190年7月上旬。暑さもそろそろ抜けるかという頃に鄴の袁紹の元へ一匹の早馬が走ってきた。
「袁刺史様! お味方、大勝利の報であります!」
早馬に乗っていた伝令の兵が袁紹の謁見の間に入るなり叫んだ。
周囲に控えていた文官武官皆が歓声の声を上げる。
「被害は?」
しかし、袁紹はただ一人渋面を作りながら言った。
「呂将軍の部隊が大きな被害に遭ったようで、おそらくは兵力の六割を損失したものと思われます。また顔将軍の方は田殿と沮殿の計略が上手くいき、一割ほどの損失で済んだそうであります」
「呂将軍の部隊はかなりの小規模部隊。呂将軍単体で考えれば大きな被害ではありますが、軍全体で考えればそれほどの者ではありません」
配下の文官が言った。
「馬鹿者!」
しかし、袁紹はその言葉を怒鳴りつけた。
「呂将軍が率いていた部隊は我が軍の軽騎兵の中でも選りすぐりの精鋭! それがこれほどの被害を出すということは今後の戦闘に支障が出てくると何故分かりませんの!」
袁紹の言うとおり、今回の戦闘においては精鋭のみを送り込んでいる。たとえ、その被害が小さいにしても貴重な戦力を失ったことには変わりなく、手放しには喜べないのだ。
「田中殿!」
「ここに」
袁紹は田中を呼んだ。
「今回の戦闘においてあなたは情報を取り仕切っておりましたね」
「いかにも」
「何故これほどの被害が出たのです?」
「お答えいたします。間諜によれば呂将軍は囮部隊として敵の本隊がいる地に攻撃を仕掛けたようです。しかし、そこにいた勇将に火計を仕掛けられ、大損害に遭った物と思われます」
「なぜ、それほどの勇将の情報があなたの耳に入らなかったのですか?敵情を探るのがあなたの勤めでしょう!」
「申し訳ありません。報告を受けた勇将の存在は今回初めて認知された者で、無名の者だったことから完全に見落としておりました。今回の被害の責任は調べきれなかった私にあります」
「陳羣!」
「ここに」
「今回の田中殿のこの度の失態、いかようにすべきと考えます?」
「我が軍の精鋭を失ったことは極めて問題であります。しかし、田中殿は我が軍における間諜の基礎教育や訓練制度などの一定の成果は納めてきました。故に余り厳罰にするのは全軍の士気に影響するかと……。以上の点から現地位からの一定の降格が妥当と考えられます」
「分かりましたわ。田中殿、そなたは現任を解き、後任の副官を命じます。そこで情報扱い方などを学んできなさい!」
「御意」
袁紹はそう言い放ち、田中の職を解いた。
「田中殿の代わりに郭図を据えます」
「その職をお受けいたします」
「続いて今回の功労者の俸禄に移りますわ。まず最大の功労者であった沮授、田豊両名には金一〇斤をそれぞれに与えます。そして顔良には金五斤を。陳公台と呂奉千には金一斤ずつ褒美を出しなさい」
「御意」
「では、後を頼みます。続いて将軍に関してなのですが、何でも捕らえた勇将がいるとか……」
その質問に逢紀が答えた。
「ええ。呂将軍を追い詰めた凄まじい統率力の持ち主です」
そう言って手を振り上げた。
すると外側にいた兵士達が一人の人物を縄に繋いで連れてきた。
立派な髭の生えた男で、体のあちこちに傷跡があり歴戦の兵士であることは分かる。兵士達が跪かせようとするが、全く地に着く気配が無い。
「構いませんわ。彼は我が軍の精鋭であった呂将軍の部隊を追い詰めた実力の持ち主。それ相応の待遇をせねば失礼に当たるでしょう」
そう言って袁紹は自らその男に近づいていった。
「麗羽、危険だ! 離れろ!」
思わず逢紀が叫ぶが袁紹に止める気配は無い。
「大丈夫です。彼に私を害そうとする気配はありませんわ」
「ほう。いつ儂が貴様に危害を加えないとでも言った?」
その人物が初めて声を上げた。雷を思わせるような低い声ではあるが、怖さは不思議と感じられない。
「あなたの目が攻撃しようという目ではありませんでしたから。殺そうとするのであれば、もっと鋭い目つきになりますわ。あなたは最早抵抗を諦め、最期は何も言わずに散ろうとしているのでしょう?」
「ふんっ!」
その男は図星であったのか、鼻を鳴らしてそっぽを向く。
「刺史様、何をなさるのです!」
近くの兵士が思わず声を上げた。
彼女はその男を縛っていた縄を解き始めたのだ。
「この者に縄はあいませんわ。先ほど言ったでしょう。礼儀を失ってはならないと」
「しかし、それは降将です。抵抗されたらどうするのです!」
「大丈夫ですわ。私の信じなさい!」
そう言っている内に袁紹は縄を解ききってしまった。
「何故私を信用できる」
男は呟く。抵抗する気配はまるで感じられない。
「私は殺したくはありませんが、あなたが万が一にも処刑をされるのだとすれば、その時にこの縄はあなたにとっては不要な物である上、あなたの名誉を傷つけると思ったからですわ」
袁紹のその言葉に思わず男はたじろぐ。
「貴様、私を従えるとでも?」
「ええ。あなたには我が配下になってもらえませんか?あなたは斬るには勿体ない人物でありますわ」
「ふむ……」
しばらく考えた後に不意に男が動いた。
周囲に控えていた武官達が一斉に剣に手をかける。しかし、男はそのまま手を前に差し出し臣下の礼を取って言った。
「我が名は麹義と申します。袁刺史様、私をあなたの剣として、そして盾としてどうぞお使いください」
「ありがとうございます。宜しくお願いします」
そう言って麹義の手を優しく握りこんだ。
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