天界の宮殿の中、セルジン王は女神アースティルのいる巨大樹への、雲の坂道を上る。
巨大樹に近付くごとに、その神聖さに足が
まるで創世の力を凝縮したような、壮大な樹木の生命力に心が
これには魔力も何も通用しない。
吸い込まれてしまいそうだ。
上空ではいつの間にか現れた天界の兵士達と、七竜リンクルに乗るテオフィルスが戦闘を始めている。
多勢に無勢、圧倒的にテオフィルスには分が悪い。
急がなければ、あれでは持たない!
巨大樹に心を奪われないようにしながら、先を急ぐ。
戦いの女神は戦衣に身を包みながら、美しい死の閃光を優雅に繰出していた。
かつて心を許し愛し合った美しい女性は、今は戦いに酔い痴れ狂喜の笑みを満面に浮かべ、舞う如く優雅に殺戮のために動く。
その姿を美しいとは、もはや思えない。
おおよそ姫君らしくない少女が、自分を完全に変えてしまった事に心の中で苦笑した。
王の私にしては珍しい程、幼い恋だ。
相手がオリアンナだからか?
……いや、私が影のせいか。
知らず知らずに笑みがこぼれた。
最期の相手としては、悪くない。
こんな非常時に不釣合いな思いに囚われながら、目の前で槍を振るう戦いの女神に近付く。
一瞬で間合いを詰め、槍を掴みその動きを制する。
「攻撃を止めろ!」
女神アースティルは美しく微笑みながら、彼の腕を掴んだ。
「待っていたわ、私のセルジン」
「どういう事だよ? エランがあの剣を手にしたら魔界域へ行くって……」
〈ありえざる者〉オーリンの翼の檻の中で、僕は彼に掴みかかった。
オーリンは見下すように僕を見つめている。
『君は本当にルディーナ・モラスが死んだと思っているの?』
「そうじゃないのか? どういう事だよ!」
『彼女はアドラン・ディラス・ブライデインに、強烈な恨みを抱いて死んだんだ。目の前で恋人だった君主を惨殺されたからね』
「……まさか! なんでそんな事知っている?」
『ふん、僕を誰だと思ってる?』
女神アースティルの息子オーリンは、不敵に笑う。
『父上や君の前では微塵も見せなかった、皆あの人形の可愛さに騙されたんだ。彼女の中の闇が、あの剣に凝縮されている事に誰も気付かない』
「そんな! だったら自分で魔界域へ行けばいいじゃないか!」
『父上の魔法で生かされていたのに?』
「それじゃあ、エランをモラスの騎士にしたのは、最初から魔界域へ行かせるつもりで?」
『だろうね。エランは屍食鬼になれば、簡単にあちらへ行けるから』
「そんな……。そんな事、絶対させないっ!」
『させないって、あの剣はもう離れないよ』
意気込む僕に皮肉っぽい視線を投げつけながら、エランを指差す。
エランはまるで魅入られたように、剥き身の魔剣を見つめていた。
『剣に残ったルディーナの遺志と交信している。あれじゃあ、屍食鬼になるのも時間の問題だね』
「屍食鬼にならなければ、魔界域には行かないんだな?」
『……そうだけど、止めるのは無理だよ。ルディーナの遺志は、そのうちエランの意志に変わるから』
「やってみないと、分からないじゃないか!」
『…………』
何か物言いたげにオーリンは、厳しい顔をした。
『ふーん。前から思っていたけど、君って残酷だよね』
「え?」
『もう、いい。父上が母上に捕まった、僕達も行くよ。君を守るのは父上の頼みだけど、僕は母上には逆らえないからね』
オーリンはまるで無かった事のように、嬉々として翼を広げ、全身から光を放出した。
翼の檻が解かれ、僕は彼から逃れようとしたが、身体が凍り付いたように動かない。
それは他の者達も同じで、天界の兵士達に囲まれ恐怖を感じながらも、どうする事も出来なかった。
そして全てが光に包まれ、何も判らなくなった。
―――気付いた時、目の前に巨大な樹木が立ち塞がっていた。
そのあまりの大きさに圧倒され、誰もが魂を抜かれたように、呆然と樹木を見上げる。
どのくらいの時を生きれば、こんな大きな樹木になるのだろう。
太古の生命の息吹が辺りに満ち溢れ、あらゆる生き物がそこに集っている。
人も動物も昆虫も……、楽園という言葉が僕の心に浮かんだ。
何の苦しみも無く幸せに生きられる場所。
屍食鬼との長い戦いで疲れ果てた国王軍の戦士達は、まるで全てを忘れたように、その仲間に入ろうと足を運んだ。
誰も気が付かなかったのだ、自分達がどんな危険に晒されているか。
最初に異変に気付いたのは、全身の強烈な痛みのせいで、意識を取り戻したテオフィルスだ。
[ううっ、くそっ。ここは……、なんだ?]
アルマレーク語で呟かれた一言に、まるで魔法が解けたように僕はハッとした。
目の前に水で出来た境界線があり、間もなく全員それに飲み込まれようとしている。
それは巨大樹から溢れ出る、大量の樹液に見えた。
「皆、目を覚ませ! 飲み込まれるぞ!」
しかし僕の言葉は他の者達に届かない。
楽園を求めて、既に樹液の中に足を踏み入れた者もいる。
僕は近くにいたトキ・メリマンとエランにしがみ付き、彼等の歩みを止めようとした。
「トキさん、エラン、駄目だ! 目を覚ませ!」
トキに反応は無かったが、エランは自分の意志を取り戻す。
「オリアンナ? あれ、僕どうして……?」
「エラン、皆を止めるんだ!」
不思議な事にエランがトキを止めると、彼は意識を取り戻した。
「エラン、あとを頼む!」
「うん。でも、君は?」
「陛下を探す!」
そう言って僕は進もうとしたが、足元に血に塗れたテオフィルスが横たわっていた。
先程意識を取り戻したのは、彼のアルマレーク語の呟きのおかげだ。
僕は戸惑いながら、声をかけた。
「テオフィルス、大丈夫か?」
[あ……、ああ。リン……クル、俺の傷……を、癒せ……]
弱々しいテオフィルスの声と同時に、彼の周りに一瞬柔らかい光が現れた。
リンクルの魔力により傷は塞がれたが、ダメージは残るようだ。
血まみれのテオフィルスは顔を
僕は無意識に、彼を支えた。
「立って、大丈夫なのか? 寝ていた方がいいよ」
「この状況で? あの樹液に飲まれたら、ここから出られないだろ。俺は、それは嫌だ」
「……た、立って動けるなら、もういいよ。僕は陛下の元へ行く」
「セルジン王なら、そこにいる」
テオフィルスの指差した方向に、王が女神アースティルに捕えられたように立ち、こちらを見ている。
「セルジン!」
「来るな、オリアンナ!」
セルジン王の制止も聞かず、僕は王の元へ駆け寄ろうとした。
そして、左腕上腕に突如、激痛が走る。
「あ……、あああ……」
僕は左腕を押えて倒れ込み、あまりの激痛に動く事が出来なくなった。
それは〈抑制の腕輪〉のはめてある箇所。
《愚かな姫君、後悔するぞ》
マルシオン王の言葉が、頭の中で木霊する。
この腕輪が天界の魔道具なら、これを操るのは女神アースティルだ。
意識を取り戻した近衛騎士達が、僕に駆け寄る。
ダメージに顔を顰めながらテオフィルスは、僕の押える左腕の肩防具を外し、上腕の腕防具を素早く外した。
アルマレークの竜騎士専用の鎧のため、彼が一番扱い慣れている。
現れた鎧下着を引き千切ると、妖しく光る魔道具の腕輪が現れた。
そのあまりの妖気に、テオフィルスは顔を歪める。
「なぜ、こんな物を……」
腕輪に触ろうとした彼の手が、魔力で弾かれる。
誰もその腕輪を、取り除く事が出来ない。
「オリアンナを苦しめるのは、止めろ!」
セルジン王が憤りながら女神アースティルに詰め寄る。
女神は微笑みながら、首を横に振った。
『愚かな姫君。死人の分際で、あなたの心を奪おうなんて……。大人しくオーリンを運ぶただの器でいれば、苦しむ事もなかろうに』
そう言いながら、声を上げて笑った。
セルジン王と近くにいたマルシオン王は、そろって不快な表情で女神を睨みつける。
「……彼女を、助けてほしい」
『それが管理人になる条件なの?
「…………」
『ブライデインへ近づく毎に、屍食鬼の数は増えるのよ。より凶悪な魔王の〈契約者〉達が王都を仕切っているわ』
「それは……」
『あなたが魔王に屈すれば、地上と魔界域が繋がるの。邪竜が目を覚ますわ。天界としても、それは面白くないわね』
「……国王軍を、天界が守ると?」
『少なくとも、屍食鬼からはね。魔王や〈契約者〉のような魔界域の住人には手が出せないけど、国王軍には少しは役に立つのではなくて?』
「私は……」
セルジン王は苦しむ僕を見つめ、トキや近衛騎士達を見つめた。
「私は……、王だ」
『うふふ、そうよ。あなたはエステラーン王国の国王なの。たとえ王国が滅びようと、最後まであなたには責任がある』
「オリアンナ姫のあの苦しみは、この先も続くのか?」
『……あなたが条件をのめば、腕輪の魔法は解ける』
「卑怯だな。……天界人はもっと清らかなのかと思っていた」
『ふふ、私を誰だとお思い?』
目的のためには手段を択ばない残酷な戦いの女神は、挑発的に胸を張り王の瞳を見つめた。
セルジン王は僕に向きなおり、何かを
〈抑制の腕輪〉から放出される痛みの魔法に苦しめられながら、僕は王の唇の動きを読んだ。
そなたを、助ける。
僕の瞳から、涙が流れた。
王はテオフィルスを見つめ、何かを振り切るように叫ぶ。
「テオフィルス・ルーザ・アルレイド殿、貴殿にオリアンナ・ルーネ・ブライデインを託す!」
その場に居合わせた者は、王の言葉に愕然とした。
それはエステラーン王国を、アルマレーク共和国へ明け渡す事を意味する。
「陛下!」
皆が反対の意志を表明する中、血塗れのテオフィルスは立ち上がり胸に手を当て、礼を取る。
「
セルジン王が水晶玉の〈管理者〉となってしまう事、最悪消えてしまう可能性も含め、事前にテオフィルスには打ち明けてあった。
王は彼に頷き、女神の腕を取った。
「国王軍への、天界の加勢が条件だ!」
『保護ではなく加勢?』
「そうだ、絶対に見殺しにしない。それが条件だ!」
『……良いでしょう。地上が大事になるかもしれないけど』
「既に大事になっている!」
『ふふふ、私を巻き込めば、もっと大事になるわよ』
「何を今さら! これは貴殿が仕組んだのではないのか?」
『あははは……』
王は女神に、激しい憤りを感じた。
「さあ、急げ! 連れて行け、どこへなりとも!」
その瞬間、女神は極上の笑みを浮かべながら、セルジン王と共に消えた。巨大樹も雲の道も、一瞬で消えてしまったのだ。
気が付くと皆はただ呆然と、廃墟であるトレヴダール城の、騎士の大広間に立ち尽くしていた。
荒廃した現実が薄暗闇の瓦礫の中に、埃と共にある。
僕の腕の痛みは、綺麗に消えていた。
ただ、セルジン王を失った心の痛みは、消す事が出来ない。
あまりの出来事に、涙も出ない程に……。
三章本編はここで終了です。
ここまでお付き合い、ありがとうございました。
今後ともこの物語を、どうぞよろしくお願い致します!