ラブライブ!サンシャイン!!アンソロジー『夏――待ちわびて』 作:鍵のすけ
ふと春の終わり目、なんとなく外へ飛び出した俺の元に一つの花弁がやってきた。
その花弁に誘われて、俺は自然と歩を進めて行った。"彼女"が通うはずだった学院の門の外から分かるほどの桜並木。そよ風に煽られて飛んで来た花弁は、"俺"に彼女を想起させる。
「どうかしたのかい」
ふと声を掛けられた。門の近くに立っていた警備員だ。この音ノ木坂学院もすっかり有名女子高に返り咲き、生徒数が激増。当然セキュリティや警備は厳重になる。
だからとて、警備員が女子高前に佇む男に声を掛けてきてもいいのだろうか。それとも、ちょっとした会話の皮を被った職質だろうか。
「桜を見ています」
「おお、桜ね。君は知っているかい、この学院にもたくさん並んでいるソメイヨシノはね」
警備員の男性はそこまで言ってから言葉を切った。どうやら頭の中から台詞が出てこないらしい。そして、俺はその台詞の先を想像して口を開いた。
「接木で数を増やしているから、すべてのソメイヨシノはクローン、ですよね?」
「へぇ、驚いたな。若いのに物知りだね」
彼は感心したように屈託の無い笑みを見せた。中年男性特有の朗らかさが頬の皺から滲み出ている。対して俺は、桜の大木を見上げて感慨に耽っていた。
物知りだから知っていたわけではない。なぜなら、
「俺……桜が大好きだったんです」
なぜなら、俺にそのことを教えてくれた人がいるから。
麗らかな春、春の嵐による洗礼を受け桜も半分以上が緑色に変わってしまった頃。桜内梨子はバス停で荷物を持って立ち尽くしていた。
今時の女の子なら待ち時間はスマートフォンという彼氏の世話になることがある。しかし彼女はどうも待ち時間はこの沼津の景色を眺めていることが多い。そういう意味ではどこか今風からずれたところがあると自負している。
「寂しくなるなぁ……」
「そんな顔しないで千歌ちゃん、数日向こうに戻るだけだから……」
スマートフォンに触れないもう一つの理由、バスを待つ彼女を見送りにきた友達がいるからだ。人と話すときは相手の顔を見る、彼女が家族に教わった常識だ。
高海千歌、約一年前にこの静岡に降り立ち不安でいっぱいだった梨子の最初の友達だ。千歌は梨子に善く接していた。もちろん下心が無かったわけではないが、梨子がそれでこの地に早く馴染めたのも確かである。
梨子は戻ろうとしていた。ここに来るまで住んでいた秋葉原の地に。元々父親の仕事の都合でこちらに越してきて、元いた家もまだ残っている。だから長期の休日があれば、いつも戻っていた。
それでも梨子の中ではもう沼津がホームという気持ちがある。しかし秋葉原を忘れられないという心も少しだけ、残っていたのだ。
秋葉原に置いてきた、一つの心残りが。
「向こうのリトルデーモンたちによろしくね、リリー」
「アイドル活動はしないから、よっちゃんのファンと接する機会は無いかも……あはは」
そういうと、見送りに来た人物の一人である津島善子がぶーと頬を膨らませた。彼女は一つ年下だが、そういうことを気にしない気さくさがあり梨子にとって大切な友人の一人だった。
「リリー、ね……」
「どうしたの? もしかして、私の他にリリーをリリーって呼ぶ人がいたの?」
「ううん、名前のもじりで、なっちゃんって呼ばれてた。私がよっちゃんをよっちゃんって呼ぶのは、もしかしたらそれが影響してるのかもね。あだ名で呼ばれると、ふと思い出すんだ」
梨子がニッコリと笑ったそのとき、一瞬だけ強い風が吹いた。思わず髪を抑える梨子の頭から、ハンチングベレーが飛んでいった。つばが重いので、そんな遠くへは落ちなかった。
駆け寄って帽子を拾う。そして砂や埃を払おうとして、手を伸ばしたときだった。帽子の中に、一片の花弁が紛れ込んでいた。
もう沼津ではほぼ見かけない、色の白い桜の花弁だった。彼女がいた、秋葉原を含む東京付近で咲いていた桜の花によく似ていた。
「"ソメイヨシノ"……か」
そう呟く梨子の目には、懐かしさと少しの悲しみが窺って知れた。善子と千歌は、顔を見合わせて首を傾げた。
「二人とも、バスが来るまでちょっと付き合ってもらえるかな……?」
そうして始まる、梨子の生きてきた中でもっとも淡く切ない物語、そのプロローグが。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
まだ私が東京にいた頃。私はちょっとした興味本位で小さなピアノ教室に通っていた。小さい頃から音楽に触れるのが好きで、いろんな楽器に手を出してきたけれど一番自分に合ってるなって思ったのがピアノだった。
初めてピアノのレッスンを受けに行く日、ドキドキで緊張した。だって先生は知ってるけど、他の生徒さんのことはまったく知らなかったから。
私はいろんな人に早く覚えてもらおうと、その日の教室が始まるずっと早くに教室へ向かった。そして出会いました、彼に。
彼はすっごくピアノが上手で、まだ話しかけに行く勇気の無かった私は教室の外からこっそりと彼を眺めていました。技巧はそこそこ、だけどもピアノを弾く姿が楽しそうでまるで扉の小窓から見える風景がまるで一つの絵みたいでした。
今思えば、既にこの瞬間から彼のことが気になっていたんだと思います。続々と教室にやってきたみんなに急かされ教室へ入った私は、彼と目が合いました。彼は不思議そうに首を傾げていましたが、やがてニッと笑うと自己紹介をしてくれました。
私も教室の真ん中で自己紹介をすると暖かい拍手によって迎えてもらいました。でもやっぱり気になったのは彼でした。
ピアノのレッスンが一通り終わると授業はおしまい、自然解散という形になりました。彼は他の友達に教室のピアノを譲り外へ出て行きました。釣られるように、私もその背中を追いかけました。
「桜内さんも、迎え?」
「えっ? あ、は、はい……そうです」
初めて会った日に気さくに話しかけられるなんて凄いなぁ、なんて思いながら私は彼が一つの木を見ていることに気付きました。
そう、桜の木。私は今でも、少し花の散った桜の木を見上げている彼の姿を夢に見ます。
それほどまでに印象的な姿だったからか、私の口からポロッと問いかけが飛び出しました。
「――――――あの、桜は好きですか?」
気付いて、ハッとしました。どうしてこんな質問をしたんだろう、桜が好きかなんて文脈的におかしい話の繋ぎだと誰もがそう思います。
だけど彼は、私の方を一瞥してから再び桜を見上げるとこくりと首を縦に振りました。
「この花に会えるのは春だけだから。名前に桜が入ってるなんて桜内さんは幸せだね、桜がずっと一緒にいる」
「そう、思いますか?」
「うん、俺は好きだよ」
好き、という言葉を耳にして当時の私はこの後顔を真っ赤にして心の中で悶えていました。今思えば桜が好き、ということはわかるけど思い出すだけでちょっと恥ずかしいです。
けれど彼も少し恥ずかしそうにしていました。
「ちょっとクサすぎたかな、俺には無理だ。ははは」
「そ、そんなこと……」
誌的な表現は、少なくとも私の中にはスッと入り込んできたので彼が頬を赤らめている理由がよくわかりませんでした。
「桜内さんは高校生だったよね、どこの?」
「あ、音ノ木坂学院の一年生です。あなたは?」
「俺は普通の共学校だよ。学校の程度は音ノ木坂とは比べるのもおこがましいくらいだけどね」
彼はそう言って苦笑した。確かに音ノ木坂は今や超有名校に名を連ねるほどになって倍率も前までとは全然違って、進学校としては女子高ということもあって高嶺の花と揶揄されているほどでした。
けれど私は学校のランクで人を計るようなことはしません。彼がどんな学校に通っていようと、彼が弾くピアノの素晴らしさにはなんの変わりもないからです。
「そういえば、桜内さん今日は聴き専だったよね?」
「へっ!? あぁ、はい。ちょっと緊張しちゃって」
「今度、弾いてみてほしいな。桜内さんのピアノのルーツとかも知りたいし」
ルーツ、私がピアノを始めるきっかけ。特には無いけれどテレビでコンサートの中継をやっていてそれを見てから音楽にのめり込んで行った、という始まりだったと思います。ピアノへは自然と流れていく形で触れていったから、どう説明したらいいのか分かりませんでした。
「あなたのピアノのルーツは?」
「おばあちゃん、うちは両親共働きでいつもおばあちゃんが面倒を見てくれてたんだ。そのとき、決まっておばあちゃんはピアノを弾いてくれてさ。気付いたら俺もおばあちゃんに習ってピアノを弾くようになってた」
「へぇ……素敵なお婆様」
桜の木を見つめながら、自分の祖母について語る彼の目はとても優しかった。その目が、だんだんとこちらに向いてきた。包み込むような柔らかさを携えた瞳に魅入られて私は言葉を失った。ハッと気がついたときには顔から火が出るかと思いました。
「じゃあ、迎え来たから。またね、桜内さん」
「は、はい……また」
それからです、私が月曜日を心待ちにするようになったのは。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
それから、半年くらいの時間を経てようやく俺は彼女のことが気になっていることに気がついた。
桜内さん、から名前を捩ったあだ名"なっちゃん"って呼ぶようになって、彼女とピアノのレッスンの後に少しだけ話をする生活を続けた。
気がつけば、ピアノの教室があることを加味しても嫌いだった月曜日が、大好きになっていた。いや、彼女のことが大好きになったから彼女に会えるピアノの教室が好きだった。
レッスンが終われば、教室の外で待ち合わせて彼女か俺の迎えが来るまでどこかで話をしていた。
「なっちゃんのピアノは上品だよね」
「そんなことないよ、あなたのピアノは軽快で楽しそう」
こんな風にお互いの腕を褒めあっては謙遜しあって、を繰り返す。好きな子を褒める、そうすれば喜ぶかもと年頃の男子みたいな試行錯誤も繰り返した。
「ねぇ、聞いてもいい? どうしてあなたはお婆様にピアノを教わらないの?」
なっちゃんは俺にそう尋ねた。確かに、身内にピアノの先生ほどの実力者がいるのにその人物に教えを請わないというのは考えてみればおかしな話だろう。けれどそれには理由があった。
「俺がピアノを弾けるようになったのは、おばあちゃんが教えてくれたから。でもおばあちゃんより上手くなるためにはおばあちゃんに教わってちゃダメだ。もっと自分で技術を吸収しなきゃって思って、こうしていろんなピアノ教室を渡り歩いてきたんだ」
「え、ここだけじゃなかったんですか?」
「うん、俺がここだって思ったのは、今の教室しかないよ。ここには、その……なっちゃんがいるから、楽しいし。なっちゃんからはいろんな技術が盗めそうな気がするし!」
慌てて誤魔化す、けれど彼女は今の言葉を受けてぽかんとしていた。やがて彼女は手と首をパタパタと横に振って慌てた。
「だからそんなことないって! 私はピアノが好きなだけで、上手ってほどじゃ全然……」
「いいや、なっちゃんのが好きだから俺はここに居続けてるんであって……」
「へ?」
「ん?」
我ながら主語を欠いた話が言葉が後を立たない。当時の俺たちはここで顔を真っ赤にしながら沈黙していた。正確にはなっちゃんの演奏が好きだから、だ。まぁ彼女のことももちろん大好きだったけど、そんなことを伝える勇気などなかった。
――――と思っていたはずなのに、機会は一週間後に突然やってきた。
いつものようにレッスンが終わって、彼女のことを外で待とうとしたときだった。
「あの、ちょっと、お時間よろしいですかっ!」
やけにかしこまった態度のなっちゃん、俺は首を傾げながら彼女の後に続いた。教室に戻ると、珍しく俺となっちゃん以外誰もいなかった。彼女は俺の動向を探っていた。俺はふとピアノの目の前の席の椅子が、一つだけ引かれているのに気付いた。そこへ腰を下ろすと彼女はほっと胸を撫で下ろした。いったいなんだろう。
今度は俺が彼女を観察する番だった。彼女は右手と右足を一緒に出す小学生の行進のように歩みだしてピアノの前へやってきた。
「それでは一曲……」
「あ、聴かせてくれるんだ。曲は……?」
「そ、その……あ、当ててみて」
そう言って彼女は腰を下ろして深呼吸すると、目を見開き鍵盤に指を走らせた。そのとき、開いている窓から春の風が吹き抜けてきた。
おかしな話だ、なにせ季節は夏だというのにその曲は、その風は、春そのものだった。軽快に、だけども淑やかに鍵盤上を駆ける彼女の指はまるで踊っているようで、さながら鍵盤という狭い舞台で舞踏会でも起きているようだった。
それほどまでに彼女の指捌きは軽やかで、美しかった。このピアノが好きだから、俺は彼女を好きになったのか。順番は分からない、だけど確かにこの音色に、その根源に、俺は見惚れている。
一曲引き終えるまでそう時間はかからなかった。彼女は高鳴る胸を抑えて、俺に向き直った。
「今の曲、知ってますか?」
「さくら、だよね。結構昔の曲だったと思うけど」
意外だった、まさかなっちゃんからヒップホップが出てくるとは思わなかった。しかもだ、きちんとピアノ用にアレンジしてあって跳ねる曲調を損ねていない。
まさかとは思うが、編曲まで全部自分でこなしたんじゃないか。そう思うと、目の前にいる少女がとんでもない天才に思えた。
「あの、どうでした……?」
なぜそんな風に不安がっているのか、俺にはわからなかった。だって、だってこれは……
「すごいよ、うん。なっちゃんのピアノは本当にすごい……」
「……や、そんな……照れます」
なっちゃんはいつものように苦笑いしながら手を振る。けど、今日はそれで終わりじゃなかった。彼女は演奏前と同じように深呼吸すると、唇を震わせた。
「……あの、わ、私は……あなたのことがす、すき、です……初めて会った日から、ずっと好きでした……!」
「う、うん……」
頭が再び動き出すまで、数秒を要した。俺は放たれた言葉の意味をようやく咀嚼して理解した。理解して、一言。
「お、俺も好きだ」
「っ、本当ですか!?」
「えっいや違う、いや違わないけど、なんていうか、その、んん言葉に出来ない……」
我ながら情けない。彼女の前では気取っていたかったけれどそれもままならなかった。お互いに唇が痙攣したように震えて、次の一手が出せずにいた。
やがて、
「あの、これだけは言わせてほしいな。私、女子高に通ってるし、お父さん以外の男の人とは殆ど喋ったこともなくて、男の子のこととかまったくわからないんだけど……それでもあなたが好きです」
「奇遇、だね。俺もなっちゃん以外の女の子のことは殆ど分からないや。それでも君が、す、すすす、好きだ」
俺たちはどこか似ていた、好きなものとか知らないものまで。そしてお互いを好いている。それだけで、十分じゃないか。
こうして俺たちは晴れて好き同士ということが分かり、自然と清い交際が始まった。
のだが、当然なっちゃんも俺も奥手。デートらしいデートなど分かるはずも無く、相変わらずピアノの教室が終わってからどちらかの親が迎えに来るまで周囲を散歩したり、少し洒落たカフェに背伸びして入ってみたり、あまり好きでもないコーヒーをブラックで頼んでみたり、そんなことばっかりだ。
だけど、そうしている間が楽しくなってきて、どんどん俺たちの距離は近くなって、思いは熱くなっていった。
男女交際という割には酷くあっさりした付き合いだと揶揄されたことがある。確かに、今時の彼氏彼女という割には特別仲が良い友達レベルの付き合いだった。
身体を重ねるなど、手くらいしかなかった。俺も彼女もお互いの温度でドギマギしてしまうほどに奥手で、それ以上に過激なコミュニケーションはとれずにいた。
それでも満足だったし、好きであることは嘘にならなかったから別に気にしたことは無かった。
「プールとか、言ってみる?」
「む、無理だよ……恥ずかしいもん」
なっちゃんはそう言って真っ赤になった顔を隠した。俺はからからと笑って次々にデートスポットを探し出していく。
「海とか」
「どっちも水着には変わりないよ! そ、そんなに水に入りたいの……?」
「あははは、水遊びよりはなっちゃんと二人で遊びたいかな」
偽りは無い。別に彼女の水着姿に未練が無かったわけじゃないが、どうにも説得には骨が折れそうだと思ったから手を引いただけだ。別に惜しいなんて思ってない。本当に思ってない。
「じゃあ、いつもみたいに私の家でいい?」
「いいよ、俺もそれで」
俺が彼女の家に行っても、なっちゃんが俺の部屋に来ても、することと言えばピアノの弾き合いだ。俺が弾く間は彼女が聴く。彼女が弾く間は俺が聴く。
ただそれだけのことなのに、やってるとあっという間に時間が過ぎ去ってしまう。
今思えばあの頃が一番、楽しかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「それはそれは、青春じゃないか」
警備員の男性は目尻を下げてまるで初老のように笑った。俺も少しばかり懐かしくなって大風呂敷を広げてしまった。
「確かに、あの頃は毎日……いや毎週か、変な言い方ですけど世界が色を失うことはありませんでした」
「ほぉ詩的だねぇ……」
桜の花が次々に旅立っていく。木から離れ、吹雪と化し人々の目を楽しませ、地に落ち行く。
そう、俺たちの日々は美しいだけじゃなかった。
「桜はだんだん散っていく。木々は次から次へと花弁を無くしていく」
「……」
彼は何も言わなかった。しかし皺の浮いた目の周りから発せられる雰囲気は、俺の言いたいことを既に予期しているかのようだった。
「俺たちの青春は、ある日突然。木が枯れるように色を失いました」
それは、今とちょうど同じく桜の花が咲く季節だった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「どうしたんだろう、ピアノの教室を休むなんて……」
教室を出ると、私は自分の携帯を取り出しました。連絡は来ていないと先生が仰っていました。彼にしては珍しい無断欠席。確かに普通の学校と違って私塾なのだから、予定がある日は休んでも仕方が無いです。
けれど私には彼が無断で欠席するほどの何かがあったのではないか、そんな胸騒ぎにも似たざわつきを感じました。
「なっちゃん」
私は飛び上がりました、なにせ探していた人に後ろから声を掛けられたからです。びっくりさせないで、とちょっぴり怒った風に言い放ってやろうと思ったそのときです、私は再び飛び上がるかと思いました。
生気の感じられない目、赤く腫れあがった目元、力なく薄く開かれた青い唇。彼から生きているという気概を感じなかったんです。
「ど、どうしたの……!? 体調悪いんですか!? ひとまずベンチに……」
彼の手を取っていつも話をしているベンチに引っ張って行こうとした。けれど、彼は私が手を引っ張った瞬間に膝を折った。そして、そのまま私に縋りつくように、抱きつくというよりしがみついてきたのだ。
公衆の場だからか、私は先に驚きよりも恥ずかしさに襲われた。けど、彼から伝わってくる嗚咽特有の震えが、恥ずかしさと驚きを掻き消して、疑問を植えつけた。
「おばあちゃんが、死んじゃった……俺、もうピアノできないよ……っ」
「っ……!」
その告白はあまりに冷え冷えとしていて、私はなんと返せばいいのか分かりませんでした。
泣かないで、とも言えませんでした。彼という人間を構成した、重要なファクターであるおばあさま。その存在が自分の中から抜け落ちて、彼の心に大きな違和感を残してしまった。
それは私では埋められない。私ではおばあさまの代わりにはならない。彼の涙がそう見せつけてくるようでした。
私はただただ、子供のように泣きじゃくる彼をあやすように包み込むことしか出来なかったのです。道行く人も、偶然にもいませんでした。
だから私は彼の心が晴れるまでずっと彼の頭や、背中をゆっくりと撫で続けました。
自分の心に開いてしまった心の穴から、目を背けて。
彼はどうやら先生に、教室をやめるよう言いに行く途中だったそうです。私はどうしても彼にピアノを続けてほしくて、一時間近く掛けて彼を説得しました。
私も、どこかで彼と、ピアノに執着していたと思います。このとき、既に私はこの街を去ることが決まっていました。
だからここを離れても、彼とピアノで繋がっていたいとどこかでそう思っていたんです。
「はは……」
彼がようやく立ち直れそうになった頃、もう地方では桜が咲き始めていた季節。私たちは桜の花言葉をまざまざと叩きつけられたようでした。
桜の咲く季節に彼と出会った。
そして、桜の咲く季節に彼と別れなければならなかった。
「お父さんの都合、じゃ……しょうがないか。しょう、がない」
彼はそれ以上何も言いませんでした。ただただベンチに背中を預けているだけでした。少しだけ肌寒い風が桜の花弁を運んできて、それは彼の肩にそっと降りた。
私にしか見えていない桜の花、それは再び風に煽られてどこかへ消えていきました。
「ただ、私は向こうでもピアノを続けます……だから、あなたも」
「……無理だよ、おばあちゃんもなっちゃんもいない場所でピアノなんか出来ないよ……」
ピアノなんか、彼がピアノをそう呼ぶだけで心が凍てつき、ビキビキと悲鳴を上げている気がしました。そのひび割れ行く音は彼の心からしたのか、私の心からしたのかは分かりません。
彼は吐き捨てるように、私の顔から目を背けて言いました。
「もう、ピアノ続ける意味、無いよ……」
「……っ」
私たちが出会ったきっかけを、気持ちが通じ合ったきっかけを、無意味だと決め付けられてしまった。私は怒りよりも純粋な悲しみでいっぱいでした。
「いっそこんな手無くなっちゃえば、もうピアノ見たって弾けなくて済むのにな……」
「もう、やめて……無意味なんかじゃ、無いよ……っ」
溢れ出す涙を止める術がありませんでした。両手で顔を覆って、枯れるまで泣きたい気分でした。だけど、一瞬でも顔を覆ったら、目を瞑ったら彼が消えてしまう。そのまま二度と会えないような気がしてしまいました。
だけど、私が泣き止むまで彼は隣にいてくれませんでした。
「今までありがとうなっちゃん、ごめんなさい……っ」
嗚咽交じりのさよならは、とても澄んだ空の下で空気を震わせました。
「うっ……く、ふ、うぅ……ああ……っ」
残された私は、それこそ誰の肩に寄り添うこともなくただただ一人で涙を流し続けました。誰も私を慰めようとはしない。
出来ることなら彼に縋りつきたかった。彼が私にしたように、私も彼に追い縋って本当はこの街から、彼から離れたくないということを伝えたかった。
けれど私一人ではこの街で生きていけない。それは分かっていました。
お父さんがいつ返ってくるか、分からないからこそ家族全員で移り住み支える必要がある。そう言われたことも、考えを決定したきっかけです。
それでも、私はこの街に残って彼と一緒に生きていたかった。
もっと名前を呼んでほしかった。
彼ともっとずっと一緒にいたかった。
触れ合いたかった。あんな悲しい形で抱き合いたくなかった。もっと愛してほしかった。もっと愛したかった。
そう思うことは、贅沢なのかな。
もう選び終わった私にとっては、残酷な自問自答だった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「それから、俺はピアノを避け続けてきました。それこそ、一年くらい……ですかね」
見ず知らずの警備員のおじさんに、なぜだか俺は聞くに堪えないような昔話をし続けた。彼は相変わらず大人の余裕か、すべてを見透かしたような顔で俺を見つめていた。
「本当、嫌になったんですよ。確かに最初は彼女の演奏が好きだった。けど、だんだん彼女のことしか考えられないくらい好きになれたのに」
桜の花弁を見るだけで思い出してしまう。彼女のことが嫌いになったわけじゃない。余裕の無かった自分にかこつけて彼女を傷つけてしまったままの自分を思い出してしまうんだ。
彼女が東京を去る日、彼女を見送りには行かなかった。入っていた留守番電話も、聞いていない。
「けど、そんな自分に嫌気が差した日が来たんです。いつだったかな、去年の夏の終わり目、くらいかな……ある歌を聴いたんです」
「へぇ……ピアノじゃなく、歌をねぇ」
「はい、君の心は輝いてるかい? って言ってました。何度も何度も立ち上がれるかい? って聞いてきたんですよ、歌が」
紛れもない、彼女の声でそう言われた。それから俺は腑抜けていた日々にピリオドを打った。すっかり怠けて技巧もクソも無くなってしまった演奏を立て直して、もう誰にも教わってはいないけれど独学でピアノを続けて。
おばあちゃんに勝ち逃げされたことは本当に悔しいし悲しかった。
だけど、腑抜けて逃げ出すくらいならずっと満足いくまで追い続ける。満足したら、その先まで追い続ける。
なっちゃんと別れたことは本当に悲しかった。だけど、おばあちゃんと違っていつかまた会うことが出来る。
もし会えたら、もう一度とはいかなくてもいい。ただあの日、傷つけたことを謝りたい。
「で、君はその問いにどう答えたのかな」
「もちろん、イエスって応えてやりました。俺はもう前しか見てません」
「そうかい、じゃあ私はそろそろ勤務に戻るよ。長々と立ち話をしていて、怒られてはいけないからね」
彼は帽子の位置を直してニコニコと笑顔で去って行った。ありがとうございました、と言うべきか迷ったけれどあくまで彼の暇つぶしになったのなら、それでいい。
しかし警備員のおじさんは振り返り、俺に向かって奇妙なことを言った。
「もし話足りないのであれば、後ろの女の子にでも話してあげればいいさ」
そう言われて、振り返った瞬間。突風、とまでは行かなくてもよろめきそうな強風が吹いた。乾いた地面に落ちていた桜の花弁、木々から飛びだった桜の花弁が一斉に巻き上がり、花吹雪となって俺に――――
俺
「……あっ」
頭に被ったハンチングベレーを抑えながら、その長い髪を風に撫でられている少女と目が合った。あの頃とは、背丈が少し伸びて大人っぽくなった、彼女に。
彼女は、俺を見てただただ瞳を揺らしていた。会いたくなかっただろうか、あんな最後で別れた俺のことなんか、もう忘れたがっているだろうか。
「あ、の……俺は」
待ち焦がれた機会とは裏腹に言葉は錆び付いていた。喉から、言葉が出て行かない。
言いたかった言葉がある。大切なものはいつになっても変わらないこと、それをようやくわかった今だからこそ、桜の下で出会えた今だからこそ。
伝えなきゃならない言葉がある。
「あ、あのっ!!」
しかし、その言葉を先に放ったのは彼女だった。俺は自然と受けに回ってしまった。彼女の唇がわなわなと震える、彼女が今から叫ぶ言葉が怨嗟でもいかなる罵詈雑言であっても、俺は一先ず受け入れなければならない。
覚悟を決めて、彼女に向き直った。彼女の震える唇が形を変えて、その言葉を紡ぎだした。
「――――今でも、桜は好きですか?」
その一言は、昼を夜に。場所を音ノ木坂学院の前から、一本の桜の木の元へと遡らせる一言だった。
記憶の中の幼い彼女がそう言った。あの時、俺はまだその気持ちに気付いていなかった。だけど今なら、今なら面と向かって言える。
この告白を、受け止めることが出来るんだ。
「大好きだよ、ずっとずっと、大好きだ」
「……ずっと、気になってました。あなたのこと。新しい目標は、出来ましたか?」
「出来たよ、一先ずピアノを続けてるよ。なっちゃんに会えたときに、ヘタクソになってないようにずっと続けてきたよ」
それを聞いて彼女は、なっちゃんは目尻を湿らせながらこくりと頷いた。シャツの袖で目尻を拭うと、彼女はまた喉と唇を震わせた。俺たちはどちらともなく、辛抱効かなくなってお互いに向かって歩みだした。
速度は速まる、歩きから早歩きのように。そして、衝突するような速度でお互いの身体に飛びつくように抱き締めあった。
「あ、新しい恋人は、で、出来た……?」
「出来てたら……こうしてなっちゃんを抱き締めたりしないよ……っ」
彼女の温度は、まるで凍てついた心を溶かす春の日差し。花のように香る彼女の匂いが、最高に楽しかったあの頃を俺に思い出させる。
振り返ることに意味なんか無い、振り切ったと思っていた過去が一気に押し寄せてふと涙が出る。
「良かった……よかった……っ」
「なんで泣くのさ……って、俺も泣いてんのか……馬鹿だな」
さめざめと泣く春の雨のように、しばらく二人は抱き合ったまま溜まっていた涙を出し切った。通行人や車の視線が気にならなくなったのは大人になった証だと信じたい。
けれど、さっきまで昔話を聞いてもらった警備員のおじさんにはしっかり目撃されていた。恥ずかしいので彼の顔は出来れば見ないようにしてこの場を離脱したい。
「行きたいところがあるんですけど、いいですか?」
「いいよ、まだなっちゃんを離したくないんだ」
「は、恥ずかしい……でも私も、同じ気持ちだよ……」
彼女の行きたいところ、言わなくたってわかる。俺は彼女の手を取って、もう一度桜の木を見上げた。
なっちゃんの名前にもある桜、俺はもう離さないから。
予想通り、彼女が俺を引っ張って行ったのは通っていたピアノ教室の前にある桜の木だった。あの日、俺はこの桜を見上げていて彼女と話した。
なんのことはない、取り留めの無い話だったはずだ。けれど、今では大切なきっかけだ。
あの時、桜は好きですかと聞いてきたのはなっちゃんなりの"告白"だった。それに俺は好きだと返した。芯が通ってなかったけれど、結局は告白として成立はしていたのだ。
「もし、また会えたら、聞いてほしいお願いがあったんだ」
すっかりあの頃と同じ、崩した口調に戻ったなっちゃんを見て俺は首を傾げた。今日彼女と出会ったのは紛れも無い偶然だ。その偶然にかける彼女のお願いとは、いったいなんだろう。
「お願い?」
「出来たら……名前で呼んでほしいな、って」
「え、えぇっ……り、梨子……?」
恐る恐る彼女の名をそのまま口にする。彼女は頬を赤らめて微笑むともう一度、と催促してきた。
「り、梨子っ」
「ふふ、もう一回」
「梨子……!」
彼女の微笑みはだんだん濃さを増していく。続いたアンコールにもう一度彼女の名前を呼ぶ。
「もう一回!」
「梨子!」
「……幸せ、溶けて消えちゃいそう」
彼女はこうやって艶っぽく笑っただろうか。少し大人の女としての雰囲気が増しすぎて無いだろうか。俺が独り身だった時間彼女には彼氏がいたんじゃないだろうか。
いいや、彼女を疑うのは止そう。俺はもうなっちゃん一筋で一生通していくんだ。
「ありがとう、帰ってきてよかった……やっぱり、私桜内梨子は……あなたが大好き、ううん……愛してます」
「ぶっ! ……大胆すぎるよ、なっちゃん。でも、そうだね……」
若造が口にするには早すぎる言葉。先人たちは俺たちを鼻で笑うだろう。
けれどもこの言葉を、彼女が求めるなら――――
「桜内梨子を愛してる……悪いけど、もうこればっかりは揺らがないから」
こうすることが告白のルールなのだ。めぐり合わせが俺たちを出会わせ、引き裂き、それをまた繋ぐのならば。
接木によってクローンを増やすソメイヨシノ、警備員のおじさんにはそう伝えた。
けれど、引き裂かれ別の木と繋ぎ合うことで一つの木になるのなら。
それはクローンという言葉はやや適切じゃない。正しく言い換えるなら、家族。
俺たちという二つの接木は無事に桜となり、たくさんの花を咲かせることが出来たのだろう。それはきっと白く、少しだけ桃色な花。
梨子ちゃん可愛いってなってくれたら幸いでございます。