが、平和を作り幸せを成すには私自身が平和と幸せを十全に知り、これでもかと体験せねばならないからだ。だからクラスメイトと放課後教室に残って談笑することも、五月と出店すると決めたお店について話し合うことも、クーと手合わせをして帰り道に買い食いをすることも、極めて重要で必要で欠かせないことなのだ。
なのに私の風紀委員グループの班長である高音・D・グッドマンはそれが解っていない。魔法生徒としての自覚がありませんわ、と私の貴重な時間を奪って今日風紀委員の仕事に連れ出したのだ。仕事が終わってから走って麻帆良大学の工学部ビルを訪れているが。約束の時間はとっくに過ぎていた。まったく、これもすべて彼女のせいね。
冷静に考えて欲しい。私は世界を憂い、世界を救うための行動を日々、昼夜、休むことなくこの聡明な頭脳を回し考え根回しをしているのだ。決して思考を放棄し豚のように快楽をむさぼるだけの愚者とは違うのだ。大切であるからクラスメイトとの交流に全力を尽くしているだけなのだ。
なのに我が班の班長様はそれが解っていない。フェイトさんは真面目に仕事をこなしていますわ、と彼のことを持ち出して私を叱責する。それが如何に的を外れたことだとは知りもせずに。
「わかてない……まるでわかていないネ」
扉が開き、目的地のある階についても私の声は荒いまま。歩く足がずんずんといつもより強い足取りになっているのは仕方がないことだ。
私が風紀委員の当番になっている時は代わりにフェイトを派遣している。故に戦力的にも、仕事的にも問題ないはずだ。だというに、彼女は私がまるで間違っているかのように皆の前で晒しあげた。これだから先の見えていない相手は嫌なのだ。
「T-NAK,MK-2の目処は立た。目にものを見せてやるネ」
麻帆良工学部の通路を歩きながら、私はくつくつと悪役っぽく喉を鳴らす。彼のロボットが麻帆良に配備できれば見回りの手間は省けるだろうし、計画の折までに多大な信頼を学園長をはじめとした魔法使いから得られるだろう。そのときに彼女がどんな顔をするのか――想像するだけで気分が良かった。
「やあやあ、遅くなてすまないネ」
必要以上に明るい声色を努めて出したのは後ろめたさもあったからだ。いくら高音・D・グッドマンのせいだとはいえ、約束の時間に遅れたのは事実。謝罪とお礼は人としての基本なのだ。
「これは鈴音が五歳くらいの時やな。この頃はまだ俺の方が料理担当やったんや」
「やはー、かわいいですねぇ」
「……こんな子供が迂闊な超鈴音に育つとは……人間の成長とは摩訶不思議なものだね」
足を踏み入れた部屋――ハカセに割り与えられた研究室の中心には幼い頃の私の姿があった。口のまわりいっぱいに赤いソースをつけて、黄色い卵で覆われたご飯を握りしめたスプーンでがっつく私の姿が。
幼い頃の私を囲み、微笑ましそうに見つめるハカセに、興味深そうに見つめるフェイトに、だらしなく自慢げに見つめるカラクネに、目を白黒させながら近づいていく。気づけばぽかんと私の口は開いていた。
オムライスもどきを食べていた場面は切り替わり、今度は自慢げにほつれた白パンツ一枚で胸を張る私が映し出された。その隣ではぱたぱたと火星の乾いた風に揺れるシーツ――染みで地図を描かれていた。
そういえばあの時は天才画家やな、とおだてられてその気になっていたのだった。次からは紙に書いて残してこうや、と続けられ、せっかくの自信作だからとカラクネに記念撮影をしてもらったのだったか――
「これくらいの頃は素直やってな……まぁ今も素直なエエ子なんやけど、最近ちと反抗期気味やから父親としては複雑な気分やで」
「おねしょは仕方がないとはいえ、記録に残されていたら私も少し恥ずかしいかもですよ」
「迂闊さは性格だけではなくて身体機能にも影響を及ぼすのか……人間は興味深いよ」
むぅと感心した様子のフェイトの発言をきっかけに私の頭に血が上る。
「あっ、あっ……あああぁっ」
かすれるような声に三対の視線がこちらを向く。顔が沸騰したかのように熱くなった。
「キエエェーッ!!」
怪鳥のような叫び声を立てると、はじき出された弾丸のごとく私は彼らの中心、カラクネの傍にあった映写機にとびかかると無茶苦茶にボタンを乱打した。
「よう、遅かったやない――」
「何やてるネ! 貴様お前カラクネ何やてるカ!!」
うっすら視界がぼやけている。羞恥心から涙がにじむとは初めての経験だ。
「何ってホームビデオの上映会やんか。鈴音が来んと話は進める訳にはいかんし、のんびりだべるのもええかなーって思っとったんやけどそしたら俺とハカセちゃんがしゃべるだけになるかもしれへんし」
「だっ、だからといて……っ!」
「ほれ、みんなに鈴音のこと知ってもらうんはこれからのためにも必要なことやろ? てことでそろそろ返してくれると嬉しいんやけど」
何が悪いのかまるで解らないといった風にカラクネは小さな手を差し伸べてくる。
カラクネが火星から持ち込んだ録画機能付き映写機は次々と私の姿を映し出していた。よだれを垂らして眠る私の姿。火星の研究室で日夜兵器の開発にいそしむ私の姿。初めて作った料理をおっかなびっくり出差し出す私の姿。カシオペアを手掛けだし連日連夜徹夜を繰り返していた私の姿。息抜きで訪れた何もなく何かがあった荒野で弁当を広げた私の姿。時を越えるためにオスティアへ向かった私の姿。そして――麻帆良初等部の制服に身を包んだフェイトの隣で、女子中等部の制服を自慢げに見せつける私の姿が。
そこで映像は途切れた。
「それは俺の宝物なんや……返してくれるか?」
カラクネはつつみ込むようなまなざしを私へ向けていた。小さなオコジョの白い手を伸ばし、尻尾をぴくぴくと揺らし、裂けるのではないかと思わせるほどに開いた口で微笑みながら。
「仕方がないオコジョだネ」
私も笑いながら映写機をカラクネの手に返す。
「いいのぉぉぉっ!」
嬌声がハカセの研究室に響き渡った。視線を少し上にあげれば、黒髪の女性が一糸まとわぬ姿で乱れていた。ぎぎぎと油の切れたブリキ人形のようにカラクネへ視線を戻す。脂汗がオコジョの白い毛を余すとこなく湿らせていた。
「これは?」
「アダルトビデオと呼ばれる男性が性欲処理のために使う動画ですね。私も詳しくは知りませんが、様々な関係性とジャンルで生殖行為を撮影して男性の性癖を満たすみたいですよ」
「生殖の快楽を娯楽として発展させた訳か……やはり僕には人間というものがよくわからないよ」
平静を保ったままのハカセとフェイトの声に、私の頭の中にツンドラの冷気が流れ込んだのではないかという錯覚を受けた。それほどまでに急速に、思考が冷めて醒めた。
「や、ほれ、前もゆうたけど俺も男やし、人間やった訳やし、もやもやするもんもある訳やし……」
びくつく尻尾を握りしめると私は床へと叩きつけた。