ブラック企業社員がアイドルになりました 作:kuzunoha
アイドルフェスの翌日は休養のため一日お休みです。
コメットやシンデレラプロジェクトの子達から一緒に遊びに行かないかと誘われましたが、既に予定が入っていたので
そう、私にとって非常に重要な用事があるのです。
────『過去の私と向き合う』という一大イベントがね。
日頃は茶化していますが幼少期のネグレクトや虐め、そしてブラック企業での過酷な勤務で負ったトラウマで未だにその時の情景がフラッシュバックしたり、悪夢にうなされたりすることがよくあります。
いわゆるPTSD(心的外傷後ストレス障害)というやつで、私が過去の記憶を消したいと思った原因の一つでもあります。今までも学術書を参考に治療法を試してみましたが一向に改善は見られませんでした。
本来ならば個人で克服するのではなく専門医に相談するのが一番ですけど、前世の記憶なんて言い出した途端そのまま黄色い救急車で檻に収容されてしまいますから難しいのです。それに家族を心配させたくはないですし。
トラウマはその人の心のキャパシティを超えたショックが起こったため発生するらしいです。ショックが大き過ぎて感情が処理できずに残っているのですね。
そのため克服にあたり必要なのは自分の感情と向き合うことです。恐怖心にきちんと向き合って制御することができれば、自然とトラウマを乗り越えることができるはずです……多分。
この辺りは自分で学術書を調べて得た知識ですからあくまで個人の見解です。そのため真似をされて大怪我を負っても責任は取れませんので、あしからず。
ともかく、恐怖の感情に向き合い制御することができればフラッシュバックや神経が高ぶるなどの過覚醒、そして悪夢から解放されるでしょう。
清純派アイドルとして輝きファンに勇気を与える以上、自分が病んでいてはいけませんからアイドルフェスという大イベントの成功を区切りにこのトラウマと正面切って戦うことにしました。
なので今日は前世で私が働いていた職場や、以前住んでいた家を巡ってみようと思います。
今までは恐怖心から、そういう場所には一切近づこうとはせず目を背け続けていました。ですが前世の記憶を消さないと決めた以上、向き合わないといきません。
どれだけ辛くても目を背けずに立ち向かって叩きのめす気概で望みます。ゼンセノカタキヲトルノデス!
そうはいっても前世と現世では色々と違いがあるので元勤務先や家がない可能性もありますが、それならそれで構いません。あくまでも自分の感情を整理するための旅ですから漏れなく回る必要はないですし。
「じゃあ、行ってきます」
「気をつけてね~♪ あっ、ちょっと待って、朱鷺ちゃん!」
遅めの朝食を食べて家を出ようとしたところ、お母さんから呼び止められました。
「はい、これお弁当♥」
「えっ?」
小綺麗なバスケットを手渡されます。
「どうしたの? 普段お弁当なんて作らないのに」
「う~ん。何となく今日は作ってあげたくなったのよねぇ。何でかしら?」
「それを私に質問されても……」
「まぁいいじゃないの。夕飯までには帰って来てね~♪」
「はいはい」
バスケットをバッグに入れていると、不意に背後から抱きしめられました。
「な、何?」
「ふふっ。また深刻な顔しているわよ~。どこに行くかは訊かないけど、私達はいつも朱鷺ちゃんの味方だから。……それは、絶対に忘れないでね」
「……うん」
この人はどうしてこうも勘が鋭いのでしょうか。いや、私が分かりやすいだけかもしれません。
家を出てからは電車を乗り継ぎ神奈川方面に向かいます。前世の家や職場の多くは同県内にありますので各所を巡ってトラウマを払拭したいと思います。
但し最初からヘビーなところだと心がポッキリと折れかねないので、手始めに精神的に楽な場所へ行くことにしました。
まず向かったのは多摩川の河川敷です。ここは私が最初に勤めた住み込み可の建設会社を脱出した後、暫く活動拠点にしていた場所でもあります。住み込みと言っても完全にダークネスなド底辺の建設会社でしたけど。
「大体、この辺でしたっけ……」
周囲を根城にしている家なき子達の好奇の視線をかわしつつ、目的地に到着しました。
一面に草が広がっているだけの空間ですが、何となく記憶には残っています。
「……お久しぶりです、シゲさん。姿は変わってしまいましたけど、創です。時間が空いてしまってすみませんでした」
先程コンビニで買ったお線香にライターで火をつけ、地面に挿しながら呟きます。
今は七星朱鷺ではなく前世の自分────『
シゲさんはレスホーム時代の大先輩です。元は不動産会社の社長さんでしたがバブル崩壊で大借金を負って奥さんと離婚し家族と離れ、それ以降河川敷の住人をしていたそうです。
八人一部屋のタコ部屋職場を何とか円満に辞めた後、行き場を失い河川敷で倒れていた私を介抱してくれたのが彼でした。以降、レスホームの心得やダンボールハウス製作のノウハウなどを色々と教えて頂いた師匠です。皮肉なことに私が初めて出会ったマトモな大人でした。
残念ながらお会いしてから1年程して肺炎でポックリと亡くなられましたが、あの時の施しは今でも忘れていません。世界は違いますが供養に来たかったので良かったです。
「聞いてくださいよ。殺人鬼並みの眼光だなんて周りから言われてた私が今はJCでアイドルをやっているんです。おかしいでしょう? でも今は本当に良い家族や仲間に囲まれていて、とっても幸せなんです」
今までのことを報告しました。いつもニコニコされていたので、もし生きていたら人懐っこい笑顔で楽しそうに聞いてくれたはずです。思えば私の営業スマイルの原点は彼なのかもしれません。
ああいう良い人に限って不遇な目に遭う世の中は、ちょっと悲しいです。
「……それじゃあ行きます。私がそちらに逝った際には一緒に美味しい日本酒を飲みましょうね。もちろん私の奢りですから」
お線香の火が消えたことを確認してからその場を後にしました。こういう良い思い出のある場所ばかりだといいんですけど、そうは行かないのが悲しいところです。
そのままの足で最初に勤めた建設会社に向かいました。
目的の場所に近づくにつれ、どんどん足が重くなって行きます。全身の筋肉がみるみる冷え固り、よじれるような胃の痛みに襲われました。
凄まじく辛いですがここで引き返したら何の意味もありません。鉛のような足を引き
「……こっちの世界にも、あるんだ」
すると社名が書かれた見慣れた看板がありました。
それを見た瞬間、30年以上前の光景が鮮やかにフラッシュバックします。
痛い、辛い、苦しい、憎い、死にたい。
怒りとも憎悪とも恐怖ともつかない鈍い痛みのようなものが胸の奥底から湧き上がりました。
あらゆる負の感情が滝のように押し寄せて来ます。
「……ッ!」
途端に吐き気がこみ上げたので、思わずその場にうずくまります。
時期尚早、でしたか……。
血の気が引くのが自分でもわかりました。
必死に虚勢を張っていましたが、残念なことに私のメンタルは辛く苦しい過去に向き合えるほど頑丈ではなかったようです。
「やっぱり、ダメ……」
諦めかけた瞬間、スマホから着信音が流れました。
その時だけ体が自由に動かせたので、慌てて通話の表示をタッチします。
「は、はい! 七星です」
「あっ、とっきー! 今大丈夫?」
「え、ええ。一応は」
電話の相手は未央さんでした。
「とっきーにちょっと訊きたいんだけどさっ」
一体なんだろうと思い耳に意識を集中させます。こんな時に掛かってくる電話ですから、とても大事な要件に違いありません。
「はい! 何でしょうか!」
「ラーメンは味噌と醤油、どっちが好き?」
「……は?」
超シリアスな雰囲気をぶち壊す謎質問が飛び出しました。空気YO・ME・YO☆
「いや~今皆で遊んでてさ~。お昼はラーメンにしようって話になったんだけど、味噌ラーメンと醤油ラーメンのお店があって、どっちにしようか意見が真っ二つに割れちゃったんだよ! だからとっきーの選んだ方にしようかなって話になったの」
超クッソ激烈にどうでもいい内容でした。思わず切断したくなりましたが、ぐっと堪えます。
「そ、そうですね。私はどちらも好きなのでお店に拠ります。ちなみに今はどちらですか?」
「え~と、今は……」
場所を教えてもらったので、最寄りで一番美味しいラーメン屋さんを紹介しました。
「そうなんだ、ありがと! 後あすあすから何か話があるらしいんで、代わるね~」
「やあ、おはよう。トキ」
「……おはようございます。アスカちゃん」
「フフッ。どうやらまだ無事なようで良かったよ」
「無事、とは?」
思わずドキリとしました。過去の自分に向き合うなんて話は一切していないんですけど。
「ボク達の誘いを断る程の先約とは尋常ではないと思ったからね。どうせまたロクでもないことをしてるんじゃないかと考えただけさ」
……完璧にバレテーラ。私の行動パターンはそんなに読みやすいのでしょうか。
「さ、さぁ、何のことか」
「とぼけるなら別にそれでもいいよ。あまり元気ではなさそうだけど、大丈夫かい?」
「私はいつもどおりです。元気が一番、元気があれば何でもできる! 元気ですかー!」
「清純派アイドルを目指すなら、そういう色物ネタはボク達以外には使わないほうがいいよ」
「うぐうっ!」
精一杯虚勢を張ったら思わぬディスられ方をしました。ぐぬぬ……。
「どうせ詳しいことは話さないと思うのでボクから勝手にアドバイスさせてもらう。
……辛くなったら、自分の力だけで解決しようとせず皆を頼ってくれ。こうやって何気ない会話をするだけでも心の負担は軽減されるだろうから、ね」
「……はい、わかりました」
「では、また明日。ボク達は
「また明日、です」
そのままゆっくりと通話終了の表示をタッチしました。
全く、彼女には
その場から立ち上がり、元勤務先である営業所の前に足を運びます。
「……よし、大丈夫」
眼前には薄暗くて小汚い営業所があるだけです。
確かにここでは酷い目に遭いました。暴力が支配する世紀末な職場で本当に辛かったです。
でもその経験があったからこそ今の私がありますし、素敵なアイドル達と巡り合うことも出来た。そう思うと辛さが少しは軽くなったような気がしました。
「労基署に臨検されて潰れちゃえ、ば~か!」
悪態をついた後、再び歩き始めました。通行人がびっくりしていたので超恥ずかしいです。
その後は電車やタクシーに乗り、元勤務先の中で特に酷かった職場を巡ります。前世と現世では世界が違うので空振りも多いですが平然と存在している会社もありました。
トラウマスポットに近づく度に動悸や呼吸困難、発汗、めまい等のパニック障害が起きたので、その都度アイドルの友達や犬神P(プロデューサー)等に電話をしつつ心を落ち着けます。
皆とお喋りしていると自分は一人では無いような気がして、何だか安心しました。
「お腹、空いたなぁ……」
暫くクソ職場巡りをしていると、空腹を感じていることにふと気づきました。既に時刻は午後の3時を回っています。
「よいしょっ」
近くの児童公園のベンチに腰掛けてお弁当を広げました。可愛らしい二段のお弁当で、一段目にはご飯、二段目には卵焼きやウインナー、唐揚げ、プチトマト等の定番おかずが詰められてます。
「ん?」
するとご飯の上に薄焼き卵が丸型に広げられているのに気付きました。一体これは何を表現しているのでしょうか。
お弁当用のふりかけをかけようと封を切ろうとしたところ、裏に可愛いメモが貼ってあります。何か書いてあるので読みました。
「え~と、『特製のメガトンコイン弁当よ~♪ 美味しく食べてね~♥』ですか……」
思わず吹きました。あのアマ、なんちゅうことを……。
この薄焼き卵はメガトンコインを現していたのですね。まさか家族にまでネタにされるとは思いませんでしたよ。このネタを何時まで引っ張るつもりなんでしょうか。
「ごちそうさまっ!」
悔しいのでお米粒一つ残さず完食しました。大変美味しゅうございましたよ、ええ。
食事後は本日最後の目的地に向かいます。ゴール地点であり正直一番行きたくない場所ですが、だからこそ顔を背ける訳にはいかないのです。
恐怖というものは打ち砕かなくてはなりません。そしてそれは今です!
今、絶対に乗り越えなくてはならない。それができなければ土岐創という過去を受け入れ、七星朱鷺として生きることは出来ません。
折れかかった心を再度奮い立たせ、一歩一歩踏みしめながら目的地に向かいました。
「うわっ……」
眼前の古びた公営住宅を目の当たりにして思わず呟いてしまいます。そこには私が前世で生まれ育ったのと同じ団地が建っていました。嫌な場所に限ってこの世界にもあるんですよね……。
団地の存在を認識した瞬間、何百トンもあろうかという水を全身で浴びているような重圧がのしかかります。冷や汗がどっと吹き出し、プレッシャーで身動きが取れません。それまで巡った会社で感じた不快感を遥かに超えています。
「うっ」
次の瞬間には吐き気を催すほどの緊張感に包まれ、苦い胃液がこみ上げてくるような気がしました。堪えても堪えても体の奥の方から震えが来ます。
先程と同じように、誰かに電話をして気を紛らわせようとスマホを取り出そうとしました。
「あっ!」
手が震えてしまいその場に落としてしまいました。慌てて拾おうとしましたが震えが止まらず上手く拾えません。すると吐き気や頭痛が一層酷くなってきます。立っているのもやっとです。
「神様、助け……」
思わず神頼みをしてしまいました。そんなことをしても、何の意味もないのに。
「呼んだ?」
「うひゃあああああああああああ!」
すると私のスカートの中から少女が顔を出しました。完全に予想外の事態なので凄い悲鳴を上げてしまいます!
「助けを求めたり叫んだり忙しい子だなぁ、君は」
少女がスカートから出てきました。その小憎たらしい顔にはよ~く見覚えがあります。
私を生まれ変わらせた張本人────意地の悪いあの神様でした。
「ななな、なんですか急に! 暫く出てきてなかったから貴女の存在なんて忘れてましたよ!」
「いや~。なんか面白い事態になってたからつい出てきちゃった」
「そんな軽いノリで……」
「まぁまぁいいじゃない。それよりもまずは落ち着いて深呼吸だよ。はい、ヒッヒッフー、ヒッヒッフー」
「ヒッヒッフー、ヒッヒッフー……ってこれ深呼吸じゃなくてラマーズ法じゃないですか!」
「そうだっけ?」
見え見えのボケに対し思わずノリツッコミをしてしまいます。これも芸人のサガか……。
「こんな古典的なボケをかます人は今時珍しいですよ。バナナの皮で足を滑らせ転ぶ人並みにレアです」
「ノンノン。わかってないねぇ。古典とはつまり王道だ。王道の良さをわからないなんて、芸人としてはまだまだだね」
「私は清純派アイドルなんですけど……」
「あれだけ滅茶苦茶やっててまだ清純派アイドル気取りなのかい。たまげたなぁ」
「勝手にたまげてなさい。別にいいじゃないですか、何を目指そうと私の勝手です!」
「うん、確かにそうだ。……ところで、体の震えは止まったかい?」
「えっ?」
指摘されて初めて気付きました。そういえば先程までの震えが治まっています。
「精神的に辛い時は、楽しかった思い出に浸って心を癒やすのがいいよねぇ。写真なんて眺めると特に良いんじゃないかな?」
落ちていたスマホを拾い上げると、助言通り先日の誕生日会の写真を開きます。みんな、本当に良い笑顔でした。もちろん、私も含めて。
「ふふっ……」
あの時も思いましたが、この写真は私に無限の勇気と力を与えてくれます。すると気持ちが落ち着きました。胃液が全て逆流するような不快感も消えていきます。
「まさか、本当に助けに来てくれたんですか?」
「いやいや、そんなことはないさ。つい出てきちゃっただけだって」
そういいながらケタケタ笑います。
「それよりもトラウマ巡りツアーは再開しないのかい? せっかくだから僕も同行させて貰おうと思ったのに」
「同行って、ここが最終目的地ですよ」
「まだ部屋の中に入っていないじゃないか。君が生まれ育った404号室にさ」
なんかとんでもないことを言い始めましたよ、この駄神。
「いや~不法侵入は流石にきついっス……。お縄にはつきたくないのでパスです」
「今はちょうど空室だから大丈夫だって。ほら、早く行くよ!」
「ちょっ、ちょっと!」
手を引かれるまま団地に連れ込まれました。
目的の部屋の前に着くと、駄神がどこからか取り出したヘアピンで鍵を開け始めました。廊下のど真ん中でかなり目立つので人が通らないことを祈ります。
「こういう時って、謎の超能力でパッと開けたりしないんですか?」
「それじゃあロマンがないじゃないか。こうやってコソコソ開けるからいいのさ。それにこの前『fallout4』をやり込んだから解錠はお手のものだよ!」
完全にゲーム脳ですね、これは……。
下らない話をしているとカチリという音が廊下に響きました。他の部屋のドアが開く音がしたので、慌てて室内に飛び込みます。
「あっ」
────見慣れた、間取り。
記憶の奥底に封印した光景が、そこに広がっていました。
15歳でこの家を後にしたので実に36年ぶりですか。何とも言えない懐かしさと共に、鋭い哀感が胸に突き刺さりました。
ボロボロの襖、擦り切れた畳、日焼けした壁紙────全て当時を再現したかのようです。
「こんなに、ボロかったんですね」
「お世辞にも綺麗とはいえないなぁ。他に何か感想は?」
「……色々あり過ぎて一言では語れません。嫌な思い出には事欠きませんので」
「そうかい。でもトラウマと向き合うにはここで色々と整理した方がいいんじゃないかな」
「そうかも、しれません。……では適当に語りますので聞いてもらえますか?」
「いいよ~。でも聞くだけで慰めたりはしないから、そのつもりで」
「わかってます。私も同情されたくはありませんから」
別に語る必要はないんですけど、せっかくなので愚痴に付き合ってもらうことにします。
「では手始めに、『キャロットケーキ事件』から行きます」
「はいはい、どうぞ」
畳の上に座って、ぽつぽつと話を始めます。
「あれは確か小学四年の頃でしたか。学校で調理実習があったんですよ。で、その時にキャロットケーキを作ったんです」
「へぇ~」
興味なさげな感じですが構わず続けます。
「私は元々人参が嫌いなんですけど、当時のお母さんは逆に人参が好きな方でして。次の日はお母さんの誕生日でしたから、お金がない私でもプレゼントが贈れると思って張り切って作ったんです。それと学校に落ちてた折り紙をかき集めて飾りを作ってこの部屋に飾り付けちゃったりして。お母さんは夜の仕事をしていたので、朝早く起きて帰ってくるのを楽しみに待ってたんです」
「それで、どうしたんだい?」
「……メッチャ怒られた挙句、ケーキを潰されました」
「それまた急展開だなぁ」
「何でも蒸発した当時のお父さんが以前キャロットケーキを買ってきたことがあったらしくて。『私を捨てたヤツと同じことをするのかぁ!』ってガチギレされたんです。そりゃあもうドッタンバッタン大騒ぎですよ。あの一件以降、完全に人参がトラウマになりましたもん」
「それは災難だ」
「ホントですねぇ! あははははっ♪」
笑えないよ!!
茶化して話してますが普通に包丁とか出てきましたからね。むしろ茶化さないと悲し過ぎて口になんて出来ません。
本当にとんでもない毒親でしたが、男に捨てられた挙句子供まで押し付けられたとあっては性格が歪んでもおかしくはないと今は思います。決して許した訳ではありませんが、だからこそ憎みきれないんですよ。
「後は『手切れ金五千円事件』なんてものもあります」
「そんなことあったかな?」
「中学の卒業式があった日の夜だったんですけど、『義務教育は終わったでしょ。それじゃ』ってお母さんから言われて、着替えの入ったバッグと五千円を手渡されて叩き出されたんです」
「ああ、そうそう。眺めてた僕も『五千円はないだろ』って思わず突っ込んじゃったっけ」
「せめて五万円はないと当面すら生きていけないですって! お陰でタコ部屋に収容されるし大変でしたよ、全くもう!」
「この部屋の時は最後まで不幸続きだったねぇ。まぁ、その後もそれ以上に酷かったけど」
これもマジ話です。振り返ってみると前世は本当にインフェルノモードでした。むしろ36年間もよく生き残れましたね、前世の私。
その後も当時の素敵な思い出を語りました。彼女は慰める訳でもなく、時々相槌を打ちながらじっと私の話を聞いています。他の人達にこんな話をする訳にはいかないのでこの機に色々な想いや憤りをぶち撒けました。
私だって、お母さんと仲良く暮らしたり友達と楽しくゲームして遊びたかったんですよ。だけどそんなささやかな願いは何一つとして叶いませんでした。
気がつくと既に日は落ちており、室内はだいぶ暗くなっていました。
「主要なエピソードはこんなところですか。細かいサブストーリーについて語ると多分丸一日は必要なので止めておきます」
「はい、ご苦労様。少しは気が晴れたかい?」
「ええ。今までの仕打ちを初めて人に話したのでスッキリしました。そちらこそ長時間に渡るカウンセリング、お疲れ様です」
「さぁ、何のことかな~♪」
口笛を吹きながらとぼけました。別に誤魔化さなくてもいいんですけど、正直に言いそうにないので深くは詮索しません。
「けど君は大したもんだ。凄惨な過去に対面して自分を保っていられる子は中々いないと思うよ」
「そんなことはありません。『前世の自分と正面から向き合い、未熟な過去に打ち勝つ』なんて勇ましいことを言っていましたけど、私だけではとっくに心がへし折れていました。家族やコメットを始め、今まで縁を持った人達の力で私はこの場に立っていられるんです。
だからみんなのお陰ですよ。もちろん、貴女を含めてね」
先程助けてもらわなかったら、きっと今も団地前で倒れていたはずです。
「……心の奥底で人を信じていなかった君がそんなことを言うとは、思いもしなかったな」
すると急に真顔になりました。変貌ぶりがちょっと怖いです。
「記念に一つ良いことを教えてあげようか。君は『前世の自分は誰にも必要とされず無価値だった』と思ってるけど、それは違うよ」
「えっ?」
「前世で君が亡くなった後のことだけど、遺体や遺品をどうしようかって話になってね。当然君のお母さんは引き取る気が無かったから、君の部下の山田って子が君のアドレス帳を頼りに昔の同僚や知り合いに片っ端から連絡したのさ。
そうしたら『葬儀もせずに無縁仏として合碑するのはあまりにも可哀想だ』って思う人が沢山いて、有志でお葬式をしたんだよ。しかも葬儀費用は各自分担して負担してね」
「……マジですか?」
耳を疑いました。確かに私の死体や遺品をどう処理したかは気になってたんですけど……。
「大マジだって。来場者は大体何人位だったと思う?」
「三、四人くらいですか? 私、人望ないですし……」
「ちゃんと数えてはいないけど七百人位はいたんじゃないかな。『君がクビ覚悟で上司に噛み付いたおかげで職場環境が改善されました』とか『子供をまともな保育園に預けることができました』とか言っていて、一様に君に感謝していたさ。誰にも必要とされず無価値だった人間に対してこんなことを言ってくれる人はいないと思うけど」
えっ……?
「嘘、ですよね? きっと私を騙そうとしていてッ」
「いいや、これに関しては本当だ。だって僕自身の目で葬儀から散骨まで見届けたんだもの。
以前の君はそういう人達の好意に気付くことが出来なかった。いや、好意を持った相手に裏切られるのが怖くて気付かないふりをしていた。まるで以前の武内Pのようにね。
確かに君は家族には恵まれなかったけど、慕ってくれる人は沢山いたんだ。だから、君の前世に価値が無かった訳じゃないのさ。むしろ普通の人よりも遥かに意義のある人生だったんだよ」
「そう、ですか」
無価値じゃなかった。
ちゃんと認めてくれる人はいたんだ。
その事実だけで、心がとても軽くなりました。
心の奥底に掛かっていた重い錠前が外れたような気がします。
あれだけ忌み嫌っていた過去の自分を、今は素直に受け入れられました。
「傷つかないようにバリアを張った挙句、人の好意もシャットアウトするなんて本当に馬鹿です」
不意に目頭が熱くなります。
「ああ、大馬鹿だよ。だけどようやく気付くことが出来た。ならそれでいいんじゃないかな?」
「随分と遅くなってしまいましたけどね。でも、大馬鹿な私らしいです」
「うん。本当に君らしいや」
そんなことを言いながら、一人と一柱は共に笑い合いました。
「……ふぅ。どうやら更生は無事完了したようだね」
「更生?」
「そう。前世の君には無かった大切なものを今は持っている。現世の家族のことしか考えられなかった君が、他の人達を心から思いやれるようになった。そして自分の過去に正面から向き合って戦う勇気も持つことが出来たんだよ。
やっと本当の意味で真っ当な人間に生まれ変わったってことさ。おお、めでたいめでたい」
「累計年齢51歳にして初めて人間認定されるとは思いませんでした。でも腹黒さは変わっていませんよ?」
「ドブ川根性は君の個性だからね。魂にまで染み付いているから例え死んでも治らないさ」
「頑固でしつこい油汚れみたいに言わないで下さい……」
心中複雑ですが、妖怪人間からやっと人間に戻れたそうです。やったね!
「更生した今の君なら、これからコメットや346プロダクションを襲う『
「……新たな脅威?」
駄神が超不穏なワードを口にしました。
「おっと、口が滑っちゃったな。何でもないから気にしないで」
「いや、そう言われても激烈に気になるんですけど……。ま~た変なことが起きるんですか?」
「僕は基本的に現場介入しない主義だから、これ以上はノーコメント。もちろん君の手助けなんてこともしないよ」
「その割に今回はやたらと口と手を出してきたじゃないですか」
「う~ん。誰かのお節介な性格が
そう言いながら私をチラチラ見てきました。私のせいとでも言いたげです。
「まぁいいです。例えどんな困難が待ち構えていたとしても、346プロダクションの子達はこの私が護りますから」
「その意気その意気。……あれっ? そういえば今回は能力を返上したいって言わないんだ」
「ええ。今の私には必要な力ですので。……もしかして必要だと言ったら取り上げる気ですか?」
ちょっと不安になりました。この天邪鬼ならやりかねません。
「一度あげたものを取り上げるような酷いことはしないって。それにその力は人並み外れた不運の補償として付与したものだからね。借り物の力ではなく君自身の力だと思ってくれていいよ」
「ありがとうございます。ついでに能力のオンオフ機能を付けてもらえると助かるんですけど♥」
「それはダメ。面白みが減るし」
「チッ!」
便乗作戦は失敗に終わりました。『ケーチケーチ! バーカ!』と心の中で悪態をつきます。
「随分長居してしまったし、そろそろ失礼しようかな」
「今度は暇な時に遊びに来て下さい。スマブラの相手やモンハンのパーティーはいつでも募集していますので」
「うん、そのうちね。ファン第一号として、これからも君の困り顔と笑顔が沢山見られることを心から願っているよ。それじゃ」
次の瞬間、忽然と姿を消しました。いつものことですからもう驚きはしません。
それにしても気になるのは彼女が口にしていた『新たな脅威』という言葉です。
しかも今回はコメットだけではなく、346プロダクション全体の危機とのことでした。これは一波乱も二波乱もありそうです。
事務所所属のアイドル達は私の大切な仲間です。そして記憶抹消未遂と今回の二度に渡り私を助けてくれました。だから次は私が彼女達を助ける番です!
皆から笑顔を奪う奴は絶対に許しません。
この私が全身全霊を以って、完膚無きまでに叩き潰して差し上げます。
「……じゃあ、バイバイ。お母さん」
もう恐怖心や迷いはありません。
私は過去を越えて、未来へ進んで行きます。
新たな光に向かって勢い良く扉を開けました。
「……あの~、どちら様ですか?」
「え~と、その~……。し、失礼しましたっ!」
「まっ、待てっ! このドロボーッ!!」
「すみません、許して下さい! 何でもはしませんけどッ!」
扉を開いた瞬間、管理人っぽい方とバッチリ目が合ったので思わずダッシュで逃げました。
大事なところで締まらないガバガバな体質は更生しても相変わらずです。
だけどそんなところも何だか私らしい、ですよね?