第55話
香るのは、錆びた鉄のようなにおい。
――どうか。許して。
***
囁きを聞いた気がした。
その囁きが、まるで細い光のように底に沈んだ意識へ差し込み、浮かび上がる。
目を開けた途端に、頬を伝っていく熱くて冷たい雫。いくつも流れた涙の筋を、後から上書きするように新しい涙が、涙を慰めているかのよう。
自身の意思とは裏腹に、いつもならそろそろ止むはずの涙は止まない。
誰かが誰かの為に、とぼんやりと呟いた事はあるが、ここまで止まらないのは初めてだ。
涙を放って、横になったまま、室内をぼんやりと見る。
部屋を覆うような暗さで、まだ陽の昇らない時間帯だと分かった。
すると、扉を叩く音が静かに響き、同時に扉越しに呼び掛ける声もこちらに届く。
「お目覚めでございますか」
驚きのあまり、涙がぴたりと止まって、少しだけ靄がかかったような意識もはっきりとする。
何故ならば、その声は耳慣れた侍女の声ではなかったからだ。
そもそも、こんな時間に主人の部屋を訪ねる事などありえない。
「お目覚めでございますか」
再び繰り返される声が、異様に感じる。まるで、同じ声が重なっているようにも聞こえた。
不穏さを感じるままに寝台から身を起こすと、扉は部屋の主の意思を無視して、開かれてしまう。
細い光が、扉の間を縫うように差し込まれ、大きく開けられていく扉に比例して、光もまた太くなる。
暗闇に慣れてしまった目には眩しくて、左手で遮ろうと持ち上げて、違和感を感じた。
しゃらりと鈴よりも軽い音が手首から鳴った。
侵入者は、慣れたように手早く、灯りに火をともしていき、灯りが増えて室内が明るくなっていく度に、違和感が浮き彫りになる。
持ち上げた手が、自分の手ではなかった。幼すぎるとまではいかないが、自分の手より一回りも小さい。
炎のように輝く石がはめられた指輪が薬指になく、代わりに幾重にも絡み合い重なった装飾が手首に巻かれて、それが音を立てる。
え、と零れた吐息混じりの声もまた、聴き慣れた【自分】の声ではない。
「どうかなさいましたか?」
その間に二人の少女が寝台に近寄り、両側からこちらを覗き込んでいた。
どちらも同じ顔をしていたが、身に覚えのない娘達。仕えてくれる侍女の中に、こんなに特徴的な者達がいたら、忘れる筈がない。
何より、娘達が身に纏うのは、絵本に描かれていた古代の衣装に似ていた。
ふいに、娘達の片割れが持っている銀製の大きな水瓶の表面に顔が映りこんでいるのを見た。
「…………っ」
そこに映るのは、知らない少女の顔。
麦穂のような淡い色味の髪は癖がありあちこち跳ねて、耳の下で無造作に切られている。
空のように青い瞳が、自分の怯えを写しとったかのように目一杯に見開かれ、こちらを見返していた。
持ち上げたままの手で頬を触ると、水瓶に映った少女も同じように頬に触れた。
無意識の内に狭めていた視界が広がっていく。
寝台は、いつもの柔らかいものではなく、木の台に獣の皮を敷いただけ。柔らかな絨毯もなく、剥き出しのままの石畳。
辺りを見回すと、粗末な寝台だけが置かれただけの殺風景な部屋だということが分かった。開かれたままの扉に視線をやると、その先は外となっていた。
鮮やかな紺色の帳が落ちている夜空。陽が昇る前ではなく、落ちた後の時間だったのだ。
星々はさざめくように瞬き、こちらの心境を楽しんでいるかのように笑う三日月が恐ろしい。
「巫女?」
重なるように同じ声で呼ばれた呼称も知らないものだ。今は、それすらも不気味に聞こえる。
もう一度、水瓶に視線を戻しても、不安そうにこちらを覗き込む少女しかいない。
――あなたは、誰なの。ここは、どこ。
ミーティアは、喉の奥に消えてしまった言葉の代わりに、涙を一粒こぼした。