風呂はいつも僕の心の中にあった。この苦悩に満ちた人生の中でいつも風呂は僕の心を落ち着かせた。ある日、風呂に入っていた時にこれは起きたことだ。その風呂にはなみなみとお湯が注がれていた。
その風呂ができたのは1990年のことだった。ソ連がまだ崩壊する前のことだった。風呂自体は赤いレンガでできていた。当時、どこの住宅を回っても中々目にできなかったらしい。その風呂は赤いレンガにセメントをつなぎ合わせてできていた。見た目は煙突に見えた。また赤ずきんちゃんのおばあちゃんの家の暖炉にも見えた。僕はその風呂に毎日のようにつかり、二十年たった時、風呂が僕に話しかけてきた。
「お前もそろそろ大人になったことだし、この世界についていろいろわかってきたことだろう」
風呂は相変わらずいつもと同じ無表情だった。僕は何か隣の家で声が聞こえているものだと思っていた。
「この世界にある現実は全てお前の頭の中にあるのだ」
風呂は僕にそう告げた。やはり風呂が話していたのだと僕は思う。僕は当時そういう類の哲学の思想はまだ知らなかったので、風呂の言うことに関心していた。
「いつかお前は全てを知ることになる。そしてその時にお前がどう思うのかが俺は気になるのだ。二十年間お前を俺は見てきたが、とても幸せそうには見えなかったからな」
風呂はそう言い終えると、またいつものように無表情になり、その艶のあるレンガの壁から湯気を上げていた。きっと風呂も二十年ぶりに話したせいで興奮しているのだろうと思った。
「俺は今からお前の風呂からでる。そしてまた明日お前の元を訪れる」
僕はそう言って風呂からでて、体をバスタオルで拭いた。洗濯物の籠の中に置いておいた着替えを身にまとい、僕は風呂場を後にした。僕の家は二階建てでこの辺りでは比較的大きな家だった。両親と妹が一人住んでいた。僕の姉は二年前に会社に就職したのを機に一人暮らしを東京で始めた。僕はバスタオルで髪を拭きながらリビングへ行った。妹がテレビを見ながら勉強していた。なにやら数学の問題を解いていた。母親はキッチンで皿を洗っていた。几帳面な母親なので家事も几帳面にやっていた。父親はこの辺りの中企業の役員をやっていた。元々それなりの大学を出て商社で働いていたが、コネでその会社に入った。そこで僕が生まれると同時にこの街に引っ越してきた。
僕は風呂で起きた出来事を家族に告げることができなかった。なぜなら家族のだれもが風呂と話をしていたからだ。僕はついさっきそのことに気付いたのだ。