桃香ちゃんと愚連隊   作:ヘルシェイク三郎

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第十二回 曹孟徳、玄徳と出会う

 光和七年、九月の二日。鱗雲流れるも、晴れ。

 

 劉備たちとの会談の日がやってきた。

 会談の予定地は冀州の広宗だ。そこは我々の駐屯地から馬を走らせて一刻もしない近隣に位置していたため、私は太陽が南中してから悠々と現地へと出立することにした。

 愛用している黒馬に跨り、選りすぐった供回りと共に冀州の平野部を駆けていく。

 緩やかに流れていく景色を馬上から眺めていると、轡を並べていた秋蘭が空を見上げて口を開いた。

 

「……この調子なら、予定時間の半刻前には目的地にたどり着くはずです」

「そう、丁度良い塩梅ね。あまりに遅ければ愚鈍と思われ、あまり早く着きすぎても足元を見られるだけだから」

 会談の要点は、劉備からどれだけの好条件を引き出せるかにかかっていた。

 劉備と公孫サンの協定は、彼女らの関係を鑑みれば既に決定されたものと考えて良いだろう。仮に黄巾賊鎮圧の功を中央に認めさせるだけならば、公孫サンの後援だけで十二分に事が足りる。

 しかし、劉備が更なる立身出世を望むならば――?

 無血で騒乱を未然に防ぐような人物が、果たして"軍功によって多少の官職を得る程度"で満足するだろうか?

 そんなことはありえないと、私は断言する。

 劉備は盧植の私塾で学んでいたという。ならば、今の今までに彼女が官職を得る機会など、いくらでもあったはずだ。

 それを、数多ある誘いを蹴り続け、今になってようやく世に名を轟かせようというのであるから、彼女の志は、野望はおよそ常人の図れるものではあるまい。

 今回の功績を以て、何らかの企てを実現させようとしていることは、容易に想像がついた。

 

 ――だからこそ、我々にも付け入る隙がある。

 立身出世の足がかりとして、私の後援を得られることはまさしく千金に値するといっても過言ではない。

 我々の価値を彼女らに強く印象づけさせ、なおかつ相手から協定を申し出るようにし向けさせる。

 こちらから前向きな姿勢を見せることは得策でない。こちらで協定に前向きなのはあくまでも秋蘭一人であり、それ以外は中立か否定的だという姿勢を取るべきだ。

 ゆえに今回の供回りには秋蘭に加えて私の方針に忠実な春蘭や華倫、そして劉備を快く思っていない剣牙たちを敢えて用意した。

 

 ……ちらりと供回りの面々へと目をやる。

 秋蘭は会談においてこちら側の総責任者であるためか、先ほどからしきりに陽の傾き具合を気にしていた。

 私の期待に添えるよう、万全の進行を心がけているようだ。昨日たっぷり眠れたせいか、目の隈が若干とれていることに少しほっとさせられる。

 右翼と左翼に陣取っていた春蘭や華倫は武官として周囲に気を配りながらも、久しぶりになる私との遠出に何処か楽しげな表情を浮かべていた。

 そして後続の剣牙たちはというと、最近彼らの間で流行っているのか、腕組みをしながら手綱を持たずに馬を走らせている。

 ……馬上で得物を振るうための鍛錬か何かであろうか?

 いや、その内の一人などはまるで仰向けに寝そべるようにして、不遜な態度をとりつつ、ものすごく器用な体勢で馬を駆っている。恐らくは彼らの民族的な騎馬技術の一つなのだろう。北方、西域の遊牧民は、用を足し、眠ることすら馬上で済ませるという話であるから、彼らも遊牧を生業としていたのかもしれぬ。

 

 こうして俯瞰すると、やはり秋蘭の気の張りようが心配であった。あまりに強い緊張は、思わぬ失敗を招いてしまうものだ。

 ゆえに、私は秋蘭に声をかけた。

 

「秋蘭。会談の際に警戒すべき相手をおさらいしましょうか」

「は――」

 彼女はしばし考え込み、まず第一に私も聞き知っていた人物の名を挙げた。

 

「恐らく、劉備勢の交渉担当としては荀文若が出てくるはずです」

「都で王佐の才とまで謳われた秀才ね。何進のところを辞去したとは聞いていたけれど、まさか無名である劉備の幕下に収まるとは……、劉備がそれほどの人物ということかしら?」

「おい、待った」

 私の呟きを聞き咎めた剣牙(1なのか2なのか、それとも狂夜なのか、はたまたそれ以外なのかは一見しただけでは分からない)が、仰向けに寝そべり馬を駆りながら口を挟んでくる。やはり器用だ。手元に置いて飼うべきと考えた私の目は確かであった。

 

「何で荀イクが劉備の所にいる」

 その問いかけに、秋蘭は眉根を寄せて答えた。

「華琳様の仰るように、都の職を辞したからだが」

「そうじゃなくて――、何で荀イクが劉備を選ぶんだ」

 そう返す剣牙(仮)は困惑と苛立ちが入り交じったかのような、複雑な表情を浮かべていた。

 例えるならば、まるで思い通りに事が運ばなかった子供の表情とでもいうべきか。

 彼の中では、荀文若が劉備に仕えるということは余程ありえないことであったのだろう。

「もしや……、"歴史の修正力"って奴か――」

「ちげーだろ」

「馬鹿野郎、修正力なら荀イクは曹操陣営に来てるわ!」

「フン。草場の陰に隠れて、中学校からやり直せ」

 いきなりの罵詈雑言が(仮)に向かって降り注ぐ。

「す、少し間違っただけなのに、そこまで言うなよ……」

 まったくもっていつものやりとりである。彼らはとにかく仲が悪い。

 しかも、皆が精神面において打たれ弱くもあるため、こうして他者の悪意を受けた者は往々にして不貞腐れてしまう。

 私はため息をつき、寝そべり乗りをやめてしょぼくれている(仮)に問いかけることにした。

 

「荀文若を知っているのかしら」

 私の問いに、彼は自信なさげに顔を持ち上げ頷く。

「……一方的には、な。だが、俺の予想では孟徳、アンタに仕えるはずだったんだ」

「お前だけの予想じゃねーだろ」

「馬鹿野郎、ドヤ顔で言うな。何かいらつく」

「フン。いたずらになりにけりて、現代社会でやり直せ」

 再び罵詈雑言の嵐が巻き起こり、彼の心が折れかけたため、私は手を挙げて罵声を制する。そして、一言「成る程?」と呟いた。

 

 剣牙たちはこのように、皆の前で未来予知の真似事をすることがある。正直、一割も的中すればいいくらいの的中率ではあるのだが、時折はっとさせられるような推論を組み立ててくるために侮れない。

 面白いのは、彼ら異民族の中の一人が未来予知をすると他の連中が突然不愉快になることであった。

 単に相手のやる事なす事ことごとくが気に入らないだけなのか、それともある種の競争意識でも働いているのか。

 いずれにしても、足の引っ張り合いや殺し合いでもはじめぬ限り、彼らが競い合うことは私にとって歓迎すべきことであった。

 競争の果てに、彼らの才を錬磨してくれればいいのだ。錬磨された彼らの才は、すなわち私の力になる。

 そして競争意識が己の糧となることは、秋蘭たちにとっても同じ事であった。

 

「……文若が何を思って劉備に仕えることになったかなど、当人でない限り分かるわけがないだろう。ただ、劉備にはそれがし――、呉子遠も仕えているからな。都では上司部下の関係であった彼女らのことだ。先んじて幕下に収まった呉子遠を通じて劉備のところに身を寄せた可能性はあるかもしれない」

「呉……? 知らん名だ。誰だそいつは」

 彼らの疑問には、右翼で耳を傾けていた春蘭が声を張る。

 

「それがしはそれがしだな! 見れば分かる通りの変な奴だぞ。いつも『あいええ』と死にそうな顔をして仕事をしていて、仕事をしていない時は何かしら妙なことを考えている。こっそり見てみれば、大抵一人で笑ったり『ふぁっ』とか『ひえっ』とか奇声を上げては怯えたりしている、まあとても面白い奴だ」

「あれ、もしかして、その鳴き声……。"じむかすたむ"さんッスか?」

 聞き知った名前であったのか、左翼の華倫も馬首を寄せてきた。

 

「何だ、華倫も知っていたのか」

「まさしっちの知り合いッスよね。会ったことはないッスけど、栄華の天敵って聞いてるッス」

「待って。何故、そこで栄華の名前が出てくるのかしら?」

 思わぬ名が挙がったため、私は解せないといった風に問いかけた。

 曹子廉こと栄華は私の従妹だ。物心着いた頃から私の部曲として仕えていたため、他勢力の官人とあまり接点がないはずなのだが……。

 

「何進様のところと一緒に仕事した時に酷い目にあったらしいッス」

「酷い目、ですって?」

 仕事を押しつけられたといった類の話であろうか。

 栄華も華倫と同様、私にとっては可愛い従妹だ。彼女に迷惑をかけたというのなら、それなりの態度で接するべきだろう。

 ぽろりと言葉を漏らした華倫であったが、私の表情から何かを察したのか、慌てて手を振りながら補足してきた。

 

「逆恨みみたいなもんスよ。直接被害を受けたとかそういうんじゃないッス」

「……もしかして、"毒入り走狗事件"か?」

「知っているの、秋蘭?」

 秋蘭は先ほどまで張りつめていた気を緩め、苦笑いを浮かべては私に言った。

 

「いえ、大したことではないのです。単に働かせすぎの人間と、働きすぎの人間がいたために発生したいざこざというべきか――」

 そういって語られた内容は、この私を呆れさせるに十分すぎるものであった。

 

 曰く、呉子遠という男はおよそ有能とは思えぬみてくれをしていながら、武官としても文官としてもそれなり以上に働ける能力を有しており、どんな仕事でも与えればそれなりにこなしてみせることから、現場では便利屋としてそれなりに重宝されていたらしい。

 しかし、そのままただの便利屋として扱われているだけならば良かったのだが、別の職場への転任と、朝廷で下されたとある布告が彼の扱いを面倒なものへと変えてしまったそうだ。

 

「それは……、男性の宮中入り禁止令の事かしら?」

「はい」

 秋蘭は頷く。

 男性の宮中入り禁止令とは、昨今続いていた天変地異を『男性が政治の中枢に関わっているから起こったのだ』と判断したために下された悪法の一つであった。この布告によって、男性の立身出世は事実上ほぼ閉ざされたと言っていい。例外として男としてのアレを去勢すれば宮中入りも可能なのだそうだが、あまりにもおぞましい所行のため、今のところそこまでして立身出世を望む者はついぞ聞かない。

 

「あの法律が制定されたために、女は働かずともある程度の出世が約束されるようになりました。ただでさえ女尊の風潮がある当世に、男を小間使いとし女が成り上がる土壌ができあがったわけです」

「ふむ」

 おぼろげながら話が見えてきた。

 

「つまり、新たな職場の上司が今までより多くの仕事を呉子遠に投げるようになり、仕事が回らなくなったということなのね?」

 そうして、機能不全に陥った職場と栄華が仕事を共にしたために迷惑を被ったと。成る程、この流れならば呉子遠に罪はない。敢えて言うならば、理不尽に抵抗をしなかった気概の無さを責めるべきか。

 だが、秋蘭は乾いたように笑うと更に続けた。

 

「いえ……。上司だけでなく、同僚までもが仕事を丸投げした結果、"それでも職場がそれなりに機能してしまった"ことが問題なのです」

「……何ですって?」

 秋蘭がため息をつき、明後日の方へと目をやる。

 

「あいつは、潰れかけた屋台骨を支える才にかけては並外れたものを持っていまして……。一時は"遊んでいるだけで出世のできる職場"が話題になったものです」

「それで、どうなったの?」

「一、二年は問題なく機能したのですが、当時の上司が昇進していなくなった後、新たに入ってきた人間が子遠を追い出しました。『自分の職場に男は必要ない』と」

 私は言葉を失った。

 たった一人で一つの職場を支えていた人間を切り捨ててしまえば、一体後に何が残るのか。

 

「当然ながら、仕事の要領を知っている者がいなくなった職場は崩壊しました。……栄華が仕事を共にしたのは、恐らくこの後でしょうね」

「あの時の栄華、まじおこだったッスよ。『何で男に頭を下げて仕事を教わりにいかなければならないのでしょうか? しかも変な猫耳にやたら冷えた目で見られるし……』って。何進様との力関係から、栄華が泥をかぶらなきゃならなかったらしいッス」

 栄華は占いを真に受けるほど馬鹿ではないが、それでも私の影響を多大に受けた結果、男を下げて女を持ち上げるきらいがある。

 彼女の不満顔が目に浮かぶようであった。

 

「そういうわけで、『よく走る狗を煮たら毒入りだった』ことから"煮ても食えない走狗"なるあだ名が彼には付いたのです」

 走狗とは漢の高祖に仕えた韓信を指す言葉である。韓信は用済みになった結果、首を切られてしまったが、子遠の場合はクビを切られてしまったわけだ。

 私はようやく得心がいき、頷いた。

 

「成る程、呉子遠という人間と栄華の関係については良く分かったわ。それにしても、ずいぶんその男について詳しいのね?」

「いえ、私と姉者は以前より子遠と付き合いがありまして……。彼が転任する際にも推薦状を書くなど、色々と便宜を図ったのですよ」

「自分の部下にと口説かなかったのかしら?」

 話を聞く限りにおいて、呉子遠という人物は相当に有能だと思われる。それならば手元に置いて損はないはずなのだが……。

 秋蘭は心なしか肩を落とし、言いにくそうにして答えた。

 

「当時のうちは女所帯だったので、その……」

 つまるところ、周囲に見目麗しい女ばかりを侍らせていた、当時の私に配慮したわけであった。

 私は嘆息し、言う。

「そういったことは、相談してくれても良かったのよ?」

「それはその……、申し訳ありません」

 頭を下げる秋蘭を宥めつつ、この件については彼女に咎はないなと自身の形振りを省みる。

 確かに数年前……、まさしと出会う前の自分は朝廷の出した法律ほど極端な思想を抱いていたわけではなかったが、それでも男性に対してある程度蔑んだ感情を持っていたことは否めなかった。

 まさしという強烈な個性が、私の視野を広めてくれたのだ。男性にも取り上げるべき人物はいるのだと。

 ならば、彼女を責めるのは筋が違う。責めるべきは未熟であった、自身の考えである。

 まあ、呉子遠という人物が本当に得難い才を持っているというのなら、一度口説いてみてもいいだろう。何でもそれなりにこなすそうだから、戦働き以外にムラっ気のある春蘭の副官に添えてみるのも面白そうだ。

 

「ともかく、劉備陣営に二人の侮れない人物がいることは理解できたわ。他に気になる者はいる?」

「私が見た限り、彼女の陣営にはあの趙子龍がいたように思われますが……、あの者は今、公孫サンの将であったはずです。単なる寄騎であった可能性もあります」

「へえ、子龍が」

 子龍は一時期、私の幕下に身を寄せていたことがある。卓越した武才を持つ逸材であったが、生憎「どうにも私はここの空気に馴染めませぬ」との言葉を残し、辞去してより音沙汰がなかった。

 彼女は一所に長くいる性分ではないから、公孫サンのところから劉備のところへと主を変えた可能性は十分にある。

 そんなことを考えていると、春蘭が声を張り上げた。

 

「華琳様、目的地が見えて参りました!」

 私はその声に思考を止め、顔を上げ、目的地へと目をやる。

 ――そして困惑した。

 目の前にはやけに整備の整った道が続いており、その先には会談の予定地である天竺由来の仏教寺院が建っている。

 何の変哲もない、小綺麗な廃寺だ。

 そう……、目の前の廃寺はあまりにも小綺麗に過ぎた。

 

「……どういうことかしら?」

 広宗が会談の予定地に選ばれたのは黄巾賊の根城の一つであったからだ。当然、事前の情報ではあの仏教寺院も賊の略奪に遭い、散々に荒廃していたはずであった。

 だというのに、寺院は比較的まともな瓦が屋根に敷き詰められており、土壁も真新しいものに塗り替えられている。

 劉備が我々との会談のためにわざわざ整備したのであろうか……?

 その疑問は寺院へと近づくにつれ、やがて氷解することになる。

 周辺の僧坊を片づけている兵たちの姿がちらほらと見えるようになり、山門には達筆で作られた垂れ幕がかかっていた。

 

「何スか、これ? "おいでませ、討夷将軍ご一行様"……?」

 私の思考は一瞬真っ白に塗りつぶされ、すぐに色を失って秋蘭に問いかけた。

 

「……この後、中央討伐軍は広宗に布陣する予定があるの?」

「い、いえ。そもそも官軍を編成する必要はなくなりましたから、軍が差配される予定はなかったはずです」

 秋蘭も困惑を隠せないという顔をしている。私はしばし考え込み、歯噛みして質問を変えた。

 

「……討夷将軍には宰相の盧植が任じられていたわね?」

「は、はい」

「その任はもう解かれたの?」

 秋蘭が「あっ」と声を挙げる。

 盧植という人物が不正や贔屓を嫌うことは都に広く知れ渡っていたため、すっかり念頭になかったが、そもそも今回の騒動で動きを見せた劉備も公孫サンも、盧植の門下生であるという共通点を持っていた。

 いくら清廉潔白な人となりをしていたとしても、誰だって弟子は可愛いと考えよう。その弟子たちが活躍したとあらば、功を労いに将軍自らがこの地に駆けつけてもおかしくはない。そして彼女は騒乱を鎮圧するために任命された将軍なのだから、現地入りして実情を調査するという格好の名分を確かに持っているのだ。

 ……ただ、中央の将軍が自主的に動くには迅速が過ぎる節があった。

 官というものは本来的に腰が重いものなのだ。それは比較的柔軟な軍政の分野においても変わらない。

 となれば何者かが盧植を呼び寄せたということだろう。何らかの政治的意図をもって。

 

「……文若の仕業かしら?」

 一つ、計算が狂うことになった。

 会談の場に官軍の、それも明らかな劉備派閥が出席することになるのならば、こちらの立ち回り方も変わってこよう。

 後手に次ぐ後手に、私は嘆息を禁じ得なかった。

 ……黄巾賊の騒乱という立身出世の足がかりが、恐るべき速度で鎮圧されて、さらには何者かの道具にされようとしている。

 私が出遅れたのは、情報が不足していたためか?

 それとも、身分・環境の差か……? いや、慢心していたのかもしれない。この私を先んじるものが現れるはずがない、と。

 いずれにせよ、この曹孟徳を出し抜いた人物が並外れた才覚を持っていることだけは、間違いがないであろう。

 手元に置いて、飼っておきたいという欲求が生まれる。

 

「気を引き締めなくてはね」

 馬より下りて、現在修繕真っ最中の僧坊と道を見回しながら、歩くことにした。

 

「あっ。そこ、まっすぐで。いっせーの、せっ!」

 修繕を行っていた兵たちの装備は、上等なものから粗末なものまでばらつきが見られる。

 恐らくは義勇兵。だが、彼らの規律の整い方からは何処となく官軍の風が感じられた。

 

「劉備の兵では……、ありませんね」

 解せないといったように秋蘭が呟いた。

「分かるの?」

「ええ、劉備の兵はもっと奔放で野卑ているというか……、有り体に言えば柄が悪いのです」

「へえ」

 となれば、あの兵たちは公孫の兵となるのだろうか。東夷北狄(とういほくてき)を相手に馬を駆るだけの女というわけではないらしい。

 

「よぉーし、紳々(しんしん)さん。竜々(ろんろん)さん、良い仕事ですよ!」

「兄ちゃん止せやい、照れるやないか」

「……おいらはボイラーって言ってみてくれません?」

「そらまた何で?」

「いえ、何でも。もう少ししたらいったん休憩しましょう!」

 私は「へえ」と息を漏らした。

 先ほどから彼らは中々に手際の良い仕事をこなしている。

 まるで大工か何かのようだ。兵というよりは、兵の格好をした職人集団とでもいった方がしっくり来る。

 そして、集団の統率をしている青年は、職人の棟梁さながらに堂の入った指揮を見せていた。

 あれは、隊伍に分けた兵卒に細やかな作業を分担させているのだろうか。修繕の現場には既に組み立てられた建材が横になっており、まるで流れるような早さで僧坊が往事の形を取り戻さんとしていた。

 

「ん?」

 と、ここで青年が見物している我々の存在に気がついた。

「あー。もしかして、曹操さんたちでしょうか」

「ええ。精が出るようね」

 早足でこちらに駆け寄ってくる青年に対し、私は微笑みかける。

 中肉中背。端正とはいえないまでも、そこまで悪い顔ではない。印象に残ったのは、その瞳であった。この世の善性を心の底から信じていると言わんばかりの、輝きを放っている。

 

「ええと。ようこそ、いらっしゃいました」

 青年は私たちを見回し、納得したように頷いた後、深々と頭を下げた。

 恐らくは相当な名家の出なのだろう。作法は完璧といえなかったが、それでも彼の所作のひとつひとつから、身に纏う粗末な装備では隠しきれないほどの品の良さが滲みだしていた。

 

「アナタたちは、公孫伯桂の兵かしら? 随分と準備が良いのね」

 私の問いに、彼は頬をポリポリと掻いて苦笑いを浮かべる。

 

「ああ、いや。もし寺院の整備のことを言っているんでしたら、これは俺たちの勝手にやってることなんです」

「……何ですって?」

 青年はまるで悪戯が見つかった子供のようにそっぽを向き、

「仲間の朱里と雛里が都の伝手を使ってくれまして、都の将軍様に知らせてくれたんです。だって、討伐軍ができあがる前に劉備さんが動き出してしまいましたから、負けるわけには行かないなあと思って。上手く行けば中央の将軍様にも目をかけてもらえますし、何というか……、懐で草履を暖める的な?」

 私は目を丸くした。

 彼がただの兵ではない、抜け目なく立身出世を志す一人である以前に、到底聞き逃せるものではない一言を漏らしたからだ。

 ――"懐で草履を暖める"と彼は今言った。

 私は恐る恐る問いかける。

 

「一つ、質問良いかしら?」

「ええ、なんなりと」

 私はごくりと唾を飲み込み、続ける。

 

「――山本勘助は存在しなかった」

「いや、それには諸説があって……、ってこれすっごいデジャブを感じるんだけど!」

 ……"でじゃぶ"! これは紛うことなきまさし語である。目の前の青年をまじまじと見た。

 さらりとしていて焦げ茶がかった髪と同色の瞳。成る程、こちらの方がずっと上等な見てくれをしているが、私の知る彼の面影がおぼろげに見える。

 同郷の者か? いや、いずれにしても……。

 

「アナタもまさしを知る者なのね――」

「は、まさ――?」

「あっ、これ風評被害のパターン見えてきたよ!」

 秋蘭の声から感情が失われるのと同時に、青年が頭を抱えて叫びだした。

 

「何を狼狽しているのか分からないけれども、私はむしろ喜んでいるのよ?」

 例えば、と私は続ける。

「先程の言葉……。古代ニッポンの宰相、ヒデヨシの故事ね? 至弱より至強へと成り上がった英傑の一人の」

 私としてはノブナガの革新的な生きざまを好むところであるが、ヒデヨシの如才無さも愛おしかった。ただし、イエヤスは駄目だ。あれからは輝きを感じない。ミカタガハラの戦いなどは失笑ものであった。もし仮に会うことができたのならば、左氏伝を百回読み直せと言ってやりたい。

 青年は私の言葉を聞き、何故かがっくりと肩を落としていた。

 

「……何で、中国の英雄に日本の戦国ネタが通じてるんだろう。ほんとこれ奇妙な感覚だ……」

「あら、英傑の話は国や時代を跨いでも評価されるものよ? 無論、英傑の価値を知る者でなければ、その真価は分からないのでしょうけれど」

 例えば身内を見回してみても、思慮深いはずの秋蘭ですら苦虫を噛み潰したような顔をするばかりで、反応が悪い。春蘭や華倫に至っては良く分からないといった顔をしている。外つ国の知識に価値を見出すには、ある水準以上の開明的な視野が求められるのだ。

 意外なのは、剣牙たちであった。

 

「お前は……」

 かっと目を見開き、穴が開きそうなくらいに青年を見つめている。その反応に、秋蘭がぞんざいな調子で言葉をかけた。

「どうした。再会を喜ばんのか? ニッポン出身の、お前たちの仲間だろう」

「え、ニッポン!?」

 青年が飛び上がった。

 

「髪や目の色で分からなかったけど……、皆さんも日本人なんですかっ?」

 わっと剣牙たちに青年は駆け寄り、嬉しさがにじみ出した様子で一人一人の手を取ろうとする。先程心が折れかけていた一人は、彼の勢いに負けて「お、おう」と目を背けながらも手を預けた。だが、続く二人目は――。

 

「触んな、ハーレム野郎」

 忌々しそうに彼の手を払いのける。

 私は驚いた。今までに彼らがここまで敵意を露骨に表した相手は、劉備以外にいなかったからだ。もしや、目の前の青年も何らかの因縁がある相手なのだろうか。

 

「お、おい、それは流石に無礼じゃないか?」

 春蘭が目を白黒させて二人目の行状を咎めると、彼は吐き捨てるようにして青年を睨みつけた。 

 

「北郷一刀。天の御遣いと呼ばれて義勇軍を率いている奴だな」

「え、何で俺の名前を……? 北郷一刀は確かに俺のことだけど」

 二人の緊迫したやりとりの裏で、他の剣牙たちがこそこそと話し合っている。

「てめー、何でさっき払いのけなかったんだよ」

「いや、俺の前世ってああいうのに弱くて。こう、ヒエラルキー的に……」

「何が、スクールカーストだ。下克上だバカヤロー!」

「まさしって良く聞いてたが、日本人だったんだな……。何てダサい名前なんだ」

 何の話か分からなかったが、彼らが何らかの決意を固めていることだけは良く分かった。まさしという名の何処が格好悪いのかについては理解しかねるところがあったが……、それよりも緊迫した二人である。

 

「で、天の御遣いなんだな?」

「はあ、周りからそう呼ばれていますけど」

 二人目は青年の、北郷の言葉に満足した様子で笑みを浮かべると、私に声をかけてきた。

 

「こいつは今、"天"を騙った。今すぐ首を斬るべきだと思うが、どう思う?」

「ん、何故?」

 私が首を傾げると、彼はその場で器用につんのめって勢いを失う。

「え。いや、だって"天"だぞ? 帝だけが"天"を名乗れるんじゃないのか」

「それは帝の……、"天子"のことを言っているのかしら。今のは巷で良く言われる"天使"の話ではなかったの?」

 私の反応が期待と違ったものであったのか、彼は口元に手を当ててぶつぶつと独り言を言い始めてしまった。「原作では……」とは一体何のことだろう。

 とにかく、家臣が非礼を働いたことは私の過失でもある。私は北郷に謝ることにした。

 

「どうやら、部下が礼を失したようね」

「いや、それはまあ良いんですけど……。それよりハーレムってどういうことですか!」

 口から泡を飛ばして抗議する北郷の顔には、憤懣やるかたないといった感情が露わになっていた。

 

「"はあれむ"とは確か、まさしの言葉で異性を選り取りに侍らすことだと理解していたけれども、アナタは"はあれむ"を志す者なの?」

 それならば私と同じである。利害が対立しない限りは温かい目で見守ってやることもやぶさかではなかった。

 だが、彼は両手で大きく×印を作り、断固としてこれを否定する。

「断じて! そんな爛れたことやってませんよ。だって俺、まだ未成年ですよっ? そりゃあ、興味がないとは言いませんけど……」

 段々と小さくなる北郷の言葉を何処で聞きつけたのかは分からないが、突如横合いから柔らかで可憐な、それでいて肉食の獣を思わせる声が挟まれる。

 

「ふむふむ……。ご主人様は爛れた行為に興味がおありと。そのお心、しかと理解いたしました。今夜はそれはもうぐっちょぐっちょと燃え上がりましょう?」

 といって、横合いから北郷に抱きついてきたのは近頃都で流行っている"メイド服"を身に纏った少女であった。中々に端正でふくよかな体つきをしており、私の審美眼を持ってしても「合格」と唸らざるをえない容姿をしている。

 

「ええっ、美花何処にいたんだ」

「ずっとお側に。寝所であろうと、厠であろうと、何時もアナタのお側に仕えるのがメイドたるものの務めです♪」

「怖いよ!」

 可憐ではあるが、まるで蛇のように締め上げるメイドから北郷は顔を赤くして必死に逃れようとしていた。その様子に私は疑問を投げかける。

 

「そこまで愛されているのならば、閨で相手をしてあげればいいじゃないの」

 甲斐性、という言葉がある。北郷が今求められているのは、まさにそれであった。据え膳を何故、彼は食べないのであろうか?

 私の援護にメイドはぱあっと顔を明るくする。

 

「周囲のご理解も頂けたことですし、二人を阻むものはもうありませんね? それとも……、ご主人様は私がお嫌いですか?」

 しゅんと、寂しげな顔を見せるメイド。女である私には良く分かったが、あれは一種の駆け引きであった。だが、男である北郷には分からなかったようだ。よもや彼女を悲しませてしまったのかと、彼は途端に慌て出す。

 

「き、嫌いな訳じゃないよ。ただ……」

「ただ?」

「何度も、言うけど! 俺は未成年なの! 残念だけど一刀さんは全年齢版なのでした! ちゃんと甲斐性を持てるようになるまで、そういういい加減なのは絶対に駄目! 祖父ちゃんとの約束!」

 メイドに抱きつかれながら、毅然とした態度をとる北郷。物腰と同様、随分身持ちが堅いものだと私は内心呆れてしまった。私ならばさっさと愛人の一人にしているところだ。

 北郷の言葉を受けて、メイドはきょとんと硬直したかと思うと、

「……つまり甲斐性を持てれば良いと?」

「う、まあ。そうだけど……」

「そして、残念?」

「それは言葉の綾で……」

「つまり相思相愛ですね」

「何で!?」

 再び攻勢が開始される。

 

「うわああ……」

 まるで自身の匂いを移さんとするばかりに、くんずほぐれつとメイドの柔らかな肢体が北郷に擦りつけられている様をみていると、こちらも心が高ぶってくる。……今夜は久方ぶりに数人を同時に相手することにしよう。

「何で美花はこんなに肉食系なんだ……」

「私ですから♪」

 と幸せそうに顔を蕩けさせているメイド。これもまあ愛の形なのだろうと私なりに納得していると、耳元でギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリと大樹に鋸をかけているかのような音が鳴る。

 剣牙たちの歯ぎしりであった。

 

「あの野郎……、"オリキャラ"まで魔の手にかけやがって」

「てか、あれはやばいな。前かがみになっちまう。俺、立ってないよな?」

「いちいち見せんな! 小汚い!」

 常日頃仲の悪い彼らであったが、どうやら北郷を敵と断じる過程において急速に仲を深めつつあるようだ。

 それはめでたいことであったが、そもそも彼らは皆天が与えたもうた美貌を持っているというのに、何故こうも持たざる者の僻みにも似た感情を抱いているのであろうか。普通に口説けば、いくらでも女性を得られそうなものを。

 しまいには、親の仇でも見るようなまなざしを北郷に向けて、ただ一心に「種馬野郎」と輪唱しはじめた。

 

「ちょっとやめて! その輪唱マジ止めて!」

「うるせえ、種馬。去勢しろ」

「風評被害にも程があるんですけど!? ――って」

「きゃっ」

 足までメイドが絡ませていたことが災いしてか、剣牙たちに抗議をしようとした北郷は体勢を崩して倒れこんでしまう。

 倒れる瞬間、自分が下敷きにならんとメイドを抱きしめる様は中々評価に値する行動ではあった。

 が、それがかえっていけない。

 

「ご主人様……」

 恋は盲目というべきか、身を呈して助けてくれた想い人に惚れ直したというべきか、メイドは北郷に被さるようにして、人目も気にせずに愛を語り始めてしまう。

 ……流石にこれ以上は閨でやるべきであろう。

 私が制止の声をかけようとしたところで、凛としていながらも真冬を思わせる女性の声が僧坊の影からかけられた。

 

「……お仕事に取り組んでおられるかと思えば、何をなさっておられるのですか。御主人様……?」

 武と美を極限まで突き詰めると、こういう形として現出するのだと納得できる存在が、そこにいた。

 引き締まりつつも女性らしさを損なっていない肢体。意志の強そうな瞳、真っ直ぐと乱れのない黒髪。

 彼女は理想だ。

 武の道をとった女性があるべき理想の体現である。

 恐らくは備える気質も高潔に違いあるまい。あれが高潔でないなど、断じて許されることではない。

 呆然とする私の傍へ、彼女が近づいてくる。否、北郷のもとへ近づいてきたという方が正しかろう。今はそれでも構わない。

 

「あ、愛紗……。これは、その」

 むすっとしたまま彼女は北郷を見下ろすと、そのままメイドへと目を向ける。

「美花。お仕事中に御主人様の邪魔をするなど、どういう了見だ」

「ごめんなさい。昂ぶってしまいまして」

 とメイドは驚くほどの変わり身の早さでむくりとその場に立ち上がると、北郷へと手を差し伸ばす。

「さ、ご主人様?」

「あ、悪い。サンキュな」

 黒髪の彼女の機嫌が更に降下していった。

 見れば見るほど彼女らの間には、いわゆる三角関係が展開されているのであろうことが理解できる。

 つまり、それは"心の隙"だ。

 

 私は無我夢中で彼女に話しかけた。

「アナタ、名前は?」

「む、貴女方は?」

 まなざしを、声をかけられただけだというのに小躍りしたいくらいに舞い上がってしまう自身の心に、私は戸惑いを隠せなかった。

 これではまるで、生娘のようではないか。

 

「私は、曹孟徳。今は河南で県令をしているわ」

「御役人様でしたか。それは御無礼を。私は関雲長と申します」

 彼女の名前を頭に刻みつけ、私はひっしと彼女の目を見てこう言った。

 

「単刀直入に言うわ。関雲長。私のモノにおなりなさい」

「は?」

「華琳様!?」

 雲長以外の、周囲から驚きの声が上がる。

 雲長はというものの、明らかに迷惑そうな表情をしていた。それはそうだ。私の見た限りにおいて、彼女は北郷に懸想しているのだから、要らぬ誤解を受けたくはなかろう。無理筋の要求であった。しかし。

 身持ちの固い北郷と恋愛巧者であろうメイドを交えた三角関係が展開されているというのならば、話は別であった。

 寂しさを紛らわせるために、心の迷いはいくらでも生じよう。

 その隙に乗じる。一度閨に招き入れてしまえば、心の底から屈服させることなどたやすい。

 私は、私の理想とでもいえる彼女を手に入れるために、形振りをかまうつもりはなかった。

 その攻勢を、北郷が遮る。

 

「あ、あの!」

「……何かしら?」

 目標を決めた以上、いくらまさしを知る者だとしても彼は倒すべき敵であった。

 私が冷たく睨みつけると、彼は少ししり込みしながらも私と向き合う。

 

「夏侯惇さんや、夏侯淵さんは曹操さんにとって、どういう存在ですか?」

 思わぬ問いが返ってきたことに、私はおやっと目を見開く。

 彼は、春蘭たちを何処で知ったのであろうか?

 私はどうやら嫉妬を覗かせ始めた彼女らへと目をやり、

「私にとっては何物にも代えがたい、身体の一部のような存在よ」

 と正直な気持ちを打ち明けた。

 例え、目の前の雲長に惹かれているとしても、春蘭たちは春蘭たちで私にとっては寵愛を与えるべき大事なものたちである。何があっても手放すつもりなどなかった。

 結果として、若干嫉妬の和らいだ気配を周囲より感じたが、それにも拘らず私は戦慄することになる。

 周囲の、北郷を見る目が明らかに変わったからだ。

 

「俺にとっての愛紗も同じです。失いたくない、誰と替えることもできない、大事な仲間なんです! だから……」

「御主人様……」

 この場合、熱っぽい目で頭を下げる北郷を見ていた雲長は問題ではない。

 "明らかに北郷に対して警戒を緩めてしまった"春蘭や秋蘭、そして華倫の方が問題であった。

「華琳姉ぇ、あいつ良い奴っぽいッスね?」

 と耳打ちをしてくる華倫の眼は、面白いものを見つけたと言う風に輝いている。

 私は確信した。

 目の前のこの男は、傍らにいる春蘭や秋蘭が何者であるかを知って、今の言葉を吐いたのだ。

 雲長の心を繋ぎ止めるための世辞という訳ではないだろう。

 本心から雲長を大事に思っており……、それにも拘らずこの男は今……、私から春蘭たちを"寝取ろうとした"。

 意識してか、無意識の内かは分からないが、この男がやったことはつまるところそういうことなのである。

 彼の在り方に、私はニッポンのヒデヨシを彷彿した。

 "人たらし"なる才覚があるとまさしは言っていたが、目の前のこの男が持つものがまさにそれだ。

 先ほどの職人たちとのやり取りを見るに、きっと老若男女を引き付ける魅力を持っているのがこの北郷という男なのである。

 警戒せねばなるまい。

 下手をすると、彼は私に並び立つほどの英傑にまで成り上がる可能性がある。

 草履取りから一国の宰相にまで成り上がったヒデヨシは、国中の美女を侍らしたという。油断をしていれば足元をすくわれ、この私ですら彼の愛人程度に成り下がりかねない。

 ……いや? その場合、気兼ねなく雲長を交えた複数人でまぐわうことができるのでは……?

 種馬扱いを嫌がる彼に種馬としての在りようを教え込めば、自然と雲長の貞操観念をほどいていくことも――。

 

「曹操さん?」

「……何でもないわ」

 思考と野望が横道にそれかけたことを自覚した私は、髪をかき上げ、何でもないという風に取り繕った。

 流石に私の思い描く野望を、一時の色恋にかまけて投げ出すと言うのはありえない。そういうものは、万が一に夢破れたときにでも考えればいいのだ。

 

「ところで、何か用事があったのではないの? 雲長」

「ああ、そうでした。討夷将軍様が御主人様をお呼びです。そろそろ、玄徳殿もいらっしゃるでしょうから、その場に居るようにと」

「つまり、俺たちは認められたわけか。やった!」

 雲長の手を取り、嬉しそうにする北郷。だが、顔を赤くしている雲長の方がもっと嬉しそうに見える。

 若干の嫉妬を交えて、私は横槍を入れることにした。

「私も、そこに向かえばいいのかしら?」

「ええっ? はい、そうなります。申し訳ございません」

 申し訳なさそうに頭を下げる雲長。

 残念ながら口説くことは叶わなかったが、彼女と北郷という存在を知ることができたのは収穫であった。

 だが、彼らという人物をもってしても、世にあってはなお小粒であったことを私はすぐに思い知ることになる。

 世界の広さを思い知ったのは、廃棄された寺院の庭先においてであった。

 

 

 

 キインと硬質な響きが、日暮れ前の空気に良く響き渡った。

 今、盧子幹と隣り合って茶を嗜む私の目の前では、武人と武人が互いの武技を賭けて競い合っている。

「――今のを防ぎますかッ」

「フフ。私も母様から名代に任じられてる分、負けるわけには……、いかないのよ、ねっ!」

 一方は流浪の武芸者である趙子龍。

 青髪短髪のこの女性は、細身の大槍を器用にくるくると回し、まるで演舞のような軽やかな動きで相手の隙を窺っている。

 そしてもう一方は江東の虎――、孫文台の娘である孫伯符。

 桃色髪をばさりと振り乱し、牛をも両断できそうな大剣を肩に担ぎ、ただ子龍のもとへと悠然と歩みを進めていく。

 庭先の熱気と剣風が、こちらにまで吹き荒れてきた。

 直後に再び大きな剣戟の音が鳴り響く。二人が再び激突したのだ。

 

「うひゃあ、おっかないッスねえ」

 と茶を啜りながら、呆れ声を華倫が漏らした。

 彼女の言うとおり、槍と大剣という得物の差はあれども、両者は武の頂点を目指すことのできる天稟を備えているようだ。

 二人の距離が一瞬にして縮まったかと思えば、次の瞬間にはまた離れている。息つく暇もない神速の展開にこちらの目が回りそうだ。

 激突のとばっちりを受けて、岩の上に寝そべっていた剣牙のいずれかが吹き飛んでいった。今のは場所が悪いだろうから、仕方がない。

 それにしても私では流石にアレには勝てないな、と素直に負けを認める。

 才覚の問題ではない。

 私には、武技の他に磨くべきものが多すぎるのだ。

 

「子龍の方が攻め方を変えましたね」

 秋蘭が目を細めるとおりに、子龍は手数にて伯符を翻弄することにしたようだ。

 槍の動きを最小限に抑え、突きを主体にした構えをとっている。

「ハッ」

 裂ぱくの掛け声と共に、千変万化の槍の穂先が、上下左右から伯符の急所へと差し迫っていった。

 が、かかる伯符も負けてはおらず、勝負を決する致命打のみを器用にいなして、一発に重きを得た必殺の強打を子龍の脳天へと見舞っている。

「勘……、のようなものでしょうか? あのいなし方には説明がつきません」

 秋蘭の疑念には、同じく戦勘を大事にする春蘭が答えた。

「多分そうだと思うが、あれはちょっと凄いな。私じゃ、ああは動けない」

「姉者でもか」

「もちろん、負ける気はないぞ? ほんとだぞ?」

 秋蘭が微笑んだところで、力比べの天秤が子龍の方へと丁度傾いた。

 どうやら単純な個人技では、子龍の方に分があったらしい。

「あ゛あ゛! もう、負けたぁっ。うう、ムシャクシャする!」

 喉元に穂先を突きつけられ、口惜しげに地団太を踏む伯符を見て、先ほどまで微笑を絶やさなかった盧子幹がパンと両手で拍子を打った。

「二人ともお疲れ様! 風鈴としては、有望な若い世代の人たちがこんなにも見られて嬉しいな。だから、そう口惜しがらないで、一緒にお茶を飲みましょう?」

 

 

 ……そもそもの話、何故江東の人間である孫家の長女が冀州くんだりまでやってきていたのか、これには先だってより音に聞いていた、孫文台の大進撃が背景にあったようだ。

「伯符ちゃんはね。文台さんの代わりに冀州を見分するようにとやってきたんだよ」

 と汗を布で拭きながら、庭を望むことのできる茶席の設けられた東屋へとやってきた伯符を子幹が紹介する。

 伯符は私をちらりと一瞥すると、挑発的なまなざしを向けてきた。

「何だ、貴女も来ていたんだ。抜け目ないこと」

 彼女とは昨今頻発していた賊の討伐に関連して、獲物をどちらが狩るかという血なまぐさい知り合い方ではあったが、国境際で面識があった。

 私は薄く笑って言葉を返す。

「お生憎様ね。そもそも私はこの土地で討伐軍を待機させていたのだから、この場に居るのは道理でしょう」

「でも、戦なんて起きないんでしょ? はぁー、つまんな!」

 肩を竦める伯符に対し、春蘭があからさまに眉根を寄せた。

「おい、華琳様に対して少々口が過ぎるんじゃないか?」

 この苦言に伯符は楽しそうに笑い声をあげて、「怒っちゃやあよ。わんちゃん?」と挑発する相手を変えてきた。

「な、何だと! 華琳様に犬と呼ばれる分にはご褒美だが、お前に言われても嬉しくはないぞ」

「それはちょっとドン引きするけど、抗議したいなら一つ手合わせでもする? 受けてたつわよ」

 恐らくは相手を挑発することで、その本心を引きずり出そうとしているのだろうが、それにしたって好戦的過ぎる。

 何故か? とは考えるまでもなかった。

 先程の試合が原因だ。

 周囲を挑発することで次なる相手を物色し、うさを晴らそうとしているのだ。

 呆れた猛将だと半ば感心すると共に、この様子では劉備に用事があるわけではないのだろうとも当たりをつける。

 私は子幹に問いかけた。

 

「見分とはどういうことかしら。将軍?」

 子幹は口元に指を当て、困ったように唸りながらこれに答える。

「えっとね。文台さんがすぐ近くまで進撃してきているのはご存知?」

「伝え聞く程度には」

「彼女は、未だ戦は終わっていない。自分がこの地の叛徒を殲滅すると言って聞かないのよ。多分、賊の討伐によって演習をかねようというのだろうけれど、彼女らの兵糧を供出するのは近隣の村々になってしまうから、おいそれと大軍勢を受け入れるわけにはいかないわ。それで今は中央の軍と梁の国境で睨めっこしている最中なの」

 だから、劉備ちゃんの話を一緒に聞いて現状を知ってもらおうと言うわけ、と彼女は締めくくる。

 彼女の説明を聞いた私は、乱世の足音がまた一歩近づいてきたかのような心地を覚えた。

 恐らく孫文台の言は単なる建前で、彼女は黄巾など眼中にしていない。

 今回の騒乱を奇貨として朝廷より委譲された軍権を用い、周辺への威圧外交と兵の鍛錬を行っているのだ。もしかすると、人材の探索も同時に行っているのかもしれない。

 つまり、彼女は間近に迫る乱世を心待ちにしているということだ。この私のように。

 となると、伯符がここに居ることに大した意味はない。

 どうせ、大勢が終息に決するまでは何かと難癖をつけようとするのだろうから、劉備との協定に何かしらの動きを見せることはないだろう。

 だが、意味がないのならば、何故彼女がここに居座っているのかが逆に気になった。

 朝廷への忠誠を示しているだけであろうか?

 

「その顔、私が何故ここに居るのかって考えてる顔よね」

 伯符は流し目で口元を持ち上げ、面白そうに言った。

「答えは簡単。何か面白そうなことがありそうと思っただけでしたー! どう、予想外だった?」

 と悪童さながらにおどける伯符の頭を、

「阿呆」

 と堅く巻かれた書簡を使って背の小さな嘆息交じりに少女が小突いた。

 少女は緩やかに波打つ白藍色の髪を感情に任せて揺らしながら、肩を精一杯に張っている。

 薔薇を模した花飾りをつけた上着が年不相応に大人びているのが、少し印象的であった。

 傍らには先程の北郷も控えており、二人のやり取りに苦笑いを浮かべている。

「いたっ。何するのよ、雷火……」

 涙目で抗議する伯符に対し、雷火と呼ばれた少女は額を押さえ、これ見よがしのため息をつく。

「お前がそう子供のように庭で駆け回っておる内に、私は現状を義勇兵の小僧から聞いておったのだぞ」

 隣の北郷へと目を向けつつも、彼女は伯符への叱責を止めようとしない。

 先程から孫文台の長女であるはずの伯符に不遜な態度を取っているあたり、この娘の孫家における存在感は見た目以上に大きそうだ。

 もしかすると、見た目どおりの年齢でないのかもしれない。

 

「雷火が仕事をしてくれたなら、私はもう仕事をする必要なんてないってことよね?」

「仕事はしろ。お前の母は勤勉だぞ」

「冥琳ならもう少し優しくしてくれるのに」

「だから、私が今回のお目付け役なのだというに」

 再び書簡が伯符の脳天へと降り注いだ。

「さて、小僧が言うにはそろそろ劉備なる御仁がやってくるはずであるが、やけに遅いと見える。何ぞ手違いでもあったのか?」

 悶絶する伯符を尻目に、少女が子幹に問いかける。

 子幹は困ったような表情を浮かべ、懐かしむようにして空を見上げた。

 

「ううん、張子布さんごめんなさい。劉備ちゃんはとっても良い子なんだけど、昔から時間をきちんと守れる子ではなかったから……。それでも最近はしっかりした子が補佐についてくれたはずなんだけどなあ」

「天下の将軍を待たせるとは、劉備もとんだ大人物なのだな」

 多分、皮肉で言ったであろう子布の言葉に、子幹は嬉しそうにぱあっと顔を明るくした。

「そうなのよ! 劉備ちゃんは将来絶対に凄いことをやってのけるって思っていたのだけど、まさか無血で騒乱の元を断ってしまうだなんて……。風鈴はほんとに嬉しいわ」

 子幹の主導で昔話に花を咲かせる中、私は何時の間にやら茶席について饅頭に齧り付いていた子龍へと声をかけた。

 

「子龍お久しぶり。先程の試合は見事だったわね」

「孟徳殿もお久しゅう。いや何、今回は相性が良かっただけですな。あの御仁は相手次第で無類の強さを発揮しますぞ。そしてその本領はむしろ兵を率いてこそ光ると見ました」

 と二人で退屈そうな顔で円卓に頬杖をつきはじめた伯符を見る。

 確かにあのように悠然と前のみを歩む様を見た兵たちは、彼女の背中を見て鼓舞されることであろう。それに獣じみた勘も戦場では役に立つ。

 前線の突破を図る将としては、うってつけの人材であろう。それに見た目も良い。

 劣情をくすぐられる。

 孫家という紐がついているため手元において飼うことはできないが、敵として相見えるかもしれない者たちにあのような虎子が潜んでいることは嬉しい知らせであった。

 雑魚ばかりでは成り上りの甲斐がない。

 

「言葉には出さずとも、負けん気と言うものは伝わるものですな」

 からかい混じりのその言葉に、私はくすりと笑い声を漏らす。

「あら、アナタも実戦では負けるつもりなんてないって顔をしているわよ。公孫伯桂の将としてか、劉玄徳の将としてかは分からないけれど」

 言外にどちらに請われ、選んだのかと聞いたつもりであった。

 だが、子龍は少しさびしそうに頬を掻き、意外な答えを返してくる。

 

「桃香様にはその……、"フラれて"しまいまして」

「アナタが、劉備に?」

 "フラれた"ということは、目の前の彼女が自ら劉備と言う存在を主君として仰ごうとしたということだ。

 それを……、大陸有数の武芸者を袖に振るなど常識ではとても考えられない。

 一体何を考えているのか――。

 その存念が知りたい私の心情を察してか、子龍はさらに説明を続ける。

 

「と言っても最後まで悩まれてはいたのですよ。決め手はあの方の進むべき道ですな。悩むに悩まれて、最終的には白蓮殿を……、伯桂殿をお願いします、と」

「進むべき道?」

 それは一体どのような道なのか。

 子龍は頷き、さらに続ける。

「はい。決して、恐らく、多分、願わくば、私が子遠殿にちょっかいをかけたことが原因だとは思いたくはありませんなあ」

 快活に笑う彼女は、劉備の歩むべき道については語ろうとしなかった。

 疑問がさらに膨れ上がっていく。

 劉備という存在が、私には良く分からなくなってしまった。

 そう困惑を深めている時に、

「……華琳姉ぇ。何か地響きが聞こえないっすか?」

 という華倫の言葉を聞いて、私ははっと我に返った。

 この地響きは馬の駆ける音である。

 よもや賊徒の集団がこの廃寺院に攻め入ってきたとでもいうのであろうか。

 

「皆、武器をとりなさい。何かが近くまで――」

 言い切らぬ内に空より何かが飛来する。

 投石や矢の類ではない。

 ……あれは人だ。べしゃりと液体混じりの嫌な音を立てて、何の変哲もない風体をした鎧姿の男性が庭先に落ちてきたのだ。

 ちょっと良く分からない。

 そして、男性を追うようにして中空へと踊りだした巨体が大地を一際轟かせながら着地する。

 どんな名馬も霞んでしまう艶やかな毛並みと、不自然なほどにやせ細った凶相が特徴的な馬であった。いや、馬か……?

 

「し、子遠さん大丈夫? 怪我してないっ?」

 馬上より心配そうな声が降ってきた。

 桃色の綺麗に切りそろえられた"短髪"が印象に残る、目元の優しげな少女である。

 声をかけられた男性はというと、

「バルバトスさんに、必死に付いて行っただけなのに……、解せぬ」

 などと呟きながらまな板の上に置かれた魚のようにぴくぴくと痙攣していた。

 

「桃香ちゃん!」

 私が彼女らの素性を問うよりも先に、子幹が喜びを持って答えを教えてくれた。

 彼女が待ち望んでいた少女と言うと、選択肢は一つに限られよう。

 

「アナタが劉備、なのかしら」

 私の問いに彼女はばつが悪そうな表情を浮かべて頬を掻いて答えた。

「えっと、お察しのとおり劉玄徳です。ごめんなさい。ちょっと遅刻しちゃいました……」

 女性と相対し、私の劣情がくすぐられもせず、ただただ身震いをしてしまうことはこれが初めての経験であった。

 劉玄徳という人物は――、私にとって一目見たときから特別であったのだ。

 




やっとここまでこぎつけられた……。

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