僕は《聖なる泉》へ向けて、駈け出す。
レントの《聖なる泉》では物珍しさもあり、ゆっくり観察しながらの入場だったが、トキの言葉通りならそれどころではない。
ここが魔界域の闇に呑まれてしまったら、大変な事になる。
そして何よりエランの事が、心配でたまらなかった。
〈門番〉に入場を拒否されたのは、ハラルドに掛けられた呪の魔法のせいだ。
混乱を来たして自暴自棄になるエランではないが、テオフィルスの言葉もあり苦しむ事は確かだ。
少しでも早く、彼の側に戻って支えたい。
門をくぐろうとした時、何かが聞こえて立ち止る。
見上げるとレントの《聖なる泉》では僕の身長の五倍近くあった門が、半分ぐらいの高さになり一番上の楔石を明確に見る事が出来た。
存在を主張する不思議な楔石は、大きな花の中に女の人の顔が浮き彫られた物だ。
その浮彫は生きているように、僕を見下ろしている。
気にはなったが行こうとした、その時……。
(マ……シ オン……)
「え?」
浮彫の想いが、僕の心に響いてきた。
誰かを待っている、ずっと昔から……。
浮彫を見直したが、目に映ったのは唯の白い石の像。
僕を見下ろしている気配は消えていた。
「…………」
気を取り直して《聖なる泉》へ、足を踏み入れる。
レント領の《聖なる泉》では、広大な庭園や、バラ園が一足ごとに入れ替わり現れたのに、この闇に染まりかけた《聖なる泉》で現れたのは、徐々に荒廃していく風景だ。
枯れた庭園、崩れた城壁、汚泥の
一歩踏み出す事にそれらを目にしては気持ちが萎えるので、見ない事にして駆け抜ける。
どのくらい走ったのか判らないが、一向に水の流れる音が聞こえない。
僕の焦りは、徐々に恐怖に変わり始める。
このままの状態が続き、《聖なる泉》の外に出られなくなる恐怖に、僕は立ち止った。
目の前には無数の壊れた石像が、まるで戦いに敗れた戦士達のように地面を覆っている。
巻き上がる石の塵、僕の頬をなぶる荒廃の冷たい風。
耐えられなくなって叫んだ。
「泉の精、いるんだろう? なぜ、出てこない? 僕の入場を許可したんなら、声ぐらい聞かせろ!」
すると、目の前の景色が不意に揺らめく。
微かな声が聞こえた。
『……水……を……』
水?
僕は咄嗟に、腰に提げていた水袋を取り出し、栓を外して水を足元に垂らした。
すると足元から強烈な光が出現し、僕は目を庇う。
何かが取り除かれるような気配がする。
荒廃の冷たい風が止み、繁茂の圧倒的な熱気が上昇した。
『ありがとう、オリアンナ姫。あなたを待っていました』
僕は手を離し、ゆっくり目を開いた。
放射状に伸びる階段庭園の途中に、僕は立っていた。
レント領で見た物より、幾分大きい。
水が緩やかに上に流れていく音が、心地良く僕の耳に響く。
僕はホッとして階段を降り、中央の泉に辿り着いた。
「泉の精、なぜ姿を現さない?」
『オリアンナ姫、私達は水の中に存在する者。
僕は泉の中を覗き込んだ。
清らかに湧き起る泉は激しく揺らぎ、僕の姿も、誰の姿も映さない。
「あなたは、ただ清らかな泉なんだね。出来れば、姿がある方が話しやすいけど」
泉の精の涼やかな笑い声が聞こえた。
覗き込む水中に、魚とも人とも思える透明な形が現れ、水面から顔を覗かせた。
『さあ、エドウィンの伝言を受け取りなさい』
僕は頷き、水袋で水を汲んだ、すると……。
円形の泉の上に、十一年前の父エドウィン・ルーザ・フィンゼルの姿が現れたのだ。
レント領で見た時は、驚きの方が強く余裕がなかったが、今回は二度目のせいか、僕は十一年前の父を観察した。
緩やかな長い金髪は、僕の髪の色そのもの。
浅黒い肌と真青な瞳はテオフィルスを連想させる。
父の姿は、最初に見た時よりも、少し元気がないように見える。
彼は未来の娘に語りかけた。
「オリアンナ、ここまで無事に旅する事が出来ただろうか? 君は今、セルジン国王陛下と行動を共にしているのだろう? 成人の君は、おそらく陛下の婚約者と目されるだろうな」
僕の心臓が跳ね上がった。
本当はまだ成人ではないが、既に婚約破棄されているから、父の予想を上回っていて少し悲しい。
僕をまた王の婚約者にと、望む者は多くいる。
エランという王配候補がいながら、心の中では僕自身が、一番それを願っている。
「だが、セルジン王は水晶玉に取り込まれた段階で、人間ではなくなったのだ。《王族》同士は惹かれあうというが、私は君が国王の婚約者となる事には反対する!」
僕は驚きに身を硬くして、父を信じられない思いで見た。
父はただ前を見て話し、僕を見る事はない。
時間という壁が、二人を阻んでいた。
「成人の君がどんな気持ちでいるのか、私には量り兼ねるが、親として反対する」
「父上……」
僕は項垂れた。
過去の一方的な父ではなく、今を生きる父と話がしたい。
王に惹かれていく気持ちを、止める術があるなら教えてほしかった。
親に反対されたからといって、気持ちを変えられる程、単純な問題ではない。
「君にはアルマレークに婚約者がいる」
「え?」
知っている……、父上が?
《王族》は国外に出る事は禁じられている。
父がその事を知らないはずがない。
「この婚約は七竜が定めたもの。君の半分はアルマレーク人で、七領主家に生まれた以上は、君自身に作用する」
何の事だ?
「いずれ〈七竜の王〉テオフィルス・ルーザ・アルレイドが、君を迎えにエステラーン王国へ来るだろう。君達は出会った瞬間に、自然に惹かれあう」
「ええっ?」
僕には、父の言っている事が理解出来ない。
ただ驚き、父を見つめる事しか出来なかった。
惹かれあうって……。
突然、僕の心にテオフィルスの真青な優しい瞳が思い浮かび、首筋の毛が逆立つような感覚を覚えた。
僕は激しく首を横に振って、その感覚を打ち消す。
「七竜の定めた
驚愕の表情で、父を見た。
僕が生まれた時にエステラーン人として認めておきながら、今更アルマレーク人としての運命を告げる父が信じられなかった。
頭を抱えて地面に座り込み、激しい怒りに拳を握りしめた。
「勝手な事を、言うな!」
父に対する反抗心が、メラメラと湧き上がる。
アルマレーク人である父の目的は、エステラーン王国の征服にあったのではないかとすら思えてくる。
《王族》の姫君を奪い取り、王国に戦乱の嵐を巻き起こす。
そして百年前に果たせなかったアルマレーク共和国の領土拡張のために、国力の落ちた王国に攻め込む。
半分自国の血を引く《王族》を、
そうして、強大な魔力を秘めた二つの水晶玉と領土を、完全に共和国の一部としてしまうのだ。
僕は十一年前の父を、憎悪を込めて睨みつけた。
「この事は、オアイーヴも承知している。私達が果たせなかった夢を、君に託す。愛する、オリアンナ……」
「……夢?」
父エドウィンは、優しく微笑み消えた。
僕は父が消えた水面を、ただただ見つめた。
―――私達が果たせなかった夢?
母を思った。
《王族》である事を捨てた母。
娘をエステラーン人として育てた母が、アルマレーク人としての運命も承知していたとは。
《王族》の血が他国に流れる脅威を、一番理解しているはずの母が、水晶玉の魔力を一番知っているはずの母が、……承知したとは。
《……私達が果たせなかった夢を、君に託す。愛するオリアンナ……》
父の館に今も並ぶ、二つの紋章旗が思い浮かんだ。
故国を捨てた父の想いは、あの紋章旗に示される、両国を結ぶ夢――――――。
僕の頬に涙が伝い、流れ落ちた。