我はどこまで堕ちたのか。
神器に神であった頃の我が力が封ぜられていることは疑いようのない事実。
聖書の神の“全知全能”。
文字通り世界のすべてを知り世界のすべてを能う絶対無二の力が我にはあるはずなのだ。にもかかわらず未だに我は神聖と邪悪の大地に足をつけ、遥かなる天空を見つめることでしか望郷に思い馳せることを赦されない。いくら歩けど天界の輪郭すら辿れぬ等身大の歩幅と一寸先の闇さえ見通せぬ視界は日常についてまわって我のみじめさを今後も痛感させていくのだろう。
見えるものが違う、聞こえてくるものが違う、嗅ぐものが違う、触れるものが違う、感じとれるものが違う、膂力が、魔力が、肉体が、器官が、生物が、希望が、絶望が、幸福が、不幸が、考え方が、何もかもが!
異なる生物に堕とされたときの違和感、異物感に憑いてまわられる苦行など想像するに堪えない。幸いにも人間の姿かたちと言うのは、我の偉容を真似て作られたものであるから、基本的な運用に関して――――一挙手一投足における感覚――――は問題がなかったが、ここまで能力が落ちているとなると、もはや異生物である。本当に我の形だけ真似たような木偶の坊。少しでも、と創造者たる我に近づくための努力をしなかった人間の成れの果てはこうも醜悪なのか、と失望の念も禁じえない。
「まぁ、悪魔の学び舎の学徒ではこれも当然である、か」
果たして扉の先に待っていたのは、人間の、とりわけ高等学校に属する校舎のようだった。どうにも先ほどの悪魔の居城はその校舎の中の一室を擬態として間借りしていたものらしい。ちらりと見た部屋の外のプレートにはオカルト研究部と銘打たれていた。
なるほど、なかなかに皮肉が利いているじゃないか……………
振り返りざま、背後にする閑散とした校舎を目にし、次いで向き直った正面にある喧噪華々しい校舎を捉え唇を歪める。
どちらも邪の気配がするが、背後にした旧い校舎の方が断然にその気が濃い。この日の当たらない場所に立地する校舎は後ろ暗い、学び舎の影に属する部分、ということか。
「…………出るか」
ここからどこに行くのかもわからない身であるが、悪魔が根城にしていることからして、ここは悪魔の影響力の強い学び舎なのだろう。テリトリーと言っていたからには近辺一帯はその影響力の及ぶ範囲であると思われる。
我が介在するには大変ふさわしくない場所である。取り急いでは、神器の力の実態を確認しつつ、教会の保護を求めるべきだろう。
器の記憶からこの校舎の構造を取り出し、足並みを早めようとした最中、
「うおおおおおおおおおおおおおおい! 元浜ぁあああああ!」
背面からのダイビングクロスチョップが我を襲った!
「元浜ぁあああ、確保ぉおおおおおおおおお!」
我は地面にしたたかに顔面を打ち付けつつも背後から衝撃はその勢いとどまるところを知らず、そのまま雑巾がけのように地面に擦り続ける。
敵襲か!? と思う余地など一瞬足らずで、我の頭に締め付けたのは、痛いたいたいである。
「うぉおうぉおおおぅふぐ」
仰向けに転がり、後ろに陣取っていたハゲをどかすと両手で顔面を覆い悶絶する。痛い痛い痛い、涙が出る、痛い、死ぬ、本気で。
「泣きたいのはこっちだよぉ! 元浜!」
指の隙間から見えたのは、血涙を流す丸刈りの男である。
「き、ざま…………何をずる! 松田ぁ!」
自然と口に出た名前はこの器が生前親しくしていた男の名字である。生存本能によって脳がインプットしている“敵”の名前を引き出したのだ。感覚にも残っているのだろう。何故かその名を呼ぶとき、なんともいえぬ親しみがわいた。
今の行為ですら憎からず、と思えてしまうのだ。
相手の邪気のなさから瞬時に普通の人間と定義して神としての理性が直接的な力の行使を踏みとどまったわけだが、暴力の理不尽さには怒り心頭である。怒り心頭のはずである。
しかし、どこか箍がかかったように自制を求めてくる理性は我、神生来のものではない気がするのだ。
これは神としての判断の天秤の公正さに関わる重大な問題である。捨ててはおけぬ、いきなり暴力を振るってくるようなこの男に器は如何なる意義を見出しているというのか、それを理解しなければ…………
至極寛大ともいえる状況判断を下す我はかくも優しく冷静に相手を見つめているというのに、このハゲはというと、我の誰何の声に般若のような表情を見せる。
ビキッ、ビキッ、と青白い血管がこめかみに浮かび、右手の指の骨を鳴らす。
「おい、てめえ今何してやがった」
「何だと?」
「だから! 俺たちとの昼飯断っててめええはぁ! あの美少女ぞろいのオカルト研究部で何やってたんだって! 聞いてんだよぉおおおおおおおお!」
「……………………」
しかし、所詮は余人。そんな高をくくっていた隙を突くような指摘に我の胸中に邪推が生まれ、それを糸口に疑心が生まれる。
すなわち、この松田と言う人物はこちら側の人間ではないか、と。
しかし、次の言葉でそんな疑問は霧散した。
「ああぁ!? なんなんだよなんなんだよぉ! イッセーに彼女ができたとき、言ったじゃねえか!? 俺らは裏切らねえって、永遠の友達だってよぉ! それがどうした! 今度はお前もか! お前もなのか!! このロリぺド野郎、俺には二大お姉さん紹介してください!!」
この器にしてこの友あり。
下賤すぎて反吐が出るが、こちらの関係者か、と実態を読み切れず、警戒を露わにしていたときよりかは、気持ちが緩んだ。それを見て取った松田は馬鹿にするな、とさらにいかつい顔で迫ってくる。
「なぁに生暖かい目してんだよ、こらぁ! なんだ憐れみか、憐れみなのか!?」
「静粛にしろ」
しかし、そうして安穏としていられたのは束の間で、鬱陶しいことには変わりなく、遠巻きにこちらに視線を送る群衆の目もあまりよろしくない。物理的な手段での排除の検討を始める我と相も変わらず能のないことをまくし立て続ける松田。その間に剣呑な空気でも感じたのか、遠巻きにしていた群衆をよけて一人の少年が駆け寄ってきた。
「松田!」
兵頭一誠。
その姿を見て、名前がパッと思う浮かび、イッセー、と言う呼び名に何とも言えぬ親しみを感じるあたり、この少年も生前の器と仲の良い人物だったのであろう。
「全く元浜、お前も隅に置けないな…………」
その“イッセー”なる人物は駆け寄ってきて第一声訳知り顔でそんなことを嘯く。とりわけ落ち着かせなければならない方がどちらかを判断し、立ち位置を決めるその姿は、仲裁者としては理知的と言えるが、取り繕った表情の奥からは、何故だろう、下衆のにおいが漂ってくる。
そんな予感の通り、兵頭一誠は松田の肩に手を置き、妙に演技かかった大仰なそぶりで首を振って一言。
「男の嫉妬は見苦しいぜ…………?」
と。
何故かイケメン顔である。
しかし、そんな薄っぺらい仕草にプルプルと身体を震わすのが松田である。滂沱のごとく頬に流れるのは瞳を源泉地とした涙の川。事情の深刻さに理解が及ばない我ながらに、マジ泣きしている、と思わせるだけのせつなさがそこにはあった。
「ちくしょう、なんで、なんで俺だけ彼女ができないんだ、ちくしょうちくしょぅ」
「きっとお前にもいい人が現れるさ」
「…………なんだ、この茶番劇は」
呆れた面持ちで事態の収束を見守った我の感想である。神に依らない人間とは日々このような茶番を繰り広げているのか。人間の健全な営みを促成する恋愛感情については我も悪いことと思わぬが、こうもその恋愛とやらに終始し、醜い一面を見ていると呆れてものも言えない。というかくだらなすぎる。
これが器の生活環境だと言うのか…………だとしたらあの愛憎に満ちた心の叫びに至った経緯もなんとなく理解できる気がする。
こんなのに囲まれていたらそれは歪みもするだろう。
そんな男同士の気持ちの悪い慰め合いを見ているうちに、学び舎からチャイムの音が鳴り響いた。こんなことで休憩時間を終えるのか……………
「おっとそろそろ教室帰らねえとな。松田、元浜行こうぜ」
「まともに授業なんて受けれっか! 教科書の裏にエロ本挟んでシコってやる!」
「おう存分にやれ、存分に、って……どうしたんだ、元浜、早く行こうぜ」
「あ、ああ…………」
続くバカなやり取りの輪の中、何故かそこに自分が入ることに尻込みした。入ったとしても疎外感に悩まされる自分しか想像できなかった。そんな輪の中に入る必要などないのに、頭悩まされるこの思考は何故生まれるのだろうか。器の影響か、と割り切るには容易いが、これに関しては我個人として嫌悪感すらわいてこないのは何故なのか。
器とその周辺環境への隔意を超えた純粋な疑問に首を傾げるも、呼びかけに自然と肯定し足を急かしている自分への戸惑いの中にその疑問は紛れた。
チャイムを聞いた瞬間もそうだったが、この器に染みついている無意識下の義務感というのは、たびたび表面に出てきては、我の行動を妨げようとする。
今の我にはそんなもの必要ないと言うのに。
元浜…………か。
この器の真の名前。我からしてみれば、その性根は下衆の極みで、今のところ我が神への求道を阻む一番の敵と言っても過言ではない存在。
“元浜”は俗に染まり、穢れに満ち、それでもなお意気軒高にその身を欲でうずめている。そういった存在。我らからしてみれば憎むべき怨敵。
しかし、元浜は既に死んでいるのだ。
我が殺したのだ。
生きていればこそ、その穢れから逃れ洗礼を受けることもあったやもしれぬのに、その可能性を、機会を摘み取ったのは他ならぬ我である。
後悔など一遍もない。そうせねばならなかった。今もなお“元浜”はその負の遺産となって苦しめている。そのことに嫌悪すら覚える程度には気にしていない。呵責などあろうはずもない。
しかし、我が元浜を殺したのである。
「ん、そういや元浜、お前メガネどうしたんだ?」
「…………不要になったのでな」
何気なく話の矛を兵頭一誠に向けられた。自然に答えてしまう相手との敷居の低さは神のときには存在しなかったもの。それは器に対する憐憫にもとるものなのか。
眼鏡という視覚矯正器より始め、少しずつ少しずつ、“元浜”であったものがこれから先も消えていく。一般的な常識観念にとらわれている内は我もまだまだ俗に染まっていると言えよう。そうしたものを排していくことこそ我の本懐であるともいえるが、そうして“元浜”は死んでいくのだ。
すでに元浜という存在は死んでいるというのに、誰に認識されるでもなく。誰にもその死を悼まれることがないのだ。我と言う新たな個性の誕生はそのまま元浜の変化とだけ捉えられる。
「眼鏡が必要ないってお前…………」
このようにどことなく納得いかなさそうにしてはいても、元浜が死んだから、とは捉えられはしない。それどころか、そのまま我からのそれなりに納得のいく説明を聞きもせず、ぶつぶつ、と「そうか、彼女ができてAVがいらなくなるように元浜も…………」と自己完結してしまう。
憐れかな、元浜。
しかし、誇りに思えよ、元浜。
この身体、いつの日かは神の座に上るものである。その試金石となれたことはこの上ない栄誉であろう。
それでも、誰にもその死を悼んでもらえないことは悲しい、と言うのなら。
少しばかり我が感情に浸ってやる。悼みはすまい、お前と言う存在は我が忌むべき邪悪に満ち満ちでいる。そうするにはあまりにもお前は分不相応。
故にこのまま少しばかり、お前が見聞きしていたものを見てやろう。“元浜”と言う存在の影響が器に色濃く残っている今のうちに。
それが我からの最大の麗辞である。
「その間に確認しておきたいこともあるしな…………」
むしろそちらこそが本命。先ほどから付きまとう違和感並びに諸々を考察する時間を取るべく、我は兵頭一誠らの後について歩く。
管理者としての矜持もあろう悪魔たちが事を起こさないであろう、人の多き場所にその身を置くべく。
我は数学の教科書のなかほどを開き、ようやく事態の核心をつかみ始めていた。
まったくわからん…………
そんなことは本来ありえない。おおよそ人間界に流布されている数の理などたかが知れているのだ。その程度の知識が“全知全能”たる我にないはずがない。何せ人間界をつかさどるすべての理を知っているのだ。すべての力を有しているのだ。
ならば何故か。これはそう(・・)いう(・・)こと(・・)なのだ。
我の力が神器の中に全て封じ切れなかった、という結果を意味しているのではない。単純に“全知全能”を行使するにはこの器のスペックが足りなすぎるのだ。
事実、目の前に広げられた教科書に載る数式。解けない気はしない。しかし解ける気もしないのだ。既視感めいた数式の向こうにある答え。それを明確に掴もうとすれば得られる内なる我の鼓動の高鳴り。
この数式を理解するのに、“全知全能”の神器が発動しようとしているのだ。
それで説明がつく。
我の意識は今、器にあれど、その力は神器の中に眠ったままなのだ。それを丸ごと全て起こそうとすると、神器の圧力にこの肉体が耐え切れなくなる。視覚を回復させたときもそうだ。視覚を回復させるために用いた神器の圧力に耐え切れなくなることを察知した肉体が疲労、痛覚に訴えかけて、自動的に意識をシャットダウンさせたのだ。
それが意味することは今まで以上に深刻な現状だ。
我は今まで己の不甲斐なさの原因は神器に宿る我の神であった頃の“力”が運用できないからだと思っていた。我の“全知全能”に隙が出来たが故だ、と。しかし事はそこに留まらない。
我は今まで判断基準としていた人間界の全てを網羅する知識までも失ったのだ。拠り所をなくした我の思考は器準拠の高等学校レベルの知識にまで幅を狭められ、極めて狭い範囲にしか頭が回らなくなる。
無論神という我(が)があればこそ、それは単純に高等学生レベルにまで知能が劣るようになったことを意味しないが、視野が狭まったのは間違いではない。
簡潔に言ってしまえば、我は“馬鹿”になったのだ。
屈辱ではらわたが煮えくり返っている。
力もない知識もない、あるのは、我が神であったという自意識だけ。
かみしめた唇から鉄の味がする。
なんだ、あの悪魔が言ったこと、何も間違ってはいなかったではないか。何もないただの人間のくせに、我が我が、と。なるほど笑わせてくれる。
全く我は笑えないが。
「おい、元浜! お前はそんなに数学が好きだったのかぁ!?」
無粋な教壇に立つ愚昧の声。今は語学の時間。そんな時間に数学の教科書など開いているのだから確かに愚昧からしてみれば腹立たしいことこの上ないのだろうが、今を何時ぞと心得る。我の進退に関わる! 言わば世界の危機だぞ!?
「よぉし、そんなに英語勉強する必要ないなら次の問題も当然答えられるよなぁ――」
【我に触れるな!】
「松田ぁ!!」
「俺関係なくない!?」
笑いが巻き起こる中、我の額に脂汗が一筋したたり落ちた。
…………今、神器が発動した。
神器は感情に反応する、というデリケートな部分にいささか鈍感になっていた。
今さっき行われたのは、小規模ながらも間違いなく“全知全能”のなかの“確率操作”だった。教師の指名に当たらない確率を無理矢理引き延ばしたのだ。
聞き耳を立てるにどうにも教師は松田がエロ本を教科書裏に隠していたことに目がついていたらしい。今の確率操作には間違いなく松田を当てる心積もりが教師にあってこその成功と言っても過言ではない。
視覚回復で全精力を使い果たすようなスペックしか持ち合わせていない器に容易く確率操作などできるわけがないのだ。
事実、松田のエロ本騒動の収拾が、廊下に正座に落ち着いた今、教師が次に目を向けたのが――――
「さて元浜、まさか上手く逃げられた、なんて思ってないよな?」
元浜に甘んじる我である。やはり今の確率操作は一時しのぎのものに過ぎなかったのだ。不自然が出る形での確率操作は負担が大きいと、神器の発動の気を少しでも出すと、警鐘のように頭の中で危険を訴えてくる。
逃れられる確率も、数値にして0に近いのだ、と理解できる。これを引き延ばそうとすれば宿主は死ぬ、と。
長々ともっともらしいことを垂れる教師の忠言の最中そんな予感と向き合い、“全知全能”の力の実態を少しでも探らんとする。
その姿勢が違う方向で評価されたのか、教師もほどほどのところで切り上げ、
「じゃあ、元浜。罰としてこの英文を和訳してみろー」
と、黒板に問題を写しはじめた。
教師の言葉など話半分に、土台興味もなかった我であったが黒板のアルファベット目にして、ひとつこれを利用することを思いついた。
I would like to become a pediatrician.
Because, it is since a little girl's nakedness can be seen lawfully.
やはり、読めない。英語も満足に読めないとはこの器の能力の低さが知れる。その知識を“全知全能”の我が神器を発動することによってひっぱり出す。
必要なのは【この英文を読むだけの英語知識】だ。
これだけ条件が限定されていれば、最低限の労力で済むだろう。そう見切りをつけながらも最大限の不安を抱えつつ、発動する。
しかし、蓋を開けてみれば、わずかな頭痛がよぎった程度だった。
目が醒めるような感覚と同時に、目の前の英文を構成する英単語の意味・用法・文法が頭の中にインプットされていた。
「な、ななななななな…………」
そして愕然とする。なんだこの英文は!? 仮にも高等教師ともあろうものがこのような不謹慎な英文を!?
これは断固許しておけぬ、と非難の声を上げようとした我に水を差す教師の一声。
「元浜覚えてるかー。これはお前がこの高校に入ってきて、英語で自己紹介文を書きなさいって言われて書いた一文目の文章だー。あのときのお前と今のお前、ちゃんと更正することができたかー」
「……………………」
もうぐうの音も出なかった。
「ふぅ…………」
英語の授業が終わり、我は一つ息をつく。
授業中、色々試してみて大体の神器の能力は把握できた。
能力不足に心が揺らぎはしたが、検証結果を得て改めて神器の中には“全知全能”の力が宿っていることを再確認できた。
宿っているというだけで、とても“全知全能”の能力を持った神器であるとは言えない状態ではあるが。
その点は宿主を人間としたことで相当以上位格が下がった結果ともいえる。
この神器が発揮できる力は“可能性の拡張”である。
“全知全能”をそのまま格下げしたような能力だ。否、実際は“全知全能”なのだろうが、それを満たすスペックがないせいで全く活用できない。
そして結果として、そのスペックが足りない、というところにこの神器の能力が発揮されてしまうのだ。
例えば我が“全知全能”の神の頃のように何かをなそうとする。すると神であった頃と器が人間である今とで能力的な差異が生じ、不可能というバグが発生する。“全知全能”の能力を持つ神器はその名に冠する通りの力。その矛盾は許容しがたいものであり、我が望みを為すために発生している能力的な差異――――それに必要な能力を埋めるよう働きかけそのバグを修正しようとする。例えるのなら5という答えを我が得ようとした際に必要な方程式を神器が自動で割り出し、強制的に理解させるのだ。先の英語の翻訳で言うのなら、英文を読む、そのために必要な単語の意味や文法などか。
その過程で神器は我の器の潜在的な魔力、気力、生命力、といった力を必要なだけ引き出していく。そしてその過程に生じるエネルギーというのは、器の始点に準ずることになる。要するに現時点の器のスペックで、そこに到達するまでどれだけの労力を必要とするかによるというわけだ。器がもう少しで届きそうなことであれば、さほどエネルギーは使わないし、器ではどうがんばったってできないことであれば、それだけエネルギーの消費量は増える。
器が可能性をどれだけ秘めているか、それによって左右される力。
それが“可能性の具現”
幸いにもその可能性については発動前の予感によっておおざっぱながら数値化できそうではある。
「ふん…………」
我はノートの切れ端を丸めた物を握りしめ、屑籠を目視する。
ここから投擲して、あの屑籠に入る可能性というのは如何ほどのものか。
神器の発動に指向性を与えて読み取るに、必要なのは『力加減・右手右腕(コントロール・ライト)』。現時点での達成可能性はおおよそ35%ほど。まぐれでいいのであれば、このままでも35%の確率で屑籠に入る。いっそ確実に今この一回だけを成功させたいのなら80%程度まで上げれば十分だろう。“全知全能”ではその先の結果のみを優先するために数字を調整することはできないが、ならばこちらで結果のほうを低く設定してやればいい。その分であがった『力加減・右手右腕』で再度屑籠に入れる可能性を図ってやれば、任意で調整することができる。
しかし、この場に限ってではない、ある程度恒常的な技能として屑籠にゴミを入れる可能性というものを昇華させたいのであれば100%まで上げきらなければいけない。
そこが、“全知全能”が元となった我が神器“可能性の具現”の融通の利かないところだ。この神器は結果を望み発動したら最後、その結果を現出するまで魔力、体力、生命力をはじめとしたエネルギーを吸い続けてしまうのだ。視覚矯正もそういう意味ではエネルギーが底をつきるギリギリのラインを彷徨っていたように思える。
「まぁ、使いどころにもよるか」
神器の実態が理解できたところで、この器に眠っている可能性を掘り起こさないことにはこれからの未来予想図も立てられない。
あまり期待はしない方がよさそうではあるが。
「おう、元浜。一緒に帰ろうぜ」
場所を移して再度始めるか、と席を立ったところで松田から声を掛けられた。そこでそういえば、器の感傷に付き合ってやるという目的もあったな、と思い出す。
そういう点ではいつもつるんでいるであろう兵頭一誠の影が見当たらないことには不十分さを感じるが、そもそも現状を確認した今となっては、早く可能性を探りたいという気が急いていて、その感傷に付き合うだけの余裕(ウェイト)を持ち合わせていなかった。
「そういや、お前英語の田村に当てられたとき目つき悪かったよな~」
そんな気も知らずに松田は我が“確率操作”した際の話を振ってくる。
まぁ、そうであろうな。あの時点で暗示のような純粋な干渉の類が出来ていたとは思わない。せいぜい自身の印象を変えて、“確率操作”するくらい関の山であろう。
「あれか、ほら、やっぱお前はさ眼鏡がないとしっくりこないっていうか、女のことだって見えないだろ?」
松田が下衆な顔で何かを揶揄するように、親指を立てて女子が固まって話している場所を指す。
この男は女のことしか目にないのか、ほとほとあきれ果てる。
「…………眼鏡などなくてもそれくらい見えるわ」
「ほ、ほぉ~~! じゃああの片瀬のデータ教えてくれよ…………!」
「…………データ、だと?」
話の脈絡が見えてこない。何故見える見えないの視力の話をしていたのに、いきなり特定個人のデータの話になるのだろうか。
「とぼけんなって…………片瀬の身体的なデータだよ! お前なら視ればわかるだろ!?」
躍起になって我を小突く松田の鼻息が荒い。大変鬱陶しいがそれよりも松田の発言が気にかかった。
「視れば、わかる…………」
松田の指さす先につられて焦点を動かせば、そこには片瀬何某の姿が。何の変哲もない女学生が会話する平和な光景。
いや…………よく見れば何かが透けて見えるような、その先に何かがあるような! 手ごたえを感じる。
ドクン、と胸の鼓動が大きく跳ね上がった。
神器の発動の気配もそれに感応し色濃く、胸打つ脈動に指向性を与えようとしている。
これは、まさか、いや錯覚ではない。
“可能性の具現”が“元浜”の可能性の一つの顕現を察知しているのだ。それはおそらく“元浜”であったときよりなじみ深いもの。それはこの我ではない器の感情が証明している!
我としてはその力の正体が知りたい。
しかし力が失われたことにより見識が狭まったせいか、その力の正体を明確に定義することができずにいる。
あえてこの力、定義づけるなら、“審美眼”か何かか…………?
それならば、歓迎すべき可能性である。きっかけさえ掴めれば発現する能力だったのか、可能性は90%台にある。
この時我は少しばかり興奮していたのであろう。この煩悩にしか能のない人間もやはり我の被造物。一つくらいは誰にも負けぬ可能性があるのだ、と。
事簡単に言うなら我は慎重さに欠けていたのだ。
“可能性の具現”が発動する。
瞼の裏、新しい可能性が蕾開く。ある種の悟りを開いたかのように、今まで見えなかったものが見える。我の中の世界が広がった、その息吹を感じる!
「嗚呼…………」
ゆっくりと瞼を開け、広がる視界。
そこはありとあらゆる“俗”が抜け落ちた世界。
裸の女体の園が其処にはあった。
「見える! 見える!! 見えるのだぁああああぁぁぁぁああああ!」
「見えたのか! 元浜見えたのかぁあああ!?」
前面から衝撃を受けたように身体をクの字に曲げ、脂汗を浮かべる。
「裸の女体が見えるのだ! 片瀬の裸が! 村山の裸が! 桐生の裸がぁあああああああ! 全てがぁ見える!! おなごの全てが我の前にさらけ出されているうぅううううう」
「なんだと!? お前の魔眼“スリーサイズスカウター”はそこまで進化してたのか!?」
魔眼“スリーサイズスカウター”だと…………?
器の記憶を探ってみると、確かにそのような認識がある。
“スリーサイズスカウター”
女子の戦闘力の基本である三種の力。胸(バスト)・くびれ(ウェスト)・尻(ヒップ)を視るだけで正確に測ることができる能力。その年齢が幼なければ幼いほどより正確にミリ単位で測ることができる。
「な、なんだこれは…………なんだ、このくだらない力はぁああああああああ!」
少なくとも股間をおったてている奴のセリフではない。
「触れられなければ意味がない! 今お前はそういう生殺し感を味わっているというわけか! お察しするぜ! だがうらやましい!」
見当違いな共感を得てさらに我は前かがみになる。
いきなり大騒ぎし始めた我と松田のやりとり、嫌でも耳に入ってくるのだろう、おなごどもがひそひそ叩き合う陰口が聞こえてくる。
な、なんたる屈辱!
我が前かがみになっているのは、必死におなごたちのプライバシーを守るためであるというのに! 誤解を受けてしまっている!
「ち、違うのだ…………これは」
しかし、その言葉に力はない。わかっているのだ、これは器の罪。“元浜”のくだらない可能性と我の軽率さのせいなのだ、と。
わかってはいても、抗弁したくなる。我はこんなよこしまな存在ではない、と。
そんな気持ちを込めるように視線を上げる、そこには相も変わらず、裸をさらけ出すおなごたちの姿。
そしてその横に表示される、棒状のパラメーター。
「こ、これは…………!」
下半身が抵抗とともに突っ張るのを感じつつも、顔をあげ、視線を大きく動かす。
先ほどは気が付かなかった。見えるのは裸だけではない! その横にはスリーサイズ以外の筋力値や魔力値なども詳細に記載されていた! しかも我が一人のおなごに焦点を当てれば、そのおなごの過去の経歴やら家族構成までもが手に取るように理解できたのだ!
「こ、これは…………!」
ある意味で使える能力だ。見る限り女子にしか効果がないようではあるが、女性限定であっても視れば相手の情報すべてを裸にできる! というのは我が神であった頃の全てを見通すことのできた“眼”にも通ずるものがある。
「ふっふっふふふふふふふ! これは……………勝てる!」
教室に響く悲鳴、怒号。それらの景色を睥睨し、我は束の間神であった頃の視界を思い出す。我が被造物を眺めている気分もこんな感じだったな、と。手に取るように理解できるおなごたちのデータを弄び考えた。まるで神を見たような崇敬の念を込めてこちらを見てくる松田の目も、松田ながらに素晴らしい。
これは危険な能力だ。この器の持ち主である“元浜”などが覚醒していたら大変なことになっていただろう。
そういう意味、この“スリーサイズスカウター”が進化一歩手前の可能性まで辿りついていたことには戦慄する。
しかし、今その能力が自らの手の内にあることを想えば、よくやった、“元浜”と褒め称えてもいい。むしろこの能力が神として堕ちてきた我のためにあったのではないか、とさえ思う。
ともあれ、これで少しはこの器にも期待が持てるようになったわけだ。
あとはこれを生かし、さらなる可能性への希求に励むのみ。
「ふぅふっふふふふうう! ハハッハハッハハハハハッ!」
神の求道への展望への希望の喜びをここぞとばかりに我は爆発させたのだった。
…………ちなみに我がこの学校に来ることはしばらくなかった。