「逃げられたですって~!」
袁紹の一言目はその怒鳴り声から始まった。
「申し訳ありません。奴らが探っていることは分かっていたのですが、何せ厳重な警備でして正面から言いくるめて捕らえてこそ我が方の意向を示せると考えていたことが裏目に出ました」
「全く、田中さんともあろう人が何をやっているのですか!」
袁紹はぷりぷりと怒っている。何よりも彼女をいらだたせているのは曹操に出し抜かれたということであろう。
「我が君、ですがもしあの場で何も言わず強硬手段に出ていたら劉備との関係は壊滅し、敵を増やすことにもなっておりました。田中殿に落ち度がなかったとは言い切れませんが、どうかそういった点も考慮されて下さい」
袁紹の横にいた田豊が言った。
最近、袁紹は田豊へ意見を求める機会が増えてきたのだ。これは田豊が比較的冀州周辺の豪族に顔が利くため統治をしやすいことが理由に挙げられる。
「仕方がありませんわね。田中さんも普段頑張ってらっしゃいますし、今回の件に関しては後ほどの働き次第で評価をいたしましょう」
「ありがとうございます!」
「ところで、今回の事件の元凶は後ろにいる者たちなのかしら?」
袁紹は田中に尋ねた。
袁紹は大広間におり、中心に田中と審配がいる。その後ろには縄で縛られた劉備と諸葛亮、関羽、張飛といった劉備軍の幕僚がいる。大広間からは距離がかなりあり、声は届かないようになっている。
「ええ。彼女らがかの噂を認識しながらも奴を匿っていた張本人たちです」
「あら、そうですか。では罪状に関して元皓さん、何が一番的確な罪か述べてあそばせ」
「おそらく不敬罪が的確かと。勝手に天を名乗っておるのですから死罪は妥当かと……」
「元皓殿、確かにそれに関しては納得ができる理論でしょう。ですが、それをするのはかなり危険な行為かと」
「では田中さん意見を申してみなさい」
「御意。劉備が統治していた地域に関してですが彼らは劉備に懐いています。彼女らを処刑すれば、民には反感の感情が芽生え、後の統治がやりづらくなるでしょう。また、彼女の配下はあの反董卓連合において功名を挙げるほどの強者。ここで処刑するにはあまりに惜しい人材かと」
「確かに。それは一理ありますね」
袁紹はいかにもといった具合に肯く。
「ですが何も罰しないというわけにはいかないでしょう~」
そう発言したのは沮授だ。
「何も罰を与えなければ功名さえあれば、何でも許されるという状況になります~。これでは統治はできなくなりますよ~」
「であるなら、どの程度の罰が適切なのかしら?」
「あえて、ここでは罰を与えず、戦功に応じて許すというのは如何ですか~? 今まで善政を敷いておりましたし、それを逃れることの理由にすればよろしいかと~……」
「朝廷にはどう説明を?」
田豊が心配げに聞く。正直、これが一番の問題である。
「今まで統治をしっかりと行っていた者たちです~。ですのでここは仁義の心を持って善政を敷いていた者ですから、ここは陛下の徳を持ってお許しくださいと告げれば大丈夫でしょう~」
後漢の政治体制は儒教の教えに基づいて行われている。仁義や徳と言った考えはここから出てきている。
「なるほど。それであればうまくいきそうですね」
「お待ちください!」
部屋に大きな声が響き、一人の女性が入ってきた。逢紀だ。
「袁州牧様、奴らは仮にも罪人。一度特例を出してしまえば、今後もそれに続き、戦功さえあげれば良いという風潮が我が領内で蔓延しましょう。それでは統治はできません。ここは初めての案件だからこそ厳しく当たるべきです!」
「そ、そうかしら……?」
袁紹の中で迷いが出始める。何せ今まで袁紹が最も頼りにしていたのは逢紀だ。彼女がそのようなことを言えば不安を感じざるを得ないのであろう。
「我が君、恐れながら申し上げます」
そこで田中は田豊たちの助太刀に入ることにした。
「私は実際、劉太守が統治していた地域を巡ってみましたが、どの住民も彼女に大変懐いています。確かに逢元図殿のおっしゃることは最もですが、いきなり斬ってしまえば現地の住民の反発は必至。さらに彼の地が万が一にも袁術たちの手に落ちれば中原への橋頭堡を失います。我が君、どうか処刑だけはおとどまりください!」
田中は落ち着いた口調で言う。
「それであれば、処刑は取りやめにいたしましょう」
袁紹は田中の言葉に後押しされて決断をしたが、逢紀は不満のようであったがその場では何も言わなかった。ただ、田中のことを恨めしそうに見ながらも黙って臣下の礼を取って命令を受けた。
「最近は田豊や田中と言った新しい者たちが力を持ち始めてきて、我々の居場所はなくなりつつあると思わんか?」
逢紀は郭図に言った。彼女らは犬猿の仲ではあるが、それを超えてでも話しておきたい内容であったのだ。彼女ら豪族と言われる存在は地元に数多くの土地、そして人民を従えている。自分の権力の失墜は彼らを流浪の民にすること同義なのだ。よく権力に必死にしがみつく者たちを嘲笑する描き方があるが、彼ら豪族にもそういった権力にしがみつかなければいけない大きな理由がある。
「そうか? 私はそうは思わない。本初様は我々のお言葉を聞いた上でご決断くださる。決して彼女らばかりを尊重しているわけではないとは思うがね」
「う、うむ。ただな……」
「元図、おまえは単純に本初様を盗られたようで嫉妬しているようにしか見えんぞ。私はそういった方面に興味はないのでな」
「そういうわけではない」
「お主は昔から本初様に関することとなると周りが見えなくなる癖がある。落ち着いて周りを見てみろ、彼女らは別に権力闘争をしているつもりはない」
「うるさい!」
郭図の落ち着いた指摘についカッとなって怒鳴りつけて逢紀はその場を飛び出していった。
「難しい奴だな」