それがしは激おこであった。
何でよりによってバルバトスさんはこちらの状況を酌量せずに全速力で駆けているのかと。絶対後ろが見えているはずなのに。
むしろ、それがしの姿を認めた後、さらに足を速めた気さえする。
もしやすると、それがしの走りがバルバトスさんの誇りを傷つけてしまったのだろうか。
おこなの? ねえ、おこなの?
いや、もうほんと限界ですから……。
少し。手心を、くわえてはいただけないかと……!
息を切らせ懇願しつつも、それがしはひたすらに走り続けた。
「玄徳ど、げほっげほっげほっ――!」
呼び止めようとはするものの、バルバトスさんの駆け足が盛大な土煙をまきあげているため、煙すぎて息をしていられない。
どうやらバルバトスさんは後方を走るそれがしに手心を加えるつもりはないようだ……。くそう、四足の獣めっ! あ、いや。言いすぎました。お四足のおロバ様め……!
いつぞやに玄徳殿と出会った頃のような星空が広がる荒野を一里駆け、二里駆けて、それがしは肩で息を吐きながら、豆粒大になってしまった玄徳殿の背中を必死に見据える。
くっ、目が霞む……。
前に見えるものがせめて正面から見えるお姿ならば……! 大いなる母性の躍動によって、それがしももう少し頑張れる気がするのだが! だが!
……まずい、流石に頭が朦朧としてきた。
ふと、竹馬の友であるまさし君の姿がぽわぽわぽわと脳裏に浮かび上がる。
今こうしてバルバトスさんの背中を何とか追随していられるのは、ひとえにまさし君との特訓のおかげであった。
まさし君の知識はまこと多岐に及んでいて、一頃は「隙を生じぬ二段構え」な抜刀術や、「縮地」なる神仙の御技を共に再現しようとしたものである。
残念ながら、まさし君自身はものの三日で飽きてしまったが、あの時の鍛錬はこうしてそれがしの血肉となって確かに生きているのだ――。それがしは内心、郷愁の念に駆られてむせび泣いた。
さらに三里、四里駆けて、それがしは五台山の頂が見える高台にまでたどり着く。
「玄徳殿は……」
先を見上げると、上り坂の先にバルバトスさんの筋骨隆々とした背中が覗いていた。
どうやら玄徳殿はここで下馬をしたらしい。
「よっし、よっしよっし!」
ついに、ついに追いついてやったぞ……!
思わずドヤ顔で勝ちどきをあげてしまうくらいの高揚感がそれがしの体を包み込んだ。
しかし、この偉業の達成はいくつもの幸運の上に立つものである。決して驕ってはならない。
例えば途中、偶然にも夜を徹して旅を続けていた大秦国の隊商と出会わなければ、今頃こうして追いつけていたか……。恐らくは、途中で力尽きていたに違いあるまい。
確かマラトン殿にメロス殿と仰ったか……。
彼女らは疲労困憊のそれがしを哀れに思ったのか、
『平たぃかお族にもズッ友がぃたんだ。。。ゎたしの水筒かしてぁげる。。。』
と手持ちの水を与えて下さったのだ。
平たい顔族とは何なのか良く分からなかったが、本当に助かった。いつかこのご恩は返さねばなるまい。
しかし、今は他にすべきことがあった。
「玄徳殿」
彼女は高台の斜面に腰をかけ、五台山の天辺に浮かぶ白い星空を眺めておられた。
彼女から少し離れた場所で足を休めているバルバトスさんが、露骨に不愉快そうな面もちでそれがしを威嚇し始める。マ、マジでおこなの……? 嫌われる理由が思い当たらない……。
「子遠さん」
振り向く彼女の表情は、おぼつかぬ月明かりを差し引いても明るいものでは決してなかった。
だから、それがしは努めて明るい表情で返す。
「上司殿も、皆も心配しておられますぞ。あまり夜更かしなさってはお身体に毒です。帰りませんか?」
しかし、玄徳殿はそれがしの言葉に応えようとはせずに、膝を抱えてうずくまり、頭を振るばかりであった。
「ごめんね」
「玄徳殿……?」
……何故、この場で謝罪の言葉が口に出るのだろう? 良く分からない。
「どうなさったのですか?」
答えは返ってこなかった。
うーん……、困った。
それがしはにっちもさっちもいかなくなって、その場で彼女の復活を待ち続ける。
玄徳殿はたっぷりと一刻、下弦の月が東の果てから南へと上っていくまでは顔を上げようとしなかった。
「北郷さん、とっても良い人だったよね」
ようやく口を開かれたかと思えば、話題に出されたのは先刻まで交流していた御仁のことであった。
「ああ、はい。そうですなあ」
それがしは答える。
北郷殿の志は、「みんなが仲良く暮らせる世の中を目指す」という玄徳殿が掲げる理想と寸分違わず合致していたように思う。
出会い方次第では良き仲間か君臣の間柄、あるいは友人か恋人の関係になれていたのではなかろうか。
例えば……、もし仮に彼女が五台山の麓でそれがしとではなく北郷殿と出会い、助けられていたのならば、今頃は何の疑いも覚えずに北郷殿に付き従っておられたに違いあるまい。
それがしにはその様子が容易に想像できた。
まず、中心に天の御遣いたる北郷殿がいて、その周囲を玄徳殿や雲長殿、翼徳殿や軍師の二人が固める。
たまに公祐殿が北郷殿に色を仕掛け、玄徳殿が素直な好意を示され、他の面々がやきもきする。
うむ。
何だ、これ。すごいうらやましいぞ。
……でも、女性たちから引っ張りだこというのも気苦労が耐えなさそうだなあ。
鼠よりも小さな心臓を持つそれがしでは、女性たちから発せられる圧迫感に耐えられず、死んでしまうかもしれない。
うむ。
やっぱり、うらやましくないぞ。いや、うらやましいのは確かなんだが、別に代わりたいとも思えない。変わりたいのは貝である。それがしは貝になりたい。
そう内心で「ご愁傷様です」と北郷殿と天界の神々に祈りを捧げていると、玄徳殿は辛そうに言った。
「……北郷さんね。夢に見ていた天の御遣い様とそっくりだったんだ」
「そうだったのですか」
彼が彼女の理想を体現していたというのは、それがしも納得のできることである。
玄徳殿は空を見上げて、さらに続けられた。
「夢の中ではね。御遣い様は、みんなが抱えてるどんな辛いことも解決してくれるすごい人で、周りには頼りになる仲間たちがいっぱいいたの」
「……まさしく、北郷殿そのものですなあ」
実際に雲長殿を筆頭として、北郷殿の周りには明らかに英傑が集結しつつある。
その内、世にいる英傑たちを軒並み仲間にしてしまうんじゃなかろうか。そうなれば、もう事実上の最高権力者だ。天下を取ったも同然である。
ただ、そのいずれもが妙齢の女性であった場合、北郷殿を巡って取り合いが始まる可能性が……。おお、違った意味で乱世再開。男で救世主で傾城とか、これもうわかんねえな……。
つい思考が脇道に逸れてしまうそれがしとは対照的に、玄徳殿の声色は固かった。
「多分……、ううん。きっと、北郷さんはこの乱れた世の中を良くしてくれると思うんだ。私にはそのための準備もちゃんと進めているように見えた」
「それがしの目にも、そう見えましたぞ」
「あ、やっぱり?」
実際、北郷殿の陣営を訪ねてまず気がついたのは、義勇兵たちの規律の整い方であった。
何と言うか……、正規兵の整い方に良く似ているのだ。
河南で軍事に携わった経験上、それがしは兵の規律が彼らの所属している軍の影響を強く受けることをよく知っている。
例えば、遠征を主とする騎馬隊の兵ならば、おおらかで刹那的な快楽を求める性格に染まりがちだ。
あるいは戦の先陣を切る決死隊ならば身内同士の結束が固くなり、町の警邏を主とする兵ならば性格までお固くなるか、態度がでかくなることが多い。
他にも水軍ならば声がやたら大きくなるとか、兵科の数だけ個性がある。
ちなみに河南の兵たちは、怠けることとそれがしを苛めることに特化していた。訴訟も辞さない。
以上を踏まえた上で、北郷殿の兵を見てみると、民兵の緩さと憲兵のお固さが入り混じった、何とも中途半端な立ち居振る舞いをしているように見受けられる。
これは恐らく、急造の義勇兵団に憲兵寄りの規律を叩き込んでいるためであろう。
手本としているのは伯桂殿の正規兵だろうか?
にわか仕込みであるからか今は流石に頼りなくも見えるが、いずれは何処に出しても恥ずかしくない精兵に生まれ変わるだろうとそれがしは見ている。
武人の強弱とは違い、兵の錬度に個人の才覚は関係ないからだ。
ただ……、問題となるのは北郷殿が何故ただの民兵に正規兵並の教練を施しているか、なのだよなあ。
単に匪賊を狩っているだけならば、そのような手間暇をかける必要などない。
義勇兵などというものは、最低限に隊伍長の言うことが聞けて、敵を前にしても逃げ出さず、よそ様に迷惑さえかけなければいいわけで、事実それがしたちは戦で必要な最低限度の規律と「玄徳殿を悲しませない」という不文律を守る以外にはすこぶる自由気ままに過ごしていた。
いや、流石に少しは規律も整えた方がいいんじゃないかなあとも思うのだが……。
「私にはすごいことをしようとしてるとしか分からなかったんだけど、子遠さんには北郷さんが何をしようとしているのかって分かる?」
それがしは少し考え込んで、答えた。
「……恐らく、"上"を目指しているのでしょうな。出世をして、何処ぞに領地を得て、自分たちの理想を具現化するために」
「それって朝廷から官位をもらうってこと?」
玄徳殿の問いにそれがしは頷く。
「北郷殿は……、好都合なことに"天の御遣い"という大きな看板をも背負っておられます。ゆえに彼が民を守り名声を得ている間は、"天子"様を絶対権力者として頂く中央の官吏たちも彼を悪いようにはしないでしょう」
「何で?」
「自分たちの人気取りに利用できるからです」
それがしは断言する。
そもそも匪賊が増えた原因は、各地にかけられる重税などの失政にあるのだ。
ここでいたずらに北郷殿を処罰してしまえば、「じゃあお前らは我々に何をしてくれるんだ」と朝廷への反感が募りかねない。
だったら、北郷殿を自陣営に組み込んで「あいつは俺たちの命令で動いていたんだから、俺たちに責任はない」と言い張った方が自分たちの利益になるだろう。少なくとも、それがしならそうする。
「多分、匪賊の被害があらかた治まったあたりで中央に招へいされるのではないかと思います。飼い殺しか、重用か、どの程度の官職と領地が与えられるかまでは流石に分かりかねますが……」
そうして領地を治めるようになった時、はじめて彼に付き従う者の質が問題となるわけだ。
中央向けの失点を防ぐためにも、外向けの看板をこしらえるためにも、文武ともに信頼の置ける家臣はいればいるほどありがたい。
それと同時に、領内の治安を守れるほど規律の行き通った私兵たちは、北郷殿にとっても領民にとっても、心強い存在となるだろう。
それがしがそのように説明すると、玄徳殿はため息交じりに口を開いた。
「そこまで分かっちゃうんだ。やっぱり、子遠さんは凄いなあ……」
玄徳殿が他人を誉める時は、いつも心の底から偽りのない気持ちで称賛する。
だから、誉められれば嬉しくもあるし、こそばゆくもなるのだが、今回の称賛はいつものそれとは少々毛色が違っているように思えた。
何と言うか、少し自己嫌悪の色が混じっておられるかのような……。
それがしは慌てて言い繕う。
「いえ。都暮らしが長かったためです。上司殿なら、もう少し正確な予測ができるんじゃないかと」
「あはは。桂花ちゃんもすごいよね。私たちが手こずっていた匪賊退治をあっという間に終わらせちゃうんだもん……」
玄徳殿はそこで一旦尻切れトンボに言葉を詰まらせたが、それがしには続く言葉が分かるような気がした。
――それに比べて、私は。
と仰りたかったのではなかろうか。
だが、何故自虐されるのか。
玄徳殿はよくやっておられる。あの縦横無尽に悪漢暴漢を駆逐する怖い人集団を、その人徳と母性で大いに統率しておられるではないか。それがしには到底できぬ所業だ。というか絶対にやりたくない。貝になりたい。
「玄徳殿――」
彼女はそれがしのかけようとした言葉を遮るようにして、続けられた。
「北郷さんは、領主様になって今よりももっとたくさんの人たちを幸せにするつもりなんだよね」
「それは、恐らくはそうかと」
「だったら……、私も"天の御遣い"って名乗っちゃおうかな?」
それがしは仰天した。
「えっと、それはどういう――」
「"天の御遣い"を名乗ってみんなのために頑張ったら、朝廷から官職がもらえるかもしれないんだよね? そうすれば、もっとたくさんの人を助けられるようになるはず。私の考え、間違ってる?」
それがしは返答に窮した。
彼女の発想は、単純な理屈としては確かに間違っていない。
幸い玄徳殿は漢王朝に連なる劉姓をお持ちであるから、やりようによっては北郷殿より高い位を手に入れることは可能であろう。
ただ、ただなあ。うーん……。
それがしは脳裏に浮かんだ、とある懸念を彼女に問うた。
「以前、玄徳殿は"不自由になるから、官職には就かなかった"と。そう仰いましたな。お心変わりなさったのですか?」
彼女は役人の上意下達に縛られ、今この瞬間困窮する人々を助けられない事態に陥ることを厭ったからこそ、今の立場に甘んじておられるのだ。
仮に官職を得たとしても、理不尽や不自由を押し付ける上司の存在に彼女はきっと苛まれるに違いない。
玄徳殿はそれがしの指摘を受けて、とても悔しそうな表情を浮かべられた。
「だって……、しょうがないもん」
「しょうがない、とは」
「……私が頑張って助けた人の数の何倍も、何十倍も北郷さんは幸せにしちゃうんだよ。北郷さんを慕う義勇兵の数を見れば分かる。北郷さんの思い描く理想を形にしてくれる軍師がいて、悪い敵をやっつけてくれる凄腕の武人がいて……、それで、それで、みんなにも慕われているもん……」
ここに至って、それがしは彼女の抱えている感情の正体にたどり着くことができた。
玄徳殿は、北郷殿に嫉妬の感情を抱いておられるのだ。
自分と同じ志を持ちながらも、自分よりも要領よく理想を実現しようとしている彼を心底羨み、自己嫌悪に陥っておられるのだ。
――自分たちは頑張っているようで、実は頑張っていないんじゃないだろうか?
――困っている人たちを助けているつもりが、じつは大した助けになっていないんじゃないだろうか?
そういった不安の数々が、自分と同質の存在と向き合ったせいで顕在化した。
もしやすると、先刻に彼の提案を拒んだのも嫉妬心が邪魔をしたせいなのかもしれない。
それがしは、彼女が負の感情を抱いたことにとても驚いていた。
玄徳殿は、いつだってどこでだって誰にでも優しくできる、まさに聖女然とした心の持ち主だ。
不用意に人を嫌うことなどあるわけがなく、もし嫌うことがあったとしても、それは相手が悪人である場合に限られている。
そんな彼女の横顔に人並みの感情が透けて見えることが、それがしには意外で仕方がなかった。
見誤っていたのかもしれない。劉玄徳という人物を。
彼女は誰かに認められたい、褒められたい、勝ちたいといった人並みな感情を持ち合わせた、ただの女の子でもあったのだ。
それがしが呆然とする中、きゅっと下唇を噛みしめた玄徳殿は、震える声を絞り出した。
「北郷さんがみんな救ってくれるなら、多分……、私、要らない子だもん」
あ、それは――。
「いえ、それはないです」
そのお言葉だけは流石に即答でぶった切る。
それがしのあまりの即答ぶりに拍子抜けしたのか、玄徳殿は涙に濡れた目をぱちくりとさせ、こちらを見ては固まっておられた。
「……え、え、何で?」
「いや、何でと仰られても」
それがしは膝を抱えていることで、むにゅりと変形しておられる大いなる母性を拝んだ。
ああ、いや。駄目だ。イの一番に思い浮かんだこの答えは、紛うことなき真正のクズ発言である。
体の良い理由を絞り出そう……。
「玄徳殿と出会わなければ、それがしは今頃放浪の旅を続けていたんじゃないかと思うわけです」
「うん」
「玄徳殿と出会わなければ、頬傷オッサンも、奇抜前髪の褐色ムッツリ青年も今の稼業に精を出していなかったでしょう。というか、一部は普通に命を落としていたのではないかとすら思いますぞ」
「うん」
「ほら、このように玄徳殿と出会わなければ、不幸になってしまう者は山ほどにおりますな。その全てを北郷殿が代わりに救えたとは到底思えません。どんな仁徳の者でも、救うことのできる人の数は限られているのです」
そんな風に言い繕っていくと、何だかんだで自分の考えがまとまってきた。
そうなのだ。
玄徳殿の資質に問題などあるはずがない。
もし、玄徳殿を卑屈たらしめている原因があるのだとするならば、それは彼女の考え方であり、それがしたちの至らなさであろう。
「よそはよそ、うちはうち。人を救おうという気持ちに貴賎はない」という当たり前の事実を受け入れられずにいるのは、確かに玄徳殿の幼さかもしれないが、同時にそれは我々が至らなかったせいなのだ。
我々が「貴女は今のままでいいのだ」と伝えてこなかったせいなのだ。
伝えねばならない。
だから、今すぐ伝えることにする。
「我々には、他の誰でもない玄徳殿が必要なのですぞ」
玄徳殿はそれがしの言葉を聞き、
「子遠さ、ん……」
ぽたりぽたりと地面に大粒の涙を落としながら、泣き出してしまった。
ああ……っ、いや、待って!
泣かれるのは本当に困る……!
"ひろいん"に涙は似合わない。そして、何よりも得も知れぬ圧力を発し始めたバルバトスさんがすごい怖い!
焦りに焦ったそれがしは、大仰な身振り手振りで叱咤激励しはじめた。
「ここは涙を流すところではありませんぞ! 成る程、そうか。よおし、やるぞと奮起するところなのです」
「うん、うん……。そうだね。ありがとう、ごめん」
玄徳殿は両手で目をこすり、にへらっと笑顔を見せられた。
うむ、"ひろいん"らしくなってきた。
彼女は「よおし」と握り拳を作って、ふんすと鼻息を荒くする。
「自分のやってきたことと、他の人のやってきたことを比べるよりも、もっと大事なことがあるんだよね」
「その通りですぞ。北郷殿や他の方々が救えない者を玄徳殿が救う。我々に救えない者たちを、他の方々が救う。何も問題はございますまい」
「うん!」
それがしたちの至らなさが彼女に嫉妬を抱かせたのであるからして、反省せねばならぬ。
彼女が今後不安を欠片も抱かぬように、励まねばならぬ。
それがしは、およそ趣味以外の領域で強いられる努力が大嫌いな性根の内に、何やら燃えるものが灯ったのを自覚した。
饒舌になったそれがしの口が、思考を放棄して太鼓持ちを始める。
「天下にあまねく百の相、百の将、百の姓が思い思いの世直しをすればいいのです。我々にだって、我々にしかできないことがあるのです」
「そっか。そうなんだ……。えっと、私たちに何ができるかな? 私たちにしかできないことって、何があるのかな?」
「エッ?」
「うん?」
彼女は身を乗り出して、前のめりにこちらを見ている。
白磁の頬を濡らしていた涙は既に乾いているようであった。
それは本当に良かったのだが……、
「我々にしかできないこと、ですか?」
「うん!」
それがしは内心、自分の無駄に回る浅はかな口に対して罵詈雑言を投げつけていた。
だって、北郷殿や世にいる英傑を出し抜いてできることなんてすぐには思いつかないもの。そんな簡単に出し抜けるなら、それがしは英傑の仲間入りである。左団扇である。
ええと、我々のような"ならずもの集団"にだけできること……、できること……。
「ひ、匪賊のカツアゲ?」
「え、それは今までやってきたことだよね?」
「あ、そうですぞ! 今までこつこつやってきた稼業も、民の役に立っていたことを再確認したのです」
「なるほどっ!」
玄徳殿は合点がいったと手を叩き「続きを聞かせて?」とでも言わんばかりに更に身体を寄せてきた。
え、えええ……。他に? 他に?
うーん、うーん……。
悪徳商人や役人への嫌がらせとかどうだろうか?
我々にもできそうで、尚且つ一部の民から喝采を浴びそうだ。ただ、玄徳殿の理想を体現しているとは言いがたいんだよなあ。
こう、英雄的でどーんと世に名声が轟くような偉業でないと、我らが"ひろいん"殿の笑顔を保つことはできないだろう。
北郷殿への劣等感を一気に振り払ってしまうような偉業……。偉業……。
必死に頭を働かせた結果、それがしは先刻北郷殿より提案された内容を思い出した。
「そういえば……、黄巾賊なるものどもの鎮圧ですが」
「えっと、北郷さんが共闘しようって提案してきたお話だよね? 確か、冀州で蜂起した賊で、その退治に朝廷も広く義勇兵を募り始めたとか」
「はい、はい。それです、それ」
北郷殿が仰るには、何やら黄色い頭巾を被った連中らしい。
それがしたちはまだ黄巾賊とやらと遭遇したことがないが、密売商人の護衛中に襲ってきた中にそういった輩が混ざっていなかったことを考えると、あまり武闘派な集団というわけでもないのだろう。例えば、黒山賊みたいな。黒山賊の連中は絶対に許さないよ。
「朝廷が関わっているなら、黄巾賊の首領の首は大層価値がありそうですな」
「うーん。それはそうかもしれないけど、黄巾賊って何十万人もいるんだよね? そんな大軍を相手に、他の人たちを出し抜けるのかな?」
どうやら玄徳殿の懸念は、黄巾賊そのものよりも手柄を競う共闘相手にあるようであった。
賊軍相手に自分たちが後れを取るなど、欠片も考えておられないようだ。
まあ、うちは当千の将こそいないものの、兵自体はやたら強いからね……。
最近は中小規模の匪賊を見ると半ば"餌"と認識してしまうくらいになっていたからね。しょうがないね……。
いずれにせよ、彼女の中に確固たる自信が芽生えていることを、それがしは内心嬉しく思った。
一年余り続けてきた、匪賊狩りの日々は決して無駄ではなかったのだ。
それがしは口の端を緩めて、続ける。
「我々、玄徳殿一党と共闘相手の違いは何処にあると思いますか?」
「えっと、大事な人たち?」
人差し指を顎に添えて、こてんと首を傾ける玄徳殿可愛い。
「もう一声」
「みんな根はとっても良い人ばかり」
あの愚連隊連中を「根は良い人」の一言で片付けられる玄徳殿可愛い。
「でも外見は?」
「えっ、外見? それは、うーん。うーん……」
玄徳殿が答えに詰まったところで、それがしはさも知恵者然とした身振りを交えて結論を述べた。
「我々の利点はそこにあるのです。とりあえず抜け駆けしませんか? 討伐作戦が始まる前に」