桃香ちゃんと愚連隊   作:ヘルシェイク三郎

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第四回 劉玄徳、広陽にて御遣いの右腕と出会う。

 さて、北郷一刀の四半生はおよそ謎に包まれている。

 その出自は東西南北いずれかの蛮族と推定され、身分も恐らくは諸王族に準じるものであろうと考えられているのだが、なにぶん史料の散逸と、当時の人間らしからぬ思想の逸脱によって、未だ世にいる歴史家たちは彼の全体像を解き明かせずにいた。

 

 ――天の御遣い、仁愛の人、漢中王、破天荒大将、三国一の種馬、エロエロ大魔神、やたら不気味な筋肉ハゲ男を引き連れた変態など、彼につけられた二つ名にも一貫性が見られず、彼が一体どのような人となりをしていたのかについては正直もって良く分からない。

 現在、もっとも説得力を持った推論が「彼は実は未来人だったんだよ! 西洋人の進出など、彼の遺した様々な予言が、この大陸の危機を表している!!」などという眉唾話であることも、北郷一刀について調べることの困難さを端的に示していよう。

 ゆえに拙作では史料に残された彼の言動をできうる限り崩さぬように引用し、その心中については詳述を避けたい。

 

 ――とはいえ、実のところ筆者には彼の謎めいた心中について、ある一部分においてのみおおよその推測ができているのだ。

 むしろ何故、世の歴史家たちは正史・家伝にかくも重要な記述が遺されていることに気づかないのかと不思議にすら思う。

 彼につけられた二つ名によーく着目してほしい。

 "やたら不気味な筋肉ハゲを引き連れた変態"。

 筋肉ハゲ男。

 筋肉、男。

 男を連れている。

 

 ――北郷一刀は男色家だったんだよ! 間違いない!

 

 北郷一刀男色説に立脚すれば、今まで通俗的な見方をしていた三国志の中に、色鮮やかで薔薇色の世界が見えてくるではないか!

 呉子遠や廖化、華佗など、三国志には男だって少なからずいるんだもの!

 いや、むしろ女武将の男体化とかどうだろうか。凄く新しい気がする!

 筆者はこの閃きに、天啓を感じた。

 

 拙作を書き終えた暁には、自作ぱろでぃの『ウホッ、漢だらけの漢中王演義』を世に出してみよう。

 たとえ、どのような困難が待ち受けていようとも。

 

 

 

 

「みんな、どいてぇぇぇぇぇっ!」

 幽州の荒野にて、切羽詰まった玄徳殿の声が左から右へと凄まじい速度で流れていく。

 

「ぬ、ぬわああああああああああっ!?」

「な、何じゃこりゃぁぁぁぁぁぁっ!?」

 彼女が通り過ぎた後に木霊(こだま)するのは、伏兵の突撃に部隊の横腹を食い破られ、宙へと舞った匪賊どもの声であった。

 

「ぐわぁぁぁぁぁぁっ!?」

「あびゃぁぁぁぁぁぁっ!?」

 大小様々な野太い悲鳴が、一直線に続いているのが恐ろしい。

 玄徳殿の駆るバルバトスが、行く手を塞ぐ匪賊の一党を軒並みはね飛ばしているのだ。

 

 ロバとは思えぬ巨大な体躯が、玄徳殿を乗せて縦横無尽に駆け回る様は「賊でなくてマジで良かった……」と震え声になるくらい心胆寒からしめる迫力があった。

 見よ、あの大人の腰回りほどもある太い脚を。

 大地を一蹴りするたびに、それだけで一軍が足踏みしたかのような粉塵が舞い上がっているではないか。怖い。

 長いたてがみの間から覗くバルバトスの両目は、獲物を視界に捉えるたびに怪しい輝きを放っていた。

 

 匪賊をはね飛ばし、馬首を返して再び突撃。

 匪賊をはね飛ばし、馬首を返して再び突撃をひたすらに繰り返す。

 その様は肉食動物が獲物の群れを狩る様によく似ていた。ロバなのに。普段は草を食んでいるはずなのに。

 

 一応、玄徳殿の後方には烏桓族の青年を隊長とした騎馬部隊――、血と鉄のきまりごとを持つことから鉄血団などと自称している――、も続いているのだが、追いつくだけでも手一杯のようである。

 馬の格が違いすぎるのだろう。

 いや、バルバトスはそもそも馬ですらないのだが……。ロバなんだよなあ……。

 

 あれは本当にこの世の生き物なんだろうか……?

 何か別の世界の生き物なんじゃないだろうか?

 これからは"さん"を付けて呼んだ方が良いんじゃないかな。無駄な怒りを買わないためにも。

 

 それがしは、果敢にもバルバトスさんに立ち向かっては蹴散らされている一部の馬鹿に心からの賞賛を送り、逃げまどいながらもやっぱり蹴散らされている残りの連中を心の底から哀れんだ。

 

「……アンタたちといると驚かされてばかりだけど、あれはその際たるものね」

 と呆れ声を発したのは、今回の戦いで囮部隊のお目付け役を買って出ていた上司殿であった。

「破格ですかな」

 それがしの問いに上司殿は頷く。

 

「私は孫陽じゃないから大したことは言えないけど、少なくとも今までにあんな凄まじい馬は見たことがないわ」

 上司殿のいう孫陽とは秦の穆公(ぼくこう)に仕えたという孫伯楽のことである。

 何でも、馬相を見る目に優れていたらしい。

 それがしは一瞬考え込み、答えた。

 

「そりゃあ……、まあロバですからな……」

「馬鹿、茶化すな」

 上司殿の機嫌が急激に悪化していくのを肌で感じたそれがしは、その場から逃げ出すべく、短槍を構えて部下に号令した。

 

「よ、よおし、とどめの突撃いくぞ。吶喊(とっかん)っ!」

「手前ら、クソどもを血祭りにあげんぞ。臆病者はここで死ねっ!」

 それがしと頬に傷のあるオッサンの声に続いて、それがしたちの後ろから割れんばかりのときの声が発せられた。

 彼らは囮役をこなす遊撃兵と正面戦力を担う重装兵を合流させた歩兵部隊だ。

 張世平殿という大商人の支援を受けているおかげで各兵の装備も充実しており、玄徳殿が率いる騎馬部隊ほどの突撃力はないが、それでも十分な突破力を備えている。

 

 後は適当に騎馬部隊と連携して敵部隊に突っ込めば、この戦いは勝利で終わることだろう。

 実際、すぐに終わった。蹴散らした。

 何というか、上司殿が加わってから義勇兵団の錬度が凄まじいことになっており、そんじょそこいらの賊徒では相手にならないのである。

 

「勝利だ! 手前ら、ときの声をあげろォッ!」

「イィエェアァァァァァァァァッ!!」

 まさに匪賊絶対殺す軍団とでも呼ぶべき仕上がりに、それがし恐怖を抱かざるを得ない。

 前に官軍とすれ違った時などは、官軍の将がこちらを一目見た途端、俯いて見ない振りを始めてしまったため、それがしも「あっ……」といたたまれない気持ちになってしまったものであった。

 

「よぉーし、金目のものはさっさと回収。死んだ奴は身包み剥いで放置、生きてる奴は簀巻きにして馬に牽かせろ」

 頬に傷のあるオッサンが放つ無慈悲な命令に匪賊たちから絶望の声が上がる。

 必死に命乞いをする彼らを、義勇兵たちがてきぱきと処理していくまでがいつもの光景であった。

「いくわよー」

「そーれ」

 少年兵が、物騒な蹴飛ばし遊びを始めるのもいつものことである。

 

 それがしが殺伐とした光景を遠い目で眺めていると、

「子遠さーん、疲れたよぉー……」

 あぶみを足場にしてバルバトスさんから降りた玄徳殿が、巨体を引いてとぼとぼと帰ってきた。

 バルバトスさんは比類なき戦力ではあったが、とにかく乗っているだけで凄まじく疲れるらしい。

 そりゃあそうである。

 あんな巨体が飛んだり跳ねたりしていれば、当然背に乗っている人間の負担だって大きいはずだ。

 ちなみに巨体とともに玄徳殿の母性も飛んだり跳ねたりしておられるため、まじまじと見ているとこちらの負担まで大きくなるというおまけ付きだ。二段構えで隙が無い。

 

 では玄徳殿の代わりに体力自慢が乗ればいいという考えに行き着くのだが、残念なことにバルバトスさんは玄徳殿以外が自らの背に乗るのを頑なに認めようとしないのであった。

 とても気むずかしい御ロバ様だと呆れもするが、それと同時に「乗ってもらうならば確かに玄徳殿が良いよなあ」と合点も行く。

 あの御ロバ様とは意見が合うような気がしないでもなかった。

 

 ともかく、バルバトスさんが認めない以上、戦闘が続けば、どうしても玄徳殿が出ずっぱりになってしまう。

 本当はこまめに休んでもらいたいところなのだが、一騎当千のバルバトスさんは、休ませるには惜しい戦力であった。

 無暗に戦力を出し惜しみして、団の被害を増やしたくはないのである。

 そしてそのことは、玄徳殿も重々承知しておられた。

 

「いつもお疲れ様です。玄徳殿」

 疲労が色濃く見える玄徳殿に、それがしは手持ちの水筒を差し出す。

 戦のあとにはいつも交わしているやり取りだ。

 

 玄徳殿は笑顔で水筒を受け取ると、

「えへへ、ありがとう!」

 そう言っては水筒の中身をごくごくと飲み、

「ひゃあ、気持ちいいっ」

 飲み残しを頭からかぶっては、戦場の火照りを冷ましていた。

 

 それがしは彼女の一挙一動を見逃すまいと、じっと彼女を見つめる。

 火照りによって紅潮した頬や、水気を吸ってほのかに透けて見える上半身、上半身、上半身、母性、母性、おお、おお、荒涼なる大地に、雨の滴り落ちた、二つの春の芽生え。

 

「……どうしたの? 子遠さん」

「いえ、頑張られているなあと」

 それがしがごまかすと、玄徳殿は両のこぶしをぎゅっと握り締めた。

 

「うん! 戦いは今でも嫌だよ? 匪賊の人たちが戦わずに降服してくれないかなーって、いつも思ってる。でも、それとは別にみんなの役に立てるのも嬉しいんだ。私、剣は扱えないし、勉強もあまりできないし、今まで役立たずだったから……。多分、今が頑張り時なんだと思う。ここで簡単にめげていたら、みんなが笑顔で暮らせる世の中なんて作れないよねっ」

 玄徳殿はそう言って片手を挙げては、「だから、頑張る! えい、えい、おー」と可愛らしく声をあげた。

 

 あああ、心が痛い。

 彼女の純粋な立ち居振る舞いはまるで、それがしの邪な心を見透かされているかのようだ。

 ああ、呉子遠よ! お前は主がこうも健気に頑張っておられるというのに、いつまで卑猥な欲望に囚われているつもりか。

 いちいち腕を振り上げた時にぶるんっと震えた大いなる母性に目を奪われている暇などは……、暇などは……、後一刻。いや半日――。

 

「あいだだだだだだだだだだだだっっ!?」

 唐突な痛みに覚醒する。

 地面に根の張ったそれがしの足を切り倒そうとしていたのは、上司殿の竹のこぎりであった。

 待って。痛い。それ、洒落にならないほど痛い。

 

「仕事をしろ、ぐうたら男」

 据わった目つきで上司殿にこう言われてしまえば、それがしは従うより他にない。

 彼女との上下関係は最早、染みついた習性のようなものである。

 それがしは荷馬車に積んだ竹簡を引っ張り出しては、匪賊どもから奪った戦利品を帳簿に記し始めることにした。

 

 ああ、命のやりとりの後は単純作業のお出ましだ。

 仕事したくない。この場から逃げたい。

 でもなあ……、真名まで頂いた玄徳殿は流石に見捨てたくないんだよなあ。

 あと、上司殿が入団されたことでそれがしの仕事量が激増したとはいっても、前職にはあった同僚やら他の仕事仲間からの嫌がらせが、この職場にはないというのは大きかった。

 人間というものは対人関係さえある程度良好ならば、意外にひどい仕事量でも耐えられるものらしい。

 やはり、もう少し頑張ろう。

 それに……、下手に逃げだして捕まったら、今度こそ上司殿に殺されそうだし。

 それがしは怠け心と良心とを葛藤させながらも何とか作業を終え、上司殿のもとへ向かった。

 

「とりあえずの整理は終わりましたぞ。追って清書してご報告いたします。そろそろ街へと移動いたしますか?」

「ん、ありがと。清書は要らないから、そのまま頂戴。移動は、そうね。ちょっと待ってなさい。今、桃香が"依頼人"と話をしているから」

 荷台に座りながら書き物をしていた彼女に、何故か待機を命じられた。

 

「およ?」

 義勇兵団の中列、荷台の並ぶ輜重隊(しちょうたい)のさらに前方で、玄徳殿が現在護衛中の交易商人と打ち合わせをしていた。

 商人はぺこりと貴人に対する礼をとりながら、恭しく今までの感謝を述べている。

 

「玄徳様。長旅の護衛まことにありがとうございます。もう少しすれば幽州に着きましょうから、今の内にお礼をばと思い、伺いました」

「えっ、もうそんなに移動したんですかっ! 意外に解県(かいけん)から幽州って近かったんですね」

 商人の言葉に驚きの声を上げる玄徳殿。

 対する交易商人は上機嫌な面持ちで答えた。

「いえいえ、普段ならば半年以上はかかる道のりですよ。皆さんのお力添えがあったからこそ、こうも順調に旅ができたのです。命の安全は安くありませぬでな。玄徳様には儲けさせていただきました」

「えへへ、どういたしましてっ。それは頑張った甲斐がありました!」

 照れくさそうに頬をぽりぽりと掻く玄徳殿を見ながら、それがしは今までの道中に思いを馳せる。

 

 

 何故、我ら義勇兵団が交易商人の用心棒なんぞをしているのかというと……、実は上司殿が義勇兵団に参加してから間もなくして、幽州西部土着の匪賊が"全滅"してしまったからなのだ。

 

『子遠さん、みんな……、どうしよう……。お仕事なくなっちゃった』

 玄徳殿にそんな泣きごとを言われて呆気に取られてしまったのは、今から三か月以上前のことであった。

 

 

 

 団のお抱え軍師に任じられた上司殿は、その知謀を余すところなく発揮した。

 まず、彼女は義勇兵団をいくつかの部隊に分け、その活動範囲を大幅に広げるよう指示を飛ばす。

 次に、殲滅力の落ちた各部隊を効率よく運用し、各地の匪賊どもを追い立てては、幽州のとある箇所へと集結させた。

 そして、小集団を率いる匪賊の頭領たちが仲間割れを始めるように流言を仕掛け、命令系統をずたずたにしたところで、

『我が策成れり』

 と囮部隊を投入し、ぞろぞろと囮に釣られた一団を、伏兵によって一網打尽にしてしまったのだ。

 

 最後の指示を発する時、

『馬鹿は扱いやすくて良いわね、やっぱり』

 などと事もなげに仰った上司殿の顔は忘れない。この人には絶対逆らわないでおこうと改めて認識した瞬間であった。

 

 さて、話は玄徳殿の泣きごとに戻る。

 手近な匪賊を見事に壊滅させてしまった我らが義勇兵団は、地元の崇敬を勝ち取ったのと同時に、匪賊退治という日々の生業を失ってしまった。

 五百人から倍増えて、千人にも及ぶ無職の爆誕である。

 匪賊も、略奪はしなくていいからもう少し粘れよと苦情を言いたい。近頃の匪賊は根性が足りないんじゃないか。

 

 一応、義勇兵団が縄張りとしている地域以外にも、幽州には手つかずの地域があったのだが、そちらでは遼西郡の長史をやっている公孫伯圭殿という将軍と、北郷一刀殿という御仁が率いる別の義勇兵団が活躍しているために獲物の取り合いになる恐れがあった。

 さりとて、このまま上谷郡に居座り、惰眠をむさぼるというのもまずい。

 ……いや、それがしとしては大歓迎なのだが、英雄に対する世間の目というものは厳しかったのだ。

 

 絶体絶命の窮地に瀕した我らに、救いの道を示したのは上司殿であった。

「桃香。アンタ、少しは自分で考える癖も身に着けなさいよ。でも、そうね――」

 彼女の提案をかいつまめば、以下のようになる。

 

 曰く――、匪賊退治は鹿狩りのようなものである。獲物がいなくなれば途端に困窮してしまう。

 ここは一つ、猟師から別の職に転じる必要があるのではないだろうか――?

 

 上司殿のこの提案に、憲和殿が「そう言えば」と声をあげた。

「張世平さんに仕事の口利きを頼んだら? あの人、仕事の仲介屋もやっているでしょ」

「賛成です。それなら、バルバトスの件もありますし、私たちの頼みを無碍にすることもなさそうです」

 国譲殿が憲和殿の意見に賛同を示したことで、団の方針はとりあえず偉い人に丸投げしようという流れで定まった。

 それがしも当然大賛成した。

 自分で物事を考えるのは嫌いだったからである。

 

「分かった! 私、早速張さんに仕事がないか聞いてくるね! 子遠さんもついてきて!」

「え、あ、はい」

 こうして我々は意気揚々と州内の大店へと向かい、稼業を切り替える旨を張世平殿に切りだした。

 

「えっと、義勇兵団のみんなを養えるような、おっきな仕事ってあったりしますか……? やっぱり難しかったりしますか……?」

「千人を養える大仕事……。ふむふむ、ありますぞ。ありますぞ! 貴女方にうってつけの大仕事がっ!」

「ほんとですかっ?」

 張世平殿は、最初こそ顎肉を揺らして悩んでいたものの、すぐに都合のいい仕事が思い当たったのか、手紙をしたためて、依頼人を紹介してくれた。

 

 一体どんな仕事だろうか?

 半分の期待と半分の不安を胸に秘め、それがしと玄徳殿が依頼人の住む小さな店へと足を運ぶと、

「いらっしゃい」

 そこは市井に塩を格安で売る張氏の系列店であった。

 

 張世平殿の斡旋してくれた仕事とは、洛陽の西にある塩湖(えんこ)から良質の私塩を"密かに"運び出し、北方の騎馬民族や民草に対して、格安で塩を提供する、塩商人たちの護衛であったのだ。

 なるほどなあ、商人の護衛かあ。大変なのかなあ……、などとぼんやり考えていたそれがしであったが、

「エッ?」

 すぐさま、そのきな臭さに勘付いた。

 

「分かりました! 私たちに任せて下さ――」

「えっ、ちょっ、玄徳殿!」

「――むぐっ?」

 二つ返事で答えようとする玄徳殿の口を慌てて塞ぐと、それがしたちは答えをいったん保留として、その場を静かに立ち去った。

 何故なら……、張世平殿の斡旋してくれた仕事は、要するに"密売商人"の用心棒であったからだ。

 

 一応、張世平殿が悪徳商人というわけではなく、むしろ貧しい人々に仕事や富を分配するような義侠心の強い御仁であることはそれがしも重々承知している。

 やたら腹とか出ているし、顔も明らかに悪人面なのだが、その性根は街の浮浪児を引き取っては育てるくらいに優しく、徳の高い人なのだ。多分。

 そんな御仁が、果たして私欲を満たすためだけに法を犯すような要求を他人にするだろうか。いや、するまい。多分。

 

「ちょ、ちょっと子遠さん! 急にどうしたの?」

 しかし現実問題として、塩の流通は今の治世において、一定の手続きを踏まなければ違法になってしまう分野であることに違いはない。

 私兵暮らしの長かったそれがしはあまり詳しくないのだが、例えば塩の生産地には塩官という官吏が赴任している。

 塩官の仕事は、塩の生産業者に仕事道具を貸し与え、生産した量に応じた税を課すことだ。

 ここで課税された塩が官塩。

 課税を逃れるべく、生産量をごまかした塩が私塩である。

 私塩を取引するような輩が、国法においては罪人に区分けされることは言うまでもないだろう。

 

「……この仕事は少々危険が伴いますから、一度皆で相談すべき案件だと思いますぞ」

「あっ、なるほど。確かに匪賊退治の代わりだもんね……。危険がないはずがないもん。流石、子遠さんだぁっ」

 玄徳殿にはこう説明したが、それがしはぶっちゃけこの仕事を引き受けるつもりはなかった。

 だって、後ろ手に枷をかけられたくはないんだもの。

 だから、フンフンと楽しげに鼻歌を歌う玄徳殿の手を引き、皆のもとへと飛ぶようにして戻ったそれがしは、それはもう皆に訴えた。必死に。

 ねえ、やめようよ。まずいって。

 皆さんだって、国法というものを知っておるでしょう。

 危険だよ。お上に逆らっちゃ、いけませんよ。もうちょっと真っ当でコツコツとした仕事を探しましょうよ、と。

 だが返ってきた反応は実に空しいものであった。

 

「え、塩は市井の塩商人から買うものじゃないの? お母さんは張さんのところでいつも買っていたけど……」

 とは玄徳殿の言だ。さらに、

「密売といえば確かにそうだけどねえ。はっきり言って、官塩なんて正直高すぎて、幽州じゃほとんど出回っていないよ」

「そもそも、官塩は中央の官吏や兵が利用するものですよ。子遠殿は塩を一般のお店で買ったことがないのですか?」

 と憲和殿に国譲殿。

 皆が皆、お前は何を言っているんだ? という顔をしている。

 官塩がほとんど民間で出回っていないなんて、それがし都暮らしの私兵育ちだったから知らなかったよ……。

 まさかの民間人代表三人組より反対意見が出されたことで、それがしの立場は窮地に陥ってしまう。

 

 そうして不利に傾いた形勢を決定づけたのは、頬に傷のあるオッサンの正論であった。

「副頭領、塩商人の安全を守ることは、ひいては民のためになるんじゃないですかい?」

 ……うん、そうだね。

 塩商人の護衛は、民のために生きるという我ら義勇兵団の大義を、それはもう見事に満たしているね……。

 

「……アンタ、変なところで生真面目というか世間知らずよね。ずっと私兵暮らしだったんだから、分からないでもないけど」

 と、いつもの上司殿にしてはとても優しい御言葉をいただいたところで、それがしは完全敗北を喫した。

 

 こうして、洛陽西部の解県まで隊商とともにはるばる赴いた我々は、紆余曲折を経て幽州へと舞い戻ってきたわけなのだ。

 

 

 

 

 途中、黒山賊とかいうやたら数の多い賊徒の襲撃を何度も受けるなど、危うい局面もあったのだが、そういった過去は忘却の彼方へと葬った。というか、思い出したくない。

 

 何で匪賊が一万も二万も都の近くでのうのうと暮らしているんだろう。

 塩の取り締まりは良いから、官軍仕事しろ! お陰で何度も囮部隊として生死の境を彷徨う羽目になったんだぞ……!

 

 それがしが絶対許さないとばかりにひたすら恨み言を呟いていると、呆れ顔の上司に胸をコツンと叩かれた。

「……桃香の話、終わったわよ。アンタも人前ではしゃんとしときなさい。ただでさえ能が無いんだから、見てくれくらいは強そうに見せること」

「アッハイ」

 僥倖なことに、幽州に入ってからは賊の襲撃もぴたりと止んだ。

 どうやら、まだ獲物となる匪賊どもは繁殖していないようである。

 

 日が暮れるまでには、何とか州都にたどり着こうとした我々は、昼飯もそぞろに幽州と冀州(きしゅう)の州境を出発した。

 いくつかの宿場を素通りして、ひたすらに歩いて半日ほど。

 西日が中原と夷地を隔てる峻嶮(しゅんけん)な山々の向こう側に隠れるや否やといった頃合いに、我々の行く手に大きな街壁がひょっこりと姿を現した。

 

 幽州の州都、広陽である。

 

「お帰りなさい、皆々様! これでしばらくは塩っ気のある料理が贅沢に食べられますな」

 そんな熱烈といって差し支えない衛視の歓迎ぶりを目の当たりにして、それがしは羞恥心のあまり顔を覆いたくなった。

「はい、はい。お仕事お疲れ様です。なるべく早く卸しますので、楽しみに待っていてくだされ」

「護衛の方々も御苦労様です」

「あっ、どうも……」

 ……本当に黙認されておるのだなあ。

 まさし君の言う、いわゆる「どや顔」で国法を語った以前のそれがしを、助走をつけて殴りたい気分であった。

 うーん、うーん。きりきりと締めつけられるように、胸が痛い。羞恥心が痛い。

 

「どうしたの、子遠さん?」

「いえ、黄砂が目にしみて……」

「大変! 水筒の水、あげようか?」

 玄徳殿の優しさも心にしみた。

 

「それでは、いつものように壺の中身は"小麦粉のような何か"ということで」

「はい、はい。"小麦粉のような何か"で。それで宜しくお願いいたします」

 衛視が苦笑いを浮かべて言った言葉に、商人が揉み手でにこやかに返す。

 なるほど、密輸した塩はそのままでは聞こえが悪いため、"小麦粉のような何か"と言い張るんだなあ。覚えておこう。

 もう恥ずかしい思いはしたくないし……。

 それがしが苦々しい思いで、彼らのやり取りを見守っていると、

 

「待たれよっ、そこなる衛視殿!」

 馬に乗った女武芸者が、通行手形に印を押そうとしている衛視と商人の間に颯爽と割り込んできた。

 蹄の跡を見るに、どうやら我々の後を相当急いで追ってきたらしい。

 

 彼女は、緑を主体とした見事なこしらえの戦装束に身を包み、烏の濡れ羽色をした長い髪を横で一つに結んだ、凛とした美少女であった。

 何処からどう見ても整った姿かたちをしているが、何よりも目立つのが凛とした美人に良く似合う、ツンとした母性である。

 いやはや、まったくもって素晴らしい……。

 何せ馬の揺れに応じて、力強い母性がブルンブルンと――、

 

「あいだだだだだだだだだだだだだっ!?」

 咄嗟の痛みに脛を見下したが、そこに竹のこぎりはなかった。

 そのかわり、何処かからひっしと視線を強く感じる。恐らくは一人分ではなく二人分くらい。

 どうやら脛の痛み自体は幻痛であったようだが、視線の正体が分からなかった。

 一体全体何だっていうのだろう……。

 それがしはただただ恐ろしくなって、非常に口惜しくはあったが、ツンとした母性から目をそらした。

 

「……一体、何だというのだ?」

「あ、いえ。お構いなく。続けてください」

「そ、そうか」

 黒髪の美人は咳払いをすると、手に持った見事な青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)を振りかぶり、

「この者たちの積み荷は、不法な品である恐れがある! 衛視殿はそれを承知で、街に入れようというおつもりかっ」

 といって我々の積み荷を指示した。

 

「――エッ?」

 彼女の放った、高らかに謳うような指摘の声に、それがしの心臓は嫌な感じに跳ね上がった。

 

「……武芸者様、我々の積荷はただの"小麦粉のような何か"でございます。はい」

「ほう……、そうか。だが、私は確かに前の宿場で聞いたのだ。貴殿らが公の眼を逃れて、塩を密かに運んでいると! もし、貴殿らの積み荷が天下の往来に見せても良いものだというのなら、この場で壺の中身を開けて見せよっ。この北郷一刀様が右腕、関雲長の前で――!」

 ……これはどういうことなのだろう。

 張世平殿が塩の販売を州内で大っぴらに推進している以上、現地官吏の懐柔は既にできているはずだ。

 

 となると、彼女は中央から派遣された塩官なのであろうか?

 いや、塩官にしては文官服を着ていない。

 というか、北郷一刀殿は確かこの界隈で活躍しておられる義勇兵団の指導者であったはずだから、その右腕である彼女が官職に就いている可能性は薄いだろう。

 それでは何故、彼女はこんな追及をしているのだろうか……?

 彼女の意図を図りかね、答えを求めて周りに目配せをし――、それがしは凍りついた。

 

 皆が皆、とても生暖かい目をしておられる……!

 玄徳殿は「あー」と苦笑いを浮かべておられるし、憲和殿と国譲殿、それにオッサンは少女を見ていない。露骨にそれがしを見ては、にやついている。

 上司殿もすごい呆れ顔だ。

 あの顔には見覚えがある。

 以前、それがしが塩の販売について無知を晒した時と同じ顔であった。

 

「あ、あいだだだだだだだだだだだだだっ!? 羞恥心が痛い! 羞恥心が痛い!!」

「ど、どうした?」

「ちゃうねん、彼女は生真面目なんや! 真面目すぎるだけなんや!」

「だから、どうしたと聞いている!」

 黒髪の少女、関雲長殿がびっくりとした面持ちで問うてきたが、正直に答えることはできなかった。

 何故なら、この胸の痛みは……、彼女がこれから経験するであろう羞恥地獄を慮っての幻痛だからである。

 

「あ、いえ。急に胸が痛み始めて……、お構いなく」

「そ、そうか。しかし、胸は駄目だろう。命に障るといけないから、安静にしておくように」

 どうやら彼女はツンとしてはいるものの、違法な取引を行う容疑者に対しても慈悲を見せる、優しい性根をお持ちのようであった。

 

「えっと、だな……」

 仕切りなおそうとして、雲長殿はどうしたものかとおろおろとし始める。

 そりゃあ、折角ビシッとかっこよく名乗りを決めたというのに、こうも話の腰を折られては勢いが削がれてもおかしくはない。

 

「ええと。とにかく、壷の中身を検めさせてもらいたいのだが」

「んん……、そうですね。はい。貴方様方にはこの近隣の治安をお守りいただいておりますから、特別に中身を見せて差し上げましょう」

 ともったいぶって言う商人の顔は、まるで芝居の悪役然としたいやらしい表情になっていた。

 

「う、うむ」

 雲長殿は荷馬車に積まれた壷の中身を検分し、それが確かに塩であることを確認する。

 そうして「これはどういうことだ」と厳しい表情になったところで、官民が合同で懇切丁寧な解説を始めた。

「あ、う……」

 それからの雲長殿は実に百面相といって良かった。

 目を見開いて驚いたかと思えば、段々と表情が暗くなり、しまいには真っ赤な顔で「申し訳ない」と頭を下げ、街壁のほとりに座り込んでしまう。

 

「もし、雲長殿」

 一団の通行許可が下り、仲間たちが街中へと繰り出していく中で、それがしは黄昏る雲長殿に声をかけに行った。

 何せ、ある意味同志である。

 このまま捨て置いては、胸がさらに痛みそうだった。

 

「……何だ」

 雲長殿は俯き、膝を抱えて座り込みながらこちらを見ずに言った。

「いえ、やっぱり今まで塩を自分で買ったことがなかったのかなあと疑問に思いまして」

「……村にいた頃は、兄様が用意してくれていた。それに村では塩が採れたから……」

 少し涙声なのが心に響く。

 

「その、自分で料理をされたりとかは」

「……ない。何時か覚えようとは思うが、今はそれどころではない」

 西日の向こう側に、カラスが群れなして飛んでいった。

 

「ところで、北郷殿の右腕とのことですが、お味方は一体どちらに?」

「……慌てて貴殿らを追いかけてきたので、ご主人様とは離れてしまった。今は黄巾賊を警戒すべく、冀州との州境に陣を張っておられると思う」

 しばしして、南方から誰かを呼ぶ声がかすかに聞こえてきた。

 

「愛紗ーっ。返事をしてくれーっ」

「愛紗ーっ、一体何処にいるのだー!」

 それはまだ若さの残る青年の声と、幼い少女の声だった。

 


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