桃香ちゃんと愚連隊   作:ヘルシェイク三郎

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第十一回 曹孟徳、視野を広げる

 魏の武帝――、曹操孟徳といえば、三国鼎立期随一の実力者にして空前絶後の大天才として今も世人に良く知られている。

 天に愛された、とでも言うべき彼女の才覚はまこと万事にわたって発揮され、政の運営から軍隊の指揮、はたまた房中の術や酒造などといった俗物的なものにまで、他者の追随を許さぬ業績を残していた。

 

 何かと世の中を色眼鏡で見る筆者(わたし)であるが、彼女のことは高く評価している。"美男子を大勢飼って侍らせる"という文化を今の世に伝えてくれたからだ。

 現実の男性になんざ興味はないが、少なくとも創作のネタを提供してくれたことは本当にありがたい。

 "美男子はあれむ"……。ああ、何と甘美な響きだろうか。紙、活版印刷に続く世界に誇る我が国の大発明とするならば、三つ目には"美男子はあれむ"を数えるべきだと大真面目に思う。

 しかも、彼女は史料に曰く「女色に耽り、美男子とは決して交ぐわなかった」そうだから、恐らく美男子同士の交ぐわいを見て楽しむだけにとどめたに違いあるまい。

 慧眼だ。わかっている。気が合いそうだ。美男子同士の交ぐわいなら、ご飯三杯は余裕でいけるだろう。

 

 そんな曹操孟徳であるが、実は学術的な意義において「同時代人で初めて劉備玄徳という人物の業績を史料として詳細に記した」可能性があることは意外に知られていない。

 彼女が残した膨大な史料群は南京(みやこ)の大書庫に所蔵されており、今は『孟徳日記』などと銘打たれて平民でも閲覧料さえ支払えば読むことが可能である。

『孟徳日記』は平たく言えば、当時の覚え書きをまとめたものだ、前巻には彼女が生涯を通じて流浪の大賢者"摩佐史"なる異民族と交わした手紙の写しが、後巻には日々に書き留めた私的な所感がつらつらと収められている。

 全編にわたって意味の分からぬ単語、正史を覆す記述が随所にあって、「歴史に残る大天才が、このように意味の分からぬ事を考えているはずがない。これは間違いなく偽書である」などと疑われた時代もあったらしい……。いや、今でも頭の固い御用学者は偽書と疑って聞かないのだが。本当に、頭の固い馬鹿と現実の男どもは死ねばいいと思います。

 

 さて、これより先はそんな曰く付きの『孟徳日記』を読み解くことで、他者から見た劉備玄徳とその仲間たちに焦点を当ててみようと思う。

 劉備玄徳という英傑が何故、何処ぞの王になれるほどの器を持ちながら、立身出世の機会を幾たびも得ながら、群雄割拠の争いから先んじて身を退いてしまったのか――。

 正史を読むだけでは見えてこない側面が、『孟徳日記』には記されているのだ。

 

 

 光和七年、九月の朔日(ついたち)。天高く晴れ渡る。

 

 この日、心地よいまどろみの中にあった私の意識を、小鳥の鳴き声が呼び覚ましたのは朝日が昇って間もない頃であった。

 寝所に敷き詰めた羽毛張りの寝台から上体を起こすと、すぐ傍より「ん」と可愛らしい声が聞こえてくる。

 寵愛を与えている腹心――、秋蘭の寝ぼけ声だ。

 微笑ましげに彼女を見下ろす。

 先日大いに乱れた痕跡が今も色濃く残されている寝台の上で、彼女はすうと幸せそうな寝息を立てながら寝返りを打っていた。

 肌けた胸元がちらりと覗いて、ふと悪戯心が内にもたげたが、彼女の目の下に見える隈のことを思い出し、伸びかけた手を引き込める。

 今は、そっとしておこう。

 彼女には心身共に充実した状態で自分に尽くしてもらいたい。

 才有る者を無用に使い潰すなど、才無き愚者の所行であった。

 

「華琳姉ぇ、いるッスかー?」

「……華倫(かろん)?」

 身支度をしている中で、寝所の外から聞こえてきた見知った声に、私は思わず目を丸くした。

 その声が、陳留にて留守居を命じていたはずの従妹、曹子孝のものであったからだ。

 

「入って、構わないわよ」

 自身の金髪を櫛で漉きながらそう答えると、「お邪魔するッス」と華倫が天幕の入り口をめくり上げ、その私によく似た顔を覗かせてきた。

 風に揺れる麦穂の如き、一つに結わえたきらびやかな金髪を揺らし、華倫は入ってくるや否や私と秋蘭の寝姿を交互に見る。

 

「あ、昨日は秋姉ぇとお楽しみッスか。春姉ぇは一緒じゃなかったんスか?」

「珍しくあの娘が身を退いたのよ。疲れているようだから、この娘を癒してくれってね」

「え、あのがつがつした春姉ぇが!?」

 私の答えに、華倫は鈍器で頭を叩かれたような顔をして、言葉を失った。

 その様子に、くすりと笑う。"がつがつした"とは大した発言だ。

 私は彼女らの間に垣間見える関係性を面白がりながらも、脅しつけることにした。

 

「今の言葉、春蘭に伝えておきましょう」

「か、勘弁してくださいッス……。あ、そうだ。髪を結わえるの、あたしがお手伝いするッスよ」

 怯える子ウサギのようにしおらしくなった彼女の反応をひとしきり楽しんだ後、私は彼女に身支度を手伝わせた。

 

「それで、陳留にいたはずのアナタが何故冀州くんだりまでやってきたのかしら」

「あ、それなんスけど」

 華倫は私の髪を結う飾りひもを摘みながら、思い出したかのように声を漏らした。

 そして懐から取り出したるは、形も大きさもバラバラな十数枚にわたった紙の束。恐らくは手紙だろうが、体裁というものが全くわかっていない。

 しかし、だからこそ私にはこの不格好な手紙の送り主を、即座に判別することができた。

 

「もしかして――」

「はいッス。まさしっちからお手紙ッス。多分、すぐに華琳姉ぇも読みたいだろうッスから、届けにきたんスよ」

「頂戴」

 口早にそう返し、華倫の手から手紙を奪う。

 今はこの大陸から去ってしまっているであろう知人から送られてきたその手紙は、植物の汁やら土汚れやらにまみれてしまっていたが、確かに彼の筆跡を手紙の中に残していた。

 私は貪るようにして、それを読み取っていく。

 

「何て書かれてるんスか? まさしっちの文は大陸言葉じゃないから、あたし読めないんスよ」

「そうね、この文章は私でないと解読できないでしょう。私ですらようやく文意をある程度解せるようになったばかりなのだから」

 心持ち鼻を高くしながら華倫を見ると、彼女はお預けを食らった犬になっていた。

 彼女はこうして私の保護欲をくすぐる顔をすることがある。

 この顔をされれば、従姉である私は弱い。

 

「直訳でいいなら、この場で朗読しましょうか」

「お願いするッス!」

 コホンと息を整えて、私は知人の手紙を読み始めた。

 

「拝啓曹操様。私は内政ちーとと軍事ちーとに飽きたので、新たなちーとをすることにしました」

「えっと、"ちーと"っていうのは確か大陸言葉では"挑戦"を意味する言葉だったッスか?」

「正確には"前人未踏の挑戦"よ。今まで誰も成し遂げなかったことを成し遂げることを指すらしいわ。直接意味を聞いたことはないけれど」

「ああ、あの厠爆発とか……。って、成し遂げたものなんてほとんどないじゃないッスかぁ!」

 と華倫がたまらず吹き出す。

 そもそも彼との付き合いは華倫の方が長い。いつだったかに、「か、何進様の部曲に、ウンコばっか研究してる何かすっごい変人がいるッス!」と私のところへ駆け込んできたときのことを、私は今でも鮮明に思い出すことができる。

 彼女の知らせを聞いた当初はただの気が触れた人物かと呆れたものだが、実際に見てみると……、やはり評価は変わらなかった。

 

 異民族――、まさしは間違いなく変人である。狂人や変態の亜種と言い換えてもいい。

 ただ、彼の思考には本来の狂人や変態にはありえない理屈が見え隠れしていた。支離滅裂ではない……、整然とした理屈がである。

 私は即座に、まさしという人物に興味を持った。

 この曹孟徳は、大陸において有数の知恵者と自負している。理のない戯れ言ならば取り合わないが、理の通った行動、言葉ならば話は別だ。

 私に理解のできない事象などあってはならないのだから。

 ゆえに、私は彼に接触した。

 出会ったばかりの彼はひどく非友好的で、胡散臭そうに「すごい金髪ツインテドリルだ」などと良く分からぬことを言っては腹の内を明かすことがなかったのだが、根気強く交流を続ける内にその態度も徐々に雪解けの相を見せてくれた。

 "めいど服"などの前衛的な衣装が、都を中心に流行り始めたのも私が彼の発想を取り入れて広めたためだ。

 ほのかに懐かしさを覚えながら、更に読み進める。

 

「私は、根気の問題で外交ちーとをできません。私は、資源ちーとを選びました。だから、おおすと……、らりあ? へ向かいました」

「おおすと何たらって何処のことッスか?」

「それは……、分からないわ。あの男は私たちにない知識を前提に話す節があるから。恐らくは故郷の近隣にある地名なのではないかしら」

 そう言って、南向けに取り付けられた窓の向こう側へと目をやる。既に三年以上は顔を見ていないから、相当遠方にあるのだろう。その"おおすとらりあ"とやらは。

 

「私は、ちーとで稼いだお金を使って人を雇いました」

「あれ? まさしっちって華琳姉ぇからの借金まみれじゃなかったッスか?」

「都合の悪いことはすぐに忘れるのよ。あの男は」

 嘆息し、さらに読む。

 

「そして、私は王になりました。しかし、おおすとらりあには人がほぼ居ません。これは国ですか? いいえ、村です」

「王様!? まさしっちすげえッス!」

「いや、自称でしょう。化外の地ならば、何とでも言えるわ」

 苦笑いしつつも、私の中にはあまり面白くのない連想が湧き出てきた。視野が広がったと言うべきか。だが、今は捨ておくこととする。

 

「村ではちーとができません。いえ、時間をかければできるのかもしれませんが、私は根気の問題でそれができません。ここには山のように大きな鳥や、龍が住んでいます。とりあえず高い岩山に村を立てようとしたら龍が住んでおり、討ち取ろうとした華雄さんが丸呑みにされました。ごっど、べいどお? な頼れる医者が龍を光になれ? して何とか無事に済みましたが、華雄さんはべとべとで涙目でした」

「相変わらず、まさしっちは何言ってるかわかんないスね」

「こんな文章にもあの男なりの理が潜んでいるのよ」

「で、結局まさしっちは何で手紙だしたんすか?」

 首を傾げる華倫に対し、私は手紙の最後の一枚をひらりと見せた。

 

 

「助けてくだち」

 

 

「いや、無理でしょ」

 普段の口調が崩れるほどの真顔で華倫が切って捨てる。

 確かに片道で何年かかるか分からない道のりを救援に赴くのは到底無理な話であった。

 しかしながら、と私は返す。

 

「この手紙は一体誰がもたらしたの?」

「あー、頭に獣耳を生やしたやたら可愛らしい女の子ッスね。何でも『大王様から案内に付けられたニャ』とか。今は栄華の玩具になってるッス」

 しばし考える。

 恐らくその少女とやらは現地で交流を深めた豪族の家臣であろう。

 何故子飼いの者を遣さずに、外様の与力を使者として送り出したのか――。

 私は口元が緩んでいくのを抑え切れなかった。

 

「……これは『化外と交流すべし』という彼からの提案よ」

「へ?」

「彼は別に救援を求めているわけではないの。彼の救援を名目に使者を送ることで、化外の勢力と友好関係を結び、この国の守りを固めよと言っているのよ」

 自分の中で、かちりと推理がはまっていく感覚が私はたまらなく好きであった。

 あの男のもたらす知識は発想は、いつも私の視野を広げてくれる。

 現在、漢王朝の失政によって乱れに乱れたこの国では、やがて群雄割拠の戦火が燃え広がっていくことであろう。

 私はその機に乗じて、覇を唱える腹積もりである。だが――。

 戦乱が続けば、どうしても国内が荒廃する。弱体化してしまう。

 そのような時期に、一体何がこの国にとって一番の脅威となるのか――? 外患である。

 古来より、この国は北方の外患に悩まされてきた。

 今まではこの国の持つ地力の高さから、何とか外患の侵略を跳ね除けてきたが、それも今後はどうなるか分からない。

 もしかすると、蛮族による征服王朝などというものが、内乱の隙を衝いて打ち立てられてしまうかもしれないのだ。

 それでは例え国内をまとめて成り上れたとしても本末転倒になってしまうではないか。

 備える必要があった。

 

「華倫。陳留に帰ったら、南方の使者に優秀な使者を十人をつけて返しなさい」

「優秀な使者ッスか?」

「ええ。健脚で、養う家族がいない者が望ましい。地図を書ける者、日記を付けられる者、夷語に対して理解の深い者、武術に長けた者、兵の統率に慣れた者を二人ずつ選び出すの」

「……大盤振る舞いッスね」

 私の指示に、華倫は何処か釈然としない表情を見せていたものの、すぐに了解と頷いた。

 政治的な判断については自分が口を挟む余地はないとでも考えたのかもしれない。私は彼女の潔さに、少しばかりの寂しさを覚えた。

 

「よぉし、姉ぇの髪の毛、整え終えたッス」

「ありがとう。それじゃあ、大天幕へと向かいましょうか」

「秋姉ぇは?」

「今しばらくは寝かせてあげましょう」

 言って、私は寝所を出る。

 空の高い、気持ちの良い朝であった。

 本来ならば、黄巾賊の討伐がこの後に控えていたはずであったから、このように静かな朝は迎えられなかったに違いあるまい。

 反乱の芽を外交的な決着によって未然に防いでしまった劉備、そして我が方に利益をもたらしてくれた秋蘭の交渉術にはひとまずの賛辞を送っておく。

 寝所から大天幕へと向かう途中で、私たちはとある男に呼び止められた。

 

「――か、孟徳」

「あら、アナタは……」

 彼は曹家に身を寄せる客将の一人であった。

 伸ばし放題の銀髪を一つに縛り、漆黒の衣装を身にまとい、凡百に紛れてもすぐにそれと分かる端正な顔立ちをしている。

 

「どうしたのかしら、狂夜(きょうや)

「……俺は剣牙(つるぎ)だ」

 凡百に紛れてもすぐにそれと分かるのだが、"彼ら"は厄介なことに似たような顔つきをした者が無数に居るので困る。

「あっ。剣牙っち。おはよッス」

「お、おう」

 炎牙の表情があからさまに不機嫌なものへと変わっていったので、私はコホンと咳払いをする。

 

「それで、どうしたのかしら。剣牙」

「いや、何。アンタに忠告(・・)に来たのさ」

 と言って、彼は天幕壁の骨に背を持たれかけ、腕を組んでは語り始める。

 

「何でも、劉備と協定を結ぶそうだな?」

「正確には劉備と公孫サンとの協定ね。一両日中には今後についての会合を開くつもりよ」

 私の言葉を受け、剣牙はこれ見よがしに大きなため息をついた。

 

「……何か不満でも?」

「孟徳、アンタ喰われる(・・・・)ぜ?」

 彼は皮肉げに肩をすくめ、更に続ける。

 

「劉備は危険だ。奴の台頭を許せばアンタは苦労することになるだろう。話し合う必要なんざなく、とっとと潰すべきだと進言する」

「随分と劉備を買っているのね?」

「俺が、奴を買っている?」

 私の答えに、剣牙は冷笑を浮かべる。

 

「単に王としての器を図るなら、アンタと奴じゃ比べ物にならん。脳内はお花畑で、人を炊きつけるだけしか取り得がねえ、まるで宗教の教祖みてえな奴だ。ただ……、奴は戦乱を煽っている癖に人を殺し、殺される"覚悟"ってもんを持ってねえ。そんな覚悟もねえ奴が俺たちと同じ舞台に上がってくるのは腹が立つんだよ」

「知り合いなのかしら」

 私が問うと、剣牙はニィと口の端を持ち上げてこちらを見た。

 

「……いいや、俺が知っているだけさ。アンタだって少し調べてみりゃ、分かると思うぜ。例えば、オトモダチの公孫サンだが……、奴は友人であることを利用して公孫サンの領民を私兵に仕立て上げているはずだ。義勇兵として、な」

「フム」

 先だって秋蘭から提案されて、取り寄せた情報を内心で反芻する。

 

 劉備玄徳、幽州啄郡生まれで先の県令の娘。

 盧植子幹のもとで学び、公孫サン伯珪と友誼を得る。

 その後、現県令との諍いから街を離れて義勇軍を結成までは、各地を転々としていたために足跡をたどることができなかったが、少なくとも公孫サンとの接触はなかったはずだ。

 彼の勘違いだろうか?

 ……いや、彼の顔には自信というものが満ち溢れていた。ここで彼の言を「証拠がない」と切って捨ててしまうのも大人気ないだろう。

 それに、覚悟のない者が戦乱を煽ることを快しとしない考えに関しては、私にも頷くべきところがあった。

 戦場とは、勇者と勇者。知恵者と知恵者がぶつかり合う場であるべきなのだ。

 だから、もし劉備という人物が誰かの後ろで戦いを煽るだけの人間であったのならば、彼女の評価をそれなりに下げる必要があるだろう。

 

「分かったわ。アナタの言葉、参考にさせてもらいましょう」

「フン、分かれば良い。……それとだな」

「何かしら?」

 とここで、剣牙は言いにくそうに言葉を詰まらせた。

 

「俺に真名はない。剣牙という名が唯一の名前なわけだ」

「ええ、知っているわ」

 私は彼に微笑み返す。

 彼の言わんとすることは分かっていた。ただ、それを受け入れない理由が私には存在したというだけだ。

「そうか……」

 少し落ち込む剣牙に対し、華倫が明るい声で慰めた。

 

「あたしのことは真名で呼んでいッスよ。剣牙っち」

「……"おりきゃら"は優しいなあ」

「あはは、その呼び方流行ってるッスねー」

 このやりとりこそが、私が"彼ら"に真名を預けない理由でもあった。

 何だかんだと言っても、私は従妹が可愛くて仕方ないのだ。

 少なくとも、彼女のことをまともに呼ぶようになるまでは、私は"彼ら"に真名を預けることはないだろう。

 

「それよりも今日の料理当番、剣牙っちッスよ」

「ああ、分かっている。料理は得意分野だからな。任せておけ……」

 言って、私たちはその場で別れた。

 彼は炊事場へ、私たちは大天幕へと歩みを進める。

 そうして大天幕が林立する天幕の先に見えたところで、またぞろ男に呼び止められた。

 

「――か、孟徳」

「あら、アナタは……」

 彼もまた、曹家に身を寄せる客将の一人であった。

 伸ばし放題の銀髪を一つに縛り、漆黒の衣装を身にまとい、凡百に紛れてもすぐにそれと分かる端正な顔立ちをしている。

 ……全身黒ずくめというのは彼らの民族衣装か何かなのだろうか?

 いずれにせよ、次こそ間違えようがないだろう。

 

「どうしたのかしら、狂夜」

「……俺は剣牙だ」

「ちょっと待って。剣牙とは先ほど会ったでしょう」

 慌ててそう返すと、彼の機嫌が急速に悪化していった。

 

「そいつは俺じゃない。別の剣牙だ」

 言われてはたと思い出す。我が陣営には剣牙なる人物が二人所属していることを。

 気まずい空気が流れる中、事態を打破したのはやはり従妹である華倫であった。

 

「あはは、姉ぇも忘れっぽいッスね! 剣牙っちは髪の毛が外に跳ねていて、つっちーは内に跳ねているんスよ」

 おはよッスとそのまま華倫が声をかけると、剣牙(その2)はほろろと涙を流し、

「……"おりきゃら"は優しいなあ」

「"おりきゃら"って言うなッス。あたしは華倫ッスよー」

 とお決まりになっているらしきやりとりを交わしていた。

 この従妹には誰とでも仲良くなれる才能があるのかもしれない。

 少し微笑み、彼に謝る。

 

「ごめんなさいね、剣牙(その2)。それで一体何の用かしら?」

「いや、何。アンタに忠告(・・)に来たのさ」

 と言って、彼は天幕壁の骨に背を持たれかけ、腕を組んでは語り始める。

 

「いや、ちょっと待って。もしかして、劉備のことかしら?」

「……分かっているなら、話が早いな。アンタ――」

「喰われるとでも言いたいの?」

 私が先んじてそう言うと、剣牙(その2)は驚きのあまり硬直してしまった。

「え、何故……?」

 そのうろたえようを見て、私は心持ち肩を落とす。

 どうやら劉備のことを嫌っているのは一人ではないらしい。

 

「先ほどの剣牙も全く同じ忠告をしていったのよ。だから言わんとしていることは分かる。話はそれだけ?」

「あ、えっと。脳みそお花畑は……」

「それは聞いた」

 うぐ、とのけぞり彼は続ける。

 

「じゃあ、人を殺す覚悟については……」

「アナタも同意見だということは気に留めておきましょう」

 出した忠告のことごとくが先ほどの忠告とかぶっていたため、直に剣牙(その2)は頭を抱え込んでしまった。

 

「くっそ、あの野郎……。他の忠告なんて思い浮かばねえぞ……」

「話がそれだけなら、私は大天幕に向かいたいのだけれども」

「ま、待った!」

 歩みを進めようとしたその瞬間、何か思いついたように彼は笑みを浮かべて私を呼び止めた。

 

「話を聞きましょう」

「劉備は……、どんな人間だって話せば分かると思っている節がある」

「性善説、ということかしら?」

 盧植という知恵者のもとで勉学に励んだ以上、儒学についてもそれなりに修めているはずであるから、孟子と荀子の教えを知っていること自体不思議ではない。

 彼は頷き、さらに続けた。

 

「そうだ。敵だって話し合えば分かり合えるというのが、奴の信条だよ」

「それは少し、楽観が過ぎるわね……」

 敵というものは常にこちらを出し抜こうとしている存在であると警戒しておかなければ、足元をすくわれかねない。

 もし劉備が敵とも分かり合いたいという甘い考えを持っているのならば、少し評価を下げる必要があるだろう。協定を結ぶ相手として、こちらの足を引っ張る可能性があるからだ。

 私の感触がよかったためか、彼は途端に饒舌になった。

 

「そうだ、楽観的なんだよ。奴は。くだらない考え方だと思わないか? この世界は理不尽がはびこるつまらない世界なんだ。それを――」

「――剣牙(その2)」

 私の声を聞き、彼はびくりと身体を震わせた。

 あるいは、私の覇気に当てられたのかもしれない。

 

「一つ忠告をしておきましょう」

「な、何だ?」

 動揺している彼に対し、私は滔々と語りかける。

「この曹孟徳は天に愛された人間よ。天は私を愛している。つまり天は私のためにあるといっても過言ではない……」

 だから、と私は胸元に手を置き続けた。

「この世界にあるものすべては私のためにあるものなのよ。それを"つまらない"などという資格はアナタにはない。私が"主役"で、アナタは"脇役"。アナタは、私のためにその武才を尽くしてくれればいいのよ」

「全部、お前の……?」

 剣牙(その2)は理解しがたいといった表情を浮かべていた。

 その理由は分からないでもない。何故なら、ある一面において"彼ら"と私はよく似ていたからである。

 それはこの世界に対する接し方――。傲岸不遜ともいうべき自己愛である。

 自己愛を持つ者同士が互いに向かい合った時、その力関係が対等であった場合は争いが起きることだろう。

 だが、彼と私は対等ではなかった。

 故に、こうして懐に置いて"飼っている"。

 そのことに気付き、分を弁えればよし。弁えなければ――。

 私の思考が剣呑な方向へと転じる前に、華倫が仲裁を買って出た。

 

「まあまあ、つっちー。話は分かったッスから、そろそろ炊事場に向かった方が良いッスよ。剣牙っちが腕をふるっているはずッスから、このままだと負けちゃうかもッス」

「アッ」

 思い出したかのように彼は声を上げると、

「すまん、孟徳。この話はまた今度で……」

「ええ、いってらっしゃい」

 脱兎の如く、この場を去る彼の後ろ姿を見て、華倫はほっと安堵の息を吐いた。

 

「……華琳姉ぇ、あれは言い過ぎッス」

「そう? 私は本心を語っただけなのだけれども」

「つっちーだって必死なんスよ。あたしたちの勢力で名を挙げるのに」

「華倫は本当に優しいわね」

 私がそう褒めると、華倫はばつが悪そうに顔をそむけた。

 

「ほっとけないだけッス。あの子たち、昔のあたしそっくりッスから……」

 言われて成る程と合点がいく。

 私という天才の従妹として生まれてしまった華倫は、幼い時分にはよく私に食ってかかったものであった。

 曹孟徳ではなく曹子孝を、自分をもっと見てほしい。私はここに存在しているのだ……、と。

 悲痛なまでの心の叫びが感じ取れたため、昔日の私は華倫という存在を扱いかねていた。

 彼女の態度が軟化したのは一体何時の頃であっただろうか。

 彼女の心にどのような変化があったのかは知る由もないが、今こうして彼女と向き合えることを私はとても嬉しく思う。

 

「それにしても、劉備という人間は随分と憎まれているのね」

「つっちーたちの知り合いの仇とかなんスかね?」

 華倫に言われて考えてみる。

 彼らのいう劉備は敵を敵とも思わず、誰とでも分かりあえるといった平和的な思考をしているはずであった。

 そんな彼女から直接的な被害を受けたというのは考えにくい。

 彼女の扇動によって暴走した民草から被害を受けたという線はどうだろうか?

 ……いや、取り寄せた情報を鑑みるに彼女が乱世の表舞台に影響力を及ぼすようになったのは、ごくごく最近のことである。

 考えれば考えるほどに、彼らが劉備を憎む原因が良く分からなくなっていった。

 

「ありえるとすれば……、先祖の代の怨恨かしら。劉姓ということは異民族の征伐に関わっていた可能性もあるでしょう。先祖が敵同士だったのではないかしら。あるいは、口から出まかせを言っているか……」

「ん、口から出まかせとは思いたくないッス。あの子たち、根はいい子たちばかりッスよ」

「それは私が選んだのだから当然ね」

 もし、私が人を選ばなかった場合、彼らのような異民族出身の客将は今以上に幕下を占めていたことだろう。

 曹家の門を叩いた者の中で、引き取らなかった連中の顔をふと思い出す。

 

「どういう基準で選んだんスか?」

「自身の牙を隠しているか、それとも見せているかの一点が大きかったわね」

 ん? と華倫が首を傾げたために説明を続ける。

 

「彼らのような異民族出身の連中には、自身をひたすら下げてみせようとしている者もいたのよ。これから仕えようとしている主に対し、偽りの自分を見せるなど、叛意があると言っているようなものでしょう?」

「それはまあ、確かに」

「恐らく、彼らの中には主を廃して成り上がる者も出てくるはずだわ。それが"この国の中"だけで済めば、まだ良いのだけれど……」

 まさしが私にもたらしてくれた視野が、警鐘をしきりに鳴らしていた。

 つまり、蛮夷の地で彼らが成り上がった場合、この国全体が危機に晒される可能性があるのだと……。

 私は前を向き、大天幕へと歩みを進めた。

 

「華倫。手紙を二通渡すから、陳留へ帰ったら遣いを出して頂戴」

「宛先はどこッスか?」

「一通はもちろん、まさしのところよ。そしてもう一通は、涼州刺史ね」

「え、涼州ッスか?」

 目を丸くする華倫に私は是と答える。

 

「……私の見立てが確かならば、羌族などの異民族が反乱をおこす可能性がある」

「ええっ!?」

「だから領内で怪しい動きをする者がいないか、それとなく注意を促そうというわけ。場合によっては協力を申し出てもいいかも知れないわね」

 一瞬、異民族の反乱を自身の覇道の一手とすることも考えたが、不確定要素が多すぎるためにすぐさま切り捨てた。

 敵を知り、己を知れば百戦危うからずとは孫子の言葉だが、私は異民族というものに対してまだ知識を蓄えていないのだ。

 警戒するに越したことはない。

「帰ったら、情報を集めなければならないわね」

 だが、その前にすべきは黄巾賊の処分である。

 劉備玄徳――。これほどまでに恨みを買う人物とは、一体どんな人間なのだろうか?

 好奇心がむくりともたげる。

 この瞬間、剣牙たちの要求を受け入れて劉備との会談を取り止める線はなくなった。

 私は、何よりも自分の審美眼を信頼しているのだ。

 




長くなったので、前後編に分けます。
次回、桃香ちゃんと華琳様の会談ッス。ついでに北郷君たちも出したいなー。

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