桃香ちゃんと愚連隊   作:ヘルシェイク三郎

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第三回 劉玄徳、王佐の才を幕下に加える

 王佐の才、荀イク文若という人物は稀代の英傑、劉備玄徳を語る上でまさに欠かすことのできない存在といえるだろう。

 事実、正史・家伝を紐解き、劉備一党の足跡を辿っていくと、まず散見できるのが彼女の輝かしい功績の数々だ。

 

 儒家の名門――、荀家の出身でありながら、当時は何処の馬とも知れなかった劉備率いる義勇兵団に客将の身分で参加し、大陸最高峰の知謀をもって、主と仲間の窮地を華麗に救い、その立身出世を手助けしていく……。

 何故、彼女が突如都の文官職を辞して、幽州なんぞに流れていったのか。

 何故、面識すらなかった劉備一党に手を貸したのか。

 未だ解決されておらぬ謎も多いが、それだけに彼女の生き様は下手に潤色をせずとも英雄伝として既に完成されており、今も現代人の心を惹きつけて止まない。

 その人気ぶりは、つい先頃に彼女自身を主人公とした大河講談(恋愛色多め)が発表されたことからも窺えよう。

 いや、単に大河脚本家がネタ切れにあえぎ、物珍しさを求めただけなのかもしれないが。

 余談だが、大河に恋愛は不要だと筆者は思う。

 

 とにかく絶大な人気の彼女のことだから、拙作においても有名な逸話を二、三程度紹介しようとは思っている。

 ――ただし、あくまでも二、三程度だ。それ以上、掘り下げるつもりは毛頭ない。

 この羅貫中、女と男の絡みなんぞに興味はないのであった。

 やっぱり、男と男の絡みは最高だと思いました。まる。

 各界の圧力、著作発禁知ったことか。その時は地下に潜ってやる。

 二次創作とは、本来自由な叙述が許される場なのだ。

 公権力なんてクソだわ、コノヤロー!

 

 

 

 ずかずかと、修羅が間近に迫ってくる。

 深い英知を湛える新緑の瞳は、凄まじいまでの怒りに燃え上がっており、心なしか浅黄色の短髪も怒髪天を衝いているように見受けられた。

 彼女の被る、獣の耳を模した頭巾は最早忘れることなどできぬ。

 あれは上司殿などではない。虎だ。

 虎に違いない。

 

 ああ、ああ。巨大な竹簡が攻めてくる。

「こんの、根性なし男……!」

 決済用文書は保存用と合わせて二枚作成だって言ってるでしょ。

 何で作った奴をそのまま上司殿の決済箱へ置いてきちゃうかな、まさし君。

 え、ええ? 他の書類も? 一緒に? めんどくさかったって?

 せめてそれがしに見せて頂戴よ……。あの上司殿は不完全な書類を見るときわめて不機嫌になるんだよ……。

 上司殿のところへ謝りに行こう。一緒に、ね?

 

 え、ええ? 肥だめの世話で忙しいって? 何でそんなにウンコの収集に力入れてんの、まさし君。

 嫌いな言葉は泣きっ面に蜂。

 これから聞きたくない言葉は七転び八起きなのです。

 

「聞いてんの、この馬鹿っ!」

 ひいひいひいひい。朝が夜で、夜が朝で、睡眠は起床で、起床は通勤で。

 上司殿が、上司殿が。

 怒って、おられる……!

 

「聞いてんのって、この私が聞いているんだけどっ!」

「あ、あいだだだだだだだだだだだだだだっ!」

 自分の耳が引っ張られる段になり、ようやくそれがしは平静を取り戻した。

 いや、正確に言えば平静を取り戻せてはいないのだが、少なくとも聞く耳は(強制的に)持たされた。

 

「おい、何だあの猫耳」

「あの副頭領をいとも簡単に……」

 ざわざわと広がっていく義勇兵たちの動揺を煩わしく思ったのか、上司殿はギロリと周囲を睥睨(へいげい)なさった。

 すると、まるで引き波のように人の群れが上司殿とそれがしの周りから遠ざかっていく。

 先日、匪賊を蹴って遊んでいた無頼漢どもがこれである。

 それがしは改めて上司殿の怖さを思い知ったのであった。

 

 ――あ、いや、訂正しよう。

 皆が黙って引き下がったわけではなかった。

「ようようようようっ!」

 まず、最古参の三人組が上司殿に向かって立ち向かっていった。

 大方ここでそれがしに恩を売ることで、底辺から幹部組へ、一か八かの立身出世を図ろうという腹積もりであろう。

 見え透いた下心ではあったが、確かにそれがしのことを救ってくれるなら、色々と擁護をしてあげないこともない。

 それがしは、チョロいのである。

 頼むから。頑張ってくれ、デブとチビとハゲ……!

 

「副頭領にあんまナメた口聞いてっと――」

「――ハァ? 腐れ男が私にナメた口聞くんじゃないわよ。精液からやり直して出直してきなさい」

「……ようよう白くなりゆく日差しが眩しいぜ」

 上司殿の怒気をまともに受けたデブとチビとハゲは、眩しそうに回れ右すると、そのまま人の波へと還っていった。

 絶対許すつもりはないよ、それがし。

 

「……チッ、相変わらずのビビりどもだ」

 三人組に向けて舌打ちをしつつも進み出てきたのは、少年兵たちを取りまとめている烏桓族の青年であった。

 名前は居、居……、やっぱり思い出せない。

 浅黒い肌と特徴的な前髪だから、顔だけは忘れないんだけどなあ。

 

「なあ、姐さん。一体、オヤジに何の用だ? 堅気に手を出す俺らじゃねえが、事と次第によっちゃ、黙って見ているわけにゃいかねえんだ」

 肩で風を切りながら、威嚇するように問う青年の圧力に、さしもの上司殿も、

 

「――部外者は黙ってて」

 ……全くもって効いていなかった。

 一瞬の沈黙。

 青年は苦笑いを浮かべ、前髪をいじりながらため息を吐いては言った。

 

「……オヤジ。ここで姐さんに手を出すのは簡単だ。だが、それじゃあスジが通らねえ。俺らの仁義って奴は、オヤジが教えてくれたように、何時だって民と共にあるはずだ。違うか?」

 かっこいいことを言っておるようだが、それがしの目はごまかせん。

 青年は、凄い手汗をかいていた。

 なまじ少年兵たちの失望を買わないよう、小賢しく立ち回っているあたりが余計に憎らしい。

 絶対許すつもりはないよ、それがし。

 

 最早頼みの綱は、義勇兵団の最高戦力たる、頬に傷を負ったオッサンだけであった。

 オッサンは、そのたくましい両腕を組みながら、それがしと上司殿を黙して交互に見ている。

 独特の緊張感が場に漂う。

 オッサンが組んだ腕を解き、こちらに拳を突きつけた。

 ……一体、何をするつもりだろうか?

 

 もしや、オッサンが隠し持っていた奥義、武術流派とかであろうか。

 そうであったなら、今この瞬間にでも副頭領の座を譲り渡す所存である。

 オッサンは口の端を持ち上げ、

 

「ごゆっくり」

 小指を立てて、そう笑った。

 絶対許さぁーぬぅーかぁーらぁーなぁー……!

 

「さて」

 邪魔者どもを追い払った上司殿は、それがしの耳を引っ張りながら、据わった目つきで睨んでくる。

 その圧力に耐え切れず、それがしは例の如く目をそらした。

「……目を背けてんじゃないわよ」

「ヒエッ!?」

 それがしの目は泳ぎに泳ぎ、大海原を泳ぎ回り、救いを求めるようにして玄徳殿の姿を探した。

 玄徳殿は、あの上司殿の圧力すらも柳に風と受け流し、遠のいた人の群れからポツンと浮き上がるようにして、バルバトスに騎乗しながらポカンとしておられる。

 どうやら、あまりに急転直下な展開に、訳が分からず困惑しておられるようだ。困っている顔も、やはり可愛い。

 

「……釈明しなさい」

「は、はひっ?」

 自分でも間の抜けた声が出たと仰天する。

 上司殿は吐き捨てるようにしてまくしたてた。

 

「アンタが何で仕事放り出して、こんな人前で粋がっているか。理由を、この私に説明しろって言ってんの。こうやって私が来た時点で分からないの? この無能男っ!」

 上司殿の拳がゆっくりと、そしてぐりぐりとそれがしの腹に沈み込んでいく。

 

「ず、ずびばぜんっ……!?」

 あまりの恐ろしさに空で返事をしたものの、理由なんぞ説明できるわけがない。

 都の人間関係と、仕事自体がだるくなって逃げましたなんて、言い出せるはずがないではないか。

 後、上司殿が怖かったからとも。

 それがしも竹のこぎりで首を刎ねられたくないのだ。

 

「で?」

「え、ええと――」

「理由は?」

 言外に込められた圧力が、ただただ恐ろしい。

 

「その、ですな――。そうだ。お一人で良くぞここまでいらっしゃいましたな」

「ケダモノの跋扈する荒野を女一人で旅できると思ってるわけ? 首から上をどっかに忘れてきたの? アンタ。幽州までは河南の元部下に護衛させたし、幽州に入ってからは何か青い髪の武人に護衛されたわ。もうどっか行っちゃったけど」

 苦し紛れの一言を、上司殿の言葉が容赦なく斬って捨てる。

 彼女の顔は、まさに不愉快の一字に占められているといってよかった。

 ……なるほど、確かに上司殿の着ている衣服のあちらこちらにかすかな土埃がついており、その長旅を思い起こさせてくれる。

 下手な話題そらしは逆効果のようだ。

 それがしは素直に謝罪した。

 

「申し訳ない」

「……で?」

 謝罪はできるが、理由は言えぬ。

 仕方がないので、それがしは瞑目(めいもく)し、貝になった。

 海中深く、物言わず、ただ静かに暮らす貝の如き精神をひたすらに望み、貝になった。

 嵐が過ぎ去るまで、物言わず、とにかく殻に引き篭もろう。

 

「白状しないと、アンタの小汚い部分を竹のこぎりで切り落とすわよ」

「白状いたします」

 引き篭もれなかった。

 それがしは宦官になどなりたくないのである。

 

 崖っぷちに立たされたそれがしは、とにかく誠心誠意、今までの経緯を説明した。

 温徳殿に大蛇が現れ、凶星が空に垣間見えたとの儒教的な釈明もふんだんに盛り込みながら、とにかく自身の情状酌量を勝ち取るべく、必死に舌の根を動かしたのである。

 話が天界に住むという西王母の浮気話にまで進んだところで、上司殿は疲れた面持ちで額に小さな手を置いた。

 

「……要は仕事と人間関係が辛くなって逃げ出したと。成り行きに任せていたら、義勇兵団に参加していたと。根性なしのアンタらしい顛末ではあるわね」

 大した読心術であると感服を覚える。

 ようやく耳を離してくれたので、それがしは激痛に痛む耳をさすりながら、平に謝罪した。

 

「申し訳ございません」

「別にアンタの根性になんて期待はしていないからどうでもいい。それじゃ、帰るわよ」

 と納得した上司殿は颯爽ときびすを返して、ずかずかとやって来た道を帰ろうとする。

 ――が、待って欲しい。

 現在のそれがしは義勇兵団の副頭領なのである。

 彼女は"元"上司殿なのである。

 

「ああ、いや。そのですな――」

「何よ」

 上司殿の瞳はいつも以上に不機嫌をあらわにしておられるなあ……。

 怖いから目をそらしておこう。

 

「あ、あのっ! ちょっと良いですか!」

 だが、生来小心者のそれがしに代わって、バルバトスを降りた救いの女神が擁護に回ってくださった。

 降りた拍子にばるんとしておられる。その凄まじい母性に、それがしの目は釘付けになった。

 

「……誰よ、アンタ」

「あ、私。劉備、劉玄徳と言います。今は子遠さんと一緒に義勇兵団を立ち上げて、匪賊退治をしています!」

「フゥン」

 上司殿は値踏みするようにして玄徳殿をねめつけて、

 

「……大きいわね」

 と忌々しげに舌打ちした。

 この小柄な上司殿は、母性大なる御仁に対して、割とこういう態度をとられるのである。

 大は小を兼ねるというのに、彼女は何故このような刺々しい態度をとられるのであろう。

 それがしは上司殿の平坦な大地へと目をやり、

 

「ンアアアアアアアッ!?」

 思いきり足を踏みつけられた。

 

「えっ?」

「何でもない、気にしないで。私は荀イク。荀文若。先月までは何遂高のもとで文官として働いていたわ」

「働いていた、ですか?」

 きょとんとする玄徳殿に対して、上司殿は苛立たしげに答える。

 

「この馬鹿が仕事放り出して逃げだしたから、一旦暇を貰って探しに来ているのよ……!」

 ええぇ……。

 驚愕の事実であった。

 そりゃあ、まあ勝手に河南を飛び出してきた身の上だ。

 面目を潰された伯母上あたりが嫌がらせに人を差し向けるくらいは覚悟していたが、まさか上司殿自らが職を辞してまで追いかけてくるとは思わなかったのである。

 

「文若さんは何でお一人で子遠さんを追いかけてきたんですか?」

 玄徳殿が物怖じせずにそう問うと、上司殿の顔がこれでもないかというくらいに不快げに歪んだ。

 

「……捨て置いたら、私の出世に響くでしょう。何遂高のところで働いているのはあくまでも足がかりに過ぎないのよ。私には曹孟徳(そうもうとく)様という、お仕えしたいお人が既にいるの」

 孟徳殿というのは、上司殿が憧れておられる御仁である。

 

 仕事でちょくちょく付き合いのあった孟徳殿のご家来が言うには、

華琳(かりん)様はなあ。それはもうお美しくてだなあ。見つめられただけで、こう心の臓がバクバクと高鳴ってしまうのだ。おい、聞いているか? 兵庫番』

 と大層な美貌をお持ちらしいが、残念ながら未だに会ったことがない。

 上司殿も含めて、皆が口々にお綺麗というからには、あるいは凄まじい母性にお目見えできるのでは……? と淡い期待を抱いているのだが、今のところ会ったことがないのだ。

 本当に残念である。

 

「出世に響くんですか?」

「当たり前でしょうが! わいろを取らない、清流派に属する官吏っていうのは評判が命なのよ。部下に逃げられたっていうのはね。はっきり言って汚名なの。こいつってば無駄に顔が広いから、下手をすれば悪評で門前払いされちゃうかもしれないのよ!」

 玄徳殿は「へえ」と無邪気に感心されている。

「やっぱり、子遠さんはすごいんだぁ」という呟きが、それがしの心に突き刺さった。

 期待が、期待が重い……!

 

「それに、いくらナメクジよりも価値のない馬鹿男って言ったって、私にはこいつの面倒を見る義務が一応あるしね」

「ヌッ?」

 良く分からないことを上司殿が仰られたため、それがしは思わず首を傾げる。

 

「ヌッ? じゃないわよ……。アンタ、私の格好見て思うところはないわけ?」

 髪を掻き上げ、服をぽんぽんとはたきながら上司殿は問うが、正直いつもと変わったところがあるようには思えなかった。

 

「いつも通りの御恰好ですぞ」

「そりゃあ、そうだ。……ホント、察しの悪い男ね。この上着。上着の色っ」

「フムン」

 まじまじと上司殿の羽織る上着を見ようとすると、ぎろりと睨みつけられた。

 

「まじまじとケダモノみたいに見ないで。視線が精液臭い」

「それは何とご無体な」

 仕方がないので、横を向き、口笛を吹きながら薄目でちらちらと上司殿を窺う。

 

「私の見かたがいちいちエロい。目を使わずにこちらを見なさい。このエロ男」

「それは何とご理不尽な!」

 それがしは懐から手鏡を取り出し、鏡越しに彼女を見た。

 彼女は仕事の時にいつも目にしていた、青く灰色がかった上着を羽織っているようだ。

 女性らしい飾り(すそ)のついた短袴も含めて、お洒落というものに余念のない可愛らしい服装である。

 かといって、「いつも通りの可愛らしゅうお姿です」とおべっかを貰いたいわけでもないのだろう。

 

 以前、まさし君の発案で試しに世辞を言ってみたところ、一週間は口を聞いてくれなかった。

 

「上着の色、アンタには何色に見えるのよ」

相思鼠(そうしねず)色でしたな」

 何時の頃からか、上司殿が好んで着るようになった羽織の色だ。

 

『アンタくらい脳が無くとも、相思鼠色くらいは覚えておきなさい。どう? この私に結構似合っている色だと思うのだけれど』

 大量の竹簡と格闘している時に、ちらちらと念を押されるようにして教え込まれた色の名だ。

 いやでも記憶にこびりついていた。

 

「分かってるじゃない。それが答えよ」

「ん? んん?」

 何がなんだかさっぱり分からなかった。

「あっ」

 と玄徳殿は何故か合点がいったようだが、それがしに読心術の心得はない。

 しばしして、色好い返事が返ってこないことに業を煮やした上司殿は鼻息荒く、さらに続けられた。

 

「秋ごろになると。何時も私の机にアンタが飾ってた花の名前!」

「彼岸花、ですな」

「違う! ヒガンバナって聞いたこともないわよ。あれは相思華(そうしばな)って名前でしょうが!」

「ん? んん?」

 正直、花の名前には詳しくなかった。

 彼岸花のことだって、まさし君が「ゴイ君、上司の机に飾っておくと心が晴れやかになるゾ」と教えてくれたから実践していただけなのだ。

 

「宦官の馬鹿息子と婚約させられて、いっそのこと流浪の旅にでも出ようかと思っていたところに、相思華を飾ってくれたのはアンタでしょうが! 『葉は花を思い、花は葉を思う』の言葉通り、そこまで慕われているならと、花であり儒家の末裔である私も自分の信条に目をつぶって、アンタの面倒見ていたんだけどッ!?」

 驚愕の事実であった。

 まさかとは思うが、今までやたらに仕事を押し付けられていたのも、"デキる上司に目をかけられる部下"的な立ち位置から来るものであったのだろうか。

 それがしは絶望する。

 まさし君は何も教えてくれなかった。貝になりたい。

 ひとしきりまくし立てられた上司殿は、荒い息をつきながら、目を見開き、唇を震わせて言った。

 

「まさか……、アンタ……、意図もなく相思華を飾っていたんじゃないでしょうね……?」

「ぎくり」

 胸ぐらが引っ張られた。

 瞬間、それがしの身体が宙を舞い、背中から盛大に落ちたかと思えば、さらにがっくんがっくん揺らされる。

 

「死ね! 死ね! 可能な限り惨たらしい手段で死ねっ! この可愛くて聡明な荀文若様が! 何で勘違いなんかで、アンタ風情を必死で探さなきゃいけないのよぉ!!」

「首が。首が、締まっていますぞ。お、お、お、お、お、き、気、気、気、を、を確かに、に、に、に、に、にっ!」

 投げ技と締め技を巧妙に組み合わせた、良く分からぬ奥義を上司殿は会得なさったようであった。

 

「う、る、さぁーいっ!」

 先ごろまで劉玄徳殿という英傑のお披露目会であったはずのこの場が、今や上司殿によるそれがしの私刑場と化していた。

 助けて、皆! と見回してみたものの、

 

「いやー……、そりゃあ無いって。子遠さん」

 とは憲和殿の言。

「紛う無きクズです。昨日の謝罪を返して下さい」

 とは国譲殿。

「オヤジぃ……、そいつぁスジが通らねえんじゃないかい?」

 とは烏桓族の青年。

 頬に傷あるオッサンは腹を抱えて笑っており、玄徳殿もそれがしを非難がましいまなざして見ておられた。

 四面楚歌である。

 今項羽(ただし統率力も武力もない)とはそれがしのことであった。

 

 胸ぐらを揺さぶる腕の力が弱まり、新緑の瞳に浮かぶほんの少しの涙が収まり、良心の呵責と物理的な損害でそれがしの身体がぼろぼろになったあたりで、ようやく上司殿は落ち着いてくれた。

 ほとぼりが冷めたと判断したのであろうか。

 玄徳殿が恐る恐る上司殿に声をかけた。

 

「あの、あの、文若さん?」 

「……何よ」

「あの、その。ええと。子遠さんのこと、どうするおつもりですか?」

 二人がちらりと道端に打ち捨てられた、それがしを見る。

 上司殿はやけのやけっぱちになりながらも、玄徳殿に答えた。

 

「……どうもしないわよ。こんなゴミクズ。適当に捨てて、私だけ都に帰って適当な豪族の下である程度経歴を積んだら、孟徳様のところへ向かうつもり。南皮も近いし、袁紹のもとに身を寄せてもいいわね」

 今項羽ではなく、それがしはゴミクズであった。

 上司殿のその答えに、玄徳殿はあからさまな安堵の息を吐く。

 

「ああ、良かった……」

「良かったって何がよ。私が恥をかかされたことが? 喧嘩なら買うわよ」

「い、いえ! そうじゃなくって……。子遠さんが連れていかれなくって、良かったなー……、なんて」

 愛の天使が如き、はにかみようである。

 それがしの身体は一瞬にして癒された。

 癒されたそれがしの腹を、上司殿がぐりぐりと踏む。

 癒され、踏みにじられ、癒され、踏みにじられ、しまいには踏みにじられることについても若干の喜びを覚えるようになったそれがしの精神は、より強靭なものへと練り上げられていく。

 

「……変な声出さないで。気色悪いから」

「はい」

 上司殿はそれがしを一顧だにせずそう吐き捨てると、訝るようにして玄徳殿に問うた。

 

「こんな鬼畜男の身柄を惜しむなんて、頭どうかしているの?」

「べっ、別にどうかしていませんっ! 私、いえ私たちは……、子遠さんからいくら返しても返しきれない、恩を受けているんですよ!」

 そう言って、玄徳殿は豊満すぎる胸に手を当て、ここではない何処かを見ながら語り始める。

 

「……私は子遠さんによって匪賊の手から救ってもらいました。もし、あの時に子遠さんと出会うことできず、その志を聞かされていなかったら、義勇兵団なんて立ちあげられなかったと思うんです」

 言って、玄徳殿はそれがしとの出会いを身振り手振り、事細かに説明し始めた。

 

 買いかぶりすぎだと、それがしは思う。

 何故なら、玄徳殿の志は月下竹林の五台山で出会った時点で完成されていたように思うからだ。

 あの時玄徳殿を襲ったデブ、チビ、ハゲだって別段大した連中ではなかった(それがしは恨みを忘れない)のだから、玄徳殿はあの場を無事に逃げだして、別の誰かと義勇兵団を立ち上げていた可能性もある。

 ……だから、それ以上は止めてくだされ。玄徳殿。

 あの時、大いなる母性に目を奪われていた罪悪感が、罪悪感がすごいのです。

 

「自惚れるわけじゃありませんけど、私たちは今までにこの手で少なくない人たちを救うことができたと思います。それは一人一人が独力でできることじゃなく、私たちが団結できたからこそできたことなんです! そのきっかけを作ったのが、子遠さんなんですよ! だから、私は真名だって預けたんですっ!」

 おお、と何時の間にやら玄徳殿の演説を聞こうとして、聴衆が辺りを取り囲んでいた。

 

「アンタの真名を?」

「はいっ?」

「ちなみにこいつの真名は預けてもらった?」

「あ、いえ。それが……」

 玄徳殿が残念そうに縮こまる。

 真名を預けられた夜、それがしは何かを期待する彼女に対し、平に謝りながら真名をお返しできぬ理由を語った。

 いや、単に母上が幼くして死んでしまっただけで、自分の真名を知らないだけなのだが。

 まさし君曰く、「もぶなら仕方ないゾ」と教えてくれたので、そんなもんかなあとも思っている。

 

「……ふうん」

 上司殿は玄徳殿に対し気のない返事をして、やはり気のない風に再度問いかけた。

「珍しく、このうすら馬鹿が善行を為したということは分かった。それで、普段はこいつをどう"使っている"わけ?」

「"使っている"……、ですか? 子遠さんは大事な仲間だから、そんな顎でこき使うような真似はできません」

 玄徳殿の答えに、上司殿は大仰なため息をつく。

 

「分かってない! アンタ、玄徳は曲がりなりにも一団の長なのよ。どんな目的で団を立ち上げたのか知らないけど、組織の力を用いて目的を果たそうとするならば、効率の良い人の扱い方は学ぶべきだわ」

「人の扱い方?」

「例えば、この馬鹿男の場合は可能な限り忙しくて、一人では到底運営できないような部署に叩き込むのが一番正しい扱い方よ」

 ちょっ、何ということを仰るのか。

「じょ、上司殿――」

 それがしは慌てて抗弁しようとするも、

 

「アンタは黙ってなさい」

「はい、黙ります」

 積年の上下関係を覆すことはできず、それがしはまな板の上の鯉になる。

 鯉ではない。貝になりたい。

 上司殿は鼻を鳴らすと、つまらなそうに続けた。

 

「こいつは文武のいずれもそれなり程度にしか働けないのだけれど、何故か予算不足、人手不足で火の車と化している部署を生き永らえさせる才覚にだけは異常に長けているわ。もし、アンタたちが義勇兵団としてそれなりの仕事をこなせていたというならば、その何割かはこいつの働きがあったからね」

 玄徳殿が、「そう言えば……」と考え込むようにしてつぶやいた。

 

「そのせいか、都では便利屋扱いされていてね。"煮ても食えない走狗"なんてあだ名で呼ばれていたほどよ」

「まさし君には、"じむかすたむ"との二つ名をいただきましたぞ。それがし、そちらのほうが気に入っておりまして……」

「あの、無駄に厠を爆発させる変態の話はやめなさい!」

「はい」

 上司殿は玄徳殿の顔に理解の色が浮かんだことを認めると、肩をすくめて冷笑を浮かべる。

 

「普通、旗揚げ直後の義勇兵団なんてものはまともに働けないの。実績も元手も組織運営力もないのだから……。余程の幸運か、人材に恵まれでもしない限りはね」

「あ、それは分かります。うちにも旗揚げしたは良いものの、結局どうしようもなくなった同業者の人たちが、仕事を求めてたくさん合流しに来たりしました。そっか、私たちが匪賊と戦えていたのも、子遠さんのおかげだったんだ」

 玄徳殿の言葉に、団員の一部が申し訳なさそうに俯いた。

 自分たちの非力さに恥じ入っているようだ。でも、それがしは許さない。

 

「理解してもらえて何よりよ。……だから、こいつには一瞬の休みすら与えず、竹かごの中で走り回っている鼠のようにひたすら仕事を与えるのが適切ってわけ。分かった?」

 言い終えた上司殿は、ちらとそれがしを見下しては、

 ――にやり。

 と凄まじく暗い笑みを浮かべた。 

 

 あっ、まずい……。

 頭ではなく、それがしの本能が彼女の意図を正確に理解した。

 これは上司殿なりの、それがしに対する復讐なのだ。

 彼女を勘違いによって無駄にやきもきとさせた、それがしに対する復讐なのである。

 何とかしてごまかさなくては……、この義勇兵団までもが息の詰まる、午前様勤務地となりかねない。

 それだけは絶対に嫌だ……!

 

 それがしは勇気を振り絞り、上司殿のおみ足を優しく押しのけてはその場に立ちあがった。

「力ある者が力なき者を率いる組織を、作ろうとしては……、なりませぬ」

「子遠さん……?」

 それがしは歯を食いしばりながら続ける。

 上司殿の胸ぐら揺さぶりで、もしかしたらムチ打ちになったかもしれない。

 

「御再興を遂げた漢王朝が栄えて四百年。今や中央政治は、帝の詔勅を私欲のために用いるような佞臣(ねいしん)の手に委ねられております。良いですか?」

 それがしは手をかざし、いかにも大げさな仕草をとって一喝した。

 

「――組織というものは、いずれ腐るものなのです!」

 おお、と聴衆がどよめく。

 それがしは続ける。

 

「我々は、力なき民のために立ち上がりました。ですが、戦に勝ち、名を上げれば上げるほど、その身は膨れ上がっていき、やがては一つの組織――、ただの軍閥と化してしまうやもしれません」

「えっと……、ごめんなさい。難しくてよく分からないよ、子遠さん……」

 玄徳殿にはそれがしの言っていることがよく分からなかったようであった。

 ちなみにそれがしも良く分かっていない。

 口から出まかせを、繋げているだけなのである。

 

「いずれは力なき民に理不尽を命じるだけの存在にまで落ちてしまうやもしれませんということですぞ、玄徳殿! 多分っ!」

「そっ、それは駄目だよ! 絶対に駄目っ! それじゃあ私たちが頑張っている意味がなくなっちゃうもん! えっ、多分?」

 玄徳殿の心を掴んだと確信したそれがしは、間髪入れずに結論を述べた。

 

「そうしないためにも、常に後進を育てようとする姿勢こそが大事なのです。我々の間違いを正してくれる存在を育むのです。麦穂を刈り取るのではなく、種を播くことこそが大事なのですぞ、玄徳殿! 多分っ!」

 後進に仕事を投げるために――。

 それがしは必死の思いで、口から出まかせを絞り出した。

 

「な、なるほどっ?」

 完全に勢いに呑まれた玄徳殿。

 最早、それがしの勝利は確実であった。

 上司殿がいなければ――。

 

「……良いこと思いついた。玄徳、アンタ私を雇いなさい」

「ファッ!? じょ、じょじょ、上司殿。何を仰られるか!?」

 それがしの抗弁など聞いていない風に、上司殿は続けられる。

 

「良く考えたら、己が才覚を世間に誇示するならば、所属する勢力は弱ければ弱いほど良いじゃない。この天才軍師を雇ったなら、アンタたちみたいな弱小集団だって大躍進間違いなしよ?」

 といって、こちらを見ては相変わらずの暗い笑みを湛えていた。

 絶対、あの人それがしのことを働かせ殺す気だ……!

 

 戦慄して動けずにいるそれがしとは対照的に、義勇兵団の面々は思わぬ申し出に動揺を深めてざわついていた。

「おい、軍師だってよ」

「軍師って何だ? 俺たちに必要なもんなのか?」

「お頭はいつも良いこと言うなあ」

 そして、上司殿の言葉を聞いた玄徳殿は、呆気に取られたようにぽかんと口を開けておられた。可愛い。

 

「文若さん……」

「どう? 悪い提案じゃないと思うんだけ――」

 上司殿は最後まで言葉を続けられなかった。

 溢れ出る母性の塊が、上司殿に突撃してきたからだ。

 

「大っ歓迎ですよっ、文若さん! 私、文若さんと仲間になれてすっごく、すっごーく嬉しいですっ! 文若さんと一緒なら、もっと色んなことができる気がするよっ!」

「そ、そう?」

 あれほどまでに気圧されている上司殿も珍しい。

 やはり、母性が勝ってしまわれたか。敗北を知りたい。

 

「私の真名、桃香って言います! 力ない人のため、これから一緒に頑張りましょうねっ」

「あっ……、か、勘違いしないでよね! あくまで私は客将の身! そのうち孟徳様に士官するつもりなんだから、変な慣れ合いはよして頂戴っ。それにアンタは、何か知らないけど、こう甘っちょろい感じが苦手なのよ! もっとこうシャキッとしなさいっ。一団の長ならばねっ」

「しゃ、しゃきっと?」

「そう、シャキッと!」

 そんなやり取りをしばらく交わしながら、二人の相手に対する呼び名は、段々と気安いものへと変わっていく。

 

「うう、難しいよぉー……。桂花ちゃん」

「難しくてもやるの! アンタ、力ない人を守りたいんでしょっ。周りに情けない姿を見せてどうすんの!」

「わ、分かった! 頑張るね、桂花ちゃん」

「少なくとも途中で見捨てたりはしないから、やるだけ頑張ってみなさい。とにかく頑張るの!」

 こうして、我らが義勇兵団に凄腕の軍師が加わってさらに数か月――。

 

 

「敵は囮に食いついた。手前ら、合図を送れっ! お楽しみの時間だ!!」

 匪賊をより効率よく殲滅するために、少ない戦力で相手を釣り出しては伏兵で叩きのめす戦術が板につくようになりました。

 響く匪賊の悲鳴と、義勇兵の怒号。そして笑い声。

 心なしか、各将兵の顔つきも余計に物騒になってきた気がする。

 

 兵団の陣容も随分と厚くなったようで、玄徳殿もご満悦だ。

 義勇兵団の旗頭は、当然ながら玄徳殿。

 その舵取りと部下の教育は、上司殿。

 武力の要は傷のオッサン。

 商家との折衝は、憲和殿と国譲殿。

 戦場の囮、被害担当部隊を率いるはそれがし。

 兵站の管理もそれがし。

 部下の管理もそれがし。

 

 ……ん?

 ……んん?

 それがしは天に広がる青空を仰いだ。

 


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