ブラック企業社員がアイドルになりました 作:kuzunoha
第1話 私の怠惰な日常(の終わり)
目覚めは快適とは言い難いものでした。
耳元で騒音を発する目覚まし時計を壊さないように最大限優しくペチッと叩いた後、もぞもぞと布団から抜け出ます。
身を引き起こし重いまぶたを持ち上げ立ち上がった後、学習机の前にある椅子に座り一旦休憩しました。
机の上には生徒手帳が無造作に置かれています。
何とはなしに手に取ると、一人の女生徒の顔写真と名前が目に入りました。
朱色がかった濃いピンク色の髪をトップバストの辺りにまで伸ばした、やや無愛想な少女が写っています。
手帳に書かれた
朱鷺とは絶滅危惧種の鳥でありこの国から手厚く保護されていますが、それくらい皆から大切にされるようにとの思いを込めてその名が付けられたそうです。
前世では
こんなことを言うと、『こいつは痛いヤツだ』と思われてしまうかもしれませんが、物心付く前から私には前世の記憶がありました。
前世といっても歴史上の重要人物と言う訳ではなく、しがない中年会社員でした。ブラック企業での激務で無様にも過労死したところ、意地の悪い神様が『前世の記憶を保ったまま』この世界に生まれ変わらせたようです。
この体で既に14年間も生活をしていますので当時の記憶はもう曖昧になっていますけどね。前世では確か36歳で逝ったので、累計年齢は既に50歳を迎えており、精神的には十分オジサン(オバサン?)です。
だるい体を引きずりながら自分の部屋から一階のリビングに降りると、声をかけられました。
「おはよう、朱鷺! ん? どうした、なんだか元気が無いじゃないか」
「おはよ。ちょっと寝不足……」
「大丈夫か? そんな時は朝飯をちゃんと食わないといけないぞ!」
朝からやたらテンションが高いですが、この人が私の父――七星 新一さんです。ルックスも無駄にイケメンです。父親といっても年齢は私の累計年齢より下なので、今でも若干違和感がありますが。
ダイニングチェアに座り机上のお皿に置かれた食パンにモソモソと齧りついていると、目の前の女性がティーカップに紅茶を注いでくれました。
「よく噛んで食べなさいね~」という間延びした声に対して「はい」と短く答えました。
この女性──七星
食べ終わってテレビの占いコーナーを見ながら紅茶に口を付けていると、また寝坊したのか
七星 朱莉は私の妹で、元気いっぱいの小学1年生です。妹と言っても私は精神的には完全にオジサンなので、もはや娘のような感覚に近いのかもしれませんね。
非常に愛らしく、目の中に入れても全然痛くありません。まさにマジ天使です。
現世では、私は四人家族の長女というポジションになりました。
人生インフェルノモードだった前世と違い現世の家族関係は極めて良好なので、今のところは大体文句なし、順風満帆の人生といえるでしょう。
あの能力と生まれ変わり後の性別が『女』ということに目をつぶれば、ですが。
女性として生まれたのは偶然ではないはずです。
思考時も含めて言葉使いが女性的になるよう頭の中を魔改造されていたりするので、私を生まれ変わらせたあの神様が嫌がらせとして意図的に仕組んだものだと容易に見当が付きます。
体は乙女で中の人はオジサンなので正直なところ苦労はあります。男の子から告白されたりすると中々に堪えますし。
いつの日か、あの神様を〆て能力返上と性転換をできないかと企んでいるのですが、生まれ変わり後に彼女と遭遇できていないので望み薄でしょうね。
非常に残念ですが、幸せな生活の代償として我慢するしかありません。
そんな取り留めのないことをぼ~っと考えているといい時間になっていたので、急ぎ目で制服へ着替えて身支度を整え、徒歩で学校に向かいました。
会社員時代とは違い満員電車に乗らなくていいので楽ちんちんです。前世の末期の頃は会社に泊まり込みで通勤すらありませんでしたけど。
現世は前世と似通っていますが、同一の世界という訳ではないようです。
今年は奇しくも前世の私が無様におっ死んだのと同じ年ですが、前世にはなかったような企業があったりしますしその逆もまたしかりです。
なのでやわらか銀行のように爆発的に成長する企業の株を先行買いしておく、なんてことはできませんでした。未成年ですからそもそも株は買えませんけどね。
そうこうしているうちに学校に着きました。公立の至って普通の中学校です。
広い玄関を抜けて二階にあがったすぐの教室──私のクラスである2-Aに入り、級友達に適当な挨拶をしつつ一番後ろの窓側にある自席に着きました。
漫画や小説の主人公がよく座っている例の席です。11月の窓際はちょっと寒いです。
元々この席だったわけではありません。前回の席替えのくじ引きでは一番前だったのですが、『七星がでかくて黒板が見えない』という無慈悲かつ、無遠慮なクレームにより、今の席に固定されてしまったのでした。
苗木君にはどこかのタイミングで
朱鷺とかいうスペランカー先生並みの貧弱鳥のイメージとは異なり、成長期に入ってから私の背はタケノコのようにぐんぐんと伸び、今や170cmに迫る勢いなのです。
男の身でしたら背は高ければ高いほうが嬉しいのですが、この体だとそろそろ止めにしてほしいというのが本音です。
おかげさまで、ついぞ中学生に見られた試しがありません。背の順も一番後ろです。
そのうち始業のベルが鳴り授業が始まりました。毎日毎日カリキュラムどおりの授業が続きますが、私にとっては正直今更な内容なので退屈極まります。
一度働きに出た後に学生に戻ってみると、苛烈な営業ノルマや納期がない学生という身分は本当に恵まれていると思いますね。
まぁ皆あと10年もすれば半数以上は
昼休み、午後の授業を経てホームルームが終わると教室が賑やかになり始めました。
私は特段クラブには所属していないのでいつも直帰しています。今日は掃除当番ではなかったので級友達に別れを告げて学校を出ました。
帰りがけに地元のスーパーに寄ります。平日の夕飯は私が作るのが今や我が家の習慣になっていました。世間様一般では夕飯は母が作るもののようですが、私の両親は揃って開業医であり平日は忙しいので私が作っているのです。
そう、私の両親は『開業医』なのですよ(とても大切なことなので二回言いました)。
『開業医』(三度目です)。
なんと甘美な響きなのでしょう。
病気はこの世からなくなりませんので景気に左右されず常に一定の需要があります。
誰かに使われることもありませんし、社会的なステータスも激高です。正に個人事業主業界のキングオブキングスなのです(強調)!
世間様一般では公務員がやたら持て囃されてますけど、アレも結局は雇われですからね。
職場運や上司運が悪いと一転してブラックになりかねません。
正直なところ、生まれてすぐに『あ、勝ったな』と思いました。
うちの七星医院は二階建ての元店舗を改装したものなので規模はさほど大きくはありませんが、ネット上の口コミで非常に高い評価を頂いております。
思えば前世での私は色々と頑張り過ぎました。やりがいのある理想の仕事を求めて数十回も転職を繰り返しましたが、その転職先が全てブラック企業なんて流石に笑えません。
いや、あの意地の悪い神様のように、第三者からすれば大爆笑必至なのかもしれませんが、二期続いて自分でそれを体験するのは御免なので現世での方針を今のうちから決めているのです。
『激しい喜びはないがそれでいて深い絶望もない、植物の心のような平穏な人生』
脳内でバーン!! というエフェクトが表示されました。安っぽいパワーポイントのようです。
前世で読んだちょっと奇妙な冒険漫画に出てきた変態快楽殺人鬼さんの完全な受け売りではありますが、これくらいが今の私にはちょうどいいように思います。
餡子頭の大人気ヒーローのように愛と勇気と希望だけを胸に前へ前へと突き進めるような年齢でもありませんし、やりがいのある理想の仕事なんてどうせ見つからないのですから、できるだけ緩く楽に生きましょう。
だから『いざ、開業医!』なのです。そのためには模範的で優秀な娘である必要があります。
都心にしては大きな戸建て住宅に帰りつくと、スーパーで買った食材を冷蔵庫に入れて一息つきます。
「ただいま~!」
その間に朱莉が帰ってきました。元気いっぱいなのでついこちらまで嬉しくなりますね。努めて優しく「おかえりなさい」と返しました。
さて、早めにお夕飯の準備をしておきましょうか。今日の献立は、肉じゃが、いんげんの胡麻和え、海藻サラダ、まぐろの山かけ、おぼろ豆腐、枝豆、なめこの味噌汁と和風でまとめてみました。枝豆は単に私が食べたかっただけです。未成年ですからお酒飲めませんけど。
あぁ、ビールとワインと日本酒と焼酎とウイスキーが大変お懐かしゅうございます。
正直私一人ならカップ麺だけでいいのですけど、これも良い娘っぷりをアピールするためですから妥協はしません。何より朱莉にはおいしいご飯をお腹いっぱい食べてもらいたいですしね。
私の数十ある職務経歴にはイタリア料理店と中華料理屋と居酒屋チェーン店(全て純黒のブラック企業でした……)も含まれていますので、四人分の食事を用意するくらいは朝飯前です。
手際よくお夕飯を用意すると、電気ストーブを焚いたリビングのソファーでテレビを見ながらぐで~っとだらけます。ぐでたまさんも裸足で逃げ出すようなだらけっぷりです。
こんな姿はとても世間様にはお見せできませんが、前世で散々頑張ったのですからこれくらい燃え尽き症候群全開フルスロットルであっても良いでしょう。
まどろみながらこんな温い日々が永遠に続くようにと祈りましたが、実はこの時点で『時、既に遅し』でした。某吸血鬼風に『チェック・メイトにはまったのだッ!』と言い換えても可です。
この日の夜から、私の現世での激動の日々が始まってしまったのです……。
悲しいことに、それはもう、がっつりと。