役所に入って二人に一人の人物が近づいていった。
「許子遠殿!」
「ずいぶんと到着が遅れましたわね。お二人とも。それにしてもちょうど良いところでした。その男をこれから連れて行こうとしていたところです」
許攸は、感情を感じさせない無機質な声でそう言って横に控えた兵士に目配せをした。
すると、その兵士は突然、持っていた槍を田中に向け、言った。
「田中殿、申し訳ありませんが牢の方へ向かってください」
顔良と田中は一瞬何が起きたの理解できずにいた。
すぐに混乱から立ち直った顔良が許攸に向け言った。
「これはどういうことです!」
「どういうことも何も見たとおりのことですよ。この者は反乱の容疑が掛かっているのです」
「そんなわけないでしょう!今すぐ彼を放しなさい!」
「昨夜、この者が曹操と会っていたことが確認されています。曹操は宦官の孫であり、袁太守様は前に宦官の大粛正に参加しておられた身。それによって約束されていた出世の道を袁太守様に遮られたと考えているやもしれません。そのような逆恨みしている可能性がある人物と夜中にこっそり会うとは、怪しすぎます」
「しかし、会っただけかもしれないではありませんか!そこで曹操の手下になるとでも言ったのですか!」
「いいえ。そこまでは分かっていません。ただ、配下になるよう誘われたのは間違いありません。そうでしょう、田中殿?」
「……」
「そうは言っても、このような明確な理由もないまま逮捕とは酷すぎます!今すぐ……」
「これは袁太守様直々のご命令であります!もし止めるというのであれば、それは袁太守様への反乱と見なしますよ!」
許攸は槍を下ろさせようとする顔良を怒鳴りつけた。
こう言われてしまっては、顔良に打つ手はない。黙って引き下がるしかなかった。
「と言うことで、この者を牢獄へ連れて行きなさい!」
田中は為す術もなく、牢へと連れて行かれた。
牢に連れて行かれた田中は手足に鎖をつけられ、一つの個室に入れられた。
「何かあれば、お声をおかけください」
牢番らしき人物が、田中にそう声を掛け離れていった。
牢に一人残された田中は、こうなった理由を考えていた。
(おそらく昨夜のことに関して袁紹様が怪しんだに間違いない。ただ、このことは本初様に報告しておいたはず)
そこまで考えて、ふとあることに気付いた。
(そうだ!本初様は猜疑心の強いお方だ!そこを許攸につけ込まれたのか!)
兵士に指示を出していたのが許攸であり、袁紹の姿が見えなかったことを考えると、今回の事は明らかに許攸の計画である可能性が高い。
元々、許攸は田中のことを怪しんでいる節がある。
しかし、許攸が原因だと気付いても何かしら手を打たねば、問題の解決にはならない。
しかも、顔良が言っていた会議とはおそらく、田中を裁くための物であろう。
優柔不断な性格である袁紹は、自分の判断だけでは決められず、配下の人間に意見を聞くつもりだ。
袁紹の性格を考えれば、十分考えられる可能性であった。
(自分としたことが迂闊であった!このような時期に会うべきではなかったか!)
いくら後悔しても後の祭りである。
果たして、どうなるか。
それは牢獄にいる田中には分からなかった。
一方、このころ謁見の間では、袁紹配下の主要な人間が集まり、田中の判決を考えていた。
家臣の中でも意見は真っ二つに割れ、処刑など何かしらの罰を考える派と無実にする派で激論していた。
「即刻首を切るべきです!太守様、今は分かりませんが、もしかしたら今後、田中は曹操に寝返る可能性だってあるのですぞ!そうなったらどうするのです!」
許攸が真っ赤に顔を赤らめながら言った。
「しかし、田中殿は太守様の母上様に当たる袁車騎将軍がおっしゃっていた方ですぞ。そのような方を曹操と会っただけで首を切るとはいかがかと考えますがな」
黒い髪に茶色い目をした美しい女性が言った。
彼女の名は逢紀。
字を元図と言う。
許攸と共に袁紹の旗揚げ時からいる最古参の参謀であり、袁紹からの信用も厚い。
袁紹とは何進に仕えていた頃からの同僚であった。
史実においてはこの後に仕える田豊や審配といった配下とは仲が悪く、一説では田豊の処刑を仕向けた人物とも言われている。
その一方で官渡お戦いの後、危機に陥った審配を「私情と国事は別である」として必至に弁護したりもしている。
袁紹亡き後は、三男の袁尚に仕え、袁紹の遺命を偽造してまで袁尚を後継者に仕立て上げたと言われる。
曹操が進行してきたときに、迎撃を行った袁譚の目付役として派遣されていたが、袁譚が増援を頼んでも、袁尚はこれを送らなかったために、大敗し怒った袁譚に殺されてしまった。
「逢元図殿、もし何かあればどうするおつもりです!もちろん袁車騎将軍の遺言も大事ではありますが、今いる袁太守様も大事なのです!」
「もし、と言われるが、彼はそのような人柄なのですか?人柄など他の情報を一切考慮せず処刑するようでは、袁太守様の評判に関わりますぞ!」
「しかし……」
それにしても何故、逢紀は田中のことをかばおうとしているのだろうか。
このことを知るには時を会議の前にまで遡らなくてはなるまい。
田中が牢に連れて行かれた直後、顔良はこのままでは、田中の身が危ないことは気付いていた。
しかし、顔良はそこまでの有力者ではない。
許攸と同等かそれ以上の権力者の力がいる。
そこで、許攸同じくらいの頃から袁紹に仕える参謀の逢紀を尋ねることにした。
「それで私の力を借りたいと……」
顔良が理由を説明しするとため息交じりに逢紀は言った。
「別に構いませんよ。彼に関する噂は耳にしておりましたし、彼が来てから本初様や家臣の空気が良くなっていました。彼は今後、本初様には必要な人材でしょう。こんなところで失うわけには行きません。彼には気に入らないところもありますが、私情と国事は別ですしね」
そう言って、顔良の願いを快くと請け負ってくれた。
こうして、田中は知らずの内に逢紀という強力な人間を味方につけたのであった。
「私は田中殿は今後、袁家には必要なお方となることを確信しております!彼はこんな所で失って良い人材ではありません!」
「彼は出身地も言わぬ怪しい人物。さらに言えば本当に袁車騎将軍が見込んだ方ならば何故、功績が出ていないのです? それは単純、かのお方が仰っていた方と田中は同一人物では無いと言うことです! そのような人……」
「それはありませんな。彼を発見したとき、彼以外、周囲に人はおらなかった。彼以外に当てはまる人材は誰もいない。身元が知れぬと言うがそのように人材を選んでいては貴重な人材を逃すことになりますぞ。功績が少ないと言えど、それは止む得ないでしょう。何せ彼が来てからまだ一年と経っていないのですぞ」
「それにしたって彼奴の言動には怪しいところが多すぎます!」
「もう分かりましたわ!」
袁紹が唐突に声を上げた。
「田中さんをここに呼んできて私が直接聞きますわ!田中さんをここに呼んできなさい!」
そう言って、近くの兵を牢獄に向かわせた。