β世界に生きる   作:銀杏庵

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06 帝都

 紅井のスキンシップ攻めから、ようやく解放された五月は、車椅子の右肘掛けにぐったりと身体を預けつつも、ジトっとした視線を犯人に向ける。

 その五月の無言の抗議に、紅井は小さく舌を出し、片手の拳を頭にコッンとやり、やり過ぎたことを五月に謝る。

 悪意がない相手の行動であったので、五月も紅井の謝罪を受け入れる一方で、紅井からの養女の申し出に対して答える。

 「紅井のおばさま、温かいお心遣い、ありがとうございます……申し訳ありませんが、私は既に葛葉のおじい様にお世話になると約束をしております」

 「五月ちゃん……でも、葛葉さんの家だと二人きりになるわよ。神戸のうちの屋敷なら、私だけでなく旦那も息子達も家族として貴方を歓迎し、絶対淋しい思いをさせることはしないわよ」

 思いやりの籠もった紅井の言葉に、五月は感じ入りながらも申し訳なさそうな表情で、頭を軽く左右に振る。

「私、父様と約束したことがあるんです。父様の通われた帝都の学習院に入学して、立派な大和撫子になるって……葛葉のおじい様の家からならば学習院に通いやすいですし」

 「五月ちゃん……」

 眉をハの字にして紅井は残念がる。

 隣にいた榊が顎に手をやり、何やら思い出して難しい顔をする。

 「残念ながら今の五月君では、学習院入学は認められないかもしれない」

 榊の言葉に、五月は首を傾げ、視線で榊に説明を求める。

 「学習院は、旧華族等上流階級の子弟を対象とした小・中・高一貫教育の学校で、中学や高校に外部から中途入学するのは、枠も多くなく、条件も厳しい。基本的に中学や高校からの外部入学は、ほとんどが地方の名家の子弟を想定したもので、入学試験は学力が一定以上あるかを確認するためのもの。入学審査では、家柄、家長の社会的地位、推薦人及び内申書を特に重視するそうだ」

 「家長である父様を失った私の場合は、入学審査で社会的地位に関する評価が得られず、入学が難しいということですか?」

 五月に問い掛けられた榊が、苦々しそうな顔で頷く。

 「あそこは、寄付金を積めば入学させているだろ!」

 鳳が、吐き捨てるように言う。

 「いや、それだけじゃ駄目だ。譜代以上の五摂家に近い有力武家の推薦がないと」

 「あ~っ、そうか。榊はあそこの元理事と親しかったのよね……寄付金ならうちで用意できるけど、そんな家柄の高い武家との伝はないわ……榊か鳳の方で伝はないの?」

 紅井が、親友の二人の顔を伺うも、彼らは首を左右に振るだけであった。五月は、しばし思案した後、口を開く。

 「……榊のおじ様、家柄に関係なく、文武に優れた者を入学させる特待生枠はありませんか?」

 「あることはあるが、枠としては十名程しかなく、相当難しい。それも、入学試験で一位の者か、文学・芸術の全国的な大会で一等受賞者か、武道・スポーツの全国的な大会の優勝者に限られるそうだ」

 (ならばOKね。私には補助脳コンピュータと生体分子素子メモリーという裏技があるのだから)

 「大丈夫です! 五月は、来年の入学試験成績一番で合格してみせます!」

 五月は、胸の前で両拳を握り、自信満々に宣言する。葛葉老人はウンウンと信頼顔をしていたが、榊らは大丈夫なのかと不安そうな顔色を浮かべていた。

 (うっ……も、もしものこともあるから、他のことでも特待生になれるように頑張りましょう!)

 かっこよく宣言した後で、不安になる五月であった。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 診療所に戻る五月達は、国の事故対策本部に顔を出す必要のある榊及び急ぎ戻る必要のあった鳳とは、斎場で別れることになった。

 車椅子の五月が、白い布に包まれた小さな箱を抱え、斎場の外に出ると、玄関近くに白い外車が停まっていた。

 「奥様! どうぞこちらへ」

 不意に、直前まで気配を感じさせなかった執事姿の若い男が、恭しく頭を下げた姿勢で紅井に声をかける。

 「あら、黒井君。予定よりも早く到着したのね。流石だわ」

 紅井は、ヘリとは別に、昨夜の内に神戸の屋敷から、陸路を長距離運転してやって来た黒井に労い、一言指示を行なう。

 「さあ、診療所まで車で送りますわ」

 紅井が、五月と葛葉老人に声をかけると、黒井は足音もなく五月の近くに現れ、葛葉老人に代わり車椅子を押して白い外車の後部ドア前へ連れて行く。

 (黒執事のセバスチャンのような人ですね)

 突然出現する黒井に対して、五月はそんな感想を抱いた。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 五月達が、紅井の車に同乗して診療所に戻ると、診療所の前に屯していた記者やカメラマンは既に姿を消していた。彼らは本格的に墜落現場からヘリで運び込まれる遺体や駆けつけた遺族を取材するため、小学校へ場所を移していた。

 五月が、自分の病室に戻った所、彼女と父親の旅行カバンがベッドの脇で乱暴にあけられ、中身が散らかっているのを発見した。

 「酷い……誰がこんなことを……」

 「多分、新聞記者ね。事件や事故のスクープのためなら、他人の家に勝手に上がり込み、被害者や犯人の写真を盗み出すことなんて平気でやる輩よ」

 紅井が、淡々とした口調で犯人の目星を告げる。

 五月が、無くなった物がないかを点検した所、写真数枚消えていることが判明した。

 (デコ! 犯人を探し出し、盗まれた写真を亜空間収納で回収して!)

 五月の命令に従い、透明化して随伴していたデコは、瞬時に帯の輪を広げて村を丸ごと囲い込んだ後、逆に輪を縮めながら探る。その結果、盗まれた写真は、小学校の体育館の出入り口で取材をしている記者の胸ポケットにあることが判明した。五月は、デコに亜空間収納で件の写真を回収させるとともに、犯人に対する罰として胸ポケットにある取材メモ帳も収納・消去させる。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 盗難を村の駐在所に連絡するも、警察官の到着は散々待たされることになった。

 ようやく来た警察官──先の”事件”で顔見知りの一人──に、五月が盗難のことを説明するも、彼は写真数枚の被害届けを出されても、墜落事故対応を優先しているので、犯人探しは難しいと口にする。

 警察官の明らかにやる気がない言動に、ムッとした五月は、先日の”強姦未遂事件”の取り調べはどうなったのかと訊ねると、そのような事件の被害届けは出ていないとしらばくれた。

 側で見守っていた紅井は、被害者が五月であることを察し、警察官を厳しく問い詰めようと一歩前に出る。

 紅井が口を開くよりも前に五月が、

 「武家から圧力がかかったのですか?」と、警察官の目を見据えて質問すると、彼は視線をそらす。

 その態度で、五月、紅井及び葛葉老人は、五月の指摘が当たっていることを理解し、憮然あるいは不快げな顔になる。

 五月は、葛葉老人から話を聞いていたものの、実際に事件がなかったことにされた立場に遭遇し、武家の権力を思い知る。

 警察に失望した五月は、盗難届けにかける時間も手間も無駄と悟り、届けは行なわない旨を警察官に告げると、ホッとした彼は足早に立ち去る。

 紅井は、五月がベッドの上で養生するだけならば、この不快な村を去り、帝都の病院で脳の精密検査を受けなさいと強く勧めたこともあり、診療所を繰り上げ退所することになった。

 退所の手続き中に、車椅子をどうするかという話になったが、五月は車椅子がなくても歩ける程に回復していると主張し、実演してみせたことで話は終わった。

 五月と葛葉老人は、紅井の白い外車に同乗させてもらい、橿原神宮前駅まで送ってもらうことになった。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 駅前ロータリーに停まった白い外車の横で、またまた五月は紅井からスキンシップ攻めの洗礼を浴びる。

 一端、解放されたのに涙目の五月が、その気もなしに上目づかいで紅井を見あげてしまい、胸キュンな紅井が、鼻息も荒くして五月に再び抱きつこうとする。しかし、仕える相手の性癖を理解している黒井が、紅井の耳元で何事か囁くと、ピタっと止してしまう。五月はホッとするも、黒井の囁いた言葉が妙に気にかかった。

 「コホン……五月ちゃん、何か困ったことや相談したいことがあったら、直ぐに私に連絡しなさいね。約束よ、いいわね」

 淑女モードに切り替わった紅井が、かがみこんで視線を五月の目と同じ高さにあわせ、自分の子供に言い聞かせるように話す。

 次に紅井は、立ち上がり、葛葉老人の方に身体を向ける。

 「葛葉さん。明日、帝大付属病院で脳の精密検査してもらえるように手配しましたから、五月ちゃんのことをよろしくお願いしますね」

 紅井は、五月と葛葉老人に別れの挨拶をし、白い外車の後部座席に乗り込み、去って行った。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 五月と葛葉老人は、特急列車に乗って帝都へ向かっていた。

 駅構内や列車内でも五月の銀髪は目立ち、色々な人から物珍しげにジロジロと見られ、彼女は居心地の悪い思いをさせられる。そんな五月の気持ちを察してか、葛葉老人は有栖川家で家令をしていた頃の有人の思い出や、帝都にある葛葉老人の家のある町のことを、にこやかに語ってくれた。

 五月が、ふと葛葉老人の家族のことを訊ねると、少し沈痛な面持ちを浮かべるも、ポツポツと今は亡き妻や二人の息子のことを話し始める。辛いことを思い出させてしまったと、五月が申し訳なさそうな顔をしていると、葛葉老人は微笑みながら、気持ちの整理はついているから気にしなくても良いと声をかけ、彼女の頭を優しく撫でる。

 葛葉老人が、車内販売係を呼び止めて、十四円の三角パック牛乳を買って、五月に与えてくれた。その値段に、五月は元いたα世界の物価が、如何にインフレ高騰したものであるか実感する。

 また、五月は葛葉老人が代金として車内販売係に渡した百円札を見て、百円が硬貨ではなく、お札であることにしみじみと時代を感じる。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 特急列車は、帝都近郊の向島駅を通り越した先で停車する。

 どうしたのかと気になった五月が、透明化して随伴していたデコを上空にあげ、情報共有で列車の前方を確認すると、旧宇治川を拡張した琵琶湖運河にかかっていた昇開橋の橋桁が、真ん中から分かれて両岸側で立ち上がっていた。

 やがて、運河下流から小山のような鉄の塊――星条旗をたなびかせた戦艦――が、ゆっくりと遡上して来た。

 戦艦が通り過ぎて行くと、両岸の橋桁がゆっくり下がって運河にかかる鉄道橋に姿を戻した後、急行列車はゆっくり動き出し、ガタゴトと音を響かせて橋を渡る。

 五月は、デコを介して運河を遡上して行く戦艦の後ろ姿を目で追いかけながら、元の自分を死に追いやる原因を作り出した米国のことを思い出していた。日米安保条約を破棄した米軍にとって、帝国を守る必要もなく、横浜ハイヴ攻略の明星作戦が失敗しても、米国の安全保障に影響はないのだから、国連軍という名の米軍は速やかに撤退する。しかも、他国でG弾を使用して、ハイブに対する効果を確認したいという利己的理由から、米国はG弾攻撃に踏み切ったのである。

 五月は、自分が元いたα世界の戦争末期、死に体の日本に原子爆弾を落して実験と虐殺を行なった、あの国の本質は並行世界でも変わらないことを理解し、あの国への不信感を強める。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 「けっ! 何が反省して家の中で謹慎しろだ! 俺は、あんなションベン臭いメスガキなんて襲っちゃいないのに……グビィ……俺の言い分を全く信じない、親父や兄貴の大馬鹿野郎が!」

 ダーン!

 赤ら顔の男──六条は、持っていたグラスを黒檀のローテーブルに叩きつける。その衝撃で、ローテーブルの上にあったウィスキーの空瓶が転がり落ちる。

 六条は、五月への強姦未遂容疑で警察官に村の駐在所に連行され、事情聴取を受けることになったが、それを徹底的に無視し、武家である実家に連絡しろ一辺倒を貫く。念のために警察官が実家に連絡した結果、実家から県警の幹部に話が行き、無罪放免となるも、実家の意向を受けた現地にいた軍人が、六条らを強制的に帝都の実家へ送り返した。小さな子供を強姦未遂という醜聞極まりない話が六条家の当主の耳に入り、家名に泥を塗る馬鹿息子は当主の命令で離れの一室に押し込められてしまったのである。

 一週間も外に出られなくなった六条は、昼間から酒をあおり荒れていた。六条は、思い出すたびに、ふつふつと沸き上がる怒りで、酩酊することもなく、血走った目をしていた。

 ドアが開いて、小柄な男が部屋に入ってきた。  

 「坊ちゃん!  やつの引き取られ先の家が分かりましたぜ。官庁街の北にあるS神社の近くの町家に、ジジイと二人暮らしだそうです」

 「そうか……謹慎あけが楽しみだな」

 口角をあげた六条が、凶悪な顔をして声もなく笑う。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 五月達を乗せた急行列車は、終着である京都駅に到着した。

 駅構内はα世界の東京駅並に混雑しており、五月の転倒を心配した葛葉老人が、彼女の手をつないで支えながら、改札を抜けて駅正面出口に出る。

 五月は、ボンネットバスやタクシーがズラリと並ぶ駅前広場の広さに、思わず声を上げて驚く。葛葉老人が、一個連隊約千人が整列して出征式ができるように広く作られたと、事情を教えてくれた。

 駅前を行き交う人々の服は、ビジネスマンや若い人が主に洋服を着ており、葛葉老人と同じく着物を着ている人もまだまだ多かった。

 市電(路面電車)に乗った五月が、窓の外の道路を眺めると、レトロな自動車──車体がお碗を伏せたような四輪、三輪トラックなど──が数珠つなぎとなって走っていた。

 (あれ? 何か変ね……そうか! シートベルトしていないんだ)

 運転手を見ていた五月が、違和感の原因に気がつき、他の車の運転手の様子も確認すると、皆シートベルトをしていなかった。

 五月の視線が、今度は車の間をスイスイと抜けて行くスクーターの姿をとらえる。

 (うわ~っ、バイクもノーヘルなのか……交通事故で大怪我あるいは死亡する人が、毎年かなり出ているんだろうなぁ……)

 五月(の中の人)は、元いたα世界の日本で交通戦争という言葉が巷で流行する程に死者が多かったことを知っていたので、帝国の交通事情から道路は危険な所という認識を抱く。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 五月達の乗った市電は、帝都のビジネス街である御池通を過ぎ、烏丸丸太町駅に到着すると、二人はそこで市電を降りる。御所等を見たいと言う五月の強い願いに応え、葛葉老人は見学をしつつ、家までゆっくりと歩いて向かうことにしたのだ。

 五月の目の前には、東西に伸びる一級河川のような大きな道路──片側三車線、道路幅百m。東は御所の右端となる鴨川から西は二条城の左端までの約一kmにもなるもの──が横たわっていた。

 それを見た五月が、「丸で滑走路みたい」と呟くと、葛葉老人曰く、進駐軍に命じられて建設された滑走路であり、今は道路として利用しているが非常時には滑走路へ復旧可能とのことである。なお、α世界においても、戦後京都御所を飛行場にという話がGHQから打診され、御所の代わりに二条城前の堀川通が一時的に飛行場にされたそうである。

 元滑走路の右側奥には薄茶色の塀に囲まれた皇帝陛下のいる御所が、左側奥には白亜の帝国議事堂が建っていた。

 五月は葛葉老人に導かれ、観光客に許されている御所の南面正門である建礼門の見学場所に足を運ぶ。

 戦術機並の高さ十八mもある建礼門(α世界では高さ十一m)は、その大きさで威容を誇り、御所の象徴的な顔であった。

 建礼門の左右には、儀礼軍服を着た軍人──山吹き色のライン入りなので譜代武家出身者──達が直立して警戒に当たっており、また、彼らとは別に儀礼軍服を着た軍人──赤いライン入りなので五摂家に近い有力武家出身者──達が馬に乗って、御所の薄茶色の塀を往復して警戒していた。

 五月は、英国のバッキンガム宮殿における近衛兵の交代儀式のようなイベントはないのかと葛葉老人に尋ねるも、ここでは行なわれていないとのことであった。

 五月は、葛葉老人から門を始め御所にまつわる話を幾つか聞かされる。それによると、建礼門は、普段は開かれることはなく、進入防止柵が設置されているが、皇帝陛下及び外国元首級の者が出入りする場合に限り、開かれる格式の高い門であるとのこと。また、.御所の薄茶色の塀に入っている水平の五本の白線は、最高級の格式を示すものであり、他にも門跡寺院の塀に、格式の高さに応じて三本・四本・五本の白線が入っているそうである。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 外から御所の見学を終えた五月は、葛葉老人と一緒に、左隣にある帝国議事堂の方にゆっくり歩いて向かう。

 帝国議会は、占領軍から押しつけられた憲法により、戦前の貴族院が廃止され、衆議院のみの一院制となっていた。チェック・アンド・バランスのために、二院制は必要だと帝国側が占領軍に意見をするも、帝国に上院は必要がないと却下されてしまったとのことである。

 五月が元いたα世界における日本の二院制を採用した国会の現状を見れば、同じことを二度も審議する二院制は時間・費用・人材の無駄以外の何ものでもない。一院制の帝国議会は、結果的にベストな選択をしたと五月は思った。

 帝国議事堂のずっと奥(北側)には、最高裁判所の建物が建っているらしく、両建物ともに御所を見下ろす不敬を犯さないように、あるいは要人狙撃に対する防犯上の理由から、建物の高さは三~四階に抑えられ、また御所に面する窓は灯取りできる程度に大きさが制限されているそうだ。

 ただし、帝国議事堂の左(西)側、堀川通を超えた区画には国の行政機関たる各省庁が集められており、その建物は帝都中心地での用地確保が厳しかった事情もあって、十階を超える建物も認められている。

 外から帝国議事堂を見学した五月は、葛葉老人に連れられて堀川通を横断し後、今度は北に方向を変えてゆっくり歩く。途中、五月は、壁に大理石を使った奢侈な建物──亡き父親が勤めるはずであった外務省(本省)──を葛葉老人から教えられ、しばし足を止め眺めた。

 各省庁の区画を通り過ぎ、五月達が古い家が多く立ち並ぶ区画までくると、五芒星の絵が飾られている不思議な神社があった。その神社の横にある細い路地へ、五月は葛葉老人と一緒に入って行った。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 葛葉老人の自宅は、路地を入って直ぐの所にあり、京町家と呼ばれる木造二階建ての建物で、歴史を感じさせる家構えであった。間口は三間(約五.四m)と狭く、入り口である引き戸には、準備中と書かれた小さな看板がかかっていた。

 葛葉老人が鍵をあけ、引き戸を開いて中に入って行く。五月はその後について家の中に入ると、カウンターと十席ほどの椅子が置かれており、コーヒーの仄かな香りから、五月はここが喫茶店であろうと当たりをつける。コーヒー好きな五月(の中の人)にとって、苦みが駄目なお子さま舌ではあるが、香りだけでも味(?)わえる環境に笑みを浮かべる。

 五月が、カウンターの後ろの棚に並ぶコーヒー豆の瓶に気がつき、ついつい銘柄をチェックしていると、葛葉老人がコーヒーをいれてあげようと言って来た。五月は、迷わず頷いた後で、「お砂糖たっぷりで」と恥ずかしそうな声でお願いした。

 葛葉老人がコーヒーサイフォンで入れてくれたコーヒーを飲み終えた五月は、自分の旅行カバンを持ちながら、細長い蛍光灯ではなく、少し黄色がかった白熱球の灯のある廊下を進む。

 葛葉老人に案内された、二階の六畳程の畳み部屋には、一間(約一m)程の窓、両側には白いカーテン、窓の下には正座して使う文机と座布団があり、机の上にはペン立てと赤いランドセルがぽつんと置かれていた。その他、部屋の角には、古めかしい鏡台、真新しい洋服タンス及び折り畳まれたちゃぶ台が置かれていた。

 押し入れがあることから、どうやら自分で布団を毎回上げ下げする必要があり、ベッドに馴れてしまっている五月は少し困り顔を浮かべる。

 運送費が高額なため、英国の家にあった家具はあちらで処分してしまっているので、この部屋の状態が五月が暮らすデフォルトなものになる。

 葛葉老人が部屋から立ち去った後、五月は唯一足りないもの──天河村で盗難にあってデコが回収した親子三人が写っている写真──を、機能回復したデコに再現させ、自分の旅行カバンから取り出した写真立てに入れて文机の上に置く。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 五月が居間で待っていると、隣の神社に電話を借りにいった葛葉老人が用事をすませて戻ってきてので、一緒に隣近所へ挨拶に向かう。

 何故電話を借りに行く必要があるのか。それはβ世界もα世界と同じく、この時代に電話を引くには十万円弱(大卒男子初任給が約一万四千円)と非常に高額なため、電話の普及率は十%未満と低く、一般庶民は電話のある家又は公衆電話を利用するしかなかったためである。

 神社を除く隣近所は、葛葉老人の家と同じく、間口が狭くて奥行きのある細長い家(所謂うなぎの寝床)が軒を並べており、挨拶に伺った家の家人は、外見が外人な五月に皆一様に驚き、日本語での挨拶や受け答えもできる彼女に感心し、彼女を引き取る事情も加わり、好意的・同情的であった。

 隣近所の家人と会話してみて五月が気がついたのは、彼らの話す言葉は京都弁ではなく、α世界の日本と同じ標準語であった。どうやら、新たな政治の中心となる京都へ、幕府の武家らが大量に移住したため、彼らの言葉が帝都での標準語になったものと思われる。

 近所挨拶を終えた葛葉老人は、商店街まで足を伸ばし、夕食の買い物ついでに、商店の人々にも五月を紹介していった。

 一端、家に戻った葛葉老人は、買い物を置いて、今度は近くの銭湯に五月を連れ出す。

 未だに意識がスケベな男である五月は、銭湯にムフフな期待をして暖簾をくぐる。五月は、葛葉老人から渡されたお金を番台のお婆さんに払うも、五月の感覚的にこんな激安料金──入浴料は大人十六円、子供六円、洗髪料十円──で経営が立ち行くのか疑問を感じた。

 エロイ期待を膨らませていた五月は、女湯の脱衣場であっさりと裏切られてしまう──そう、時間帯が早すぎて、そこに居たのは年寄りと小学校低学年以下の幼児だけであったのである。

 ここでも、外見が外人な五月は、回りの人々から遠巻きにされ、ジロジロと見られたが、五月は気にせず、パッパッパッと服を脱いで、タオル等を持って浴室へ向かう。

 五月が、洗髪及び身体を洗い終え、湯船に入る前に、長い髪をタオルで巻こうとするも上手くいかず、近くにいたお婆さんに教わることになる。五月が、流暢な日本語でお礼を言って、そのお婆さんと一緒に湯船に入る。 すると、他のお婆さん達も集まり、五月は彼女達に取り囲まれ、長々と話し相手をさせられ、あやうく湯あたりしそうになった。

 風呂上がりの五月は、仲良くなったお婆さんから、冷たい牛乳(瓶)を奢ってもらい、幼児達と一緒に、腰に手をあてグビッと早飲み競争をする。男の子の一人が、五月の背中の長い銀髪を引っ張る悪戯をして来たので、くすぐりの刑でお返しをする。

 こうして五月の銭湯デビューは無事に終えることが出来たが、長湯で外に出るのが遅くなり、待っていた葛葉老人はすっかり湯冷めしていて、彼女は謝ることになった。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 

 家に戻った五月は、台所で葛葉老人の夕食の準備を手伝いながら、調理道具をチェックする。

 加熱は、壁の向こう側に設置されたボンベから供給されるプロパンガスのコンロ(1台)の火で行い、点火は電池式ではなくマッチを使用する。

 パン等を焼くためのオーブンはなく、店の客への軽食用に食パンを焼くポップアップ型トースターがお店の片隅にあった。

 御飯は、太目な電気炊飯器で炊かれるが、タイマー機能はなく、また、保温機能もないため、おひつ(蓋付きの小さな木の桶で、余計な水分を除去調整するもの)に移す必要があった。

 電気冷蔵庫は影も形もなかったので、五月が葛葉老人に電気冷蔵庫はないのかと尋ねると、帝国ではホテルのレストランかお金持ちの家ぐらいにしかなく、ある程度豊かな家には氷式冷蔵庫があるぐらいだそうだ。傷み易いものは、買ってきた日の内に食べ切ってしまうという葛葉老人の言葉に、だから冷蔵庫が普及していないのかと納得する五月であった。

 納得はするが、五月としてはデコの再現が表立って使えない場合もあるので、電気冷蔵庫とオーブンもどきなオーブントースターぐらいは少なくとも欲しかった。そこで五月は、英国から船便で届くことになっている荷物の中身をこっそり入れ換え、α世界の製品を英国の最新式のものと称して、この家で使えるようにすることを心に決めた。

 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 夕食後の片づけを終えた五月が居間に戻ると、葛葉老人から明日の予定(病院での検査等)を教えられ、その後、五月はおやすみの挨拶をして、自分の部屋へ戻る。

 家が古く隙間があるためだろうか、部屋は寒かった。五月は手早く寝間着に着替え、一階の洗面台で歯磨きをする振りをし、デコの亜空間収納で歯と口内を清潔にする。寝る前のトイレも、デコの亜空間収納で済ませてしまうので、トイレに行かなくても実は問題なかった。

 部屋に戻った五月は、電灯を消して、前もって自分で敷いた布団にもぐり込む。布団の中は、アンカ(炭の一種を熱源にした小型の暖房具)のおかげで意外と暖かかった。

 布団に入った五月は、直ぐに目を閉じることもなく、これからの行動を思案する。

 (……落ち着ける拠点ができましたから、限界まで増設した生体分子素子メモリーに空きを作って、β世界の知識等非物質的な証に関する情報体(データ)を保存できるようにしましょう)

 墜落後のサバイバル中には思い至らなかったが、五月が診療所のベッドの上で暇つぶしがてら試した所、デコやナノマシンにタイマー的命令が可能であることに気がついた。

 五月は、デコに再現機能が回復したら、これまで亜空間収納で得た元素原料を元に、microSDメモリーカード(64GB)の再現を依頼。更に、五月が睡眠中の間に、生体分子素子メモリーに保存されたα世界の件のデータを、体外放出したナノマシンを介して再現した同メモリーカードへ移しかえる作業を命じる。勿論、複数バックアップを作る指示も忘れない。

 五月は、目を閉じて羊の数を数え始め、数分もしないうちに寝息を立て始めた。

 


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