ブラック企業社員がアイドルになりました   作:kuzunoha

27 / 101
第23話 いい旅で夢の気分

「セーフ!」

 羽田空港の国内線ターミナルに着き安堵しました。予定の便の出発まで十分間に合う時間です。

 予約は事前に済ませていましたので搭乗手続きはスキップし、直接保安検査場に急ぎました。

 何事もなく検査を終え、大分空港行きの搭乗口である23番ゲートに早足で向かいます。

 

「おはようございます。遅れてしまい申し訳ございません!」

 楓さんや撮影スタッフさんを見つけたので駆け寄り、全力で謝罪します。

「おはようございます、朱鷺ちゃん。朱鷺(時)既に遅し、ふふっ……」

「あはは……」

 初手HHEM(ほほえみ)ギャグ(下らないギャグのことです)はどうかと思いますが、怒らずに笑顔で挨拶してくれたので安心しました。

 スタッフの方々も気にしていない感じです。やはり事前にメールで連絡をしていたのが良かったみたいですね。報告・連絡・相談の大切さを改めて学びました。

 

 まさか羽田空港と成田空港を間違えるとは、思っても見ませんでしたよ。

 成田空港で事実に気付いた時は顔面蒼白でした。何せその時点で出発まで50分を切っていたのです。お金は持っているのでそこから直接大分行きの便に乗ることも検討しましたが、不幸なことに成田発大分行きの便は満席でした。

 羽田空港までは電車で約2時間の距離なので普通なら間に合いませんが、プロとして頂いたお仕事に穴を開けるわけにはいきません。

 

 幸いなことにスーツケースは宅急便で先に旅館へ送っていたので、やむなく北斗神拳の各種移動技を駆使し羽田空港から成田空港までの最短距離を徒歩で行くことにしました。

 弾丸の如き速度で走ったり、瞬間移動したり、半透明になったりしながら全速前進で突っ切ったのです。羽田成田間徒歩移動RTA(リアル・タイム・アタック)の記録は20分15秒でした。

 

 市街地が多く思いのほかスピードが出せなかったので微妙な記録です。再走はしませんけど。

 移動中、結構な数の人々から見られた気もしますが仕方ないです。

 前世ではこんな抜けはありえなかったんですけどねぇ。この身にブチ込まれたユーモアとドジッ子属性のせいで、それなりに敏腕なビジネスマンだった頃の能力は結構弱体化していました。

 ここまでくると属性というよりも呪いのような気すらしますね。

 

 

 

 その後は予定通りのフライトで大分空港へ向かいます。

「緊張しているみたいだけど、大丈夫?」

「え、ええ。問題ないですよ!」

 隣の席の楓さんから心配されてしまいました。

 飛行機事故のドキュメンタリー番組が好きでよく見ているので、飛行機に乗るとつい緊張してしまいます。事故の発生確率は宝くじで一等を当てる確率よりも低いですから、起きないとわかっているんですけど。でも私なら墜落しても生還できそうなので、それはそれで怖いです。

 

 大分空港到着後は高速バスと在来線を乗りついで別府駅へ向かいます。

 今日と明日は先日犬神P(プロデューサー)経由で頂いた『日本温泉紀行』の収録日でした。

 大分県は温泉湧出(ゆうしゅつ)量、源泉数とも日本一を誇り、大温泉郷である別府(べっぷ)温泉、自然景観が美しい湯布院(ゆふいん)温泉が特に有名です。

 そして大分県ならではの贅沢な入浴方法として『機能温泉浴』というものがありました。これは温泉の効果を上げるために、特定の泉質の湯を組み合わせて巡ることをいいます。

 例えば、美肌を保つ温泉と保湿の温泉に入ることで、美肌ツルツルの効果を得ることができるといった具合ですね。

 

 今回は『春の別府~湯布院  名湯・秘湯めぐり&グルメ旅』と言う企画で、ひたすら温泉に入り地元の美味しい料理を頂くことが目的なのでした。

 私の力を使う機会は一切ありませんから実に好ましいです。こういう仕事をどんどん引き受けていって、世紀末系アイドルの汚名を早く返上しましょう!

 

 

 

 別府駅に着くと早速ロケが始まりました。駅からのスタートになりますので、まずはそちらの様子から撮影していきます。

「いや~、やって参りましたね、楓さん。別府ですよ別府!」

「そうね。お天気が良くてよかったわ」

「今回は『春の別府~湯布院  名湯・秘湯めぐり&グルメ旅』ということで、おんせん県大分の温泉と地元グルメをこの二人で楽しみたいと思います」

「はい。よろしくお願いします」

 

 順調な滑り出しでホッとしました。楓さんは大人の女性らしく、私のフリにも無理なく包容力を持って対応してもらえるのでとてもやりやすいです。たまに出てくるシュールな発言や駄洒落(だじゃれ)には驚かされますけど。

 

 その後は別府市内の鉄輪(かんなわ)温泉に移動しました。硫黄(いおう)の匂いが強くなってきましたので、正に温泉地といった感じです。

 まずは足湯からということで、無料の足湯を二人で体験します。

「なんだかポカポカになるわ……」

「そうですね。それに足湯は気軽に入れますから、私は結構好きです」

 

 普通にお金をとってもいいレベルだと思います。個人的には無料のものって裏がありそうで怖いんですよ。タダより高いものはありません。

 何せ前世ではビール無料の広告に釣られて怪しいお店に入り、身ぐるみ剥がされた嫌な記憶がありますのでね……。あれは本当に辛かったです。今思い出しても涙を禁じ得ません。

 

 その後は売店でプリンを買います。プリンと言っても普通のものではありませんでした。

 別府では温泉噴気を利用した『地獄釜』を使った地獄蒸しという蒸し料理が人気ですが、その地獄釜を使って蒸し上げたのがご当地スイーツ『地獄蒸しプリン』なのです!

 スイーツ好きとして一度食べてみたかったので機会があって良かったです。前世ではそれほど甘いものは食べなかったんですけど、現世では大好きになりました。

 やはり女性としての本能が求めているのでしょうか。

 

「では、頂きま~す。……こ、これは!」

「濃厚でとろけるような食感がたまりません」

「甘さは控えめで少し苦みが効いたカラメルが絶品です。プリン界の覇王といえるでしょう!」

 高温の蒸気で蒸しあげるからこそ、このまろやかさが出るのだと思います。ご家庭での再現はちょっと無理ですね。

 撮影後、写真と感想をメールでかな子ちゃんに送ったら、速攻で「おいしそう。食べたい~!」という返信が来たのでびっくりしました。彼女のスイーツ愛を侮っていましたよ。

 

 

 

 そしていよいよ入浴シーンの撮影に入ります。

 撮影用のベージュの水着を着た後、タオルを体に巻きつけました。

 ふと気付くと、楓さんや女性スタッフさんがこちらをまじまじと見つめています。

「どうかされましたか?」

 そう問いかけると、女性スタッフさんが「いや、普通だなと思って……」と呟きました。

 

 ああ、そういう意味ですか。超人的な身体能力がありますので、全身ムキムキだったり背中に鬼が浮かんだりしているとでも思ったんでしょう。

 残念ながら腹筋すら割れていませんし、二の腕だってぷにぷにです。

 どうせ楓さんにも変だと思われているに違いありません。悲しいですけど、今までやってきたことを考えると仕方ないです。

 

「ご期待に沿えず申し訳ありません」と若干キレ気味に謝罪すると、楓さんが不思議そうな顔をしました。

「なんで謝るの?」

「いや、私の体が筋肉モリモリじゃないから、がっかりしているのかと思って……」

「朱鷺ちゃんの髪を見てたら、カンパリオレンジを飲みたくなったのよ」

 思わずその場でずっこけました。そんな私を気にせず、楓さんは話を続けます。

「それに、どんな体つきであっても、朱鷺ちゃんは可愛い女の子だと思うわ」

 

 め、女神や……。薄汚れた現代日本に、神秘の女神様がいました。

 神秘的な美貌、内面からにじみ出る性格の良さ、圧倒的な歌唱力。天は二物どころか三物を彼女に与えたようです。そりゃトップアイドルにもなりますって。

 内面ドブ川の私では勝負にすらなりません。『争いは同じレベルの者同士でしか発生しない』という名言がありますが、まさしくその通りです。

 人としてもアイドルとしても格上過ぎて、ライバル視することすらできませんでした。

 

 その後は浴室内に移動します。

 タオルを巻いて入浴するのは違和感がありますが、丸出しだとまずいので仕方ありません。

 掛け湯をした後、肩まで湯船に浸かりました。

 

「あ~生き返るわぁ~!」

 ついついそんな言葉が口から漏れます。もう完全にオジサンでした。

 ヤバイヤバイ、自重しないと本性がバレます。

 

「コホン……。いやぁ本当に気持ち良いですね♪ 天然かけ流しで、お肌に優しい弱酸性なのも嬉しいところです♡」

「神経痛、筋肉痛、関節痛、うちみ、冷え性等に効き、疲労回復や健康増進の効果もあるそうですよ。こんなに気持ちいいとスパっと上がれませんね」

「ははは……」

 ギャグを放つ姿すら可愛いとか、もはや楓さんは存在自体がチートですよ。

 そしてそのボディの方も素晴らしいの一言です。着替え中にガチで鼻血が出そうになりました。

 

 

 

 一箇所目の温泉に入った後は、遅めの昼食を取ることになっていました。

 撮影スタッフ一同で、事前に取材交渉していたお店に向かいます。

 時間と共にギャラリーも増えてきました。楓さんはともかく私の写メを撮って楽しいのでしょうかねぇ。

 

「こんにちは。コメットの七星朱鷺と申します。本日はよろしくお願いします」

「高垣楓です。よろしくお願いしますね」

「はい、こんにちは」

 地元で人気の海鮮料理屋に着くと、優しそうな店主さんにご挨拶をします。その後簡単な打ち合わせを行いました。偶然このお店を見つけて、初見で入ったかのような演出にするそうです。

 この手のガバガバな演出は必要なのか常々疑問に思っているのですが、出演者の身で文句は言えませんから指示通り茶番劇を演じました。

 

 暫くすると料理が運ばれてきます。

 私と楓さんは共に海鮮丼定食を頼みましたが、単品で関サバのお刺身も追加しました。関サバの旬は10月から3月迄との話なので、滑り込みセーフでよかったです。

「では、いっただきまーす」

「頂きます」

 

 海鮮丼の方は酢飯を覆い尽くさんばかりに一面に刺身が盛り込まれています。

 ネタは10種類で、イカ、マグロ、サーモン、イクラ、アジ、ハマチ、カツオ、エビ、カンパチ、玉子焼きといったところでしょうか。

 その辺の居酒屋と比べて魚の鮮度が段違いです。刺身類は素材の質が物をいうので、いくら料理の腕があってもかないませんね。特にアジは魚としての味が濃く印象的でした。

 

「美味しいです。楓さん!」

「ええ、本当に。ここに美味しい日本酒があったらもっと……」

「……撮影中ですから、夜まで我慢して下さい」

「旅番組の旅行者……。悲しい役柄ね。自由に、お酒も飲めないなんて」

 気持ちは良く分かります。後で飲ませてあげますから、そんな悲しそうな顔をしないで。

 

 続いて関サバのお刺身にも手を出します。そういえば締めてないサバのお刺身なんて初めてです。所詮はサバですからそこまでではないでしょうけど。

 そう思って一切れつまんで口に運びます。

 

「こ、これはっ!」

 甘めの醤油に負けない濃厚な旨味を持った関サバの味は、鮮烈の一言でした。脂が乗っていて、シメサバで頂くサバとは比べものになりません。身は弾力がありますが、それでいて固くないギリギリのバランスを保っています。こんなサバがこの世にあったとは。

「美味しい……」

 楓さんも舌鼓を打っていました。先ほどの悲しみもどこかにいったようで良かったです。サンキューサッバ。

 

 

 

 大満足で海鮮料理屋を後にすると、再び温泉巡りとなりました。その合間に地元の甘味を堪能します。気持ちよかったですけど、なんだか体がふやけそうです。

 日が落ちかけると湯布院に移動し、地元の有名旅館にチェックインしました。

 夕食もこれまた豪華です。地元の幸と名水を使った創作和懐石料理で、お魚だけでなくお肉も美味しかったです。これで美味い日本酒か焼酎があればなぁと思ってしまいますよ。

 

「熱燗はほんのり♪ 飲んだ私の肌も、ほら、ほんのりです♪」

 一方、眼前の25歳児は子供のようにはしゃいでおりました。

 そんなに美味しそうに飲まれると、ついつい飲みたくなってしまうじゃないですか!

 既に夕食風景の撮影は終わっていましたので、完全にフリーダムです。お昼時のフラストレーションを発散するかのように、結構なペースで突き進んでいました。

 

 お互い部屋の窓際スペースに設置された席に座っています。机上には熱燗(あつかん)徳利(とっくり)とノンアルコールビールの缶、そして乾き物がところ狭しと広げられていました。

 経費節減のため撮影スタッフ一同は別の安旅館に引き上げていますので、部屋の中で二人きりです。つまり、今の状態の楓さんを一人で相手にしなければいけません。

 

「あ、あの~、楓さん。翌日の撮影もありますし、そろそろこの辺りで止めておいた方が……」

「はいはい、聞いてますよ~。本当はお顔を見てて、聞いてませんでした~」

 神秘の女神様発言は(つつし)んで撤回致します。ただのお酒好きのきれいなお姉さんでした。

 

「そういえば、コメットの存続が正式に決まったみたいね。おめでとう」

「はい、ありがとうございます」

 急にそんな話題を振られました。楓さんにはどうすれば人気アイドルになれるのかという相談を何度かしたことがあり、それを通じて懇意(こんい)にさせて頂いたという経緯があるのです。

 当然、相談の際にはコメットの解散について伏せていましたが、悟られていたみたいですね。

 

「結果的には私の力ではなく、偶然そうなっただけですけど」

「それでも結果的に残ったんだからいいじゃない。そういえば前から訊きたかったんだけど、朱鷺ちゃんは何でアイドルになったの?」

 アルコールが回っているのか、話題がコロコロ変わりました。

 

「アイドルなんてやる気は全く無かったですよ。開業医の二代目として目立たず静かに暮らすことが幼少からの夢でしたし、オーディションだってお母さんが勝手に送ったんです。

 でもコメットの皆と出会って、一緒にレッスンを頑張って……。そしてデビューミニライブをやり遂げた時、もっと皆と活動を続けたいと強く思ったんです」

 累計年齢50歳のオジサンがアイドルとか、半年前の私が知ったら顔面蒼白でしょう。

 でも、あの三人や他のアイドルの子達と一緒に活動することが今はとても楽しいんです。

 

「それは良かったわね。なら、アイドルとしてこうなりたいって目標はある?」

「目標、ですか?」

 そう問われて回答に(きゅう)しました。アイドル活動に対して積極的になったのは最近ですし、その後は解散危機があったので、どんなアイドルになりたいかと言う目標は全く定まっていません。

 楓さんみたいなミステリアスなクールビューティー路線が良かったのですが、今となっては無理でしょうし。

 

「今は、特に。楓さんは既にトップアイドルですけど、これからの目標はあるんですか?」

 興味本位の問いかけに対し、楓さんは一呼吸置いて答えました。酔ってはいますが真剣な面持ちです。

「……私は、ファンの人達と一緒に笑顔になりたい。一緒に輝いて行きたい。それが私にとって、一番大事なことなのよ」

 

 言葉遣いこそ柔らかいですが、その言葉にはとても強い意思が感じられました。

 これが、トップアイドル『高垣楓』の根幹(こんかん)を支えるものですか。

 この思いはどんな権力者でも踏みにじることはできないでしょう。光り輝く黄金の精神を彼女から感じました。

 

「今は目標がなくても、そのうち見つかると思うわ。見つかったら教えてね」

「はい、その時は喜んでお知らせします」

 私には、楓さんや菜々さん達が持っている『プロのアイドルとしての確固たる目標』が欠けているように思います。ただ、楓さんの仰るとおり見つけようとして見つけられるものではありませんから、これから探すことにしますか。

 

 そんなことを考えていると、楓さんがおもむろに手酌(てじゃく)酒を始めました。

「ちょっと、トップアイドルが手酌はまずいですよ!」

「え?」

 慌てて止めます。宴席でのマナーは前世にて骨の髄まで叩き込まれてますので、目上の方が手酌をする状況を作ってしまうのは私的に許せません。

 

「お酌してくれて嬉しいわ。ほら、朱鷺ちゃんがふたりに増えて……」

「それは幻覚ですよ、楓さん」

 その後はわんこそばの如く、飲んだら注ぐをひたすら繰り返しました。トップギアに入った楓さんは中々強敵でしたねぇ。

 日付が変わってやっと床に就きましたが、お仕事より疲れたかもしれません。

 楓さんとは同室ですけど、朝寝ぼけて暴走すると大惨事になるので押入れで寝ました。ドラちゃんですか、私は。

 

 

 

 翌日も引き続きロケですが、(しばら)く楓さんとは別行動です。楓さんは引き続き名湯入浴とグルメ旅、私は秘湯入浴旅というスケジュールでした。残念ですが、一緒の行動だと番組の尺的に厳しいそうなので仕方ないです。

「では、また後ほど」

「ええ、それじゃあね」

 笑顔の楓さんに見送られながらマイクロバスで秘湯に向かいました。朝確認しましたが、昨日の夜のことはあまり覚えていないそうです。そりゃああれだけ飲めばそうなりますよ。

 楓さんと二人きりで飲むのは危険なので、成人した暁には友紀さんや菜々さんを巻き込んで盛大に飲みに行こうと心に誓いました。

 

 目的地まで時間が掛かるそうなので、スマホで音楽を聴きながら麻雀アプリで暇を潰します。

 その間、バスは町並みを抜けて自然豊かな風景の方へ進んでいきました。次第に山道になってきましたが、一体どこに行くのでしょうか。

 秘湯入浴旅をするとだけ聞かされており、それ以外の情報は事前に与えられていなかったので目的地がわかりません。そのうち酷道(こくどう)の行き止まりで停車しました。

 

「着きましたよ。七星さん」

「……はい?」

 若い男性ADさんから到着を告げられましたが、事態が理解出来なかったので生返事しました。

「いや、秘湯ですよね? 山道と崖しかありませんけど」

「崖の上に天然の秘湯があるんですよ。七星さんにはそちらに行って頂きます。道中は獣道で非常に危険でして、迷ったら普通に死ぬらしいので注意して下さい。一部の撮影スタッフ以外はここでお待ちしていますので」

「……ええと、情報を整理させてもらってもいいですか?」

 

 ADさんと簡易な打ち合わせをしたところ、この秘湯入浴パートは危険性が非常に高いので一度ボツを喰らった企画らしいことが分かりました。

 そのため、もっと難易度の低い安全な秘湯を選び直した上でアイドルに出演してもらう予定でしたが、私ならボツ案でも問題ないだろうとの結論になり、今回オファーがあったそうです。

 情報伝達が悪かったのか、そのあたりの事情は私の耳には一切入っていませんでした。

 

(はか)ったな、犬神ィィィィ!」

 そうか、そうか、つまりきみはそんなやつなんだな。よ~く分かりましたよ。

 『四つん這い歩行になる秘孔』だけでは許しません。これまた彼のために新発見した『ワンとしか喋れなくなる秘孔』も併せて突いてあげましょう。これで名実共にお犬様です。

 東京に戻ったら目に物見せてあげます。あの駄犬め、首を洗って待っていなさい!

 

 あぁ、これでまた体力仕事路線に逆戻りですか。見事に汚名を挽回(ばんかい)してしまいます。

 嫌ですけど、一度お引き受けしたお仕事である以上最後まで全力でやりきらないといけません。頑張るしかないよ。

 よく考えると最初からおかしかったんですよね。常識的に考えて、私に普通の旅番組のオファーなんて来る訳無いじゃないですか。カメラマンさんや音声さんの体格が異常に良かった時点で気付くべきだったのです。

 

 

 

 その後は先に到着していた地元のガイドさんと合流しました。猟銃を携行していますが、九州では熊は絶滅しているらしいのでそんなに心配することは無いと思うんですけど。

 事前に用意されていた登山用の装備に着替え、秘湯目指して全力で進みました。獣が通るのも厳しい道です。普通の人がここで迷ったら間違いなく死にます。

 

「ちょ、ちょっと休憩を……」

「休憩していたらいつまでたっても着きませんよ。もう少しだけ頑張りましょう」

 カメラマンさんや音声さんがへばっています。重い機材を抱えているので同情はしますが、か弱い現役JCアイドルが文句一つ言わず進んでいるんですから耐えて欲しいです。

 獣道をただひたすら歩いていると、なにやら黒い物体が視界に入りました。

 

 (いのしし)です。

 

 目測だと頭胴長は1mをゆうに超えていますので、結構な大物です。

 幸いなことに距離がありますので、ゆっくりこの場を離れましょう。前世での山菜取りの際にもよく猪に遭遇しましたが、刺激さえしなければ問題ないのです。

「おわぁ!」

「猪って、おい、マジかよ!!」

 別ルートで行くことができないかガイドさんに確認しようとしたところ、撮影スタッフが猪に気付きざわざわし始めました。

 

「静かに」

 ざわつきを抑えようとしましたが、猪は既にこちらに気付いたらしく、背中の毛を逆立たせて挙動不審に動き回っています。完全に威嚇(いかく)行動です。

 ガイドさんが猟銃を構えましたが制しました。そもそもここは彼らのテリトリーであり、土足で踏み入った私達に非があるのです。その上命を奪うなんて許されることではありません。

 殺していいのは生きる為に食べる時だけです。

 

 やむなく私だけで猪の方に歩いていくと、後ずさりしながら前足で地面をガリガリ擦りました。これは突進の準備態勢ですから、普通の人ならこの時点で死を覚悟した方がいいです。

 そんな威嚇を気にせず急接近しました。一瞬で間合いを詰めたので、もう目と鼻の距離です。

 

「めっ!」

 そのつぶらな瞳を殺気を込めて見つめながら軽く叱ると、急に大人しくなりました。

 そのままひっくり返って私にお腹を見せてきます。完全に死を覚悟しており、なすがままでした。野生動物は誰が頂点捕食者なのかの察しが良くて助かります。

「よしよし。良い子良い子」

 すかさずお腹を撫でてモフると、中々のさわり心地でした。(けが)れたバベルの塔は建設されていないのでメスですね。

 

 よく見ると、その猪の背後に四匹の小さめな猪が震えながら隠れていました。

 そういうことですか、やっと理解できました。大きい猪はお母さんで、子を守るため過剰に周囲を警戒していたんでしょう。そして今も子猪が殺されないよう、自らの身を差し出していました。

 ドラクエ5のパパスVSゲマみたいな構図です。完全に私が悪役でした。

 

 すぐに殺気を消して母親猪を立ち上がらせます。すると子猪と共によろよろと駆け出しました。今は殺気に当てられていますが、1時間程で元に戻るでしょう。

 猪だって自分の子供を守るため命懸けなのに、一部の人間はどうしてアレなんでしょうかねぇ。そんなことを考えると少し落ち込んでしまいました。

 

「はっ!」

 ふと背後を振り返ると、カメラがバッチリ回っています。今の猪とのやり取りを全て撮影されていたようです。

 ああ、これでまた、私の逸話が増えてしまうのですか……。

 手と膝を地面について、がっくりとその場にうなだれました。

 

 

 

「乾杯ー!」

 私と楓さんの声がハモります。

 秘湯入浴後は楓さんと合流し、この日最後の撮影を行います。

 地元のイタリアンレストランでの食レポでした。田園風景も見渡せる素敵な空間で、とにかくお洒落です。女性もそうですが、男性にも好まれるお店だと思います。

 

 楓さんがワイングラスに口をつけます。ああ、いいなぁ。

 気分だけでも味わおうとブドウジュースを注文していたのでそちらを飲みますが、虚しさだけが残りました。

 あと6年、本当に我慢できるのでしょうか。正直自信がありません。

 

 今回はお店お任せのディナーコースをいただきます。

 まず、前菜の五種盛りに驚きました! バーニャカウダ、キッシュ、鴨、フォアグラ、地豚等が整然と並べられた前菜は、見た目もさることながら色々な味わいがあり、これぞまさに正しい前菜といった趣きです。

「前菜でフォアグラとか凄いですよ」

「フォアグラは意外と高くないから、ふぉあぐら(こわがら)ないでね」

「はは……」

 楓さんは今日もキレッキレでした。私が同じ駄洒落を言ったら、某掲示板の実況スレで袋叩きにされるでしょう。

 

 サラダはスモーキーなチーズと地元で作られたハムの取り合わせです。ソースはグレープフルーツで甘酸っぱさが美味しかったです。

 パスタは二種類から選べるようでしたが、今回はトマトとベーコンのパスタにしました。

 先ほどのサラダもそうですが、湯布院産のチーズが濃厚です。地のものが使えるのは素敵ですね。これだけ山盛りで食べたいです。

 

「ステーキ! ステーキ!」

「ふふっ。子供みたいで可愛いわね」

「はっ! すいません。つい……」

 すっかり舞い上がってしまいました。前世の影響からか焼肉やステーキには並々ならぬ執着があります。

 

 まもなく到着しましたが、しっかり霜の入ったステーキでした。非常にジューシーで、肉汁がほとばしります。『うーまーいーぞー!』と心の中で叫びました。

 2種類のソースで飽きさせないところもグッドです。本当に良いメインでした。

 デザートはベリーのアイスと、ティラミス、チョコレートケーキの3種盛り。そのボリュームに度肝を抜かれました。多ッ!

 どれもしっかり手作り感があって美味しかったです。

 

 食事後は締めの挨拶です。

「さて、今週は『春の別府~湯布院  名湯・秘湯めぐり&グルメ旅』でしたが、どれも素晴らしい温泉とお食事処で大満足ですね」

「お宿も快適でした。今度はコメットの皆とプライベートで遊びに来たいです」

 解散危機が過ぎてもコメットのアピールは忘れません。でも本当に良い温泉地でした。

 今度は熊本でくまモンとツーショット写真を撮りたいです。

 

「これからの暖かい季節、温泉に浸かってのんびりするのも素敵な過ごし方だと思います」

「では、本日はこの辺りで。ナビゲーターはコメットの七星朱鷺と……」

「高垣楓でした」

 笑顔で手を振ります。

 

 

 

「はい、カーット!」

 ディレクターの声が響きます。するとスタッフの方々が手際よく撤収作業を始めました。

 とりあえず、無事にお仕事が終えられて良かったです。

 

「お疲れ様でした、楓さん」

「はい、お疲れ様。初めての旅番組はどう?」

「体力系のバラエティとは色々と違うので、結構大変でしたが楽しかったです。良い経験をさせてもらえました。色々とフォローして頂きありがとうございます」

 

 深々と頭を下げました。撮影に慣れない私を的確にサポートして頂きましたから、本当に頭が上がりません。

「そう、それは良かったわ。ちょっと前の朱鷺ちゃんはお仕事をしてても楽しそうじゃなかったから、みんな本当に心配していたのよ」

「え!? 皆って……」

「瑞樹さんや美嘉ちゃんとか。そうそう、仁奈ちゃんも気が気でない感じだったわ」

 コメット以外にも心配をさせてしまっていたのですか。つくづく自分の愚かさが恨めしいです。

 

「今度は是非、楓さんと一緒にライブをしたいです」

「私もよ。その時はよろしくね」

「は、はい!」

 今はまだまだ遠い存在ですが、光輝く楓さんに少しでも近づきたいと思います。

 

 撤収作業を終えてお店の外に出ると、もう日が落ちていました。ふと夜空を見上げると、星空が(きらめ)いていたので息を呑みます。本当に綺麗。

 

 北斗七星も視界に入りましたが、寄り添っているはずの蒼い恒星は見えなくなっていました。

 

 

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。