昼のときと同じ廊下を歩いているというのに全く違う場所を進んでいるかに思える。右手には窓の連なり、左手にはちょっとした赤い花弁を開く花の絵画がある。窓を叩く風もない。俺たち以外の全てが押し黙った空間。ただでさえしぃんとしているのに、暗さも合わさって本当に音のない世界に迷い込んでしまったと錯覚してもおかしくない。
俺たち三人は駄弁りながら気楽な感じで歩いていた。いや、俺は結構びびってるから本当に気楽なのは二人か。博麗と東風谷の仲は悪くないようで、時々、お互い小さい笑顔を交換し合っている。周囲はこんなに黒々しいのに二人がいる周りは薄く色付いている。
突然二人が止まった。一歩半後ろを歩いていた俺はそれに対応しきれず、思わずぶつかる。その時に漂う鈴蘭の香りの所為で二人を余計意識してしまうのは仕様のないことだろう。
「わ、悪い。……どうした?」
「もう始まってるわ」
「『終わらない廊下』ですね」
言われてみれば確かに、と頷いた。廊下の景色が全く変わっていないように思う。特徴のない窓は良いとしても、壁掛けの絵なんかは既に四回ほどみたような気がする。
「戻ってみますか」
東風谷の言葉に従って来た道を戻ってみるが、床を鳴らす音が十なったところで、
「……これ詰んでね?」と言わざる得なくなった。
「前に行っても後ろに行っても戻るのね」
ある程度は予想していたが、いざこうなるととても楽観できる状況ではない。当然、俺は困惑し、狼狽えてしまう。
「最初から難易度高すぎだろ……。無理だろ。もう諦めようぜ」
「それはちょっと早すぎると思いますけど」
東風谷はそう言って窓を開けにかかった。
鍵を開け、取手に力をかけて窓をスライドさせようとするが
「開かないです」と力なく言った。
「どきなさい」
若干強い語調で博麗が一歩前に出た。いつの間に持ったのか、手には神主が持つようなお祓い棒が握られている。そしてそれを振り上げて力任せに窓に叩きつけた。持ち手が木でできているから折れそうなものだが全くそんなことはない。彼女のお祓い棒は聞くところによると陰陽玉と共に強力な武器の一つであるという。これを聞いた当初、ただでさえ強い彼女に武器まであるのか、と予想外の事実を驚いたものだ。ただ、これで窓が割れる、という俺の期待が裏切られたのはそれこそ、予想の外だったが。
お祓い棒の先と窓ガラスが接触したその瞬間、耳から耳へと一直線に何かが貫いた。
いや、そう錯覚しただけだ。
細く長いマチ針の鋭さを持った音の矢が周りを震わせつつ、耳に飛び込んできたのだ。ワイングラスの縁を指でなぞった音をもっと細かく千切りにしたような音。
不快さに耳を塞ぐ。
二つ大きな深呼吸をしている内に、やがて音は止み、再び辺りに静寂がかかり始めた。
「参ったわね、これ。いっそ校舎ごと壊して外に出ようかしら」
「おいやめろ瓦礫に潰されて俺が死ぬ」
「私と早苗は大丈夫だけど?」
「そこで『何か問題が?』みたいな表情すんのやめようぜ。命は一つしかないんだぞ」
「比企谷さん霊力使えるんですよね?身に纏わせておけば大怪我はしないと思いますけど」
「俺の霊力とかたかが知れてるんだけど。防ぎきる自信がねぇよ」
本当、そんな簡単に言わないで欲しいものだ。こっちはついこの間まで一般的な男子高校生だったというのに。いやごめん、一般的な男子高校生はボッチじゃないね。八幡だけに嘘八百って感じだね!
「暗い中でもあんたの目が急激に腐り始めているのがよくわかるのはなんでなのかしら……」
博麗が何か呟いているが、取り合わないことにした。あんまり目のことに触れてやるな、そいつは俺に効く。
「しかしこれは一体どう攻略するんでしょうか」
東風谷は俺たちから一歩、二歩、三歩と離れて行くが突如としてその姿を消した。そして俺たちの後ろから自然な動作で歩いてきた。
この通り進んでも進んでも定位置に戻されてしまうのが非常に厄介である。
砕けないガラスによって外に出られず、廊下は見えない壁に押し戻されて進めない。校舎は壊せば俺が死ぬ。八方ふさがりとはこのことを言うのではなかろうか。全てが壁に阻まれているという事実は俺をひどく息苦しくさせた。
せめてもっと空間が広ければ……、
「ん?」
「どうしたのよ」
気付いたとき、こんな簡単なことを直ぐに思いつかなかった自分を情けなく思った。いや全く、きっと緊張で頭がパニクってたんだな。
「ちょっと比企谷、大丈夫?」
心配そうにこちらの瞳を覗きこんでくる彼女を躱して軽く笑みを浮かべた。
「攻略の仕方、思いついたんだよ」
そう言うと、二人は興味の色を向けてきた。まぁ、そこまで期待して貰ってるとこ悪いが、本当に簡単な話なのだ。
「天井を壊せばいい。そうすりゃ校舎破壊しなくてもこの廊下からは抜けられんだろ」
廊下は攻略したい。けどどうしようもない。外に出たい。弾かれる。強行突破。死ぬ。なら、内側はどうか。校舎の内側は壊せるのではないか。そうすれは廊下は攻略できるし、二階の女子トイレに直行できる。
それを話すと二人は丁寧に話を咀嚼して飲み込んだ。
そして博麗はおもむろに通常弾幕を三つ、ポンと浮かべると天井に向けて押し上げた。
鈍い音と破砕音が同時に響き、砕けた拳大の破片がボロボロと降った。後には穴がぽっかりと口を開けていてそれを見たとき自分の目論見が成功したことに少なくない喜びを得た。
「あんた結構頭の回転早いわね」
博麗から意外そうな声音で賞賛を貰う。
「ええ、少し驚きました」と東風谷まで続けて言うものだから
「んな大したことじゃねぇだろ。もっと早く思いつかなかったのが不思議なくらいだ」
と慣れない謙虚さを発揮してしまった。しかし、慣れないことはするものではない。現に、
「その言い方だとまるで私たちを馬鹿と言っているようでならないんだけど」
彼女の不評を買ってしまった。
ムッとした表情に可愛げがあるのは幼さを滲ませる顔立ち故か。それでも立腹しているのは間違いないようだ。
刺さるジト目を器用に払いつつ「そういう意味じゃねぇよ」と弁解すると思いの外簡単に引っ込めてくれた。
君は物分かりのいいフレンズなんだね!
「あ、修復し始めてます」
東風谷の目線に促されて見渡してみれば床に落ちた破片がカタカタ震えだして、浮いたかと思うと先ほど空いた穴に吸い込まれて空間を塞いでいく。
「さっさといきましょ」と言って博麗はふわりと浮いて穴を潜った。俺たちもそれに続いて二階の廊下へと降り立った。試しに何歩か歩いてみる。
キュッキュッキュッとゴムが廊下を擦る音が連続して響く。
戻ることは、なかった。
「『終わらない廊下』クリア、か」
結構楽勝だな。
安堵が俺の緊張を引き下ろしてくれたのか頭から熱がすぅっと引いた気がした。ふぅっと一息つく。
「飛び方、上手くなったじゃない」
博麗が薄く微笑みながら言った。
面と向かって言われると少し照れる。博麗の後ろに見える未だ修復を続ける床にそっと目を移した。
「人里いてもやることつったら本読むくらいしかなかったからな。それ以外の時間は結構練習してた」
「……努力してたのね、意外だわ。人が見てないと直ぐサボる人間かと思ってたもの」
「天才じゃない奴は努力することでしか能力を高めることができないからそうするしかないだろ。それに幻想郷だと空を飛べないと生存確率がぐっと下がるし。流石に死にたくはないからな。努力は惜しまない」
「でも多くの人はそうでも無いんですよね。人里では飛べる人が非常に少ないんです。恐らく妖怪が人里にこないという安心感から来るのだと思いますが……」
「そうね。でも周りの人は気づいてないだけで、変化して人里に入ってくる妖怪もいるのよね。でもしょうがないわよ。例え妖怪に喰われても努力しなかった人自身が悪いんだから」
「それを止めるのが霊夢さんの役目だと思うんですが……、私の役目でもありますけど」
冷たい態度をとる博麗に東風谷が苦笑いで返す。
「何にせよ力が足りないことを自覚して努力するのはいいことよ。見直したわ」
「……ありがとよ」
素直に礼を言うと博麗はうん、と一つ頷いて俺から目を離し、廊下の先を見つめた。
「次はトイレの花子って奴ね」
「なんかお前これからカツアゲしに行く番長みてぇだな」
勇ましいのはやはり彼女らしい。いつもは無気力な印象を受けるのに時々、自信に満ち溢れている行動をされると滅茶苦茶カッコよく見える。
そんな彼女に少しだけ、憧れに似た感情を持った。
♢♢♢
二分も歩かないうちに女子トイレに着いた。
この学校は正面玄関が北を向いている。面白いことに神社とは真逆の方向を向いているのだ。いや、全ての神社が南を向いているわけではなく、もちろん北を向く神社もある。だがそれは大体の場合『北向き神社』と称され、その存在は稀である。
そんな神社にそっぽを向くようなこの学校の西側に問題の女子トイレはある。
博麗、東風谷はなんの躊躇いなく中に入って行くが、俺は踏み止まってしまった。
いやだってさ、女子と一緒に女子トイレに入るとかアレじゃん?なんかこう、ダメな感じするじゃん?それだよそれ。だから決して夜の学校のトイレが不気味でビビってる訳ではない。ホントだよ?
「ほら早く」
伸びてきた手に服の袖を掴まれて引っ張られる。一二とたたらを踏んで成されるがままにしていると、ツンと鼻の奥を刺す懐かしい掃除用の薬品の臭いがした。
「左から二番目ですよね?」
その確認に肯定すると東風谷は早速個室のドアをノックした。それと同時に「はーなーこさーん、あーそびましょー」というお約束とも言える呪文も一緒だ。
この後の展開としてはおかっぱの小学生が出てきてトイレに引き摺り込むといったものだ。だがこの面子であれば心配は要らんだろう。異変解決のスペシャリストが二人いれば花子だろうが太郎だろうが一撃で沈む気がする。
コン、コン、コン。
一定のリズムを刻む。その直ぐ後に「はぁーい」の声。
返事だ。
三人顔を見合わせる。東風谷がドアに手を掛けた。博麗が弾幕の準備をする。開けた瞬間、中に叩き込むためだ。俺は二人の後ろで観戦する姿勢だ。同年代の女子二人に守られる俺氏。かっこ悪すぎる。笑いたきゃ笑え。
東風谷が息を短く、素早く吸った。
そしてドアを一息に押しやった。
すかさず博麗が弾幕を叩きつける。複数個の薄青い霊弾は流星のように光の尾を引いて、次々に個室を蹂躙していく。響き渡る鋭い破砕音が脳に響いて、目眩がするようだった。暗さをかき消すように連続して炸裂して辺りを照らす白い光、眩しい。ちょびっと目を細める。何処かに当たっては小さい爆発を起こしている。
「やりすぎたかしら」
終わった頃には、現場は便器の形を持っていなかった。所々壁に穴が開いたり、凹んでいたり。哀れ、花子は原型も留めず消えてしまったのだろうか。
「拍子抜けね」
「そうですね」
「次は『動く人体模型』ね」
一仕事終えた風に二人はこの場を出ようと、出口へ歩く。俺もそれに続こうとするべく、新しい破壊の跡を残すそれから目線を切った。だが、映ってしまった。
切った視線、目尻の端。真っ白い、関節を感じさせないぬらりとした手が無数に何本も何本も、便器の中から伸びるのを。目を見開くのを自覚した。
ぞっと、腰から後頭部にかけて蟻走感を覚えた。恐怖と不快に身を震わせた。手はゆらゆら揺れて、未だ気づいていない二人を嘲笑っているように見えた。
喉が鉛を流したように張り付いて、呼吸を思い出すのに時間がかかった。そしてやっと息を吸ったその時、
「博麗、東風谷!」
そう叫んで二人を突き飛ばした。
先のことの仕返しだろうか。白い手は真っ直ぐ、駆けるような速さで彼女たちを狙って迫っていき、さっきまで博麗たちの首があった空をを力強く握りしめていた。握力は分からないが、婦女子の細い首などは簡単に捻じ切られるのではないかと思われた。
「いった……くはないけどなにすんの、ッ!」
綺麗に受け身をとって立ち上がった博麗が声を荒げるが、直ぐに状況を理解したようだ。
東風谷は受け身を取れず、いそいそと立ち上がり、振り返って同じように目の前の光景に息を呑んだ。
「……ったくどこのペテルギウスさんだよ」
違うのは皆んなに見えてることと、色が黒じゃなくて血の通ってなさそうな白だということぐらいか。
腕の群れは獲物を掴み損ねたのが予想外だったのかぼんやりと宙を彷徨っていたが、ぶるり、と毛を確認させない白腕を跳ねさせると指先を俺たちの胸の直線上に置いた。
「一時撤退するわよ」
その提案に異を唱える者は居ない。俺たち三人は腕を睨みつけたまじりっと後ろに下がりつつあった。
あと少し……。
出口までは一メートルもない。それを確認して心に安堵が浮上した。
その時だった。
多量の腕はその心の間隙を縫って降ってきた。覆い被さるようにして、質量と力強さを纏わせながら、急に、呼吸の間も無く。それを視認した時、俺の胸は死の匂いでいっぱいに満たされた。
途端に自らの脚が小鹿のものの様に弱々しく感じられた。
「何やってんの!走りなさい‼︎」
後ろ襟を引かれ、ハッとする。
急いで駆ける。
後ろを振り返る余裕などない。
服に汗がベッタリと張り付いていた。気持ちが悪い。脂汗というやつか。
博麗は後ろ向きに飛行しながら、通常弾幕を数発撃ち放った。
だが結果はあまり思わしくないようで小さく舌打ちをした。
俺も助走をつけて低空飛行して、息切れを起こしつつ博麗に問う。
「ハァッ、ハァ、けほっ……どうだった?」
口呼吸の所為で器官が傷んで、僅かに血を混ぜた息が咳と一緒に鼻から抜けていった。
博麗はくいっと顎で俺の背後を促した。
若干の余裕ができた俺は、窮屈な肩越しに映る世界を視界に収めた。
恐怖した。
ほんの数十秒前よりも更に多くの腕が、白い津波となって、狭い廊下目一杯に互いの腕を押し付け合いながら迫ってくるのである。
カチカチと音がした。暫く音源を探してみた。だが何のことはない、灯台下暗し、自身の歯の根がかみ合わなかったのである。幻想郷に行く前、オカルトを見てビビってた小町を昔の俺はよく笑っていたものだが、これはダメだ。到底笑えたものではない。自分の部位と同形のものが多量に掴みかかってくるのを誰が怖がらないと言うのだ。
博麗がまた弾幕を数発撃った。腕の幾らかがちぎれ飛ぶ。豆腐よりは抵抗がある、言うなれば熟したトマト。飛び散る紅も相まってより一層トマト然としていた。
腕の軍勢は同族から漏れた赤いカーテンをその身に纏わせ、一心に追ってくる。猟奇的な絵面。足がすくみそうだから前を見た。
「これじゃ埒が明かないわよ!」
博麗が叫ぶ。
しかしこのままでは埒どころか道が開けない。もうすぐ廊下も終わりだ。東側階段を使うしかない。
「上か⁉︎下か⁉︎」
「上!」
階段は踏まずに飛んで三階へ行き、今度は三階の廊下を西側へ走る。あのトイレからもうかなりの距離はあるだろうに、腕たちは何か渇望するように、しなやかに過ぎる指先をこちらに伸ばし続けいた。
「結構しつこいですね」
東風谷が困ったように言う。余裕なのか、気楽なのかは分からない。多分後者だろう。
また長い廊下を駆け抜けて次は四階へ。更にそこから東に走って東階段に行く。この学校は屋上を除けば五階が最高所の筈だ。五階の廊下を西側へ行き、俺たちは一気に一階まで降下した。
腕はまだ追ってくる。距離は開き始めたようだが、このままじゃジリ貧だ。
一階の廊下を走る。東側昇降口を抜け、中央玄関を過ぎる。そこでふと、何か重大なことを忘れている気持ちが俺を覆った。
霊力の問題?違う。俺の言った七不思議と現状の齟齬?違う。もっと最近にあった。
突然、腕と俺たちとの間隔が近くなった。
「はぁ⁉︎どういう……」
そこまできて、思い出した。そう、ここは、一階の廊下はーー
ーー『終わらない廊下』だった。
腕が近くなったんじゃない。俺たちが
「博麗!」
「分かってるわよ!」
東風谷と俺が通常弾幕で牽制して、博麗が天井に大穴を空けるため弾幕を上に放つ。
「東風谷、お前先に行け!」
空いた穴に視線を向けて東風谷にそう言う。
「え⁉︎無理ですよ比企谷さん!ここは私が食い止めますから比企谷さんこそ先に行って下さい!」
「駄目だ、お前が行け!女子残してすごすご逃げたら俺が小町に怒られるんだよ!あがっ」
「比企谷さん!」
「比企谷!」
撃ち漏らした一葉の掌に首を鷲掴みにされた。万力のような力でギリギリと締め付けられ、更に次々と伸びてきた他の腕も俺の背中に手を回して抱き締めるように波の中に取り込んで行く。
視界に靄がかかり始めた。冷静になるのとは違う、血が冷えて行く感触。意識が遠のく。
瞼を閉じた。
だが暗い、闇の時間はその一瞬で消え去った。
瞼を焼く光。太陽か?
俺を包んでいた腕から力が失われ、重力に従ってボトボト落ちていった。
俺の目の前には、
「よう、危機一髪って感じだな」
「霧雨……」
星を操る太陽の少女が箒を片手に立っていた。
やっとフラグの芽みたいのが出始めたよ……。
八幡はフラグを立てづらい。