β世界に生きる   作:銀杏庵

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10 帝国分析

 東西冷戦に突入したβ世界において、資本主義の西側陣営筆頭たる米国は、ソ連によって世界に拡大した共産主義を目指す社会主義圏に対する巻き返しとして、大戦で被災した西側陣営の経済基盤を一刻も早く回復させるとともに、西側陣営の数を増やすことにした。

 そのために米国は、大戦で甚大な被害を被った欧州復興計画を策定し、大規模な復興援助──復興資金を融資する国際復興開発銀行、貿易収支悪化国へ外貨を融資する国際通貨基金(IMF)の設立等──を行なった。この”欧州”復興計画は、西側陣営の西欧諸国の復興支援だけではなく、東側陣営の中欧・東欧諸国の切り崩しをも狙ったものであったが、東側陣営はソ連主導のもとで、中欧・東欧の社会主義諸国を中心に経済協力機構を結成して対抗した。

 米国による欧州復興計画は、結果的に欧州の東西分断の溝を深める一方で、西欧諸国間の統合への動きを促すことになった。

 この他に米国の巻き返し策として、米国は西側陣営諸国を中心に貿易にかかる関税を相互に引き下げる多国間協定──関税及び貿易に関する一般協定 (GATT)──を交渉・締結し、自国の市場を開放することで自由貿易を推進する。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 米国は、米国国民の税金で敵国であった帝国を支援することへの国内批判を回避し、対帝国援助の負担を軽くするために、GATTへの帝国の加入を締結国に認めるように働きかけるも、戦前の帝国製品のダンピング輸出の再来を恐れる英国、白人系の英連邦及びフランス等による反対で、帝国の加入は拒否され続けた。

 戦後における帝国の復興は、α世界の日本と同じく、外国から資源を輸入し、それを加工・製品化し輸出して利益を得る、加工貿易に依存さぜるを得なかった。このため、GATT加入による関税等の最恵国待遇(第三国に与える待遇よりも劣らない待遇)を得ることは、帝国にとって悲願であった。

 1955年、漸く帝国はGATT加入が認められたが、その交渉において、反対国に加入を認めてもらうために多大な代償を払うことになった。具体的には、対日条項として名高いGATT第三十五条「特定締約国間における協定の不適用」、小麦の輸入増の確約等反対国産品の輸入拡大、あるいは帝国製品の輸出自主規制を帝国は飲まされることになった。

 GATT第三十五条という、帝国のみに適用される差別的な扱いは現在も続いており、α世界の日本でもその撤回には、1960年代半ばまで時間を要しいる。「国家に真の友人はいない」という格言の如く、同盟国の米国や他の同じ西側陣営の国であっても、他国を食い物にしてでも自国の利益を優先する、一皮むけば弱肉強食なβ世界であることを五月は実感した。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 遥か古の貴族らが己の権勢を誇るため、競って椿の園芸品種を育成した名残である寒椿が咲く庭園を臨む一室に一人の男がいた。

 「子供(五月)の説得さえ出来ず、部屋に引きこもりになるとは……我が妹ながら使えんやつだ」

 有栖川家次期当主である春人は、当主の前では見せない幹部官僚特有の不遜な態度で不満を漏らす。

 「愚弟の子供に有栖川の姓を名乗らせるのは業腹だと思って、橘の家へ養子縁組させようと画策したのに……橘(妹の夫)に入れ知恵した養子縁組届の”工作”も、先に不受理申出を届けられて失敗か……(元)使用人風情の癖に、弁護士を雇って邪魔をして来るとは許せんやつだ」

「そもそも、愚弟と一緒に子供も死んでしまっていれば良かったものを!」

 春人は、忌ま忌ましげに吐き捨て、延々と悪態をつき始める。

 春人が、有人らに悪意を向けるようになったのは、宮内省の同期や上司が、高級官僚が約束される大蔵省と並ぶ外務省で外交官となった有人をワザと褒め立て、逆に春人が血筋だけと揶揄され続けたためであった。

 「……このまま未成年後見人の家庭裁判所の審問で、当家が愚弟を勘当し、子供も同様な扱いをしている立場を通すと、(元)使用人風情が後見人になり、娘の有栖川の姓はそのままになりかねん」

 「そうなったら、ジジイ(当主)の癇癪が煩いし、何としてでも有栖川の姓を捨てさせねば……」

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 話を再び五月による国会図書館の蔵書情報の分析結果に戻す。

 帝国の経済成長率は、過去七年連続で六%を超え、特に昨年は十%(概算)を超える見込みという新聞情報から、五月は今年の帝国の経済成長も十%を超えるだろうと楽観視していた。しかし、帝国が経済成長するには大きな壁があることが、国会図書館の蔵書を元にした分析で判明した。

 帝国の貿易について、主力の対米貿易の収支は赤字基調であり、昨年の十%という高い経済成長率は、今までの貿易で溜まった外貨を使って、国内設備投資が大きく行なわれたこと等によるものであった。

 戦後、帝国は米軍の占領政策下で、雇用規模も大きい繊維、鉄鋼、エネルギーなどの重点産業の復興と育成に努めた。帝国の貿易再開が許されると、繊維や機械の好調な対米輸出を背景に、帝国内の石油化学や鉄鋼等の産業は、外国から新しい技術を取り入れた設備投資や、生産コストを下げる規模拡大に設備投資が活発に行われた。こうした投資は、帝国を占領していた米国からの無償援助や国際復興開発銀行等からの融資に支えられて進められた。

 しかし1950年代に入り、帝国が主権回復で米国からの援助がなくなると、帝国の貿易は価格以外で国際競争力のある製品が少なく、また、米国から押しつけられた兵器購入等もあって、貿易収支は赤字になることが多かった。反共の防波堤を義務づけられた帝国は、北は樺太や北方領土から、南は琉球諸島までの広大なエリアを防衛するために、人件費や兵器類の費用は相当な額になるのである。

 外貨不足に対して、帝国政府は外国為替及び外国貿易管理法に基づいて、外貨使用届出や輸入届出等により外貨を割り当てて貿易を統制している。また、帝国は、外貨不足に苦しむ加盟国に外貨を融資してくれるIMFに加盟しているが、IMFの基金への出資割当額(その国の国民所得、貿易額、金と米ドルの保有額等で決められる)に応じた融資額の制限から、外貨の確保は十分とは言えない状況にある。

 α世界のかっての日本で見られた、経済成長率が高いにも拘わらず、貿易収支は黒字が定着している構造的黒字を、β世界の帝国は未だ実現出来ていないのである。

 今の帝国は、国内の景気が拡大→原料・資材の輸入急増→貿易収支悪化→外貨準備高減少→政府が金融引き締め→国内の設備投資停滞→景気が後退するという、”国際収支の天井”というジレンマに陥っているのであった。

 それでも帝国は、国内の消費拡大等により過去七年連続で六%を超える経済成長を達成しているが、外貨不足という壁を乗り越える新たな成長要素がない限り、帝国経済の本格的な離陸は難しいと五月は考えた。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 外貨不足に並んで、帝国が抱える大きな課題として、エネルギー供給の元栓を米国に支配されていることである。

 米国による帝国の戦後復興支援は、帝国を米国企業の市場とする思惑が働いており、財閥が太平洋側沿岸に建設した石油コンビナートは、精製設備投資が少なくて済む、良質で価格が高い(ガソリン等の得率が高くて硫黄分の少ない)米国産原油を前提に形成されてしまっている。

 これに対して、α世界の戦後の日本は、低質で価格の安い(ガソリン等の得率が低くて硫黄分の多い)中東産原油を輸入し、少しでも多くのガソリンや付加価値の高い石油製品を得るために多額の精製設備投資を行なった。α世界の日本が、中東産原油に依存するのは、こうした経済合理性故なのである。

 近年、米国の地質学者の唱えるオイルピーク論

(米国本土の原油生産はピークに達し、減退に向かっており、米国本土の原油輸出を規制すべしという主張)が、米国で議論を巻き起こしている。

 いずれにしても、帝国の産業構造が、大東亜戦争前と同じく、米国の石油に依存し、輸入先を分散していないことは、帝国の自立性を始めBETAという災害において大きなリスクであると、五月は懸念を抱く。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 葛葉老人の朝は早い。五月が英国(実はα世界の日本)から持ち込んだタイマーにより、電気炊飯器が自動的に炊けるようになったので、以前よりはゆっくり出来るのだが、葛葉老人は早起きが習慣になっているので、その分の時間を家の前の道掃除を広めることに費やしている。

 葛葉老人が、掃除を終えて家に戻ってくる頃、五月が漸く布団の誘惑から抜け出して起き出す。寝起き直後の五月は、長い銀髪のあちらこちらで寝癖が出来、ぼ~っと変な顔をしており、百年の恋も一発で冷めてしまう有様であった。

 以前の五月ならば、時間をかけてブラシで寝癖を取る余裕があったのだが、予想以上の塩パン人気で冷凍室満杯でも不足する数を補うため、朝から大量の塩パンを焼く作業をしないといけないのであった。

 戦後の食料難の一時期を除き、御飯が圧倒的な主食の地位を占める帝国にあって、パン食は在日の外国人か上流階級の一部等ぐらいであり、帝国の庶民にとってパンは”おやつ”の位置づけにある。そのため、五月が住む近所にはパン専門店もなく、塩パン作りを丸投げする相手もいない。

 五月は、毎朝ドライヤーとブラシで寝癖を短時間で退治しなければならなくなった。

 そんなこともあって、家に引き籠もり勝ちな五月を心配した葛葉老人は、塩パン作りに時間制限を課し、外で他の子供達と遊んでくるようにと言って、小学生が帰宅する午後三時頃には彼女を家から追い出してしまう。

 近所の子供達の遊び場であるS神社の境内では、学校から戻った子供達が集まり、チャンバラ、ダルマさんが転んだ、長縄跳び等の遊びに興じていた。そんな境内に一人やって来た五月は、子供達に近づくことが出来ずにいた。

 (う~っ、どう声をかけて子供達の輪の中に入ったらいいの?)

 大人になって、子供と遊んだことのない五月の中の人には、難題を前に境内の端でうんうんと悩む。

 子供達の方はと言うと、見知らぬ顔、それも髪の色も肌の色も自分達と違う五月に対して、最初は遠巻きにしていたのだが、どこにでも怖いもの知らずな子はいるようで、五月に猛然と突撃してきた。

 「ぎんいろのあくめ、せいばいーっ!」

 五月より頭半分背が低い男の子が、両手で持った棒切れで五月に襲いかかる。

 ゴン! 五月が、捲くり上がったスカートの中から放った片足のブーツの靴底が、男の子の顔面にめり込む。五月としては、突進を止めるつもりで放った足技であったのだが、男の子は顔にくっきりと靴底の跡をつけたまま、バタンと後ろに倒れてしまう。

 (カウンターが入ってしまったかしら)

 五月は、開いた口を女の子っぽく片手をかざす。

 「「アキのかたきだーっ!」」

 そう叫びながら、新たに男の子二人が、五月の左右から棒切れを持って襲いかかってきた。五月は、下手に迎撃して怪我を負わせる訳にはいかないと、生体強化された脚力で空へ大きく跳躍して、男の子らの攻撃を避ける。

 「「「おおーっ!」」」

 空中で身体を一回転させて、着地した五月を見た周囲の子供達から感嘆の声が上がる。襲撃した方の男の子らは、口を大きく開け唖然としていたが、直ぐに気を取り戻して、倒れていたアキを起こし、今度は三人で三方から五月を取り囲み攻撃を繰り出す。

 五月は、生体強化された脚力を活かし、加速、フェイント及び跳躍を織りまぜ、彼らの攻撃を悉く交わして見せていると、いつの間にか周囲に観客(子供)が群がる。

 「くっ! ちょこざいなーっ! このひっさつわざをうけてみろ!」

 格好良く決めセリフを吐いたアキであるが、顔に赤く残る靴跡を見た五月は、指さして笑い声を上げると、彼はカッカッと怒り、手にした棒切れを上段に構えて攻撃しようとする。

 ゴン! アキの背後に立った怒れる大魔神顔の女の子が、拳骨を彼の脳天に打ち下ろす。

「何やってんのよ、秋男!」

 秋男は、棒切れを落とし、余りの痛さに頭を抱えてうずくまる。仲間の男の子二人も、大魔神にギロと睨まれると、棒切れを放り出し、蜘蛛の子散らすように逃げ出してしまう。

 大魔神モードを解除した女の子──夏子が、涙目の弟の頭を無理やり下げさせて、一緒になって五月に何度も謝ってきたので、五月は笑って許した。そんな騒動が切っ掛けとなって、五月は夏子らに誘われ、女の子達の遊びの輪に加わることが出来た。

 五月は、女の子達と一緒になって長縄跳び遊びに興じ、跳ぶタイミングを失敗して足に縄を引っかけ、キャーキャーと言いながら楽しむ雰囲気に、いつしか五月も童心に返って遊ぶ。

 太陽が大きく傾き、帰宅時間になる頃には、五月は夏子らとすっかり仲良くなって、「また明日」と名残惜しげに別れることになる。

 その後、作製量が減った塩パンの代りに、数が沢山用意できる焙煎コーヒー豆のクッキーが、葛葉老人のカフェの新たな看板メニューに加わった。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 

 再び話を五月による国会図書館の蔵書情報の分析結果に戻す。

 先に述べた帝国が抱える大きな課題として、他にも帝国の科学技術力が、総じて欧米の西側先進国よりも遅れている点も見逃せない。

 遅れている原因は、欧米の西側先進国は宇宙開発に膨大な予算を投じて、基礎研究の成果を積み上げて科学技術力を飛躍的に伸ばしているためである。     

 また、科学技術力を支える人材の面においても、欧米と帝国では格差が酷い状況にある。例えは、基礎研究の最たる物理学において、米国の博士号取得者は1500人を超えており、帝国の十倍以上の人材が、宇宙開発で需要の高まった仕事(政府や民間の研究職)に就いているのである。帝国の現状はと言うと、学術会議が昨年公表した科学者の生活白書において、科学者の低収入と研究環境の悪条件を訴える始末であり、五月は米国との格差に深いため息を漏らす。

 「予算がない貧乏な帝国では、幅広い基礎研究全般で欧米に追いつくのは不可能。となると、成長が期待される電子工学の分野だけでも追いついて欲しい所よねぇ」

 新素材開発については、1955年に帝国は欧米の宇宙開発計画へ参加が認められ、大型軌道ステーション”ホープⅡ”の実験棟において、無重力下での新素材開発の機会を得られた。なお、帝国の宇宙開発計画への参加はその他にも、軌道上の無人大型探査機イカロスⅠの建造作業及び宇宙デブリ(ゴミ)処理等を受け持つことになった。と言っても、帝国には、α世界の日本のように自前で宇宙ロケットを製造し、打ち上げ及び運用する技術がないので、過酷な宇宙空間での危険な作業の下請けとして扱き使われている。

 宇宙での新素材開発には、帝国は少なくない負担金を支払っているが、スーパーカーボンの開発(1956年)に関われず、製造ノウハウも得ることも出来ないでいるようだ。

 (そう言えば、スーパーカーボンの製造方法って、国会図書館の蔵書である特許公報情報に未だに掲載されていないのよね……74式近接戦用長刀に用いられるぐらいだから、炭素繊維を固めたものではないのは分かるけど……)

 (仮に金属炭素だとすると、開発されたのが無重力の宇宙じゃあ超高圧力(1.2TPa以上) で圧縮する方法が思い浮かばないのよね……α世界において、高強度レーザー誘起衝撃波による金属炭素生成の可能性の報告はあるけど……そんな出力の高いレーザーが、β世界で既に開発されていたならば、米国がBETA大戦でレーザー兵器を実用化していてもおかしくないし……)

 謎のスーパーカーボンの製造方法に、頭を悩ませる五月であった。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 帝都暮らしも半月が過ぎた頃、五月が葛葉老人と一緒にいつもの時間(夕方)に銭湯に行くと、いつもとは様子が違って、銭湯の前に長蛇の列が出来ていた。

 最後尾に並んだ葛葉老人が、前にいる人に訳を訊ねると、銭湯が大枚はたいて最新のテレビを購入し、押し寄せた人々が銭湯の中で居すわってテレビを見るため、列が進まないとのことであった。

 最新のテレビと言ってもカラーではなく、白黒の十四インチしかないものであるが、まだまだ高価(大卒初任給の六倍)であるため、帝都では裕福な家以外では集客効果を狙った銭湯や食堂、電器店でテレビを先駆けて導入する例が多かった。

 物珍しさに集まるのは人の習性であるが、列が一向に進まないことから、五月と葛葉老人は今日の風呂は諦め、家に帰ることにした。銭湯のテレビ騒動は、その後も一向に衰えることがなかったため、五月達の銭湯に行く時間は夕食食べて、人気歌番組のテレビ放送が終わって随分経ってからと大幅に遅い時間帯になってしまった。

 他にも街の大きな変化として、隣町の西陣織で有名な織屋の紋紙倉庫(複雑な図柄を色糸で織るため大量に必要となる型紙の保管)群が取り壊され、カンカンと杭打ちの音が五月の住む家にも煩さく届くようになった。五月が、遊び仲間の子供達から聞いた話では、新たに出来る大きな建物はスーパーマーケットだそうだ。

 α世界の日本ならば反対運動が大いに盛り上がり、あちらこちらに建設反対の看板が立ちそうなのに、五月が目にする範囲には一つもない。五月は、不思議に思って商店の家の子供達に訊ねると、反対と騒ぐと怖い人が店に来るから黙っているようにと親に口止めされているそうだ。五月は、怖い人とはヤクザかチンピラと最初思っていたのだが、話の中に(保健所の)立入検査や脱税調査等も出ており、暴力系だけでなく役人も加担していることに唖然とする。

 帝国社会は金と権力が幅を効かせる、法治国家としては未熟な国ではないかと五月は心配になった。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 二月も下旬になって、漸く五月の未成年後見人の申立てに対する家庭裁判所からの呼出しが来た。

 五月と葛葉老人は、光月弁護士に付き添われ、管轄の家庭裁判所に赴き、担当の調査官と個別に面談することになった。

 五月の面談では、気難しそうな調査官から、申立ての理由、親族を頼らない理由や葛葉家での日々の暮らしぶり等を訊かれた。五月が、父親が勘当されて以降、親族との交流は一切なく赤の他人状態にあること、引き取りを名乗り出た叔母から暴力を振るわれたこと、親族よりも信頼できる葛葉老人の元で暮らしたいと切々と訴えた。調査官は、子供である五月に、そう言わせているのではないかと疑い、彼女の真意なのか何度も確認を行なった。

 葛葉老人の面談では、他人の子供(五月)を引き取った理由、カフェの経営状況、近所付き合い、学校に五月を通わせない理由等、五月の倍の時間をかけて根掘り葉掘り訊かれた。

 面談が終了し、疲労の色が見える葛葉老人に対して、光月弁護士が帰り道に色々と今後予想されること──親族への意見照会、葛葉家の隣近所での評判調査、家庭訪問──に関する注意点を伝えた。

 五月は、面談も順調に終わり、叔母へもナノマシンで工作済みであり、葛葉老人を未成年後見人とする家庭裁判所の審判が直ぐに下りると思っていたら、二月が終わり三月に入っても音沙汰がなかった。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 帝都の百貨店で注文した五月のオーダーメイド服二点が出来上がり、その内の一点を着込んだ五月は、迎えに来た黒井の運転する外車に乗って、神戸にある紅井夫人の邸宅を訪れる。

 レンガ作りの瀟洒な洋館である紅井邸は、帝国有数の貿易港である神戸港と海が一望できる六甲山麓に建っており、周囲にはお金持ちの邸宅が建ち並んでおり、高級住宅街であることが分かった。

 玄関前のロータリーに停車した外車のドアを、運転手の黒井が恭しく開き、五月は彼にお礼を告げて降りると、紅井夫人と顎鬚がワイルドな感じの四十代の男性並びに家政婦二人が出迎えてくれた。

 降り立った五月は、頭には白い毛皮の帽子、襟と両袖口に白いふわふわでかわいいファー(狐の毛)のあるコートを着た姿で、愛らしい笑顔を浮かべて、出迎えた紅井夫妻に挨拶及び招待のお礼を述べる。

 「いらっしゃいな、五月ちゃん。その衣装は──丸で雪の妖精さんのように可愛いわよ」

 「確かに……写真よりも一層愛らしいお嬢さんだね。白百合さんが、家の娘にしたいと言い張る訳だな」

 紅井夫人の夫である一樹は、ウンウンと頻りに頷く。

 五月は、紅井夫妻の誉め言葉に、照れた様子を見せる。

 「さあ、さあ、五月ちゃん。今日、貴方は家族として歓迎するから遠慮しないでね」

 心はやる白百合は、五月の片手を取って早足に家の中へと連れて行く。その後ろ姿を、一樹や使用人らが微笑ましげに眺め、遅れないようにと後に続く。

 五月が、白百合に手を引かれて、玄関に近いホールの階段を登って行くと、壁には色々な絵画が飾られており、その中に亡き父親の作品が飾られていた。五月は、亡き父親の作品の前で足を止め、白百合に作品を飾ってくれたことに一言お礼を述べる。

 五月が、ふと隣に飾られているA4程の大きさの額縁に目をやると、一カ月前の百貨店の会員限定サロンで、調子に乗って一人ファッションショーをした自分の黒歴史な写真(大きく引き伸ばされたもの)であった。

 「……あのう~、どうして私の写真が飾ってあるのですか?」

 五月は、少々震える声で白百合に訊ねる。

 「勿論、可愛い五月ちゃんを、皆さんに知ってもらうために屋敷中に飾ったのよ」

 無邪気な顔した白百合の言葉に、五月は自分の黒歴史が晒されまくっていることに内心で滂沱するのであった。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 白百合に案内されて、五月が暖炉のある部屋に入ると、中学生ぐらいの男の子二人が、椅子に座ってまったりと雑談していた。その傍らには、若い家政婦が紅茶ポット等をのせたワゴンの後ろで佇んでいた。

 男の子二人は、母親が連れてきた、人形のように美しい少女を見つめたまま、ポカ~ンとした表情になる。

 「五月ちゃん。こっちの子が、春には中学三年生になる長男の公夫。あっちの子が、一学年下になる次男の忠夫。二人ともおっとりとした性格のせいか、スポーツも成績もいまいちな子達なのよね……そうそう、二人とも未だにステディな彼女一人作れないヘタレだから、五月ちゃんの目に叶うなら彼女になってやってね」

 白百合は、軽い感じで五月にウィンクをすると、紹介を受けた息子達は微妙に傷ついた顔をしていた。そんな二人に嫌われないようにと、五月はあざとい作戦を仕掛けるため二人に接近する。

 「初めまして、有栖川五月です……公夫お兄ちゃん……忠夫お兄ちゃん……私と仲良くしてね」

 妹キャラを演じることにした五月は、愛らしい笑顔と保護欲をかき立てる声音で、公夫と忠夫にアプローチをかけると、二人は揃って嬉しそうに頷いて見せる。

 紅井夫妻は、息子達が五月を相手に、一生懸命話しかけている様子を微笑ましげに眺める。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 五月が持参したお土産──焙煎コーヒー豆のクッキーと塩パン──が各皿に盛られ、花柄模様のテーブルクロスの上に並べられる。帽子やコートを脱いだ五月は、不思議な国のアリスのようなエプロンドレス姿で、愛嬌をたっぷり増量した笑顔で、一家にお土産を勧めると、成長期の公夫と忠夫は、先を争うようにお土産を食べる。

 五月は、若い二人の旺盛な食べっぷりに感心しつつ、暖かいジャム入りのロシア紅茶を優雅に飲み、紅井夫妻との会話を交わす。

 「おおーっ! 美味いな、このパンは」

 塩パンを気に入った一樹が、野獣(息子)に食べ尽くされる前に塩パンを確保していた。

 「ええ、塩パンもいいですが、コーヒーの芳しい香りがするクッキーは、お客様を招いたお茶会に出しても良い美味しさですわね……二つとも家の料理長に、是非マスターして貰いたいわ」

 五月は、お土産が紅井一家に好評を博しホッとする。

 「白百合のおば様「ノン、ノン、五月ちゃん。今日の貴方は家族の一員なのよ。息子達をお兄ちゃんと呼んだのなら、私のことはママと呼んでくれなきゃ」」

 五月は、面食らった顔をするも、家族を失った孤独な自分を気づかう白百合の心遣いに応えることにする。

 「……し、白百合ママ……レシピをお教えますから、後で一緒に作りませんか?」

 五月が、恥ずかしげに告げると、白百合は喜びで天にも昇りそうになる。

 「あぁぁぁ!……五月ちゃん! このまま本当に娘になって、ママと一緒に暮らすのよ──っ!」

 白百合は、瞬間移動のような速さで移動し、五月を自分の胸に抱き締めてウリウリと可愛がる。そんな暴走する母親から妹(?)を助け出そうとする息子達のやり取りに、一樹は苦笑しつつクッキーを一つ口に入れる。

 「ほろ苦いが、いけるな……」

 部屋に控えていた家政婦二人が、頃合いを見計らって公夫と忠夫に代わり、暴走する白百合から五月を解放するも、五月はすっかり草臥れてしまっていた。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 「娘とお揃いのエプロンを着て、一緒に料理が出来るなんて、夢のようだわ……」

 白百合は、心の底から感動していた。子供が息子ばかりで、娘のいない白百合にとって、娘と一緒に料理を作るのが夢であったためである。 五月は、喜んでいる白百合の顔を見ながら、次の段取りに取りかかる。

 「パンが一次発酵している間に、コーヒー豆クッキーの方を作りましょう。料理長の浅井さん、焙煎したコーヒー豆を砕いたものは準備できましたか?」

 料理長の浅井が、焙煎して砕いたコーヒー豆が入った器を五月の前に差し出す。

 「いい香りです。申し分ありませんね──さあ、白百合ママ! ボウルに牛乳、砂糖及びシードオイルを入れ、泡立て器で良くかき混ぜましょう」

 白百合と五月は、料理長の浅井が準備した容器の中身を、各々のボウルに入れて手早く泡立て器でかき混ぜる。

 それが終わると、今度はボウルに薄力粉を少しずつ加えながら、木ベラを使って混ぜ合わせ、最後に焙煎したコーヒー豆を砕いた粒を入れ、こね過ぎないように注意しながら木ベラで混ぜて行く……。

 二つの料理が出来上がる頃、招かざる客が紅井邸にやって来た。

 


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