まてりあ・まとりっくす   作:とりりおん

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1,奇跡が起きても泳げない
ラーナモン先生といっしょ


 助けて。苦しい。

 極限の精神状態で、苦悶の声を上げる。

 だが声は何の意味も成さない。ごぼごぼと水を吸ったり吐いたりする音は地上に聞こえず、閉鎖的な水中空間で嘲笑われ、掻き消されるのみだ。

 柔らかい照明を反射する水面の揺らぎが遠くなる。

 藁の如くすがりついていたポリエチレン製の板が、自分を見捨てて地上へ逃げてゆく。恨みがましく、無力感で満ちながらそれを見送る。

 ただ、自分ばかりが金床のように重く、沈んでいく。

 感覚が鈍くなってきた。

 意識が、底の知れない闇の淵と引っ張られてゆく。

 抵抗は無駄だと悟り、彼は目を閉じた。

 悲哀と悔しさが、瞼の裏に満ちる。

 

 (こんなところで、俺は死ぬのだろうか。こんな馬鹿なことで、俺は短い生を終えるのだろうか)

 

 力なく、鋭い歯を噛み締める。

 意識が、押し寄せる無明に侵蝕されてゆき――

 

 いつの間にか、彼はプールサイドに仰向けの状態で倒れていた。

 目を閉じたまま動かない彼は、ぬいぐるみのようであった。体は鼻から下と腹の白い部分を除いては一様に青く、額には傷跡のようなV字が刻まれている。この小柄な龍の子はそれ故“ブイモン”という種族名を持つ。VはVictory(勝利)のVを表していると一般に言われる。

 この状況が、勝利だとはお世辞にも言えないが。

 

 ぐわんぐわんと響くような頭痛。それが少しずつ弱まるにつれ、意識が戻って来る。

 ゆっくりと、透き通った紅玉に似た目を開ける。

 目と目が合った。

 自分を真上から見下ろす、自分と同じ二つの赤い瞳。心配そうなような、好奇心たっぷりのような。

 水色のボディーカラーをした、人魚のような、魚人のような、良く分からない生物。巷では、「水の妖精」と称されているらしい、可憐らしい存在。

 

 ラーナモン――最近市営プールのインストラクターとして赴任してきた、素性不明のデジモンだ。

 

 水泳技術の高さに加え、その外見と言動で成長期デジモン達の人気を博しているが、ブイモンにはどうにも流行に付いていけない。経歴不肖でレベルも不肖な(成熟期かと思いきや、どうも一般的なレベル区分には当てはまらないらしい)あの半魚人の何処が魅力的だというのだろうか。お前らもあれに振り回されてみろ、いくつ身があっても足りない、と周りに言い聞かせたいばかりだ。公の場でそのような事を口にすれば、どんな目に遭うかは分かりきっているから黙っているが。

 

 ついでに、自分とボディーカラーが似ているのも、目の色が同じなのも気に食わない要素だった。断じてこんな奴と同類ではないのだという反抗心が高まるばかりだ。

 

 「ブイモンちゃん、だいじょーぶ? 生きてるー?」

 

 ちょっとおどけたような、しかし本気で心配しているような声音。

 ブイモンが段々意識をはっきりさせて行くにつれて、異常な状況が明らかになる。

 即ち、ラーナモンが自分の顔の横に手を付き、馬乗りになっているという状況が。

 全てを理解した瞬間、ブイモンは全力で後ずさりして飛び上がった。

 

 「うわああああああ!!!」

 

 「危ない、また溺れちゃう!」

 

 短い腕を強く引っ張られて、陸に戻される。

 その勢いで尻餅を付くと、肩でぜいぜいと息をする。ひどく動悸がする。

 ブイモンは心底肝を冷やした。最悪の状況から脱するためだったとはいえ、また溺れてはたまったものではない。今度こそ水中でデリートという末路かも知れない。

 汚れを払うように掴まれた腕を一生懸命擦ると、後ずさって少しずつ相手と距離を取る。

 相手はしゃがみながら、ブイモンを穴が空きそうな程見つめている。

 汚いものでも見るような視線で対抗すると、如何にも悲しそうに眉を下げた。

 

 「そんなにびっくりされちゃうなんて、お姉さん悲しいなあ。こんなに心配してるのに」

 

 飛び込んでおいでとばかりにばっと両手を広げてみせる。ついでに強調するように胸を半ば突き出す。

 ブイモンの背筋を悪寒が駆け上った。他の成長期はこういう言動を喜ぶのかも知れないが、ブイモンの琴線に触れることだけは絶対に有り得なかった。

 

 「貴様に心配されても迷惑なだけだ!」

 

 はっきり言って気色悪かったので、反射的にそう言い放つと、ラーナモンの赤い瞳から、ぽたぽたと雨粒が零れ落ち始めた。

 

 「プールに落っこちそうなブイモンちゃんを助けてあげたのお姉さんだよ? なのに冷たくされちゃうなんて、悲しくて泣いちゃう」

 

 ブイモンの背筋が冷たくなる。

 

 (まずい、やってしまった)

 

 慌てて言い足す。

 

 「それは・・・・・・まあ。感謝している」

 

 ブイモンがやや下向き加減に声を絞り出すと、ラーナモンはつぶらな瞳で彼を見つめた。

 

 「本当?」

 

 「ああ、本当だ」

 

 如何にも心の底から感謝しています、という体を繕うと、ラーナモンは顔を輝かせた。

 

 「やったあ! ブイモンちゃんに感謝されちゃった、キャー!」

 

 くねくねと腰をくねらせながら小躍りをする。きゃぴきゃぴという音が聞こえてきそうだ。他のデジモンならばそれだけで幸せな気持ちで満たされてしまいそうな笑顔だったが、ブイモンはひたすら嫌悪感を隠しもしない眼差しを向けるばかりだった。

 

 (何とかなったか。こいつを泣かせるのだけは避けないと)

 

 ラーナモンが泣くのは洒落にならない。少し泣いているくらいならまだ問題はないが、度が過ぎると、どういう仕組みなのかは不明だが、屋内なのにもかかわらず豪雨が降り出すし、その雨粒は当たれば皮膚が溶かされそうな程の強酸性だ。逃げ切ることなど不可能だから、優しい言葉で宥めるしかないのである(それなりに“チョロい”ので、相手に従っておけばまず大丈夫ではある)。

 

 その危険な事情を知っているのは、今のところブイモンだけである。彼女は他の生徒達がいる所では絶対に泣かないからだ。

 他の連中が真実を知ったとしたら、黙っておかないだろう。カナヅチのくせにインストラクターに可愛がられているという事実だけで憎むに値するのに、ラーナモンを泣かせたとなれば、けしからん奴と言って二重に悪者扱いしてくるだろう。徒党を組んでブイモンを襲う位のことはしてくるかも知れない。

 

 「じゃあ、ブイモンちゃんが元気になったところで、もっかいビート板に掴まってみよっか」

 

 「・・・・・・ええと?」

 

 状況がよく理解できなかったので、やや腑抜けた声を出すと、ラーナモンはからからと笑った。

 

 「ブイモンちゃん、泳いでいる途中だったでしょ。もしかして、記憶飛んじゃった?」

 

 「・・・・・・そうだった」

 

 ブイモンは全てを思い出して溜息をついた。

 今日は、成長期デジモンは受講が必須となっている水泳の講習第2回目であり、ビート板を用いた遊泳を25メートル目指してやってみるというものだった。そしていざビート板に掴まってバタ足を始めた瞬間、何らかの力が作用し転覆事故を起こしたのだった。

 それ程比重がないのにもかかわらず瞬く間に水底に沈んでゆき、水を大量に飲み、死の間際に立ったというわけだ。

 

 「いや、たかだかバタ足で重体になるようなカナヅチを、無理して泳がせるのはおかしいだろう・・・・・・」

 

 「ブイモンちゃんはカナヅチなんじゃなくて、やり方が悪かっただけよ。よーく見ててねー」

 

 ラーナモンはほとんど音も立てずにプールの中に身を沈めると、プールサイドに打ち上げられていた白いビート板を引き寄せた。

 くるりとブイモンに背を向けると、忽ちすいすいと水を切って進み始めた。

 見なければ泣かれてしまいそうだったので、ブイモンは尻餅を付いたまま、憮然としてそれを眺めやった。

 確かに世間で評価されている通り、素晴らしい泳ぎだと認めざるを得なかった。

 足の動きは非常に滑らかで、人魚が鰭を上下に振っているような優雅さがあった。ビート板に対して体は完全に平行を保ったままで、あたかも水上を滑っているように見える。そのスピードたるや、氷上を滑っているといった方が正しいか。

 水の妖精と称される彼女は、あっという間に戻ってきた。一分もなかったに違いない。

 

 「分かったかな? 変に力んじゃだめ。水に浮くことと、あくまでも前に進むことを意識してね」

 

 「・・・・・・分かった」

 

 とりあえずブイモンは頷いたが、何となく不安な気分になってきた。記憶は何だか朧気だが、同じように手本を見せてもらって、同じような説明を受けて、理解して実践しようとした結果が、先程の転覆事故ではなかっただろうか。

 そうして何となく入水を渋っていると、ブイモンははっと重大な事実に気が付いた。

 

 「――他の連中はどうした?」

 

 やけに、周囲が静かだと思ったら、誰もいないではないか。

 10レーンもある50メートルの広大なプールの水面は、一様に静かに凪いでいる。誰も泳いでいない。今一泳ぎしてきたラーナモンの他には。

 プールサイドには自分だけ。

 プールには、自分とラーナモンだけ。

 つまり、二人きり。

 さあっと血の気が引いた。

 まさか、居残りというやつだろうか。

 こんな状況をラーナモンの狂信者達が許すとは到底思えなかったが、上手いことを言ってたぶらかして帰らせたのだろうか。

 

 「もうとっくに講習終わって、みんな帰ったよ?」

 

 外から橙色の光が差し込み始め、プールの水面を染めた。

 

 (――終わった?)

 

 あっさりと告げられた事実を反芻し、理解した瞬間、ブイモンは思わず立ち上がって声を荒げた。

 

 「終わったなら、帰らせろ!」

 

 「だーめ」

 

 しかしラーナモンは悪戯っぽく片目を瞑ってみせるだけで、反駁を躱した。

 

 「世の中ギブアンドテイク。お姉さんはブイモンちゃんのこと助けてあげたんだから、お礼をしてもらいたいなあーなんて」

 

 「ありがとうございました。礼はしたぞ。帰る」

 

 言い捨てて、ブイモンがさっさと踵を返そうとすると、強い語調で引き留められる。

 

 「そんなのお礼のうちに入んないもん」

 

 拗ねたような口調。

 

 (くっ、面倒な)

 

 申し訳程度に問い返す。

 

 「じゃあどうしろと」

 

 「お姉さんはね――ブイモンちゃんと二人きりで楽しいことをするのが夢なんだよね」

 

 「・・・・・・は?」

 

 ブイモンの声がひっくり返った。

 

 「海でばしゃばしゃ水掛けあって、泳ぐ競争したり追っかけっこしたりして。疲れ切ったあとには一緒にジュースを飲んで、勿論コップは同じで・・・・・・うふふふふ」

 

 プールサイドに上がるなり、ラーナモンは胸の前で手を組み浮ついた声で語り始めた。ブイモンは固まり、思わず超常現象に遭遇したような目でそれを見やった。

 何やら気持ち悪い忍び笑いが漏れている。変な想像でもしているのだろうか、視線は遥か遠くに向けられており、口元がだらしなくにやけている。

 冷や汗がブイモンの頬を伝った。

 

 (これは・・・・・・やばい)

 

 自分の身が危ないと、本能が警鐘を鳴らす。

 とりあえず、今のうちに逃げた方が良さそうだ。

 そうと決まれば、脱兎の如く駆け出す。目指すは自動ドア化された、プールの入り口だ。

 

 「――つまり、ちゃんと泳げるようになって欲しいなあ。せめてビート板ありで25メートル。それがブイモンちゃんの出来るお礼だね」

 

 ラーナモンが遠くで何やら言っているが、耳に入らない。万が一にも滑らないように留意しながら、同時に全力で走る。困難な所業だったが、ブイモンは耐えた。何しろ、身の安全が懸かっているのだ。

 クラスでの足の速さは下から数えた方が早いブイモンだったが、それでも懸命に短足を動かし、腕を振り、息を切らしながら目的のドアに辿り着く。

 しかし、現実は無情だった。

 ブイモンが前に立っても、ドアは重い口を閉ざしたままだった。うんともすんとも言わない。

 ただでさえ青い顔が更に青くなる。

 

 「開かない・・・・・・!?」

 

 いつの間に閉められたのか。まさか、気を失っている間に此処は密室となったのか。

 最終手段として拳を叩き付けたり石頭をがんがん打ち付けたりして足掻いたブイモンだったが、背後にただならぬ気配を感じ、たちまち石膏のように動きを止めた。

 

 「ブイモンちゃん、逃げるなんて悲しいよお。お姉さん、ブイモンちゃんと一緒に泳ぎたいのに」

 

 すぐ側で、すすり泣く声がする。

 首筋に手が添えられた。

 やけにひんやりとして若干ぬめりのあるそれに、全身の毛が逆立つ。

 前門のドア後門の何とやら。

 振り返ることは、出来なかった。

 

 「分かった、分かった! ちゃんと泳ぐ! ちゃんと泳ぐから・・・・・・!」

 

 死に物狂いで生返事をしながら、ブイモンは気を失いそうになっていた。

 

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