β世界に生きる   作:銀杏庵

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04 サバイバル

 西の山々が夕焼けに染まり始めると、山の空気は一段と冷え込み始めた。五月は、拝借した象牙装飾のライターで紙に種火を付け、薪に火を移そうとするも、薪が本格的に燃えるようになるまでに、しばし涙目で煙と奮闘することになった。

 たき火の前に座った五月は、身体にブランケットを体に巻き付け、西の空をじっと眺める。生き返って初めて見る夕焼けは、刻々と赤とオレンジが交じり合い揺らめく炎のようであり、その美しさに五月は時間を忘れ魅せられる。

 夕焼けショーが終わると、五月はささやかな夕食を取ることにした。パチパチと音を立てて燃えるたき火で温めたコンビーフを、五月は少しずつ口に入れ、良く味わいつつも、当面の方針をあれこれ考える。

 (近くに人家がない以上、ここで救助を待つしかない。食べ物等野営に必要な物は、デコにこの近辺の地中で再現用の原料元素を回収させたことで目処もついている。救助を求める狼煙用の枝葉集めは、明日にでも行なえば良いか……)

 (問題は救助されてからね。私以外全員死亡している状況で、怪我一つもなく、どうして私が助かったのか訊かれた時に、説明をどうしたらいいかしら……)

 五月は、己の生体分子素子メモリーから元いたα世界の飛行機事故に関する生存事例を、駄目もとで補助脳コンピュータで検索してみる。

 「……まさか事例があったなんて! 1971年、アマゾン上空三kmで飛行機が空中分解を起こし、座席が羽子板の羽の様に回り落下速度が軽減され、ジャングルの密集した枝葉で落下衝撃を吸収して奇跡的に骨折だけで助かった少女がいたとは……」

 驚きつつも、五月は今回の説明に使えるか否か検討してみたが、状況的に難しいと諦める。色々と悩んだ末に五月は、助かった理由を考えること止め、「気がついたら木の枝に引っかかって、気を失っていました」と言い張ることに決めた。助かった理由は、暇なマスコミや学者が考えればいいのだからと。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 コンビーフを食べ終えた五月は、近くにいるデコに空き缶を亜空間に収納させ、ふと思いつく。

 (何時になるか分からない救助を、ぼ~っと待ってデコを遊ばせておくのも勿体ないわね。この周囲の地下では、元いたα世界の電子機器を再現するのに必要な原料元素の幾つかが足りなかったから、デコに足を伸ばして回収に行かせましょう)

 五月は、並行世界ならば地下資源の場所も一致していると考え、己の生体分子素子メモリーにあるα世界の資源データベースから紀伊半島の鉱山一覧を補助脳コンピュータに呼び出し、グ●グルアースの3Dマップに重ねて表示する。

 (……ふ~ん、意外と紀伊半島って鉱山が少ないのね……活動資金源になりそうな金山はないけど、金・銀を含む多金属鉱床の鉱山が幾つかあるか……この近くで一番大きいのは、奈良時代頃から採掘されている妙法鉱山で、主に産出される銅鉱石には金も含まれていて有望そうね)

 (鉱山として採算の取れる品位(含有率)がなくても、デコならば地中透過で特定元素を亜空間収納によりコストもかからず回収できる。妙法鉱山周辺の品位の劣る鉱脈を、救助までの間、回収作業に当たらせましょう)

 (デコ不在による私の警護に不安はあるけど、私とデコは情報共有しており、何かあればデコの瞬間移動で呼び戻せるから大丈夫だろうし)

 五月は、半島南部の妙法鉱山へデコを送り出した。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 夜、妙法鉱山で地下資源回収を行なっていたデコが、その再現機能をようやく回復させたので、五月はデコを瞬間移動で呼び戻した。

 何を再現するか悩んだ五月であったが、髪や肌に染みついた嫌な臭いが気になり、デコが亜空間に収納した元素原料を使って、文明の証”温泉”から桶風呂を再現することにした。デコの亜空間収納で嫌な臭いを消去してもらう方法もあったが、五月の心情的には今夜だけでもお風呂につかり、心を癒し身体を綺麗にしたかった。

 五月は、カーゴコンテナの中で着ているものを全て脱ぎ、自分の旅行カバンにあったタオルを持って外へ出て、たき火の弱い灯を頼りにコンテナの隣に作られた桶風呂へ入る。

 首までお湯につかり身体を十分に温めた五月は、次に桶風呂と共に再現された備品のシャンプーやボディソープ等を使って、髪や肌に染みついた臭と汚れを落とそうと身体の隅々まで丁寧に洗う。

 極楽気分な五月が、湯船の縁に両腕を添え、その上に頭を乗せて雲の間から見える星空を眺めつつ鼻歌を歌っていると、突然、獣の遠吠えが聞こえた。五月は湯船の中で立ち上がり、暗闇の先をじっと見つめ、耳を澄ます。次の遠吠えは聞こえなかったが、不安を感じた五月はお風呂を切り上げ、慌ただしくタオルで身体を拭き、カーゴコンテナ内へ退避した。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 星明りの下、墜落現場の一角には、体長一.三m近い四つ足の獣がいた。その獣には、犬の特徴である額段(額と口吻部との境にある窪み)はなく、鼻や顎は短く丸みを帯びた顔をしていた。一見、精悍な肉食獣には見えないが、足元にある”肉”を喰らう様は貪欲な肉食獣そものもであった。

 獣──ニホンオオカミは、テリトリーである山に漂う血の臭いに誘われ、焦げ臭い嫌な臭いが立ち込めるのをものともせず、墜落現場に入り込んだ。獲物の少ない冬に、久し振りの”肉”を大量に発見したニホンオオカミは、先程、己の群を呼び寄せるために遠吠えを行なう。

 α世界では明治時代に絶滅したニホンオオカミであったが、β世界では帝都に近い紀伊半島の山々の多くは皇室所有地に設定された結果、人の手が全く加わらない原始林の森も残され、ニホンオオカミ等の棲息地となった。そんな厄介な所に居ることを、五月は未だ知らなかった。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 カーゴコンテナ内へ戻った五月は、濡れた長い髪の水気を取ろうとタオルで拭くも、髪の長い女性の苦労を身をもって知ることになった。五月は、中々捗らない作業に音を上げ、再びデコを瞬時移動で呼び戻し、髪の余計な水気を亜空間収納で消してもらう。

 髪も乾いた五月は、先程の遠吠えに対する不安もあって、直ぐに眠ることはせず、深夜になるデコの次の再現機能回復まで頑張って起きていることにした。

 とは言え、ただぼ~っと待つのも暇過ぎる。五月は、β世界の日本帝国における一般常識を得るため、自壊したモノリスの兄弟が収集した文明の証──旭日新聞社の新聞(過去十年分のデータ)──を読むことにした。己の生体分子素子メモリーから新聞(データ)を補助脳コンピュータへロードして”読む”のは、いまいち風情がない。そう思った五月は、大版の紙っぽいスタイルで新聞を読もうと、体外に放出したナノマシンで空中にディスプレイ用スクリーンの形成を色々と試し、ロードした最新の新聞を映すことに成功した。

 「……政府が昨日発表した昨年の我が国の経済成長率(概算)は、十%を超え過去最高となる見込みであり、七年連続で六%を超える経済成長を達成……」

 五月は、新聞の一面で大きく取り上げられたこの記事が気になり、元いたα世界の戦後日本の経済成長と比べるため、生体分子素子メモリーに保存してある両世界の当該関連情報を補助脳コンピュータにロードし比較分析を始める。

 戦後の日本経済が飛躍的な成長を始めたのは、α世界では1954年末なのに対して、β世界はそれより二年以上も早いことが分かった。原因は、米国が帝国を反共の防波堤として戦力が維持できるように、α世界で行なわれた国の工業力・経済力の早期回復を阻む、巨大独占企業(財閥等)の解体政策をとらなかったことに起因しているようだ。

 米国では、大戦の軍事需要及び戦後の民間需要の増加により石油化学工業が一大産業となっていた。それを見た帝国の各財閥は、石油化学工業へ積極的に投資することにした。α世界の日本では、石油コンビナートを建設するコストの膨大さから、多数の企業が集まって一つの石油コンビナートを形成している。これに対して、β世界では複数生き残った財閥が、米国の占領支配が終わった1950年以降、大資本を必要とする石油コンビナートを太平洋側沿岸に次々と建設した。こうした積極的な投資が、帝国の工業力の復興を大いに牽引して、帝国の経済は毎年高い成長を続けているのであった。

 「……帝国は高度経済成長真っ只中と言って良い状況か……思っていたよりも生活水準はましかもしれないわね」

 五月にとって、五十年以上昔となるβ世界に送り込まれたら、かなり不便な生活を強いられると覚悟していたので、少し安堵できる話であった。

 「とは言え、BETAの侵攻でα世界のように約十九年間も高度経済成長が続くかどうか分からない。平成の便利な生活を取り戻すためにも、如何に上手くα世界の未来技術を帝国に導入させるか、計画を練る必要があるわね……」

 その後、五月はデコの再現機能が回復するまで、日付を遡る形で新聞を熱心に読込み、計画に関連しそうな帝国の現状把握に努めた。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 翌朝、五月がカーゴコンテナから外に出ると、空は灰色の雲で覆われ、深夜に降った雪により黒こげになった飛行機の残骸を始め周囲はうっすらと雪化粧がかかっていた。

 「夜中、めちゃ寒かった訳だわ……デコが再現してくれた使い捨てカイロの山がなかったら凍死していたかも……ふ~ぁ」

 五月のかわいらしい口から欠伸が漏れる。子供の身体で深夜遅くまで起きていたのは、辛いものがあったようだ。五月は、眠気を払うため、桶風呂に張った薄氷を割り、水をすくって顔を洗う。

 「う~っ、冷たい!」

 五月は、濡れた顔をタオルでごしごしと拭きながら、カーゴコンテナ内に戻り、深夜デコに文明の証”Am○zon”の巨大物流倉庫から再現させた通販商品のうち、幾つかを外へ運び出す。

 先ずは時間がかかる朝食の準備からと、五月は非常食パックの封を切り、発熱体の上にライスとオカズのレトルトを重ね、パックの開封口から中へPBの保存水を注ぐ。

 非常食が温まるまでの間に、五月はたき火を起こす作業に移る。昨日と違って、使いづらい象牙装飾のライターの替わりにチャッ○マンとBBQ用炭があるので、時間は掛からなかった。

 火が準備出来ると、カードラジオの周波数を調整してイヤホンから救助ニュースを聞ける状態にし、一段落つくとα世界での癖で朝食前にコーヒーを飲むことにする。温かいのが飲みたかった五月は、爆発しないようにプルトップの輪を持ち上げて缶コーヒー(無糖)の口を開け、その輪の中に細い枝の棒を差し込み、Y字の枝二本で支え、たき火で温める。

 温まった頃合いを見計らい、五月は缶の中身をチタン製コップに注ぎ、コーヒーの香りを楽しんだ後で一口口に含む。

 「……」(☍﹏⁰)

 余りの苦さに、五月は目尻に涙を浮かべる。残念ながら五月の舌は、苦みに耐性のない子供のままであったようだ。捨てるのも勿体ないと思った五月は、我慢してちびりちびりと時間をかけて何とか飲み干す。

 水分を取ったことで、五月の身体は生理的欲求が主張し始めた。女の子初心者の五月にとって、トイレに対する気恥ずかしさで昨日から我慢し続けた結果、体内のダムはついに危険水位に達してしまったようだ。ぶるぶる震え出した五月は、己の尊厳を守るため、少し離れた岩影へいそいそと向かう。

 花摘みを終えて戻って来た五月は、すっきりしたはずなのに、何故か落ち込んだ様子であった。五月は、女性のトイレは色々と大変であることを身をもって知り、息子を失くしてみて始めてその有り難みを理解したためである。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 五月は、出来上がった朝食(非常食)を食べ、レトルトとは思えない美味しさに、流石は平成日本の技術力だと感心する。

 朝食を終えた五月は、妙法鉱山からデコを瞬間移動で呼び戻し、行方不明機の捜索者にみられると不味い、桶風呂や空き缶等のゴミを亜空間収納で消去する。

 五月は、それが終わるとデコを妙法鉱山に戻し、時折鉱山事務所で捜索に関する情報を収集するように依頼した。

 昨夜の遠吠えもあって、五月はカーゴコンテナから余り離れない距離で、救助用狼煙の枝葉を探すことにし、墜落でなぎ倒されたシラビソ(マツ科モミ属の常緑針葉樹)のある方に向かって歩いて行く。

 時折、飛行機の残骸のある方向から吹き寄せる風に乗って、嫌な臭いが五月の鼻腔に届く度に、彼女は眉をひそめる。雪化粧が悲惨な現場を隠しても、臭いまではどうにもならないようだ。

 五月は、ナノマシンで生体強化された筋力で、シラビソの倒木から太い枝さえもバキバキと折り、枝葉を集め歩いていると、複数の獣の足跡──縦横十cm以上もある──を発見する。

 「……昨日の遠吠えした獣かしら?」

 正体が気になった五月ではあったが、君子危うきに近寄らずと考え、そこそこ枝葉も集まっており、カーゴコンテナに戻ることに決め、彼女が振り向くと──そこには茶色っぽいニホンオオカミの群がいた。

 群と言っても五匹の小さな集団であるが、中央にいる身体が一回り大きな一匹がボスらしく、その頭は五月の肩をよりも高そうに見える。ボスの唸り声を合図に、左右にいた計四匹が、五月を半円形に囲うようにして駆け寄って来る。

 映画のような危険シーンにもかかわらず、五月は逃げ出すこともせず、不敵な笑みを浮かべ、腕に抱えていた枝葉の塊を傍らに落とす。

 「こんなこともあろうかと……クッククク」

 何故か嬉しそうな顔をした五月が、両手を各々腰に回す。 

 襲い来る野犬の群との距離が七mを切った時、五月は腰にマウントしていた物を左右の手に持ち、グイと前に腕を突き出すと同時に、ナノマシンを体外に放出して顔をマスクする膜を展開。

 「人間様を嘗めるな犬っころ。食らえ──っ!」

 五月の両手にある缶──熊撃退スプレー──から噴射された黄色い霧が、半円状に囲むニホンオオカミらに掃射される。カプサイシン(唐辛子成分)の含まれた粉が、野犬鼻面や目に掃射かかると、キャンギャンと悲鳴を上げ、四匹はバラバラの方向に逃げ出す。

 負け犬達の無様な様子に、五月は思いっきり笑い声を上げる。

 そんな光景を忌ま忌ましげに眺めていたボスも、風にのって熊撃退スプレーの成分が届いたのか、そさくさと撤退していった。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 ニホンオオカミを撃退した五月は、救助用狼煙の枝葉をカーゴコンテナの近くに積み上げ、熊撃退スプレーの残量を野犬避けとして周囲に散布しておく。

 たき火の前で膝を抱えて座る五月は、ナノマシンのスクリーンに映る新聞を読みながら、カードラジオのイヤホンでラジオニュースを聞いていた。国の事故対策本部が設置され、紀伊半島西部を中心に捜索が開始しており、ここ(半島中部)への捜索はまだ時間がかかることが判明した。

 気長に新聞を読み進める五月であったが、α世界の日本ではめったに起こらない計画停電が、帝都でも夏場にしばし発生することを知って驚く。五月は、生体分子素子メモリーに保存してある過去十年分の旭日新聞の関連記事を補助脳コンピュータで検索し、原因を探ってみた。

 国家総力戦の名の下、帝国内の発電・送電施設は帝国発送電(半官半民の特殊法人)の管理下におかれた。配電は全国九ブロックに新たな設立された配電会社(民間)が行なうことになり、こうした体制は戦後も続くことになった。

 終戦から米軍の占領が終わる1950年までの間、帝国経済が復興するに従い電力需要は毎年十四%も伸びていた。しかし、物価対策で電気料金が低めに抑えられ資金調達力が弱く、強制統合による弊害で組織的決定が遅い帝国発送電による電源開発は遅れに遅れ、毎年電力使用制限(計画停電)を発動していた。特に、当時の帝国の発電の中心は水力であったため、夏場の渇水期には良く計画停電が行なわれことになったのである。

 帝国が主権を回復し、経済成長が本格化するに従い、電力不足は一層深刻な社会問題となり、帝国議会でも問題視されるようになった。その結果、監督官庁である通商産業省は、大容量の火力発電所の建設に対する手厚い国費助成を行い、投資に及び腰な帝国発送電に発破をかけた。建設に要する時間やコスト並びに適用地の確保のし易さから、通商産業省は火力発電所を積極的に増やす政策に舵をきる。それまで国策で石炭の増産を進めて来たにも関わらず、通商産業省は出力調整の運用が石炭よりも柔軟に出来ることや米国からの安価な石油供給があることを理由に、石油火力方式の発電所以外は助成対象としなかった。これを切っ掛けに、帝国は割高な国産石炭の増産を止め、米国をメインに一部中近東からの安価な原油輸入(外貨持ち出しを少しでも減らそうと国内で精製するため)へシフトして行く。α世界の日本では、1960年頃から始まった石油へのエネルギーシフトの流れは、β世界ではより早い段階で発生してしまう。   

 なお、原子力発電については、帝国による核兵器の開発・保有を恐れた米国が、原子力に関する研究開発を長い間禁じたため、研究に取り組む機関は未だにほとんどいない有様であった。

 「金と時間のかかる水力よりも建設し易い火力発電重視政策に転じたせいで、α世界では世界的に有名な黒部ダムが、こちら(β世界)では建設されずか……」

 五月は、かって観光で訪れた黒部ダムで見た豪快な放水シーンを思い出しながら、少し残念そうな表情を浮かべた。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 新聞を読むのにも飽きた五月は、遅めの昼食準備に取りかかる。野外料理の定番と言えばカレーライスということで、彼女は非常食パックの中からカレーライスを選び、温まるのをじっと見守る。

 出来上がったカレーライスは、独特の香りを周囲に放ち、五月の鼻腔と食欲を促す。五月が、スプーンですくったカレーライスを一口食べる度に、彼女の目尻は下がり、頬も緩ませる。

 カレーライスの至福な時間を終え、五月は食後の腹ごなしを兼ねて、薪拾いに出かけることにした。

 雪のせいで乾いた枝が中々見つからず、止むを得ず五月はカーゴコンテナから離れ、常緑の葉により雪が降らなかったシラビソの木々の所まて足を伸ばすことにした。午前中に野犬──五月的には狼と認識していない──を撃退できたこともあって、熊撃退スプレーの予備の一本を持参している安心感からの行動であった。

 シラビソの木々の下で、五月が薪拾いをしていると、後頭部へ強烈な殴打を受け、彼女の小さな身体は数mも先へ飛んでいってしまう。

 後ろ脚で立ち上がった真っ黒な獣──体長二m近い巨体で、胸元に三日月形をした白い模様を有するツキノワグマ──が、数m先に倒れ動かなくなった獲物(五月)を見下ろしていた。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 時間を昨日に巻き戻す。

 齢を重ねた巨体のツキノワグマが、穴蔵の中で微睡んでいると、突然の大きな音と振動が彼の覚醒を刺激する。

 数時間後、冬ごもりを邪魔され、目覚めたツキノワグマが最初に感じたのは、強い空腹感であった。秋、餌となる木の実等が凶作で、ツキノワグマは、その大きな身体に対して十分な栄養を蓄えることができなかった。

 穴蔵から外に出たツキノワグマは、山の空気の中に今まで嗅いだことのない嫌な臭いに気がついた。その臭いが漂ってくる方向を避け、ツキノワグマは餌を求めて歩き出す。

 しかし、その日、ツキノワグマは獲物をつけることが出来ずに穴蔵に戻ることになった。

 翌朝、空腹に苛まれるツキノワグマは、昨日は避けてしまった嫌な臭いのする方へ向かうことにした。

 ツキノワグマの鼻が、シラビソの木々の近くで昨日の嫌な臭いとは違う、奇妙な臭いを嗅ぐ。墜落現場から漂う嫌な臭いを伴う血の臭いよりも、そちらの方に興味を覚えたツキノワグマは、シラビソの木々の中へ進む。

 ツキノワグマは、森の中を歩く見たこともない二本脚の獲物を発見し、その肉厚な足の裏で、音もなく獲物の背後へ忍び寄る。

 十分接近した所で、ツキノワグマは後ろ脚で立ち上がり、骨折させる威力を有する前肢を獲物の後頭部に振るう。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 (イタイ! イタイ! イタイ! ……)

 激痛でのたうち回る五月の後頭部は、頭皮の一部が抉られ、四本の鋭く深い筋は骨まで達していた。その傷口から溢れ出る赤い血が、傷口近くの銀色の髪を汚し、更に白い雪化粧の地面を染める。

 生体強化用ナノマシンの自動修復により、五月の傷口からの出血は急速に止まる。しかし、意識を失うことができない強制覚醒の影響で、五月は酷い激痛に見舞われ、攻撃に対処する思考も働かない状態に陥ってしまっていた。

 四つ足に戻ったツキノワグマは、ノシノシとゆっくり歩いて獲物(五月)に接近し、獲物の身体から漂う奇妙な臭い(カレーの香り)に鼻をクンクンさせる。一頻り臭いを嗅いだ後、ツキノワグマは、未だに動く獲物の息の根を止めようと、その頸部に噛みつこうとする。

 絶体絶命の危機に瀕し、対処能力を喪失している五月に代わって、補助脳コンピュータがモノリスの仕込んだ緊急命令に従って、対処行動を起こす。

 (戻レ、D端子。我ヲ亜空間収納シ、安全地帯デ再現セヨ)

 補助脳コンピュータの命令に従い、デコは妙法鉱山周辺の地下から瞬間移動で五月の元に現れ、重症な彼女の肉体を亜空間収納すると、再度瞬間移動で消えてしまう。

 目の前から獲物が忽然と消え、残されたツキノワグマは、キョロキョロと周囲に目を向けたり、忙しなく臭いを嗅いだりして、獲物の手がかりを求める。ツキノワグマは、獲物を食べ損なった腹立たしさから、逃がした獲物を執拗に探し求めて徘徊する途中、墜落現場で大量のご馳走(肉)に出会う。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 その日の夕方、ツキノワグマが、ご馳走を求めて墜落現場に再び訪れると、取り逃がした獲物の発していた奇妙な臭いを嗅ぎ、異臭を付着させた肉よりも新鮮な肉の方を選び、奇妙な臭いを辿ることにした。

 ツキノワグマが、巨体を揺らしてカーゴコンテナ近くまで歩いて来ると、以前逃がした二本脚の獲物(五月)が座り込んで、たき火で温めているカレーのルー入り金属カップを板で煽って周囲に拡散していた。

 人肉の味を覚えたツキノワグマは、舌なめずりした後、立ち上がった獲物に、逃げるなと威嚇するため「ブゥオ──ッ!」と大きな咆哮を放つ。

 「くっ! 流石は陸の食物連鎖の頂点、半端ないぐらいに恐怖感を掻き立ててくれるなクマ野郎!」

 五月──保存最新時と収納時で失われていた情報体差分を入れ換え、怪我のない状態の身体に再現済み──は、思わず後ずさろうとするのを意志の力で抑え込み、自らを鼓舞してツキノワグマの顔を睨み付ける。

 ツキノワグマは、一方的に狩る弱い獲物のくせに、こちらを睨み付ける不遜な態度に苛立ちを覚え、後ろ脚で立ち上がり強者の己を示そうとする。

 「デコ、やれ!」

 五月の言葉に即応して、デコが帯の輪を瞬時に伸ばし、ツキノワグマの足元の地面(岩石)を亜空間収納で消してしまう。

 「グゥオ──ッ!」

 ツキノワグマは、再度の咆哮を発しつつ、深さ三m程の穴の底に落ち、二百kg近い自らの体重が仇となり、片方の後脚を骨折してしまう。

 痛みから憤るツキノワグマは、何とか穴から脱出しょうと前肢の爪を壁に立てるも、固い岩石には全く歯が立たなかった。

 ツキノワグマは、穴の底から何度も大きな咆哮を上げ、自分をこのような状況に追いやった敵に、強気で威嚇し続ける。

 穴の縁に立つ五月は、怒りを湛えた目で、穴の底で猛々しいままのツキノワグマを見下ろしていた。

 「激痛を味わさせてくれた恨み──いえ、それ以上に後頭部ハゲにしてくれた恨み……簡単に殺すなんてしないわよ」

 凍るような声でそう告げた五月は、デコに命じてツキノワグマを白い帯の輪で囲わせ、黒々とした毛皮を全て亜空間収納により消してしまう。ツキノワグマは、白い皮下脂肪と肉のピンク色が入り混じった不気味な姿に変わり果て、己の身の上に生じた変化に困惑する。

 そんなツキノワグマに、五月は片手に持った熊撃退スプレーをお見舞いする。ツキノワグマは、逃げ場のない穴の底で、カプサイシンを含んだ粉をたっぷりと鼻に吸い込み、その痛みに耐え兼ねて前肢の鋭い爪で鼻頭を何度も引っかき、傷口を増やす。また、身体(裸)の各所に付着したカプサイシンを含んだ粉が痛みを誘発すると、身体を岩壁に何度も擦りつけ、自ら傷口を増やすと共に、岩壁に赤い絵を描いて行った。

 その後ツキノワグマは、狂った様に暴れ出して、空気をビリビリと震わせる程の大音量で咆哮を上げたものの、やがて悲鳴のような鳴き声に変わり、最後は鳴き声も消える。毛皮を失った裸状態のツキノワグマは、夜中に降り出した雪で体温を失った結果、翌朝には冷たい骸になっていた。

 五月は、ツキノワグマの裸の死骸や人工的な穴といった奇異な存在が救助者に見つかっても困るので、デコに命じて亜空間収納で穴の周囲の岩を崩して埋めてしまう。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 墜落から三日目は、大陸から張り出した寒気団の南下により紀伊山脈一帯に雪を降らす。

 カードラジオのニュースによると、本日の行方不明機の捜索は雪の影響で中止され、乗員・乗客の安否は絶望的だと伝えていた。

 墜落現場の山も雪が降り続け、五月は一日中、カーゴコンテナで過ごすことになった。雪が降り積もる外へ、トイレに出るのも大変なので、五月はデコの亜空間収納を己の体内でも可能か試してみることにした。その結果、体内に溜まった老廃物を消去することに成功し、恥ずかしい思いをしてトイレに行かなくて済むと、五月は大いに喜んだ。

 更に五月は、外の降り積もる雪を見て、あることを思いついた。五月は、デコにカーゴコンテナから離れた窪地にある雪を亜空間収納で消してもらい、ブランケットに包まれた父親の遺体を窪地に再現してもらう。そして、五月が周囲から集めた雪で遺体を埋め、その状態で再びデコの亜空間に情報体として収納させる。救助が来た時に、デコにこの状態で再現してもらい、雪に埋もれた父親の遺体を掘り出して、五月と一緒に運んでもらおうと考えたのである。

 降り止まない雪のせいで、五月は一日中カーゴコンテナ内に籠もりっぱなしとなる。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 墜落から四日目、昨夜の内に雪は止んだ。カードラジオのニュースによると、行方不明機の捜索は再開され、軍も加わって紀伊半島中部まで範囲を広げ、大規模に行なわれることになった。

 発見の可能性が高くなったことから、五月は食事をとるのを止めることにした。冬山で食べ物もないはずなのに、衰弱もせず元気一杯な姿では疑念をもたれ、人肉を食べたのではないかと変な噂をされ兼ねないからだ。五月は、偽装用に集めておいた消し炭や土を使って、黒いドレスや髪、そして露になっている肌のあちらこちらを汚す。

 太陽が西に大きく傾いた頃、五月の耳にパタパタという音が聞こえてきた。カーゴコンテナから外へ飛び出た五月は、チャッ○マンとBBQ用炭を使って狼煙用の枝葉の小山に火をつけ、白い煙を立ち昇らせる。

 その狼煙に気がついたのか、ヘリのロータリー音が段々と高くなり、胡麻粒でしかなかったヘリが徐々に大きくなって、墜落現場の山に接近してきた。

 五月は、デコを瞬時移動で呼び戻し、雪に埋もれブランケットに包まれた父親の遺体を例の窪地に再現させ、更に場違いな再現物全てを亜空間収納で消してもらう。

 そして、カーゴコンテナ内から自分と父親の旅行カバンを外に運び出し、五月はブランケットを羽織り、狼煙の近くでうずくまる。

 「さあ、五月──何日も食べられず衰弱し、獣の鳴き声に怯えた女の子になりきるのよ……デコ、お願い」

 五月の言葉を受け、デコは亜空間収納により、彼女の頬の脂肪を少々、血液中の糖分を意識を失わない程度に、更に腸内にある食べ物と老廃物を全て消去した後、透明モードで姿を消す。

 一気に変わり果てた姿になった五月は、目を閉じて救助の時を待つ。

 




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