劉玄徳と北郷一刀。
共に三国時代を代表するこの二人の英傑は、生まれこそ違えどもその思想から立ち位置に至るまで、まるで鏡写しのように良く似ていることが、古くから多くの歴史家によって指摘されていた。
時代を隔てた他人にすら指摘できることが当人に分からぬ訳もなく、面白いことに二人は正史・家伝の中に互いが互いを強く意識しているかのような言行を数多く遺している。
昨今は、こうした「二人は互いを意識している」という記述のみを曲解して「劉玄徳をめぐり、三国一の美男子である北郷一刀と三国一の忠臣である呉子遠を交えた三角関係があったのだ。クソ萌える」などとする三文劇作が巷には溢れかえっているが、筆者はこうした風潮を嘆かわしく思う。一言で言えば、そびえたつクソだ。
二人が持ち得た感情は決して恋愛のそれではない。
恐らくは目指す理想を同じくしているという共感に、互いに立ち位置が似ているからこそ生まれる憧憬、そして……、嫉妬。
そんな華やかさとはほど遠い、もっと暗くじめじめした感情を二人は互いに抱き合っていたのではないかと思われる。
そうでなくては、彼らが共同戦線をとった際に、彼女が取った"冒険的行動"の意味が理解できなくなってしまうではないか。
それに、北郷一刀様は呉子遠様と両思いだし?
この二人の組み合わせに付け入る隙なんてないし?
いずれにせよ、劉玄徳は北郷一刀と出会ったことで、何らかの大きな影響を受けたことは想像に難くない。
あ、主人公の女が好きな男を男に寝取られる展開だけは認めても良いのではないかと、最近思うようになりました。まる。
◇
雲長殿を迎えにきたらしい義勇兵団の将――、北郷一刀殿は彼女から事情を聞くや否や、それがしに向かってぺこりと頭を深く下げた。
「あの。愛紗が御迷惑をおかけしたみたいで。すいません!」
何処か浮世離れした、不思議な雰囲気を持った青年だ。
偉ぶっているわけでもなく、強者に媚びへつらっているわけでもなく、何と言うか自然体で謝っている。
多分、世間ずれをしていない、相手の身分を気にしない素朴な人となりをしているのだろう。
今も単純に自分たちに非があると素直に思っているからこそ、ああも直角に頭を下げているのだ。
そういった手合いは地方出身の武官の知り合いにもいくらかいた。
ただ……、多くの場合、素朴は粗野と紙一重であるはずが、彼の場合は素朴さとともに何故か気高さまで感じられるのだ。
彼の見てくれは男だというのに、まるで今まで仕事という仕事をしたことがないのではないかと疑問に思うくらいに整っているし、着ている物も市井に出回っているような代物ではない。
キラッキラしておるのだ。
キラッキラ。
ぬおお。ま、眩しい。
それがしが眩しそうに半目になっていると、
「ご、ご主人さま……っ。そのっ、これは私の落ち度ですから……っ!」
雲長殿があからさまにうろたえ始めた。
どうやら、主の面目を潰してしまったとでも思ったらしい。
そして、かの黒髪美人が羞恥と情けなさで赤く縮こまるほどに、それがしまで居心地の悪さを感じていた。
何せ彼女の仕出かした間違いというのは、下手をすればそれがしもやりかねなかったものであったからだ。
……羞恥心の痛みって長く続くものなんだなあ。
「ううう……、それならば、私もっ」
しまいには古傷(比較的新しい)にもだえるそれがしに向かって、雲長殿まで再び頭を下げ始めてしまう。
やめて! ほんとに、居たたまれなくなるから!
上から見える母性の谷間は確かに眼福ではあるが、マジでやめて!
いい加減に耐えかねたそれがしは、北郷殿の平身低頭に対して知識人然とした風を装い、曖昧にはにかんで応えた。
「……いえいえ、お気になさらず。雲長殿は知らなかったことを知ることができた。我々も特に損害を受けたわけではない。何も問題はないじゃありませんか」
完璧な答えである。
雲長殿の座る針の筵を取り除き、それがしを苛んでいる羞恥心の雨あられを払う、全てが丸く収まりそうな受け答えであった。
「あ、ありがとうございます!」
それがしの言葉に北郷殿はキラッキラと笑顔を見せる。西日も相まってくっそ眩しい。
眩しいけど、これで万事うまくいったかな?
それがしはほっと息を吐く。
……が、彼はこちらが雲長殿の落ち度を水に流したことに対して、さらに頭を深く垂れ始めた。
「ですが、やはりこちらも迷惑をおかけした身ですから――」
「エッ? いえいえいえ……、雲長殿は国法を守らんとしたわけですから。義に従っただけですぞ。義によって動いた者に、仁をもって応えぬというのも儒の道より外れてしまいます。むしろ義の範を見せてくださった雲長殿には、我々もかくあるべしと――」
「あ、あの……、その持ち上げられ方は、羞恥心が痛くて――」
もじもじと雲長殿。
「ありがとうございます。ですが、そういうわけにも……」
あくまでも北郷殿。
そうして三人で互いにぺこぺこ。身分の別なくぺこぺこぺこぺこ……。
……何だこれ。
これは都でも経験したことがない、新感覚だ。
それがしはただ困惑する。
お金か物でも迷惑料として貰えばいいのだろうか?
だが、義勇兵団という稼業はある意味で人気商売であり、へたなことをして自分たちの評判を下げるのはまずい。
我々から評判を取り払ってしまえば、ただの暴力団体に成り下がってしまうではないか。
いや、それはもうほんと。勘弁して下さい……。
延々と続くかに思われたぺこぺこ空間を打ち破ったのは、北郷殿の隣であくびをしていた赤髪の少女であった。
「なあなあ。愛紗は何か悪いことしたのだ? もし、悪いことしたなら、ごめんなさいして、鎧のお兄さんに許してもらっておしまいじゃないのかー? 鈴々はいつもそれで許してもらっているのだ」
「いや、鈴々。そういうわけにも――」
「その通りですぞっ!」
それがしは勝機を得たとばかりに強い調子で言い放った。
適当なほらを吹いて相手を煙に巻くことは、それがしの数少ない特技である。
それがしは、崑崙山に封じられた仙人の失敗談から西王母の浮気話にまで至る壮大な展開の物語をまくし立てては、彼らを無理やりに説き伏せることにした。
「――というわけで……、あっ! そもそも、北郷殿は一軍を預かる代表者でありますぞ! 部下の手前、みだりに頭を下げてはなりませぬっ」
「あ、はい。えっと。心遣い、ありがとうございます……?」
「いえ、いえ! では、これで水に流したということで。これで!」
「あ、ちょっと待って下さい!」
まだ何かあるの!? とそれがしが泣きそうな顔になると、北郷殿もすまなそうな顔になって続けた。
「あの、劉備さんの部隊の方ですよね? 長旅のところ申し訳ありませんが、是非劉備さんと一緒に俺たちの陣に来てくれませんか? 上司の公孫サンさんという方が会いたがっているんです。何でも、昔馴染みの学友だそうで……」
「はて――?」
まさかの提案にそれがしの首はコテンと傾いた。
「玄徳殿の、ご学友?」
「はい!」
公孫サン殿とは、遼西郡の伯珪殿のことだろう。
長吏をやっている将軍であるから、一地方を軍・政ともに束ねているような御仁である。
「そのような出来物と、玄徳殿が……?」
「はい……! って、何で疑問系なんですか?」
「……この案件につきましては、一旦ご提案を受け取らせていただく形で、後日返答させていただきたいと思いますぞ。こちらにご連絡先を、お願いできますかな」
「えっ、あっ、はい……。って、何で急に役人口調?」
それがしは、北郷殿の連絡先を受け取るや否や、その場より脱兎の如く逃げ出した。
確認しなければいけないことができたからである。
街門をくぐり、州刺史である劉伯安様の御殿へと続く大通りを走り抜け、途中でチンピラがたむろしている裏道へと駆け込み、怪しげな商売をやっているゴロツキどもを押しのけ、我ら玄徳殿と物騒な仲間たちが天幕を張っている流民街へと辿り着く。
……街の人々を怖がらせるという理由から、ここしかまともに駐屯が許される場所がなかったのだ。
「あっ、子遠さんおかえりなさい! 血相を変えて、どうしちゃったの?」
玄徳殿は、少年兵たちと一緒に夕飯の支度をしていた。
流民の放置したごみの悪臭をかき消すようにして、薪をくべられた炊事場から、腹を刺激する香りが立ち上っている。
「ちょっと、アンタたち塩の配分間違えないでよ!」
炊事場からは上司殿が幼年の団員を叱責する声も聞こえてくるが、今は特に重要な情報ではないため捨て置くことにしよう。
暢気な声をあげる玄徳殿に、それがしは息を切らせながらも問いかけた。
「……公孫伯珪殿とお知り合いなのですか?」
「
はぇー、なるほどなー。
盧植様の私塾で共に学んでいた間柄と。
なるほど、それなら納得も……、
「いやいやいやいや! ええええええっ? 何故、義勇兵なんぞをやっておるのですか……っ!?」
納得できねえ!
それがしはその場に崩れ落ちながら、呆れ声をあげた。
◇
……というか、現在進行形で国政に携わる宰相だ。
それがしも都で一度だけお目見えしたことがあるが、一目見ただけで「すげえ、でけぇ……」と感服してしまうほどの英傑であった。
人に歴史ありとは言うものの、我らが首魁たる玄徳殿がそのような御仁のお弟子様であったとは……。
長旅を終えて人心地ついたそれがしたちは、天幕の前で炊き出した飯を車座になって掻きこみながら、玄徳殿の昔話に耳を傾けていた。
曰く、昔はいじめられっ子だったとか。
白蓮ちゃんと仲良くなってからは友達もたくさん増えたとか。
色々と話を聞いた結果、上司殿が五歳に満たない団員たちにご飯を手づから与えながら、呆れ声で問うた。
「アンタ、何で官職を得なかったのよ?」
彼女の疑問はもっともなものであった。
今日の社会において学歴はとても大きな意味を持つ。
例えば、都か地方で官職を得たければ、都の大学を出るか、高名な学者に師事する、または地元の名士の推薦を受ける必要があるのだ。
そう考えると高名な学者の教えを受けた玄徳殿は、官職を得る条件を当然ながら満たしているのであり、ふらふらと手に職をつけず、義勇兵などにその身を落とす必要がない身の上であった。
だというのに、それがしと出会う前は何故天の御遣い探しなんぞをしていたのだろう?
お母さん、今頃泣いているんじゃないだろうか……?
「そうなんですよ、桃香ちゃんは本来こんなことをしていちゃダメなんです!」
国譲殿がここぞとばかりに鼻息を荒くして、「家に帰りましょうよ」と叫び始める。いつもの発作であった。
常ならば憲和殿が途中でなだめる形で沈下するのだが、彼女も今日は「また始まった、また始まった」とげらげら笑うだけで、国譲殿の暴走を止めようとしない。
見れば、憲和殿の周りには既に酒樽がいくつも転がっていた。あっ……。
まあ、長旅からの帰還だしなあ……。
そんな三人の様子に苦笑いを浮かべながら、玄徳殿は申し訳なさそうに答える。
「あ、あはは……、別に隠していたわけじゃないんだよ。それに私、塾でもあまり勉強ができた方じゃないし」
「腐っても鯛でしょ。勉強の出来不出来は、官職を得た後の立身出世に影響はしても、官職を得ることには影響しないわ」
したり顔でそう返す上司殿に、ご飯待ちの幼年団員たちが「まんま」と抱きついてきた。
「ああ、もう……。順番くらい守りなさい。今の内に儒の教えをしっかり身につけなくては、あそこのクソみたいな恩知らずになるわよ」
流れ矢が深く刺さった気がしたが、ここは気にしないでおく。
意外なことに、上司殿は五歳未満ならば男女の別なく世話することができるのだよなあ。いつ見ても信じられぬ光景である。
「……何よ」
「いえ、別に」
上司殿に凄まれたため、慌てて目をそらす。
玄徳殿は自信なさげに笑って、さらに続けた。
「うーん、実際官職を得る道もあったんだけどね。仕官するちょっと前に、故郷でちょっとした失業者をめぐった騒動が起きて、騒動を起こした人たちとお話をする機会があったの」
「お話、ですか」
「うん、お話自体は何でみんなが反乱まがいの騒動を起こしたのかとか、今の大変な環境とかそういうお話」
それがしの相槌に玄徳殿が頷く。
「それでね。政って民の陳情を聞いて、その暮らしを良くしていかなきゃならないでしょ? でも、民の不満を改善するにはとても長い時間がかかっちゃう」
「確かに。それは、その通りですな」
それがしは頷き、現在我々が居座っている流民街の景色を見まわした。
善政を布いていると専らの評判である、幽州刺史の劉伯安様ですらお膝元の街に税を払えぬ貧困者と失業者を抱えてしまっているのだ。
これは本人の力量不足というよりも、行政というものの本来的な腰の重さが影響しているように思われる。
行政は原則として上意下達で動いており、いくら民の声を下級官吏が聞き届けて、行政を改革しなければと発憤したところで、上司が重い腰を上げなければ、反映されることはない。
さりとて、長が直接に民の声を聞こうとしても、当人の仕事量が膨大なものになってしまい、やはり行政が行き届かなくなってしまう。
民の声を可能な限り迅速に反映させるためには、地盤と鞄を持った役人の存在が不可欠だ。
正義ではなく利益を説き、上司の決断を促すためのうまみを用意し、行政改革によって良かれ悪しかれ影響を受けるであろう他方への調整に奔走する。
そんな役人が何人もいて、初めて迅速な行政は成り立つものなのだ。
あるいは長が常に民と寄り添うことができるよう、雑事をすべて丸投げでき、滅私奉公を誓ってくれる有能な宰相がいれば話は別なのかもしれないが、そんな者は探すだけ無駄だろう。盲亀が浮木に入ろうとするよりも稀な存在を不可欠として求めるなど、あまりにも都合の良い妄想だ。
しかし、いずれにしたって手間と時間がある程度かかってしまうことは避けられない。
今苦しんでいる民に、いくばくかの我慢を強いる必要があった。
「でね。お役人様に私、騒動を起こした人たちと一緒に県政の改善を頼んだんだ。私のお父さん、昔県令をやっていたから、顔見知りのお役人様もたくさんいたし……」
「ふむふむ」
どうやら玄徳殿は鞄はどうあれ、地盤は確固たるものを持っていたようだ。
聞けば聞くほど、地方の役人になった方がいいんじゃないかと思えてくる。ていうか、県令て。
えらい父上だなあ。やはり、お嬢様であった。
「でもね。お役人様は快く返事をしてくれたんだけど、中々みんなの職が見つからなかったの。政の改善がすぐに始まらないのは分かっているけど、その日を切り詰めて生きている人たちに、その日の職がないのは大変でしょ? だから、何とかしよう! ってことで、私は失業者のみんなと一緒に職探しを始めたんだよね。豆屋さんのお手伝いとか、肉屋さんの売り口上役とか、どぶ掃除とか。筵織りなんていうのもやったかなあ。そうしたらね――」
「あー……」
役人経験者であるそれがしと上司殿は、ほぼ同時に納得の声を漏らした。
これは十中八九、職内派閥に関わる揉め事が始まる流れだ。
現在の失政を、先の県令の娘が告発し、先の県令閥であった下級役人が現職に進言する。
これだけでも面白くない話だというのに、さらに先の県令の娘が行政のまったく関わらない場所で、民の陳情を聞き入れて活動を始めては、現職の面目が潰れてしまう。
恐らくは当時も、そしてこれからも現職の県令が玄徳殿たちの陳情を受け入れることはないだろう。
それどころか、進言をした下級役人まで首を切られていそうだ。他人事ながら恐ろしい……。
「それでケチがついたから、官職を得ようとしなかったってこと?」
上司殿が問うと、玄徳殿は頭を振った。
「そうじゃなくて、何て言うのかなあ……。陳情を聞いてくれたお役人様が悔しそうにしているのを見て、私が官職を得ても、すぐに力ない人のために何かできるわけじゃないなあって、そう思ったの」
「そんなの仕方のない話でしょう。改革は急に成り立つものではないわ。ある程度は民にも我慢してもらわないと……」
至極常識的なことを憮然として言う上司殿に対して、玄徳殿はきっぱりと返した。
「でも、今"辛い"って思っている人たちの気持ちは本物だよ? 見捨てたりなんて、できないよ」
「むう……」
玄徳殿の瞳はまっすぐ民に向かっておられた。
重税や国政の乱れによって生まれた民の苦しみを、行政が救いきれぬ民の声を、彼女は何とか救おうともがいていたのだ。
なるほど、それならば彼女が役人の道を志さなかったことも理解できる。
仮に役人になってしまえば、行政の上意下達機構に組み込まれてしまうわけで、今までのような「困っている人がいるから、助けに行こう!」と軽い気持ちで動くことができなくなってしまう。
これでは彼女の美徳を潰してしまうに等しい。
同じことを思ったのか、上司殿は玄徳殿を見て、とても歯がゆそうな顔になってしまっていた。
「私は勉強もあまりできないし……。私より役人に向いている人がいっぱいいるんだから、違う道を目指してみようって思ったんだけど。やっぱり駄目かな?」
「むむむ」
「アンタの志は、まさに賢王、仁君の体現よ。間違っているとは言わないけれど、無位無官には性急すぎる。けど……」
上目遣いでそれがしたちを見る玄徳殿に、それがしと上司殿は上手く言葉を返すことができなかった。
何やらえらい感動した面持ちでうんうんと頷く強面の皆さんのことは、とりあえず無視しておく。
「ところで、何で白蓮ちゃんの話になったの?」
「あっ」
大事なことを伝え忘れていた。
玄徳殿の目指す道については追々考えることとして、それがしはとりあえず北郷殿から言われたことをかいつまんで説明することにする。
かくかくしかじか。
「白蓮ちゃんと会えるんだ! 嬉しいなっ。北郷さんの陣を訪ねればいいの? そういえば、同じお仕事をしていたのに北郷さんとも会ったことがなかったなあ。どんな人なんだろ?」
笑顔の花咲かせる彼女を見て、それがしも上司殿と同様にもやもやしたものが胸に湧き上がってくるのを感じた。
うーむ、玄徳殿の進む道か。
彼女のために何かできることがあるといいのだが、特に何も思いつかない。
◇
後日、北郷殿のお招きを受けることにした我ら玄徳殿と愉快な仲間たちは、こぞって幽州の州境に構築された陣地へと足を運ぶことになった。
「むぐむぐ。お兄ちゃん、もう食べて良いか?」
「まだダメだよ! 今日のお客さんは劉備さんたちなんだから――、って何でもう食べてるじゃん!? 行動と時制が一致してないよっ!」
「北郷殿。メンマはまだでございますかな? 酒のつまみが切れてしまいまして」
「星さんっ、まだ始まってもいないのに、何で酒樽一個あけているんですか! あー、もう!」
陣幕の中には、それなりに豪勢な宴席が設けられていた。
流石に軍の糧食を饗しているために、街の酒家で振る舞われる料理には見劣りするが、それでも要所に来客に対する心配りがうかがえる。
宴席の配置も車座で、無礼講を強く意識しているようだ。
ところで、赤髪と青髪の少女に振り回されては右往左往している北郷殿……、大変そうだなあ。
「こんばんわー、お招きに応じて参上しました劉玄徳ですけど……」
「ああ、いらっしゃい劉備さん! ……って、やっぱり女性なのかあ」
「はい?」
良く分からない反応に、きょとんとした顔で玄徳殿が目をぱちくりとするが、北郷殿は歯にものが詰まったような表情を浮かべるだけであった。
「いえ、どうぞこちらに座ってください。公孫サンさんを呼んできますね」
言うが早いか、伯珪殿のもとへ向かおうとする北郷殿を、
「御主人さま、私が」
柔らかな声が呼び止めた。
ふりふりのついた給仕服を着た、紫髪の女性だ。
零れ落ちんばかりの大層なものをお持ちのようで、それがしも眼福である。
あ、お――?
「子遠さん、あれって都で流行ってるっていう"メイド服"? だよね。フワフワした感じでかわいいなあ。かわいいよね、服」
「……モノ好きの金持ちくらいしか、あんな服の女を侍らせていないけどね。あの北郷って男はモノ好きってことかしら。ところでアンタ、今何処見ていたの?」
それがしは玄徳殿と上司殿の問いに答えられなかった。
両脛に感じた凄まじい幻痛によって、しばし頭の中が真っ白に塗り固められていたからである。
悲鳴をあげなかっただけ、それがし偉いと思う。
一体何が起こったの? それがし何もわからないよ……。ねえ……。
それがしの異変に北郷殿は気付く由もなく、ただメイド服の女性の登場に驚いておられた。
「えぇっ!?
「私はご主人様のためにあるメイドですから、寝る時もお風呂に入る時も、厠に入る時もずっとお傍に侍ることが仕事ですよ」
「厠までずっと傍に? 怖いよっ!?」
どうやらメイド服の女性は大層偏った性癖をお持ちらしい。
北郷殿はひきつった顔で彼女に伯珪殿のもとへの遣いを命じると、彼女は優雅に一礼した後、やはり優雅な足取りで陣幕の外へと出て行かれた。
「はあ」
北郷殿の漏らす小さなため息を認めたそれがしは、涙がちょちょぎれる思いであった。
……うん。すっげー、忙しそうだ。
何というか、ほのかに親近感が沸いてしまう。
「ん、アンタは……」
それがしが生暖かい目になっているところで、ふと上司殿が驚きの声をあげた。
その視線の先には青髪の女武芸者が酒瓶を片手に着席している。
女武芸者はにやりと人を食ったように口の端を持ち上げると、上司殿に対して酒瓶をふらふらさせて言った。
「およ。また会いましたな、文若殿。どうですか、宴席が始まる前に一献」
「……遠慮しておく。というか、主の手を煩わせてるんじゃないわよ」
「これはしたり。ですが、この場に私の主はいないのですよ。私は伯珪殿の客将ですから」
どうやら上司殿と女武芸者は知り合いのようだ。
好奇心がうずいたために「何処でお知り合いに?」と尋ねてみると、「アンタを探す時の護衛」とどすのきいた声が返ってきた。
完全なるやぶ蛇である。
「探し人は見つかったようで」
「……お陰さまでね」
ふふんと悪戯小僧の顔になる女武芸者と、とてもご機嫌が宜しくなくなる上司殿。
あの組み合わせは……、まずい。
何がまずいって、それがしにやつあたりが飛んできかねないのだ。事実、脛に幻痛が起きていた。
それがしが話題そらしのネタを探そうとして、周りをきょろきょろしていると、
「はわわ」
「あわわ」
陣幕の影に隠れるようにして、大きな帽子をかぶった少女が二人ほど我々の様子を伺っていた。
どう見ても怯えていらっしゃる。なにゆえ?
「あ、あれが匪賊狩りの鬼嚢さん……」
「匪賊殺しの愚連隊……」
なにゆえもクソもなかった。どう考えても風評被害である。
いや、正当な評価というべきだろうか。
警戒を和らげるべく、何か声をかけようかとも思ったが、やめた。
口を開こうとした瞬間、少女たちがびくりと身体を震わせたこともその一因にあったが、一番の原因は脛に感じた竹のこぎりの痛みである。見下ろしてみると、特に異常はない。
いつもの如く、幻痛であった。それがしの脛、どうなっちゃったの……? 怖い!
思い切り顔をしかめながら、辺りを見回すと先日ぶりのツンとした母性、いや顔があった。
関雲長殿である。
雲長殿もこちらに気がつくと、恥ずかしげに目を伏せながらぺこりと挨拶してきた。
「これは。先日振りになるか、ええと……」
「呉子遠です。雲長殿、どうかお見知りおきを」
挨拶を交わしながら足元を見下ろすが、脛に痛みは走らなかった。
……まったくもって、基準が分からない。
「随分と兵が集まっているのですな」
それがしは陣幕の出入り口から外へと目をやりながら、言った。
州境に築かれた陣地には、どう少なめに見積もっても六千以上の兵が駐屯している。
公孫の牙門旗がたなびくあたりは正規兵であろうが、中には義勇兵も混じっているのだろう。
「そうだな。伯珪殿の兵が四千。ご主人様率いる義勇兵が二千の連合軍だ」
少し誇らしげにいった彼女の言葉に、それがしは感嘆の息を漏らした。
「それは……」
多いなあ。というか、多すぎる。
伯珪殿の私兵の半分も義勇兵が集まっているというのは、それだけ北郷殿にかかる期待が大きいということなのだろうが、同時に伯珪殿との器の違いも顕著になってしまっていた。
思えば、伯珪殿の客将だという青髪の女武芸者も北郷殿の陣幕で待機しておられるようだし、伯珪殿も内心穏やかではいられないのではないだろうか。
そんなことを考えていると、雲長殿は少し言葉を選ぶようにして問うてきた。
「呉子遠殿」
「はい」
「いや、玄徳殿の兵は何処に?」
ああ、はいはい。
彼女の懸念は良く分かる。
我々は、言葉は悪いが商売敵なのだ。どちらかが稼げば、片方の取り分が減る関係なわけで、両者の兵が互いの顔を突き合わせてもろくなことにはならない。
よくよく考えてみると、彼らと今まで直接相対することがなかったのも、そうした縄張り意識が影響しているのかもしれなかった。
「……大部分は広陽に駐屯させたままですな。ですから、ご懸念の事態は起こらないかと」
「ご配慮、痛み入る」
雲長殿とのやりとりが落ち着いたところで、陣幕の外から馬が駆けてくる音が聞こえてきた。
お、玄徳殿の昔馴染み殿の登場であろうか。
それがしの予想は的中し、程なくして白金色の姫鎧を身にまとった、活発そうな女性が飛び込んできた。
「桃香! 来ているのかっ?」
「白蓮ちゃんっ、久しぶり!」
「ああっ! 久しぶり、だ……?」
後ろで一つにまとめられた赤髪を嬉しげに揺らし、にこやかに答えた伯珪殿らしき女性のまなざしは、まず玄徳殿を見て、その次に玄徳殿の後ろに控える明らかに柄の悪い強面どもへと向けられた。
「お頭のダチってあの方ですかい」
「ウス」
「姐さん、ちっす! よろしくオナシャス!」
我らが愉快な強面どもが思い思いの反応を見せる。そのどれもが、彼らなりに友好的なものだ。彼らなりに。
伯珪殿らしき女性は強面の姿を認めると、目を丸くして大口を開けた。
「桃香が、桃香が、不良に、うーん、うーん……」
しまいには白目を剥いて、その場に倒れこんでしまう。
「えええええっ!? 白蓮ちゃんっ、どうしたのっ? しっかりしてええっ!」
それがしは色を失って駆け寄る玄徳殿の後姿と、伯珪殿を見て安堵した。
良かった。あの人、常識人だ……。
◇
呼び主の一人がいきなり倒れてしまうなどの問題は発生したものの、宴席自体は別段問題もなく開かれた。
とはいえ、愚連隊と商売敵、それに正規兵の饗宴だ。よく分からない緊張感が、場に漂っている。
何はともあれ、自己紹介であった。
「劉玄徳です! 子遠さんたちと一緒に義勇兵団をやっていますっ。最近は張世平さんのところで隊商の護衛なんかをやっていました!」
主客を代表して玄徳殿が口火を切ると、北郷殿や伯珪殿の陣営の方々が驚いたように口を開く。
「まさか、あの少女が」
「……匪賊殺しの首魁があのような少女だったとは」
やっぱり合わないよなあ。それがし、今ぼやいた御仁らの隣へ移動して「坊主、気が合うじゃねえか!」と酒を飲み交わしたいところであった。坊主じゃないかもしれないけど。
「あ、あの……」
おずおずと帽子をかぶった金髪の少女が、疑わしげな面持ちで玄徳殿に問うてくる。
「ん、どうしたの? ええっと……」
「しょ、諸葛孔明でしゅっ! あ、あう……。え、えっと、玄徳さんが義勇兵団を率いているというのは本当なのですか?」
孔明殿という御仁の言葉に、玄徳殿の傍に控えていた烏桓族の青年が顔をしかめた。
うちの少年兵は血の気が多く、玄徳殿のことになると見境がない。
鉄血団の掟は、今もなお条文増加中であった。
確かもう五十一カ条くらいあったはず。御成敗とか士道不覚悟って何だろう。
「なあ、嬢ちゃん。それはうちのお頭がアタマ張る器に見えねえってことか――?」
「ひっ」
「あ、ロウハン君駄目だよ。そういう怖い顔しちゃ駄目!」
孔明殿に噛みつこうとする褐色肌の狂犬を、玄徳殿が優しく制した。
「……うす」
事実、彼らは抜き身の刃のごとき危うさがあるが、玄徳殿の言うことは飼い犬のように大人しく聞きいれる。
後、皆が明らかに玄徳殿の母性を意識していた。
玄徳殿がにっこり笑うと、あの烏桓族の青年はいつも顔を赤くするのだ。
怒らせたら怖いので、みだりに指摘するつもりはないが、いつかそれをネタにからかってやろうとも思う。
それがしは、以前見捨てられた恨みを絶対忘れないよ。
「んと、孔明ちゃん。私は勉強もできないし、武術も得意じゃないけど、一応義勇兵団の代表者をやらせてもらってるよ。というのも、立ち上げた当初は子遠さんと私、数人しかいなかったから、かな? 言いだしっぺも私だし……」
「な、何故、義勇兵団を立ち上げられたのですか?」
続く問いに、玄徳殿はきっぱりと答えた。
「匪賊に困ってる人がいるんだもん。助けたいなあ、って思ったからじゃ駄目?」
孔明殿は玄徳殿の答えを聞いて、「あっ」と声を漏らした。
「あう、大丈夫でしゅ……」
申し訳なさそうに縮こまる孔明殿であったが、その表情は柔らかかった。
もう一人の三角帽子をかぶった少女も、少し口元が綻んでいる。
雲長殿も、赤髪の少女も、その瞳に宿る感情は決して悪いものではなかった。
要するに、玄徳殿は彼女らの抱く志を同じものを抱いていると判断されたのであろう。
「それでね、私の大事な仲間がね。子遠さんと、桂花ちゃんと、ロウハンくんと、廖化さんと――」
だが、玄徳殿の紹介を受けた団員の顔ぶれを見て、再び彼ら彼女らの顔がひきつっていく。
「どうもどうも、呉子遠と申します」
「荀文若」
ここまでは良いとして、
「ウス」
「廖化だ、宜しくな」
団員の大部分が、匪賊よりも性質の悪い相貌をしているからね……。仕方ないね……。
特に頬傷のオッサンは笑顔すら恐ろしい。
当人はニッコリやったつもりなんだろうが、他陣営の方々との間にドッカリと大きな溝が生じたのが良く分かったよ、それがし。
他と違う反応を見せたのは、青髪の武芸者と北郷殿だけであった。
青髪の武芸者は平気な顔で酒瓶をぐびりと呷っており、北郷殿は何故か上司殿を見て驚いておられる。
ちなみに伯珪殿は寝込んでおられた。
青髪の武芸者は上司殿の護衛を務めていたそうだから、ある程度こちらの事情にも通じているのかもしれない。
ただ、北郷殿の反応が分からなかった。
何故、強面じゃなく上司殿に反応するのだろう?
「あの、文若さんは――」
「何よ」
上司殿の男嫌いは、北郷殿が相手でもいかんなく発揮されておるようであった。
北郷殿は少し、たじろぐも言葉を続けようとする。肝っ玉太いなあ。
それがしは雲長殿が不機嫌そうな顔になっただけで、びくびくしているというのに。
「曹操さんの陣営に士官する予定はなかったのですか?」
「……ヌッ?」
北郷殿の言葉に、それがしは首を傾けた。
曹孟徳殿といえば、上司殿が都で心酔なさっていた御仁であり、それがしが未だ母性を拝めていない人物でもある。
何で、会ったばかりの彼が上司殿の孟徳殿に注ぐ親愛の情を知っているのだろうか?
「初対面のアンタが何で私のことを知っているのか本気で解せないんだけど……、私にだって付き合いがあるのよ」
そう答える上司殿の顔はとても機嫌が宜しくない。
多分、男に自分のことを見透かされたというのが気に入らない一因であろう。
「あ、すいません。やっぱり……、"俺の知ってる歴史"と違うんだ」
慌てた様子で謝罪した後、独り言のように呟いた彼の言葉を聞いた瞬間、それがしは目を見開く。
「アイエッ、まさし君!?」
「ちょっと、アンタ……」
上司殿の制止がかかるも、それがしの確かめずにはいられなかった。
「あの。も、もし。北郷殿」
「え、あ、はい?」
それがしは深呼吸して、問いかける。
「――肥えだめは至高の"内政ちーと"である」
「ん、あ? 肥えだめ、ですか? 肥料を作るための。というか、内政チートって……、ズル? 何で、ズル?」
肥料! 肥えだめと聞いて、すぐに肥料という言葉が返ってきた!
震える声で、それがしは続ける。
「
「え、あ? 鐙ですか? 鐙って馬に乗りやすくするための道具ですよね。確かに騎馬隊の利便性は上がるかもしれないけど……」
む、これは期待した答えが返ってこない。
まあ、まさし君が都で鐙を発明した後、上流階級を中心に利用が広まっちゃっているものな。知っている人は知っている。
むむむ、それでは……、
「火薬は最強の――」
「あの厠を爆発させる妙ちくりんな術の話はやめなさい!」
これは上司殿の不興を買ってしまうため、やっぱやめることとする。
むむむ、後は小粒なネタしかないんだけどなあ。
「武田の騎馬隊は存在しなかった」
「武田!? 何で、三国時代に武田っ!?」
「山本勘助も実在しなかった」
「いや、それは諸説あって……。何で風林火山の人っ!?」
「三段撃ちは眉唾である」
「そもそも、この時代鉄砲ないんでしょ!? そりゃ、そうだよっ!」
それがし、感動を隠せなかった。
こんなに話の合う御仁は、まさし君以外に他にいなかったのだ。
彼の話す天界の歴史物語は、とても刺激的で新鮮であった。
織田信長。徳川家康。あと、エロザル? あと……、何か色々。
もしかして、彼の話していた内容は、作り話の類ではなく、何処か異郷の神話であったのだろうか。
それで、目の前の北郷殿とは同郷と。
うん。それなら、話が繋がる気がする。
「上司殿……」
上司殿に目をやると、彼女の北郷殿を見る目はすっかり変わっていた。
「ああ、アンタもあの変態の仲間なわけだ……」
「ちょっと待って! 俺、今すごい風評被害受けてる気がする! ちょっと待って!」
北郷殿が必死な顔つきで、名誉の毀損を訴えてくる。
不名誉なことなど何もないのに、不思議な反応であった。
しばしして、北郷殿が何かに思い当ったように固まる。
「あれ……? もしかして、呉子遠さんの言う"まさし君"て俺と同郷なのか?」
「北郷殿の故郷がどこかは知りませんが。まさし君は異民族の出ですぞ。良くそれがしに、不思議な異郷の知識を教えてくれました」
「その、故郷の名前は聞いていますか?」
「東のほうの島国だとか? ニッポン? ニホン? そんな感じの名前だったように思いますが」
それがしの言葉を聞いた北郷殿は、ぽかんと口を開けた後、
「そっか」
少し俯き、その身体を震わせた。
「御主人様……」
雲長殿が労わるように声をかける。
顔をあげた北郷殿の目は、何故か涙で潤んでいた。
「あ、いや。気にしないで、愛紗。俺、この時代に一人ぼっちじゃないかもしれないって……。そう思ったら……、何だか嬉しくなっちゃって」
そんなに、まさし君の存在が嬉しかったのか……。
それがしも思わず涙ぐんでしまう。
「良く分からなかったけど。北郷さんが一人ぼっちじゃなかったみたいで、良かったね」
とそれがしの袖を引っ張って涙ぐむ玄徳殿。可愛い。
「御主人――」
しんみりとした空気の中、主人を慮る雲長殿の言葉は、ふよんふよんした突風によってかき消された。
「ご主人様はお一人ではありません。今宵は、それはもうぬっちょぬっちょと一人ぼっちではないことを確認いたしましょう?」
先ほどの紫髪のメイドであった。
「なあっ、おい。美花っ! この御主人様に気安く触れおってからに……!」
顔を真っ赤にして怒る雲長殿の非難に貸す耳もなく、メイドはひたすら北郷殿をその母性で労わろうとする。
ふよんふよんした身体が、母性がくんずほぐれつして、ああ、大変に羨ましい――。
「あ、あいででででででででっ!?」
見えた! 見えたよ、それがし!
今一瞬、凄まじい速度でそれがしの脛を二つの竹のこぎりが行き来していたのがっ!
でも、犯人までは分からなかった。
両隣にいるのは、玄徳殿と上司殿で、二人とも竹のこぎりなんか持っていない。
どういうことなの……。
「……コホン」
すったもんだの場を斬り捨てたのは、あまり機嫌の宜しくない孔明殿であった。
「御主人様、玄徳さんたちが自己紹介してくれたので、私たちも名乗りませんと」
「そうですなあ。傍から見ている分には、面白い見世物ではありましたが、折角の肴が冷めるのもまずい」
孔明殿の指摘に、青髪の武芸者が追従する。
ちなみに武芸者はああ言っているが、既に肴にも匙と箸を付けているため、冷めるも何もなさそうだ。
我に返った北郷殿たちは恥ずかしそうに顔をそらすと、そそくさ自己紹介を開始した。
「それでは私から。関雲長と申す。先日はその、失礼をいたした」
「鈴々は鈴々なのだ。一応呼び名は張翼徳? 燕の生まれ! なあ、お兄ちゃん。もう食べていいか?」
「孫公裕です。御主人様のメイドを務めさせていただいております」
「あわわ、ホウ士元でしゅ……。ぎ、義勇軍の軍師をやっていましゅ」
「およ、流れ的には私もか。趙子龍。伯桂殿の客将なんぞをやっておりますな」
……華やかだなあ。
それがしは身内の強面どもへと目をやり、すぐさま目をそらした。
と、上司殿からぐいぐいと脇を小突かれる。
「あの帽子の二人。諸葛孔明に、ホウ士元。水鏡女学院の秘蔵っ子よ」
「え、あの子達がですか?」
上司殿はこくりと頷く。
水鏡女学院はは荊州にある名門女子校のことである。
数多くの有能な文官を輩出していることで有名で、あそこの生徒というだけで経歴に下駄がつくほどに各地で高い評価を受けていた。
実際、玄徳殿も上司殿の話を聞いて「水鏡女学院の子なんだ、すごいなあ!」と素直に驚いておられる。
ちなみに盧植様の私塾と学歴の格はあまり変わらない。
「上司殿から見ても一角の人物なのですか?」
「間違いなくね。この私には負けるけど」
相変わらずのすごい自信だ。
無敵といっても過言ではない。
「……それよりも、あっちの武人連中よ。只者でないのは分かるけど、私に武人の目利きはできないの。教えなさい」
「そうですなあ」
それがしはひょいひょいと諸将を値踏みしていく。
まず雲長殿が目に映った。
ツンとした母性の話をすると、酷い痛みが襲ってきそうなので、まじめに立ち居振る舞いからその実力を推測する。
「ええと。まず、雲長殿ですが……。それがしが十五人ほどいれば足止めできるかもしれないほどですな」
「そりゃあ、とんでもなく一流だ。他は?」
次に張翼徳殿。
ん? あー、あれは……。
「張翼徳殿は、それがしが百人いても勝てません。容易く蹴散らされましょう」
「この場にいる誰よりも強いということ? にわかには信じがたいわね……」
「いえ、相性の問題です。恐らくは関雲長殿とあの少女がやりあえば、互角の戦いになるでしょう。ただ、有象無象には滅法強そうなんですよね……。あの手合いは」
正直に言って雲長殿はまだしも、翼徳殿とは絶対に戦場で相対したくない。一瞬で殺される自信がある。
あれはもう、生き物としての格が違いそうだ。
「公裕殿は多分、武術のほうはあまり得意ではなさそうですかな? 本当に身の回りのお世話だけなのでしょう。子龍殿は難しいところですが……、恐らくは雲長殿と比肩するかと」
「なるほど、基本英傑ばかりがあの男のもとへ揃っている、と」
上司殿の言葉にそれがしも「ヌゥ」と唸った。
あの北郷殿の周りには、智勇双方の英傑が揃いすぎているのだ。
これならば、伯桂殿の株を奪うような義勇兵の集まり具合も理解できる。人は勝ち馬に乗りたいものだからなあ。
そして、彼女らを取りまとめる北郷殿であるが……、
「えっと、自己紹介最後になっちゃったか。俺は北郷一刀って言います。大陸の生まれではなくて、その。周りからは天の御遣いなんて言われています」
「エッ?」
玄徳殿とそれがしの声が合わさった。
天の御遣い……、実在したというのか。あれは絶対管輅殿の出まかせだと思ったのに。
それにつけても待ち望んだ御遣いの到来である。
玄徳殿をちらりと見ると、彼女は何故か何とも言いがたい複雑な表情を浮かべていた。
「管輅殿の予言にあった、あの天の御遣いですかな?」
「はい。管輅さんとは直接面識はありませんが、一応そうみたいです」
なるほど、天界の出身として改めてみてみると、身にまとっている衣服のキラキラも、やたら神々しく見えてくる。
……いや、待て。そうなると、同郷らしいまさし君も天界の人間だということに。
まさし君は神仙の類だった……? 無いな。
彼はそれがしの親友である。
ただうんこを集めるのが大好きな、それがしの親友であるはずだ。
「……天とは我々中原の人間にとって、特別な意味を持つ言葉よ。大言壮語を吐くだけの覚悟がアンタにはあるのかしら」
「……くっ、御主人様は――っ!」
上司殿の喧嘩口調に、雲長殿が憤りを見せる。あの二人はやたら相性が悪そうだ。
北郷殿は雲長殿を制止すると、苦笑いを浮かべながら上司殿に言った。
「あー、うん。俺自身、何か取り柄があるわけでもないし、偽者と指摘されるとぐうの音も出ないんですよね。ただ、ちょっと御遣いを名乗るのだけは辞められないんです」
「何故」
この問いに、北郷殿は迷いのない瞳で即答した。
「俺が御遣いであることを望む、沢山の人たちが今感じている"辛さ"が本物だと思うから」
「え」
思わず、隣の玄徳殿を見てしまう。
今のそれがしは恐らく玄徳殿と同じような顔をしていることだろう。
彼の言った、民の感じる"辛さ"を慮ろうという志こそが、まさに玄徳殿が持っている志と同じものであったからだ。
玄徳殿は驚いたように目を見開き、次にそれがしや上司殿、そして強面どもへと目をやった。
彼女の瞳は何かを恐れるように揺れていて、しまいには憂いを帯びた表情で俯いてしまう。
「玄徳殿――」
「うろたえない。今は素知らぬ風を装いなさい。呉子遠」
何か声をかけようとも思ったが、北郷殿を静かに見据えたままの上司殿に制される。
「太陽から目をそらせば、受け入れたも同義。"呑まれるわよ"」
その言葉にごくりと喉を鳴らす。
太陽と月のように、異なった二種の光は共存も可能だ。互いが互いを際立たせ、そこに諍いは起こらない。
だが、太陽が二つあったならば……?
どちらか一方の光に弱い光は呑みこまれてしまう。
先日、玄徳殿が語ってくれた話がふと脳裏に浮かびあがった。
現職の県令が玄徳殿の案を頑なに拒んだ理由がまさしく、今の状況と酷似している。
彼女と彼は、一体どちらの光の方が強いのだろうか――。
「えっと、劉備さん。どうしましたか?」
「えっ、いやっ。何でもありません! すっごい、素敵な志ですよね。私、感動しちゃいましたっ!」
ぐっ、と気丈に振舞う玄徳殿が、それがしにはとても痛ましく思えた。
「良かった……」
北郷殿は玄徳殿の言葉に安心したようで、ほっと胸を撫で下ろしていた。
「この時代に飛ばされた当初は、劉備玄徳の代わりを務めなきゃいけないのかと半ば覚悟していたけど……、本人がいるなら、その必要はないもんな。良し……!」
彼は何か意を決したように玄徳殿を見る。
玄徳殿がびくりと震えた。
「劉備さん」
「は、はい」
北郷殿は、頭を深く下げこう続けた。
「俺たちを……、劉備さんの仲間にして下さい!!」
「エッ?」
「エッ?」
「ちょ、ちょっと! 御主人様……!?」
……逆じゃね?
今の流れなら、絶対に「俺たちの仲間になってくれ」といわれるものかと、それがしは覚悟していた。
……逆じゃね?
だが、当人は大真面目だ。
「いや、いや。だって、実際に劉備玄徳がいるんだよ? 蜀漢を立てる三国時代の英雄の。愛紗や鈴々だって、本来は劉備さんと家臣だし、
「ヒエッ?」
何故かそれがしに矛先が向いた。マジで何故だ……。
孔明殿もぽかんとした顔でそれがしを見ている。上司殿も、強面どもも見ておられる。
「あの、呉懿さん。後でサイン、いただけませんか?」
「サ、サイン……?」
「はい! 俺、三国時代初期の成り上がりストーリーも好きなんですけど、どちらかというと蜀漢末期の生きざまの方が好きなんですよね。元々戦国時代でも真田幸村とかが好きだったし。呉懿といえば、蜀漢最強の大将軍じゃないですか! 王平子均という有能な副将を得て、最大勢力の魏軍相手に奮闘! かっこいい!」
え、えええ……?
何だ、これ。良く分からない。
「最強……?」
と北郷殿の右腕たる雲長殿はあからさまに対抗意識を燃やしておられるし、子龍殿も何か玩具を見つけたような顔になっておられる。
こちらの陣営はといえば、
「子均って、何進のところで育てられている娘のことよね。何でここで名前が出てくるのよ」
と上司殿の機嫌が凄まじい勢いで悪化していた。
とばっちりすぎる。
にっちもさっちもいかなくなったところで、雲長殿が大声をあげた。
「い、いい加減にして下さい、御主人様! 我々は、貴方様が主君だからこそ、こうして今まで付いてきたのです。だというのに、いきなり玄徳殿のもとに降るなどと……、御主人様は我々を見捨てるおつもりですかっ!?」
北郷殿の陣営から、次々に賛同の声が上がった。
「あ、ええっと……?」
戸惑う北郷殿に、意外な方向から追い討ちがかけられる。
玄徳殿であった。
「あっ、あのっ。北郷さん! 今まで一緒にやってきた仲間は大事にしなきゃいけないと思うんです! だから……、北郷さんと一緒にやっていくのは、その……。ごめんなさい!」
それがしは驚いていた。
いつも我々の意見に喜んで耳を貸す玄徳殿が、"みんなで一緒に頑張る"という提案を退けようとしているのだ。
初めて彼女が我を通そうとしているのを見て、それがしの胸にあるもやもやは一層大きくなっていく。
それからの饗宴は至極あたりさわりのないものであった。
互いの智勇を誉め讃え合い、ようやく覚醒した伯桂殿と玄徳殿が感動の再会を果たし、昨今冀州に集結しているという黄巾賊を共同して撃破することを誓い合った。
そのどれもこれもが玄徳殿にとって望ましい話であるというのに、彼女の顔には翳が落ちたままだ。
そうして、宴もたけなわとなり、我々が広陽へと戻る段になって、
「あはは……。ちょっと酔っちゃったかも。ちょっと寄り道をして、夜風に当たってから広陽に帰るね」
と一人、バルバトスさんを駆って幽州の荒野へと走り出してしまった。
茫然と彼女の背中を見送るそれがしのふくらはぎを、上司殿が蹴り飛ばす。
「甲斐性くらいは持つべきよ」
「ヌ、ヌッ?」
「追っかけなさいって言ってんの!」
「は、はひっ!」
それがしは玄徳殿を追って夜の荒野を駆けだした。
バルバトスさんが走り、それがしが走る(徒歩で)。
バルバトスさんが走り、それがしが走る(徒歩で)。
あれ、これ追いつけるかなあ……?