β世界に生きる   作:銀杏庵

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11 比良八溝荒れじまい

 「あの娘を引き取るだとーっ!」

 老いてもなお有栖川家当主の座を譲らぬ文人が、顔を真っ赤にして、次期当主である息子の春人を怒鳴りつける。

 「落ち着いて下さい、父上! これは有栖川の姓を捨てさせるための一時的な方便です」

 「何が方便じゃ! あの敵国人の娘に家の敷居を一歩たりとも跨がせるのは許さん!」

 春人は、「私の策を最後まで訊いて下さい」と何度も繰り返し、当主を必死になだめ、落ち着かせようとする。

 数分後、文人も散々悪態を吐いたことで、興奮もなんとか収まった。

 「橘家が手を引いた今、当家が愚弟と同じくあの娘を勘当扱いしていることを家庭裁判所に知られたら、未成年後見人はあの(元)使用人風情に決まってしまい、娘に有栖川の姓を捨てさせることが出来なくなります」

 「そうならんように、お前に何とかしろと命じたじゃろうが!」

 「ええ、ですから散々考えた結果の策です。勘当の件を隠して、愚弟の娘を当家に一端引き取る旨家庭裁判所に申し出て、私が未成年後見人の立場を得たら、即、法定代理人の権限を使って使用人の家に娘を強制的に養子縁組させて、有栖川の姓を捨てさせるという次第です」

 話を聞いた文人は、不機嫌そうな顔をするも、春人の策を却下する欠点が思い至らなかったので、しぶしぶながら認めることにした。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 戦後、帝国が貿易立国となることが出来たのは、政府の各種輸出奨励策もさることながら、国際情報力と販売力を持つ商社が、メーカーと協力して海外市場を開拓し、輸出を拡大して来たお蔭である。帝国経済の復興・成長と共に、数多くの商社は、合併・吸収を繰り返して企業基盤を強化すると共に、取扱商品の多様化に加え、技術移転、資源開発、合弁事業及び金融等新たな機能を次々に備え、他国では類の見ない総合商社へと成長して行く。

 そんな商社同士の集中統合の流れから一歩距離を置き、レアメタルを柱として堅実に自らの力で成長をはかる、国内有数の総合商社である紅丸商事があった。その大株主であり社長を輩出している紅井家を、共同創業家の丸渕専務が急遽訪ねてきた。

 「社長! この対等合併の話は、大財閥傘下の総合商社の経営陣に加わるまたとない機会じゃないですか!」

 「専務、以前あそこの商社に吸収された、ギニアに鉱区を持っていた商社の顛末を知らないのか? 社員の大半は解雇され、元経営陣は一年もしない間に全員辞めさせられている。あそこの商社が欲しいのは、有望な鉱区の権利や販売ルートだけなんだぞ」

 「ハハハ。社長は、心配のし過ぎですな。指摘の商社は、我が社より格下の小さな所でしたから、そんな会社の経営陣では一流の総合商社でやっていける能力がなかったのでしょう」

 「でも、丸渕さん。社員の大半が解雇されるかもしれない合併は、私としては反対ですわ」

 「夫人は、お優しいですなぁ……しかし、会社は株主である我々のもの。能力のある社員ならば、合併後も社員として残ることは出来ますな……先代達が興した紅丸商事も、採算が悪化している鉱山や無駄な人員も随分増えており、合併を機に整理する時期に来ていると思うのですが?」

 「専務の言う採算悪化鉱山とは、新鉱区を探査中のナルニアのことか? 有望な報告も届いているのに今撤退などしたら、他に産業のないあそこは失業者が溢れ、治安が急速に悪化する。最悪、再び内戦状態になったら、二度参入出来なくなるぞ」

 「……そう言えば、ナルニアは社長が課長時代に開発した鉱山でしたね。自分の手柄が消えるのは嫌ですよな」

 「社長としての合理的な判断だよ」

 一樹は、目をギロっとさせて睨み付けると、丸渕は肩をすくめる。

 「丸渕さん、筆頭株主たる私も社長の考えに賛成しますわ」

 丸渕が、失望した表情を浮かべる。

 「夫人も反対ですか……会社の売上高と輸出入額の実績が、外貨の割当に直結する以上、商社を大きくすることは経営者の責務なんですよ。私が、他の中小商社を強引な方法を使っても吸収する提案を何度出しても、先代も今の社長も相手の意向が第一だと言って消極的過ぎる」

 「その結果、我が社は、上位二十社に限られる国の外貨割当等優遇策の恩恵に未だ与れず、輸入取扱量を増やしたくても増やせないため、売上げは頭打ちではないですか……社長主導で進めているナルニア新鉱区だって、外貨割当計画を国に認めてもらえなければ、何も出来ないのですよ」

 丸渕は、静かに諭すように告げる。

 「私が対等合併の話をしているのは、外貨の件だけじゃなく、厳しい商社間の競争に生き残るには、規模の大きい商社になるか、大財閥系の総合商社に加わるしかないと考えているからなんですよ」

 丸渕は、その後も熱弁を振るうも、紅井夫妻の理解は得られず、不満顔で赤井邸を後にした。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 紅井夫妻が、急な来客に対応することになり、五月達に遊戯室で遊んでいるようにと言われた時間に時を戻す。

 五月は、「遊戯室があるのですか」と口に出して驚くと、赤井兄弟は彼女が驚いた理由が良く分からない顔をしていた。

 (くっ! この金持ちボンボンめ、庶民の家を知らないのか!)

 五月は、内心でやさぐれてしまう。

 三十畳程もある広い遊戯室には、ビリヤード、ダーツ、チェス、ルーレット等色々な遊戯道具が揃っており、案内してくれた公夫や忠夫の話では、外国の客らを招いたバーティーで良く利用しているとのことであった。

 五月は、公夫や忠夫から何をして遊ぶかと聞かれ、小首を傾げた彼女は頬に人指し指をあてて暫し考えた後、皆一緒に遊べるトランプゲームを提案する。人数が多い方が良いということで、若い家政婦も加わって、四人でトランプゲームをすることになった。

 五月が提案したゲームのことは、赤井兄弟も家政婦も知らなかったが、五月の説明を受けると、直ぐに三人はルールを理解し、嬉々としてゲームに興じるようになる。

 「革命!」

 五月が、緑色のラシャ(起毛した生地)の張られた遊戯台のカードの山に、数字の揃った四枚のカードを同時に出すと、紅井兄弟の顔が引きつる。

 (クッククク、ど貧民に落ちるが良いーっ!)

 実に嬉しそうに、黒い笑みを浮かべる五月であった。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 赤井邸に一泊した五月は、早朝から白百合に起こされ、化粧室へ連れていかれ、待機していた美容師と着付けのプロの手によって、髪をセットされ、着替えさせられる。

 五月は、腰まである長い銀髪を後ろ髪中心に結い上げ、白百合が手配した贈り物である高価そうな着物を着て、色々な角度で姿見に映して確認する。

 (流石はプロ……髪を結い上げると、印象って全く変わってしまうものなのね……胸と帯の下の詰め物がちょっと気になるけど、着物を着た振り袖姿な生ルリルリも新鮮で萌えるわ! うなじがスウスウして、頭が重いのはちょっと困りものだけどね)

 五月は、大輪の牡丹を象った髪飾りに時折手をやりながら、着物姿の白百合と一緒に赤井邸の廊下を歩き、数少ない和室へ移動する。

 今日は三月二日。白百合の決定により、一日早い雛祭りをすることになった和室で、五月は白百合から手渡された雛人形等を、七段の赤い布に覆われた棚に一つずつ飾って行く。

 その様子を眺める、同じく着物姿の紅井家の男性陣の方はと言うと、胡座をかいた一樹は桃花酒を片手にクイクイと飲み、公夫や忠夫は馴れない正座でお尻をムズムズさせていた。若い家政婦と運転手の黒井が、カメラを持って、一家の写真をパシャパシャと撮影していた。

 雛人形の飾りつけを終え、五月は仮初めの家族らと一緒に、雛飾りの前で菱餅を食べたり甘酒を飲んだり、また、百人一首に興じたりと幸せな時間を過ごす。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 三月に入って、五月と葛葉老人は、家庭裁判所から再び呼出しを受けた。

 五月達が、指定された日に家庭裁判所を訪れると、担当の調査官に加え、見知らぬ大人の男二人が会議室にいた。

 「春人様……」

 葛葉老人の呟きで、五月は見知らぬ男の一人が、有栖川家次期当主でる叔父であることを理解する。

 (何かいちゃもんつけに来たのか?)

 五月は、そんな考えを抱きつつ、葛葉老人や光月弁護士と共に、春人らと向かい合う形で着席すると、両者の間となる上席に座る調査官が口を開く。

 「本日、お集まり頂きましたのは、有栖川五月さんの未成年後見人候補として、新たに有栖川春人氏が名乗り出たことに伴い、当人及び両者を交えて話合いを行なうためです」

 「!?」

 五月と葛葉老人は驚いた顔をするも、光月弁護士は表情を変えず、冷静沈着に春人達を見つめる。

 「それでは、有栖川春人氏から葛葉氏が未成年後見人候補として不適格であると主張する理由を説明下さい」

 鷹揚に頷いた春人が、説明をはじめる。

 「葛葉氏は、既に八十歳近い高齢者であり、被後見人(五月)が成人するまでの九年間を、後見人として無事に勤められるか極めて不安があります。更に、妻子を亡くした葛葉氏では、男手一つで幼い女子である被後見人の養育を十分果たせるとは考え難い──元当家の使用人でしかない葛葉氏では、公家の子女に相応しい礼儀作法や知識の教育は不可能であります」

 「最後に! そもそも葛葉氏は、被後見人の親族ではなく、弟を介して被後見人とは単なる知り合いでしかない。そんな肉親の情もない者が、責任を持って最後まで被後見人を養育するとは考え難い。以上のことから、葛葉氏は不適格な人物であると私は断言せざるを得ない」

 春人の説明に、葛葉老人は表情を厳しいものにしていたが、同じ役人である家庭裁判所の調査官は頻りに頷いていた。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 (不味いわね──裁判所の担当は、あちらの言い分を支持している)

 不利を悟った五月は、反撃に出ることにした。

 「調査官! 発言よろしいでしょうか?──被後見人である私の方から、先程の有栖川氏の説明への反論と、併せて何点か確認したいことがあります」

 調査官が頷く。

 「先ずは、葛葉のおじい様が高齢である指摘について、有栖川氏よりも若い私の父様は先日事故で亡くなりましたように、不慮の死や病気は年齢に関係なく起こり得るもので、理由足り得ません」

 「次に、夫婦が揃っていないから女子の私の養育が十分果たせないという指摘ですが、父様の古からの友人である赤井夫人が母親替わりになってくれています。公家の子女の教育について、立派な帝国国民を目指す私には、廃された身分である公家の教育は一切不用です」

 「また、親族の方が肉親の情があるとの指摘ですが……墜落事故現場から救出され診療所に運び込まれた私の元へ、真っ先に駆けつけ親身になって世話をしてくれたのは葛葉のおじい様だけであり、私に対する親愛の情は十二分あることを証明しています……翻って、親族の誰一人として、私の元に駆けつけなかったのは何故でしょうか?──私の後見人を名乗り出た有栖川氏にお答え頂きたい」

 五月は、春人に冷たい視線を向ける。

 「弟と君が、事故に巻き込まれたことを知らなかったからだ」

 「救出された私の記事が、新聞の一面に掲載されたのに知らなかったと言うのですか? 葛葉のおじい様は、直ぐに有栖川家の当主と連絡を取り合ったのに?」

 「英国にいる弟が、帰国して事故に遭ったとは全く知らなかったから、新聞に載ったのが弟の娘だとは思わなかった。当主である父上と弟は、仲違いしていた経緯があるので、私に知らせてくれなかったようだ。知っていれば、直ぐに駆けつけたのに非常に残念なことだった」

 「因みに葛葉のおじい様が有栖川家当主と連絡を取り合った時、当主から私を養子して有栖川の名を捨てさせろと命じられたそうですが、ご存じですか?」

 「いや、始めて聞いたな……父上は、興奮すると時々癇癪を起こして、つい心にもないことを口にすることがあるから、そうした発言かもしれん」

 「私は、父様から有栖川家当主から勘当されていると聞いていましたが、ご存じですか?」

 「そんなことは始めて聞いたよ……父上と弟は、良く口げんかをしていたから、父上がつい心にもなく勘当を口にして、それを聞いた弟が思い込んでしまったのではないかね?」

 臆面もなく答える春人の面の皮は、五月が想定する以上に厚かった。

 (かなり想定問答を練って来ているようですね……)

 五月は、ボロを全く見せない回答を返す春人が手ごわい相手であることを理解し、方針を変更することにした。

 「有栖川家の当主は、父様を本当は勘当する気はなかったと?」

 五月の問いに、春人は自信あり気な顔で頷いてみせる。

 「それが本当ならば、家庭裁判所に今日と同じように話合いの席を設けて頂き、父様への勘当と私に有栖川の名を捨てろという、心にもない言葉の撤回を有栖川家当主自らして頂けますよね?」

 春人の分厚い面の皮が始めて剥がれ、作った笑みが消える。

 「……プライドが高い父上は、他の者がいる前では、それは難しいのだが……」

 困った顔で春人が答えると、五月は少し考えた後で口を開く。

 「では、当主から命じられた当事者である葛葉のおじい様及び私に対して、先程の件の撤回及び私を有栖川家に迎え入れることを歓迎する旨、当主自ら認めた手紙を書いて下さい……実家で同居さている当主を説得出来ないようでは、貴方に私の未成年後見人候補に名乗り出る資格はないですよ」

 「分かった。父上を説得して、用意させよう」

 余裕を取り戻した春人の返事に、五月は言葉を続ける。

 「期限は十日以内にお願いします。なお、この件は私の未成年後見人候補選定に関わることですから、家庭裁判所の調査官に本件の手紙を証拠として提出したいと思いますが、よろしいでしょうか?」

 五月が、調査官に問い掛ける。

 「そうして下さい」

 「では、家庭裁判所において、信用性判定が出来るように、有栖川家当主直筆による手紙の末尾には、日付と本人の署名並びに拇印があった方がよろしいですよね?」

 五月の更なる問い掛けに、調査官は肯定を返す。

 「と言うことですが、お願いできますよね?」

 五月からの注文に、春人は成功を確信した詐欺師のような笑みを浮かべて頷く。

 「そうそう、一つ言い忘れていましたが、有栖川家当主の署名は、私と葛葉のおじい様の目の前で行なって下さい」

 春人の顔が醜く歪む。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 家庭裁判所での話合いの翌日、五月は葛葉家で洗濯に精を出していた。

 この頃の帝国では、電気洗濯機の普及率は三割しかなく、大半の家庭ではたらいの中で、洗濯板のデコボコした面と粉洗剤を使って、洗濯物をゴシゴシやって汚れを落す、人力オンリーな方法が主流だった。

 五月の場合は、瞬間移動で呼び戻したデコの亜空間収納で洗濯物の汚れをほぼ除去できるので、唯一除去出来ない臭い落としのために洗濯板で洗濯しているだけであった。とは言え、冬の冷たい水仕事のせいで、五月の白魚のような指は、赤くかじかんでしまい、洗濯は中々の苦行であった。

 「英国からの荷物に、電気洗濯機を入れておけば良かった……」

 そう不満を漏らす五月であったが、幾らなんでも自動化が進み過ぎているα世界の電気自動洗濯機を英国製品と偽るには無理があった。

 「洗い機能しかない電気洗濯機でも欲しくなるわね……流石に三万円弱もするものを葛葉のおじい様に買ってなんて言えないし……私が自由に出来るお金はお小遣いの十円ちょっとしかない。元手なしで大金を稼ぐ良い方法はないかしら?」

 五月は、ブツブツ呟きながらナノマシンにより生体強化された腕力で、洗い終わって洗濯物の余計な水を絞り、パン!パン!と音を立てしわを取りながら、踏み台に乗って物干し竿へ次々に干して行く。

 五月は、腰をトントンと叩きながら、干し終えた白い洗濯物を眺めていると、ふと思い出した。

 「元旦の旭日新聞に、創刊八十年周年記念で懸賞金付き小説の公募があったわね」

 五月は、生体分子素子メモリーの新聞情報を検索する。

 「懸賞金……一千万円! ──元いた世界の物価に換算すれば約五千万円もの大金じゃない! マジですか旭日新聞さん?!」

 俄然やる気の出た五月は、踏み台に座り込み、両腕を組んでうんうんと唸りながら、どんな小説が良いか思案を巡らす。

 「……そうだわ! 所得倍増計画をぶち上げ、α世界の日本の高度経済成長を牽引した池田勇人総理をモデルに小説を書いたら面白いかも。私の生体分子素子メモリーには、α世界での彼の本や高度経済成長に関する本・論文も多数あるし、β世界の国会図書館の蔵書情報の分析で得たネタも色々とある。これらを使えば、帝国が真に高度経済成長へ飛躍する上で効果的な政策等を、小説という形で世の中に提案できるかもしれない……」

 五月は、早速、補助脳コンピュータで思考をテキスト化しながら、頭の中で小説のプロットを練り始める。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 五月は、懸賞金小説の執筆に当たって、アリバイ作りを兼ねて国会図書館に通うことにした。五月としては、元々日曜日に英国教会のミサが午前中にあるので、その後で国会図書館へ足を伸ばすだけなので、葛葉老人から許可を得ることが出来た。

 ビブリオフィリア(愛書家)な五月の中の人にとって、巨大な国会図書館は天国であり、本棚に並べられた本のタイトルを眺めて歩くだけでも、新しい出会い(本の発見)にワクワク気分になる。

 日曜日とは言え、専門書ばかり並ぶ地下三階は、男性の大人か、たまに学生服を着た帝大生がいるぐらいである。そんな中、小柄で美少女な五月が、閲覧コーナーの椅子に座り、専門書を開いて真剣に読んでいると、それを見た人々は皆目を丸くし何度も瞬かせる光景が見られた。

 「……台風等の気象災害は駄目だけど、地震・噴火といった地面の過去の災害発生は、α・β世界とも(地名の呼称が異なり、検証できないものがあるため)ほぼ一致と考えて良いわね」

 「α世界の未来の災害発生情報を上手く活用すれば、予言者を演出して協力者の信頼を勝ち取り減災する以外にも、ビジネスにつなげることも可能ね……」

 嬉しそうに呟く五月の愛らしさに、彼女が気になってチラチラと視線を向けていた周囲の大人達は、ホッと和んでしまう──彼女があくどい儲け策を考えているとも知らずに……。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 再度、五月による国会図書館の蔵書情報の分析結果に話を戻す。

 五月が最も関心を持っていた、β世界の半導体やコンピュータに関する技術に関しては、宇宙開発競争の影響でα世界よりも凡そ七年早まっているものの、帝国における同技術は一世代遅れの状況にある。

 集積回路(IC)は、1951年に米国で発明され、1953年に実用化されているが、国会図書館の蔵書情報を分析した限りでは、その製造は何故か米国内に限られており、そのほとんどは宇宙開発か軍へ供給されているらしい。

 米国のICは、トランジスタ素子の集積度が千個以上の大規模集積回路(LSI)の段階には達しておらず、マイクロコンピュータの発明もない可能性が高いことが分かった。原因は、大規模回路のICを作るために必要不可欠なCAD(コンピュータ支援設計)システムと回路設計技術の進歩が至らないためと思われる。

 また、米国はICを核心的戦略技術と位置づけ、技術の漏洩防止に神経を尖らせており、同じ西側陣営の国であっても、IC製造の特許実施(使用)権、ICチップ及びICを用いたコンピュータの輸出には、厳しい制限を課していた。

 最近、漸く帝国に輸入が解禁されたが、ICチップの輸入価格は非常に高額で、また、帝都の帝大に納入された大型ICコンピュータは五月がため息が出る程に大金なのに、その性能はα世界の高級電卓に毛が生えたような代物であった。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 米国政府の厳しい縛りを知った時、五月は天を見あげてしまう。

 「まいったわね……IC製造の基本特許という首根っこを米国に抑えられてしまっている……核心的戦略技術である以上、民生用ICの大量生産なんて米国政府の許可は絶望的ね……帝国経済の新たな成長要素として、パーソナルコンピュータ(PC)やスマートフォンを投入し、早い段階で民間に広げてインターネットを普及させたい私の思惑が暗礁に乗り上げてしまったわ」

 「基本特許が切れる1971年以降まで待っていたら、BETA大戦に突入してしまい、対BETA戦の肝となるコンピュータの高性能化とデータリンク構築・普及が致命的に遅れてしまう……」

 頭の痛い事態に、考え込んでしまう五月であった。

 「はっ! そう言えば、無人大型探査機イカロスⅠは1961年に発進するわよね……イカロスⅠが完成したら、宇宙開発のメインは月面基地建設にシフトすることになる。資材や機械類全てを地球からロケットで打ち上げたイカロスⅠ建造に比べて、月面基地は月にある材料を極力利用する計画。打ち上げるロケットの本数が減れば、IC需要は大幅に落ち込むことになる」

 「その頃(1961年)には、特許保護期間も残る所半分しかない。配当に煩い株主だらけの米国において、減益をカバーしようと、特許を有する企業としては、軍事・宇宙以外の民生市場(外国も含め)向けの解禁を求めて、米国政府に働きかけるかもしれない」

 「もし、彼らの尻が重かったら、民生用製品サンプルで焚きつければいいし……今から三年遅れるぐらいならば、問題は少ないか?……」

 五月は、自分の思いつきが中々良い考えだと感心しつつも、更に良い策がないか思考を巡らす。

 「待って!」

 五月の脳裏に閃きが走る。

 「そもそも核心的戦略技術の指定は、秘密にする事で優位性を保つためのもの。もし、技術が漏洩して東側で大々的にIC製造が始まれば、米国政府はIC製造特許の制限を緩和せざるおえなくなり、西側陣営諸国に特許実施(使用)権を広く認める可能性が高いわ……フッフフフフフフ」

 黒い笑いを漏らした五月は、早速デコを米国に派遣することにした。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 五月が、有栖川家当主に求めた手紙の件は、彼女の予想通り実現することはなく、春人から未成年後見人の申し出を取り下げる旨の連絡が家庭裁判所へ届いた。

 葛葉家には連絡がなかったが、家庭裁判所での話合いの時に、五月が密かに春人及び彼の弁護士に付着させた映像メモリー機能持ちナノマシン群の監視を、彼女は後追いで確認し知っていた。

 家庭裁判所は、これを受けて裁判官による審判を開いた結果、葛葉老人を五月の未成年後見人に選任し、その決定通知が葛葉家に届いたのは三月の中旬も終わる頃であった。

 葛葉老人は、五月の法定代理人として正式に光月弁護士に対して、墜落事故に関する賠償請求及び遺産に関する相続等の手続き並びに家庭裁判所に一か月以内に提出が必要な被後見人の財産目録の作成を依頼する。

 また、葛葉老人自身も、五月の件で区役所や小学校へ各種手続きに奔走することになった。

 なお、小学校に関しては、既に春休みに入る直前ということもあって、五月の登校は新年度の四月からということになった。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 比良八溝荒れじまいで帝都に本格的な春が訪れた頃、東側陣営で最も精密機械製造力のある東ドイツの工業都市ツヴィッカウに突如出現したIC製造工場は、直ぐさま国家保安省(シュタージ)により秘匿され、国家最高機密となった。

 この工場で製造されたIC及びコンピュータの発達により、宇宙開発に関する技術的遅れを取り戻した東側陣営は、西側陣営との間で月面開発を競うことになる。




これで第一部は終了です。

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