五河家に拾われて暫く経った頃のこと。
絶対的な存在だと信じていた親から捨てられたことで俺は絶望していた。
五河家の父さんも母さんも俺によくしてくれていたが、それでも心の傷は完全に癒えることなく、俺は脱力感に苛まれながら暮らしていた。
そんな時、俺はあいつに出会ったんだ。
「どうしたの? どうしてきみはひとりなの」
家の近くの公園のベンチに座っていると、幼い声音で問いかけられた。
声がする方に目をやると、そこには愛らしい少女が笑みを浮かべていた。
はたからみれば、年相応の少女なのだが……俺はそんな少女にどこか違和感を覚えた。
ただ少しの綻び。
人の感情に敏感になっていた俺だったから気付いたのだろう違和感。
ただ、そんな些細な違和感なんて今の俺にはどうでもいいことだった。
「どうしてきみはベンチでつまんなそうにしてるの? わたしとおはなししよーよ。いまならあめもあげるよ?」
何で笑っているのか聞こうとして……やめた。
駄目なんだ。喋ってしまえば、今後も関わる羽目になるかもしれない。
どうせ、今日一日だけしか関わることのないやつだし、それならば、関わらない方がマシだ。……もう人に裏切られたくない。
固く口を閉じる俺を見ても、少女は笑顔を浮かべるだけでこの場から動こうとしない。
いったい何が楽しくて笑っているのか。あっちに行ってくれと彼女に視線を送るが、彼女は一向に気にしない。そればかりか、空いている隣の席に座ってきた。
「ねえ、きみはどこからきたの? わたしはとなりまちからきたの。いえのちかくのこうえんもすきだけど、ここもすきだな」
「……」
隣町なら滅多に来ないだろうと思いながらも、本当に楽しそうに話す彼女に対して、俺は口を開かない。
そんな俺を見てか、さっきよりもちょっと困ったような顔をした少女は言葉を続けようとした。
「もうそろそろ帰るよ」
少女の名前らしきものを呼ぶ大人の声がしたことが理由か、少女の一方的な会話は途切れることとなった。
「あれ、もうそんなじかんなんだ……」
少ししゅんとした調子で、少女は呟く。
「ごめん、もうかえるじかんみたい。きょうはもうあえないけど、またこんどね」
嬉しそうに大きく手を振って、少女は母親らしき人の元へと走っていった。
今度も何も、こんなにもシカトし続けたのだからもう会いに来ないだろう。
……そう思って最後まで喋ることもなく、母親と帰る少女を目だけで追った。
そろそろ、俺も帰る時間なのかと思いながら。
その日だけと思っていた少女は、不思議なことに次の日も、その次の日も……毎日公園に来た。
……あんなに、嫌だという視線を送ったのを意にも介さずにだ。
「ここってゆうひみえるかな……? いえのちかくのこうえんはすっごくきれいにみえるんだ。いつかきみにもみせてあげたいな」
そう言って、少女は今度遊びにおいでよと笑う。
だが、俺は口を開かない。
そうなると、決まって少女は悲しそうな顔をするのだ。そんな顔をするくらいなら、会いに来なければいいのにな。
何だか心がむず痒くなるのを感じていると、少女がどこかへと走り去っていった。
「あ……」
遠くなっていく少女を見て、呼び止めそうになってしまった。
寂しい。
何故だかそう感じてしまったのだ。自分でも湧くことがないと思っていた感情に困惑していると、軽い足音が聞こえてきて目の前で止まった。
「はな、あげる」
「……?」
突然の言葉に思わず顔を上げると、そこには微笑んで花束を抱えている少女の姿があった。
「あ、やっとはんのうしてくれたね。じつはわたしのこと、みえてないんじゃないかってしんぱいしてたんだよ」
ほっとしたという気持ちを示すように胸を撫で下ろした少女を見て、内心複雑になるのを感じた。
この少女は、俺がどんなに無視をしようと睨めつけても俺から離れることはない。
それはもう、分かっていることなんだ。
だからもう喋っても良いかと思い、俺はいつの間にか重たくなっていた口を開けた。
「……なに、それ」
少女が持っているのは青や紫色などの鮮やかな色の花の束だったが、それらにはあまり見覚えがなかったから問いかけると、少女はぴくりと眉を動かした。
……そういえば、少女に声を発したのは、これが初めてのことだったかもしれない。
「これはね、りんどうのおはな。きれいだなっておもって、きょうおかあさんにかってもらったの。
……あ、そうだ。きみもちょっともらってくれないかな? わたしは、きみとともだちになりたいんだ。だから、そのいっぽとして」
「とも……だち」
少女は俺の言葉に対して、ぶんぶんと頭を縦に振る。
友達。
その響きに、心の中にじんわりと暖かいものが広がっていくのを感じる。
俺は今まで友達と言ってくれる存在に出会ったことがなかった。
……とはいえ、それは仕方のないことなのだが。
俺の方から周りを拒絶し続けたのだ。
そんなことを言ってくる少女が異端なだけだ。
「そうそう。はいどうぞ」
にっこりとして、少女は青色のリンドウの花を一房手渡してきた。
「……ありがと」
俺がボソリと呟くと、少女は嬉しそうに笑った。
その笑顔にどれほど救われたことか、そしてこれから救われることになるのか、多分彼女は知らないのだろう。
♢
「おお、京乃! 機嫌良さそうだな!」
「と、十香ちゃん、おはようございます。……実は良いことがあったんです」
「むっ……何があったのだ!?」
「え、えっと……それは、ですね……」
教室の窓越しの陽気に当てられて船を漕いでいた時、十香の声と観月の声が聴こえてきて目を開ける。
まだ朝のホームルーム前で気が緩んでいたのかもしれないが、狂三の攻略をしないといけないのにこんな調子では琴里に怒られてしまうだろう。
気を入れ直して声の方に顔を向けると、十香が言う通り、観月はどこか嬉しそうに見えた。
その理由と言うのも少し気になりはしたが、観月は言葉に詰まった後に十香の耳元に手を当てて、何事かを呟いた為に、内容が俺の席まで聞こえて来ることはなかった。
「むっ、本当か京乃! それはおめでとうなのだ!」
内容が聞こえてくることはなかったが、その十香の反応で観月にとって喜ばしいことがあったのだと悟った。
「……あ、ありがとうございます。……本当嬉しかったんです、あの子から何かを貰ったのは初めて、でしたから。手紙、凄く嬉しかったんです」
「うむ、京乃の気持ちはとても分かるぞ。私もシドーにゲェムセンター? で、パンダローネすとらっぷを貰ったのは、とても嬉しかったからな!」
共感してもらえて嬉しかったのか頬を赤らめていた観月だったが、ストラップの話を十香がした瞬間に驚愕の表情で声を荒らげた。
「い、五河君から貰った……!?」
「うむ、お揃いだ!」
「……お、おそろ……!?」
再度驚愕の表情を浮かべている観月。
何をそんなに驚いているのだろうか?
……自分の中で考えを纏めると、一つ考えが思いついた。
多分あれだ、観月はきっとパンダローネのことが好きなのだろう。
ただ、殿町が言うには、ゲーセンでのパンダローネの配置はとてもシビアらしく、取ることが出来なかったらしいし、もしかしたら観月も取ろうとしたが取れなくて、俺らが持っているのが羨ましかったのかもしれない。
そんなことを考えていると、折紙が席を立って十香と京乃の間に入ってきた。
「同志。士道にストラップを渡したのは私。夜刀神十香が嘘をついているのは明白」
「折紙さんも、すとらっぷ……」
折紙は携帯を取り出し、ついているストラップを観月に見せる。
するとそこにはノーマルカラーのパンダローネが付いていた。
……いや、折紙。同志ってなんだ。
「な、なんだとう!? か、仮にそれが本当だったとしても、私は! シドーに! このすとらっぷを! 取ってもらったのだ!!」
「妄想も大概にすべき」
「妄想ではない! ほら、ここに証拠があるではないか!」
折紙に対抗するためにか、十香も携帯につけていたネガカラーのパンダローネを折紙に見せつけた。
「自分で取ったものを士道から貰ったと思うなんて、可哀想なひと」
「……な、な……なにおう!! 嘘をついているのは貴様だろう!?」
「あなたの方」
十香が掴みかかる勢いで話しているのに対して、折紙は涼やかな表情で言い返している。
どうやらいつものように戦いが白熱してきたようだ。
「……」
争いごとから抜け出したかったからか、観月はするりと危険地帯から抜け出した。
手慣れた様子であるのは、いつも経験している出来事だからだろうか?
「お、おはよう、観月」
「い、五河君……!?」
声をかけると観月の体は驚くほどに飛び跳ね、またしても驚愕したように俺の名前を呼び、そして俺の携帯をジロジロと見た。
……そこには、レッドカラーのパンダローネがいた。
「パンダローネ、欲しかったのか?」
「……!? ほ、欲しいと言えば欲しいですがそうではなく……!」
どうやら、殿町の言っていた女子に大人気というのは間違いでもないのかもしれなかった。
ただ、観月が言いたかったのは、本当にそう言うことではなかったらしく、慌てたように左右を見渡した後に俺の耳元に小声で話しかけてきた。
「おはようございます。あの、真那さんとはその……」
「真那か」
そっか、確かに昨日あんなことがあったのだから気になるのも当然だろう。
そう思い、俺も観月にあわせて声を小さくして昨日会ったことを話す。
「琴里……妹と三人で話し合ってな。真那も、別の所でよろしくやっているらしいから……まあ、これまでと変わらないな」
「五河君がどっかに行っちゃう訳じゃないんですね。よ、良かった……」
ほっとしたような表情を見て、俺は昨日の出来事を思い出す。
「なあ、結局観月の昨日言いたかったことって」
「……あ、それは……もう、解決したから大丈夫……です。その、わざわざ聞いてしまって、すみません……でした」
「そうか、なら良かった」
観月の顔も荷が降りたと言うように晴れやかになっていたが、俺はそんな彼女とは対称的に歯車がうまく噛み合っていないような、そんな違和感を感じた。
昨日は、大切な日だったような気がする。
……とは言っても、思い出せないのだが。
何とか内容を思い出そうとしている内に朝のホームルームの時間を示す鐘がなり出してしまった。
「あ、あの……い、五河君、時間ですしその……」
「ああ、またな」
「は、はいぃ……」
観月は少し情けない声を出して、へっぴり腰になりながら自席へと戻っていった。
それを微笑ましいような申し訳ないような気持ちで見守っていると、観月が不思議そうに右隣の席を見ていることに気がついた。それを見て、俺は眉をひそめた。
登校二日目にして、そこには狂三の姿がなかったのだ。
「あれ、狂三は」
「──時崎狂三は、もう、学校に来ない」
「それって……」
折紙の言葉の真意をさぐろうと問いかけたとき、前方の扉が開いて狂三が教室に入ってきた。
「時崎さん、遅れるなら連絡を下さい」
担任のたまちゃんが狂三に言うと、狂三は申し訳ないという顔で頭を下げた。
「すみません、登校中に体調が悪くなってしまいまして……」
「大丈夫ですか? まだ悪いようでしたら、保健室に案内しましょうか?」
「いえ、もう大丈夫ですわ。お騒がせしました」
もう一度頭を下げた狂三は、俺の席を通り過ぎて自分の席へと着いた。
「ふふ、京乃さんはわたくしがいなくて寂しかったですの?」
「そんなことないです」
「……あらあら」
後ろからそんな会話が聴こえてきた。
基本的に同級生の誰と接する時にでも緊張してか声が詰まっている観月だが、狂三と話している時には棘はあるものの全く声を強ばりは感じられない。
警戒心は強く感じられるが……
いや待て、何で観月は狂三に警戒心を抱いているんだ?
それにさっき意味深なことを呟いていた折紙も、狂三のことを見て、信じられないものを見たとでも言いたそうな顔をしているような気がした。
そのことに少しばかりの疑問を抱いている内に、朝のホームルームが終わり、そして俺の鞄から軽快な音が流れ出した。慌てて鞄に入っていた携帯を取り出して見ると、琴里からの電話だったようだ。
「琴里? 後10秒早かったら携帯没収されてたぞ」
『あら、携帯はマナーモードにしておくんじゃなかったかしら。優秀なお兄ちゃんにそう言われた気がするんだけど』
「うぐっ」
俺が言葉に詰まると、我が妹様は鼻で笑った。
確かに、俺が前に琴里に電話をかけてきた時に同じ旨のことを言った。似た同士ってことだろうか。
これはこの前の意趣返しなんだろう。
「用はなんだ?」
俺が話題を転換させたくてそう言うと、琴里の声音は先程のからかいじみたものから一転して、落ち着いたものへと変わる。
『……士道、落ち着いて聞きなさい。大変なことになったわ。最悪な事態よ』
「最悪な事態?」
『まさかあんなことが起こるなんて思わなかったわ』
「だから何だって」
「士道さん」
「うおっ……!」
勿体つけたような琴里に痺れを切らして急かそうとした時、誰かに肩をトントンと突かれた感覚がした。
驚いて振り返ると、狂三が微笑んでこちらを見ていた。
「何をなされていますの?」
「……すまん、今電話中なんだ」
「あら、そうでしたの。それは失礼いたしましたわ」
ぺこりとお辞儀をして、狂三は自分の席へと戻っていった。
それを見届け、琴里の電話の続きを聞こうとする。
「それで琴里、何があったんだ……?」
『士道……今のは誰?』
「……え? 狂三だけど」
『は? 本当に、本当に時崎狂三なの?』
「何で俺がこんな嘘つく必要があるんだよ」
何でそんなことを聞くのかと言おうとした時、電話越しに息を呑み込むような音が伝わってきた。
『……士道、昼休みに物理準備室に来なさい。見せたい物があるの』
有無を許さない声音を聞いて、俺はごくりと唾を飲む。
──そこで俺は、ASTと似た装備を身に纏った真那に、一方的になぶり殺される狂三の姿を目にすることになる。
だからこそ俺は、これ以上狂三が殺されることがないように……彼女とデートして、デレさせることを決意した。
♢
士道が十香と昼ご飯を食べるのを断ってどこかに行き、そして折紙が狂三を連れてどこかに行ったのを見て数十分経った後、京乃は書いていたノートを閉じて席を立ち上がる。行き先は、先程から机に置かれた昼飯を食べずに俯いている十香の所だ。
「十香ちゃん、あの……大丈夫、ですか?」
「……むう、京乃か」
そう言う十香の声には、いつものような元気がない。
「ちゃ、ちゃんと食べないと……元気も出なくなっちゃいますよ」
「分かっている、分かっているのだが……シドーと一緒に食べないと、昼餉を美味しく感じられないのだ……」
「十香ちゃん……」
いつも元気な十香が落ち込んでいるのを見ると、京乃だって悲しくなってしまう。だから十香を慰めようと言葉を探している京乃だったが、唐突に肩を震わせて顔を青ざめさせる。
「……ひっ! すみません十香ちゃん! 私はここらへんでお
「あっ、おい京乃……」
「すみません……!」
持っていたきな粉パン2個を十香の机の上に置いた京乃は、十香の制止を振り切り駆けて足気味に自席へと向かう。
そして慌ただしく音を立てて席に着くと同時に教室の扉が開き、3人の女生徒達が入ってきて十香の席へとやってきた。
亜衣、舞衣、美衣のトリオだ。
「やっはろー! 十香ちゃんお昼食べてないの?」
「どしたの? 元気ないね十香ちゃん」
「まさか十香ちゃんに不貞を働く輩が!?」
それぞれ大きな声を出しながらオーバーなリアクションを取っていると周囲のクラスメイトもざわついたが、騒いでいるのが一人称トリオだと気がつくとすぐに雑談に戻った。
この光景は別に目新しいという訳でもない、日常の光景だからだろう。
だが、十香の落ち込んでいる理由が気になるのか、何人かの生徒は聞き耳を立てている。
「ち、違うのだ! ただ、シドーを待っているだけで……」
あわわとしながら状況を説明している十香を、京乃は昼飯用のゼリー飲料で栄養を補給しながら、遠巻きに眺める。
京乃はあの三人組のことが苦手である。
別に何をされたかと言われると何をされた訳でもない……いや、一年の初めの頃に質問攻めにされたことがあったのでそれはトラウマになりかけているがそれはともかく。
京乃はあの三人のきゃぴきゃぴとしている姿を見ると、思わず目を背けたくなってしまうのだ。
良い人達であるとは思う。だから京乃自身もこうやって避けてしまう理由は分からないが、多分根っから苦手なタイプだからだろうと自分の中で結論づけているし、多分間違っていないと思っている。
また教室の扉が開いて誰かが入ってくる。
今度は、折紙に連れられていった狂三だった。
「……時崎さん」
「はい、なんでしょうか?」
「折紙さんと一緒じゃないんですか?」
「さて、後から来ると思いますわ」
惚けるようにそう言った狂三は自分の席に着き、隣にいる京乃の顔をジロジロを眺めた。
観察するような視線に、とうとう耐えきれなくなった京乃は口を開く。
「あの、何か用ですか?」
「ええ、京乃さんに聞きたいことがあるのですが……よろしいでしょうか?」
狂三がそう問いかけてきた直後に、教室の扉がガラリと開いて折紙が教室に入ってきた。
教室中を見渡した折紙は、狂三が京乃に話しかけようとしていることに気がついたのか、京乃達の席の側にやって来た。
「時崎狂三、何をしようとしているの」
折紙が少し眉を潜めて問いかける。
ただそれだけの、いつも通りの平坦で抑揚の感じられない声なのに、京乃にとっては周りの温度が1、2度下がったように感じられた。
「何……ですか。わたくしは、ただ京乃さんに聞きたいことがあっただけなのですが……」
狂三はきょとりと瞬きをした後に、にこりと微笑んで頭を下げる。
「ふふっ、分かりましたわ。では京乃さん、この話はまた後日」
「……? は、はい」
何も理解出来ないままに狂三の言葉に頷いた京乃。
折紙は二人の会話が途切れたことで興味を失ったのか、すぐに自分の席に戻った。京乃はそれを見送った後に、小声で狂三に話かけた。
「あの、折紙さんと何かあったんですか?」
「京乃さんは、知らないほうがよろしいのではないかと」
微笑を浮かべながらも、断固として京乃には情報を漏らす気はないらしい狂三。
だが、またしても体に穴が空いてしまいそうな程に見つめられた京乃は困ったように口をひらく。
「あの……やっぱり何かあるんですか?」
「いえ、何でもありませんわ」
「そうですか」
何かしらあるのならば教えてもらいたいものだが、先程の折紙のこともあるし、無理に聞き出すのは良くないだろう。
それに……狂三からのお話というのが怖いから、と言うのもある。
どこか鬱々としてきた気持ちを変える為に、そして狂三の視線からひとまず逃げる為に京乃が席から立ち上がると、狂三に首をかしげられる。
「あら、予鈴が近いですが、どちらに行かれますの?」
「……お手洗いに」
「あら、そうでしたの。こんなことをお聞きしてしまって……」
「いえ、お気になさらず」
狂三の言葉に首を横に振って、足早に教室を後にする。
廊下に出た後に、目的もなく教室を出てしまったことを思い出した。
とりあえず顔でも洗おうと思った時、曲がり角から現れた人物を見て、京乃は胸が跳ねるような高鳴りを感じた。
五河士道。
京乃の最愛の人。
ただ……彼の纏う雰囲気は、何故か先程までと違うように感じられた。
「……あの、五河君」
「な、何だ? ……って観月か」
誰かに呼び止められるとは思わなかったからか、士道は困惑したような調子で言葉に応じた。
「どうか、なされたんですか? 少し顔色が悪いですよ?」
「何でもない……何でもないんだ」
士道は、真剣な顔で前を見据えていた。
「もうそろそろ授業始まるし、また後でな」
「……はい、また後で」
京乃は、彼の姿が見えなくなるまで見送った。
そして火照った顔を冷やす為にトイレ前まで行き、水道の水を掬って顔中を濡らすと、ぽたりぽたりと、水滴が落ちていった。
士道は何かを目標として歩んでいるような気がする。
それに比べて、自分は何なのだろうかと京乃は思案する。
京乃は彼の、士道のことが大好きだ。
だから彼が幸せでいられるように、見守っていたい。
でも、それ以外は自分がしたいこともしなければならないことも何も思いつかない。
まるで自分だけ時が止まってしまったのではないかと、そんな風に思えてしまう。
自分一人だけが、全く変わっていないような感覚。
そういえば、昔もそんなものを感じていたような気がする。
「……」
でも、それでいいのかもしれない。
自分が他にしたいことなんて言うのは、時が経てば自然と分かってくるだろう。
だから、それまでは……あの優しい少年の行く末を見守り、必要とあらば手助けしていたいと、京乃はそう思うのだ。
スカートのポケットから白いレースのハンカチを取り出して顔を拭っていると、授業開始を示す鐘が鳴り出した。
それを聞いた京乃は慌てて教室へと向かうこととなり、改めて決意表明をした割には少し締まらない形となってしまった。