袁紹が鄴の町へと移動した後に、南皮の町の太守として任を受けたのは郭嘉であった。
彼女は郭図たちからの推薦を受け、大抜擢を受けたのであった。彼女はその任を受けると同時に曹操から下った戯士才を副官として置き、数多くの経験をさせるようにしたのだ。
それは南皮の町をより大きくするのと同時に例え敵であった者でも重用することを内外に示し、能力のある者たちが集まるようにしたのだ。
「……」
そんな郭嘉は今、机の上に山のように置かれた書簡を裁いている。南皮は冀州の中でも中心的な都市であり、処理する書簡も半端な量ではない。
しかし、その大量の書簡を郭嘉は半日もあれば処理しきれるだけの能力を持っている。
「は~! ようやく終わった!」
郭嘉は思いっきり伸びをして、息を吐く。
時刻は正午。ちょうどお昼時であり、郭嘉はこの後には仕事も残っていないために、町に出て食事を兼ねた町の見回りを行うことにした。
彼女は自分で行った行政に関してはキチンと自分の目で確かめることにしている。
「戯志才殿!」
郭嘉は隣の部屋にいる戯志才を呼んだ。戯志才は調べ物のためにしばらく郭嘉の隣の部屋にある書庫に籠もっており、昼ご飯に誘おうと考えたのだ。
「はい、何でしょう!」
書庫の中で書簡を片付ける音が聞こえ、戯志才がすぐに出てくる。
「お昼ご飯一緒に行きませんか?」
「構いませんよ、ちょうど調べ物も終わったことですし」
そう言って二人は町に繰り出した。
庁舎の前には大きな通りがあり、周辺には商店が軒を連ねている。その通りを二人は歩きながら雑談を行った。
「そういえば、戯志才殿は以前、曹孟徳に仕えていたとか」
「ええ。以前の汜水関の戦いで袁本初様の軍勢と激突し、我が軍は散々に打ち破られ袁本初様に投降した次第です」
「成る程。ちなみに曹孟徳とはどのような人物なのですか?」
「素晴らしい人物です。懐も深く、智と武を兼ね備えている。しかし、その才に驕れることはありません」
戯志才はいつになく熱弁を振るう。
「では、お聞きするが曹孟徳は現在行方不明ですが、生き残っているとお思いですか?」
「はい。もちろんです。彼女はあのような場所でくたばるような人間ではありません」
「そうですか」
郭嘉は戯志才のその言葉を聞いて、一つの思いが浮かんできた。
(一度、その曹操に会ってみたい)
戯志才は実に優秀な人物だ。その人物がここまで言う人物とはどのような者なのか、そのことに興味を持った。
「それにしても、この南皮は栄えていますね」
戯志才は周囲を見渡しながら、言った。
「ここまで人が多い町というのは他ではほとんどありませんよ」
そんな戯志才がふと、ある店に目をつけた。
その店では様々な笛や太鼓などが置かれており、楽器の専門店のようだ。
「……」
戯志才はそのうち、一本の笛に吸い寄せられるようにして近づいて手に取った。
そしてその笛を眺めて、小さく呟く。
「良いな~、この笛欲しいな」
笛は一本おきから削り出された木材を漆で塗り、周囲を淡い赤色で山の絵が描かれている美しいものだ。しかし、その笛はかなり値段も高く、まだ仕えたばかりの戯志才は給料などももらっていないために、買う金はなかった。
その様子を見た、郭嘉は店主に金を出し言った。
「その笛をください」
「はいよ! 毎度あり!」
威勢の良いオッちゃんが大きい声で言う。
「え、良いのですか?」
一瞬の出来事に戯志才は困惑して言う。
「ええ。構いませんよ。曹孟徳殿に関する話をしてくれたお礼です」
「ありがとうございます!」
そう言って戯志才は笛をしまう。
「さて、ご飯はどこに行きましょうか?」
そう言って二人はまた店を探し出した。
「ここのお店は雰囲気が良いですね」
その店は大通りの一角にある大きな店であった。
多くの客が出入りしており、周囲にはその店から出る料理の良い香りが漂っている。
「そうですね、ここにしましょう」
郭嘉が言って、その店の中へと入っていった。
中は客であふれかえっており、賑わいを見せていた。
二人が空いている席を見つけ、座るとすぐに給士が来て料理名が書かれた紙を渡す。
「では選んでしまいましょうか」
そう言ってすぐに二人は料理を選び、給士に注文をした。
そして二人は料理が来るまでの間、軽く雑談を始める。
「凄いですね、この店は……」
給士達の動きを見て、戯志才は思わず呟く。
彼らには動きに一切の無駄がなく、さらに観察眼も優れ自分のやるべき仕事をすぐに見つけている。その能力は目を見張るものであった。
「彼らをどうにか雇えないものでしょうか」
その能力をなんとしても欲しいと考えた郭嘉は戯志才に意見を聞いてみる。
「おそらくは厳しいでしょう。この辺りの中心的な店でしょうし、ごっそりと人員を無理矢理引き抜けば、確実に住民の反発を招きます。ここは返って逆の手を打つのがよろしいかと」
そう言って、二人は料理が来るまで話し込んだ。
「ありがとうございました!」
二人は店を出て、そのままそれぞれの屋敷へと向かおうとする。しかし、郭嘉がふと立ち止まり、戯志才に尋ねた。
「そう言えば、戯志才殿は笛をお好きなようですが、吹かれるのですか?」
「ええ。まあ、少し」
気恥ずかしそうに、着物で少し頬を隠しながら戯志才は答えた。
「是非一度聞いてみたいのですが、よろしいですか?」
「え! でも下手くそですよ!」
「いえ、構いません。私はあなたの演奏を一度聴いてみたいのです」
「……分かりました。郭太守様にはこの笛を買って頂いたございますし。では、私の屋敷まで招待します」
「ありがとうございます」
そう言って二人は戯志才の屋敷へと向かうことにした。
「ここが私の屋敷です」
そこは街の喧騒から少し離れた静かな場所に立っていた。
「お邪魔します」
門の中へ入ると一般的な大きさの屋敷が建っていた。しかし、郭嘉は別の場所に目が引かれた。それはその屋敷の庭である。
この屋敷は門とは屋敷を挟んで向かいにある庭までは吹き抜けになっており、ちょうど向こうが見渡せる形となっている構造となっている。
その庭は小さな池があり、その周りを苔の生えた岩や野草が囲っている。庭の端には小ぶりな梅の木が一本立っており、ちょうどつぼみが出来ている頃合いであった。
その庭は自然をそのまま移してきたような庭だが、ある意味調和の取れた独特の美しさを漂わせる庭である。
「粗末な家で申し訳ありません」
「いえいえ。それよりも美しい庭ですね!」
「ええ。あれが我が屋敷の唯一の自慢です。袁本初様が私のために見繕ってくださった屋敷です」
この屋敷は袁紹の別邸として使われていたが、戯志才が袁紹に下ったことを受け、曹操が見つかるまでは心が安まる場所の方が良いだろうと袁紹が貸しだしたのだ。
二人はそのまま屋敷へと上がっていく。日は既に傾きつつあり、夕日が見えている頃合いであった。
「では茶を入れてきますので、こちらでお待ちください」
その庭が見渡せる客間で郭嘉を残し、戯志才はその場を立った。
(これだけ美しい庭を持っている上、笛を吹かれると言うことは相当風流なお方なのだな)
郭嘉は戯志才の性格を今までの行動と生活から推測する。
その芸術的な能力の高さに改めて関心をしつつ、周囲を見渡した。調度品は一つ一つに品が見られ、全てが調和し合い、その庭の美しさと溶け込んでいる。
(素晴らしいものだ)
そんな感想を抱きながら、庭を見ていると戯志才が一人分のお茶を入れて持ってきた。
「粗茶ですが、どうぞ」
そういって郭嘉の前に置いた。
「では、お茶を飲みながらお聞きください」
そう言って懐から先ほどもらった笛を取り出し、吹き始めた。
その音楽は宮廷音楽でもそこら辺の踊り子が使う歌でもない。聞いたことのない曲であった。どこかもの悲しく儚い印象を抱かせる。
その音は鈴の音のように美しく、その曲と実に合っていた。
郭嘉は時を忘れ、その音色に聞き入った。
月の光は、庭で笛を吹く戯志才をいつまでも煌々と照らし出していた。
ちなみに戯志才の庭は日本庭園をイメージしています。