今回の更新からタイトル変更しました。
「――――――………………ふふ」
朝起きて、すぐそばに家族がいるのは幸せなことだと思いながら、その日彼は目を覚ました。
同じ布団で、手を繋いだ体勢で寝ていた西住夫妻。先に起きたのは夫の方であった。思わず、彼は最愛の人に頭を擦りつけ、匂いでマーキングをするような事をしてしまう。それを恥ずかしくも思うが、幸せな気分の方が今は優っていた。
それでも、ずっとそうしているわけにはいかないのは彼もわかっていた。最愛の人の体温や香りを感じながら、寝起きの微睡みに身を委ねたい衝動に抗いつつ、彼は一日の始まりとして、ベッドから降りると寝巻きから普段着である着物に着替え始める。
「…………あなた?」
着替えていると普段の凛とした声ではなく、どこか甘い声が彼の耳に入り込んできた。
目が見えなくなってからの生活が長いため、着替え自体は手馴れたもので、彼は自分だけでそれができる。しかし、時々壁にもたれて休憩しながらの着替えであったため、着替えの最中を見られてしまい今更であるが、彼は気恥かしさを覚えた。
「おはよう、しほ…………少し向こうを向いていて……なんだか気恥ずかしい」
「おはようございます…………なんだか、あの頃みたい」
ぼそりと呟かれたその言葉に、初めて彼女に自身の素肌をさらした時のことを思い出した彼は、ほんのりと朱色に染めていた頬を更に濃い色にした。
「「「「「ごちそうさまでした」」」」」
タカシが外泊したため、西住一家と菊代を合わせた五人による朝食。
いつもと違うが、本来であればこれが正しい面子での朝食はお腹以上に、心を満たすものであった。
「お父さん、お願いがあるのだけど」
朝食の片付けもそこそこに、みほは食後のお茶を飲む彼に声をかけた。
「お願い?」
「うん。実は私たちの戦車チーム……あんこうチームっていうのだけど、そのチームのみんながお父さんに挨拶したいって言ってるの」
中高生になって、本格的な戦車道を始めてからどちらかといえば内向的であったみほが、どこか嬉しそうに自らのチームの事を喋ることを嬉しく思う西住家。
どこかほっこりしながらも、彼は聞くべきことを尋ねていった。
「えっと……学生の輪の中に親である僕が行くのは気不味くないかな?」
「そんなことないよ!逆にみんなお父さんに気を使わせてしまったと思って、お礼したいって言うぐらいだし」
慌ててフォローするぐらいには、みほの友達から憎からず思われている事に安堵を覚える彼。しかし、お互いに気を使うような空間を作るのはどうなのだろうかとも考えるのが彼であった。
「貴方」
「しほさん?」
そんな中、助け舟を出したのが母であるしほであった。
「今日、明日とマネージャーである彼には暇を出したのでしょう?」
しほの問いかけに、彼は頷く。
自宅作業が主とは言え殆ど休日が無いのはどうかと思った彼は、後からタカシの携帯に休日の追加を言い渡したのだ。
幸いにも、今はしほやまほ、それに加え彼の世話に慣れている菊代もいることから、彼も特に反論することもなく了承するのであった。
「今日の昼間は私たちも全国戦車道大会の予選抽選会があるので、あなたと一緒にはいられません。だから、抽選会が終わり次第解散するみほと一緒にいてくれた方が私も安心できます」
いつもより饒舌に喋るしほの姿に目をパチクリとさせる娘二人と、何か懐かしがっている菊代。そんな三人のことは気にせず、彼はしほに尋ねてみる。
「抽選会の間、僕は一人になるのかな?」
「菊代」
「私の知り合いと今日会う約束をしているので、良ければ旦那様も一緒に行きませんか?」
しほに呼ばれた菊代はいつもの微笑を浮かべ、そんな提案をしてきた。
「……それこそ僕は場違いなんじゃ?」
「それが、その人は貴方と会ったことがあるらしいですよ?」
「へ?……ちなみにその人の名前は?」
「それは行ってみてのお楽しみということで」
楽しんでいる口調でそんな事を言ってくる菊代に「敵わない」と思いながらも、彼はその日の予定を決定した。
そして朝食後、外行きの準備もそこそこに西住一家は出かけていく。
家族の女性陣がそれぞれ、高校の集まりの方に行ったりする中で、菊代に車椅子を押してもらいながら、彼は二人で大洗の駅の周辺を散策していた。
「ここで待ち合わせですか?」
海が近く、磯の香りと少しベタつく風を感じながら、彼は菊代に尋ねた。
「そうです。迎えの者が来るらしいのですが……」
そこまで言われて、彼の耳に聞き慣れない音が聞こえてくる。
「これは…………車輪?それにしては静かなような……」
「旦那様、それはきっと迎えの者ですよ」
「?」
自身の座る車椅子を動かす時の車輪の音に似ているが、それにしてはどこか大きな違いがある音に首を傾げて呟く彼。だが、その彼の言葉に心当たりがあった菊代は、どこか楽しそうに彼に告げた。
「お待たせしました!」
いつの間にやら近くに来ていたらしい、その車輪を動かしていた男性が大きな声でそんなことを言ってきた。
「お久しぶりですね、新三郎さん」
「井手上さんもお変わりなく…………あれ?最後に会ったの数年前ですが、全く変わっていないような?」
何か呟く声が聞こえたが、藪をつつく趣味がないため、彼はそれを聞かなかったことにした。
「ところで、そちらのお坊ちゃんはどちら様ですか?」
(…………お坊ちゃん?)
「こちらは私が勤めているお家の旦那様です。百合さんが以前もう一度会いたいと言っていたのを思い出して、ちょっと驚かせようと思って付いてきてもらったの…………それと彼は私たちよりも年上よ」
いつもの勘違いかと、お坊ちゃん発言をスルーしつつ、菊代が口にした『百合』という名前の人物を自身の記憶から引き出す作業にかかった。
「こ、これは失礼を」
「あ、気にしないでください。自身の見た目のことは理解しているので」
挨拶し、握手も交わしたところで、彼は菊代と共に新三郎の引き車に乗り込み、目的地のお家に急ぐのであった。
引き車に乗っている間、彼は普段なかなか感じることができない速度を体験し、少し気分が高揚したが、体の事を考えて少しだけ速度を下げてもらったりするのであった。
「到着しました」
新三郎に案内され、彼に車椅子を押してもらいながら、和風な屋敷に通される。
井草の香りから、畳の部屋に通されると思い歩かなければならないかと、自身の体に力を入れようとする彼。
しかし、その辺りの事は察してくれたのか、板張りの部屋に通され、車椅子でも乗り入れられる部屋に通された。その事に肩透かしをくらった彼であったが、新しくその部屋に入ってきた人物の足音を聞いて、緩んだ気持ちを引き締め直した。
「お久しぶりね、菊ちゃん」
「急にお邪魔してごめんなさいね、百合ちゃん」
部屋に入ってきたのは、今回の目的の人物であった。
「えぇと、そちら、は…………あら?」
戸惑いから驚きに変化した声に、結局ここまで来る道中に思い出すことができなかった人物に対して申し訳なさも感じつつ、彼はその女性に頭を下げた。
「こんにちは。自分は井手上さんの雇い主で――――」
「もしかして、弥栄さん?」
名乗る前にペンネームを言われる。
その事から、本当に面識あったのかと思いつつ、彼は失礼を承知で尋ね返した。
「そうです。今回、井手上さんのお誘いを受けて伺った弥栄縁です…………申し訳ないのですが、以前お会いしたと菊代さんから聞いたのですが、心当たりがないのです。大変失礼なのは承知でお訊きしますが、以前どこでお会いしたのでしょうか?」
「え、あ、そんな。お会いしたといっても、もう随分と昔の話ですし、それに二言三言言葉を交わしただけで、覚えていないのも無理はないと思います」
彼の言葉に慌てて返答を返す彼女であった。
口早にそこまで言うと、その慌て様をどこか微笑ましく見ている菊代に彼女は気付く。そのどこか状況を楽しんでいる彼女に、呆れと同様に変わらない旧友に安堵を覚える百合であった。
「んっ、うん…………それでは改めて自己紹介をさせて頂きます。華道、五十鈴流家元、五十鈴百合と申します」
(…………五十鈴?)
上の名前がどこか引っかかり、やはり自身の記憶を漁り始める彼。
自身の思考に沈みそうになるが、それの前に百合が彼に説明を始めた。
「以前お会いしたというのは、本当にもう十年以上前でして。当時、貴方は『花』というタイトルで音楽の譜面を残しませんでしたか?」
「え?……ええ、まぁ。譜面というか、CDのアルバムにですけど」
彼は驚いた。百合は自己紹介の時に華道に身を置くと言っていた。その為、同じ芸術といっても音楽という畑違いの、しかも自身が結婚する前の、今ではもう絶版になっているアルバムのタイトルを口にしたのだから。
「当時、若輩だった私は、自身の華の表現に疑問がありました。そんな時にその『花』に収録されている曲を耳にしたのです」
そのアルバムは、彼にとってもある意味印象が深い作品であった。
花というアルバムのトラックにはそれぞれ個別に花の名前が当てられ、その花を表現した曲が収録されているのだ。
当時、微かではあるが見えていた目。その時に見えていた色や形の美しさを、目が見える内に表現したいと考えた彼は、その二つの特徴を併せ持つ花に関心を寄せたのだ。
そして、特徴的な花を一種類ずつ表現していった曲を全部で十一種類まで書き上げたところで、彼の目は物の色を認識することができなくなった。
その為、そのアルバムの事は彼にとっては様々な意味で思い出深いのである。
「耳にしたのは、小さな演奏会でした。ほんの息抜きで、友人の誘いで足を運んだチャリティーコンサート。そこで花の名前の詩のない曲を聞いたのです」
当時の事を思い出している。
それがありありとわかるような表情をする百合。それはどこか夢心地のような表情で、彼女の声音からもそれを窺えた。
「衝撃でした。音だけでここまで生きた花を表現できるのかと」
その声に熱と艶がこもった。
「音と律動が、色を、形を、匂いを、生命を連想させる。当時の自分の華が幼稚に見えるほどの衝撃でした」
過度な賞賛に彼はその場しのぎの笑いを浮かべるしかなかった。
「その時はとても舞い上がっていまして、その場で販売していたCDを購入したときに、ちょうど係員の方がその曲を作った人がいると言葉を漏らしたのを耳にしたのです。そして、無理を言って貴方と会えるようにしてもらいました」
ここまで語られても、彼は当時の事を思い出せないでいた。
何故なら、覚悟はしていたのに、いざ目が殆ど見えなくなるとこれまで当たり前であった光景がわからなくなり、その事に大きなショックを受けていたのだから。
「その時はお疲れだったのか、あまりお元気そうではなかったのですが、握手と挨拶だけはさせていただいたのです」
「…………すみません、当時の事はあまり覚えていなくて」
「いえ、そんな!今日、こうして会えるなんて夢にも思っていなかったのですから、それだけでも嬉しいです」
そこで、この話は一旦切り上げることとなった。
あまり話し込んでしまうと、今日の訪問のメインである菊代がほったらかしになってしまうのだから。
それから、女性は女性同士、男性は男性同士で話し合うことになった。なったのだが、彼と新三郎は同性といえど真逆な性質である。
その為、早々に会話に詰まってしまう。
だから、彼は少し焦って少々突っ込んだ事を尋ねてしまった。
「あの、新三郎さん……百合さんのお声に憂いみたいなものを感じるのですが、何かあったのですか?」
尋ねてからしまったと思うも、口に出してからでは後の祭りであった。
長くなりそうなので、次回に続きます。