「ほう。私を、ですか……」
静かに田中は呟いた。
それは、静かな声であったが何かを感じさせる声であった。
「ええ、あなたは間違いなく大きい人間になる。それもこの大陸の歴史を揺るがすほどにね。そのような人物をこの曹孟徳が放っておくと思う?」
「さあ、それは分かりませんよ。私は袁本初様の配下の下っ端中の下っ端。そのような人間などはそこら中におります」
「あなたのような人間があふれかえっていたら、私のような人間など生き残れないでしょうね」
「何をおっしゃいます。私はあなたの目の前で立っていることでやっとの人間なのに……」
「立っているだけの人間がそのような切り返しができると思う?」
「できるかもしれませんよ?こうして目の前にもいるわけですし」
田中は何としても曹操から逃げ出したいと思っていた。
曹操は人材オタクな一面がある。
史実での例を挙げるとすれば、関羽の話が有名である。
西暦200年に東征をしてきた曹操軍に敗れた劉備は、袁紹の元へと逃げる。
この時、関羽は曹操の捕虜となってしまう。
関羽は当初、劉備がどこにいるのかを知らず、劉備が見つかるまでは曹操の客将として働くことにした。
この時期に起こったのが、官渡の戦いである。文醜と顔良は彼に討ち取られ、その後、袁紹軍は敗北となる。
この後、主の劉備の消息をつかんだ関羽は曹操の元を離れようとする。
当然、人材オタクの曹操は関羽をできる限り手元に置こうと画策する。
曹操の取った行動は、面会断絶作戦。
避客牌という看板を門において、関羽を1日でも多く留まらせようとした。
最終的に関羽は曹操に手紙と今までの謝礼のほとんど(赤兎馬だけは頂いた)を返却し、曹操の元を去ったという。
このように人材を手元に置くためなら、子供のような戦法でもとる曹操に気に入られたら、本当に地の果てまで追いかけられることとなる。
そのような面倒事、田中は御免であった。
そのためには、曹操の目からかいくぐらなければならない。
何としても、この場は逃げ切らねばならなかった。
「そう、分かったわ」
「そうですか、良かったです」
「ええ。益々、あなたのことが気に入ったわ。何が何でもあなたを手に入れるわ」
「っ……!」
田中は思わず黙り込んだ。
「何故です?」
田中は言葉を放つ。
曹操はしばらく田中の目をじっと見た後、黙って振り返った。
「何となくね。あなたを手に入れれば面白そうだから」
「私のような人間は面白くありませんよ」
「それを判断するのはあなたではない。この曹孟徳よ」
その強い言葉を聞いて田中は思わず黙り込んだ。
「でも、今は麗羽の元にいるのだから仕方が無いわね。だけれども忘れないで。私は絶対に諦めないわ!」
その言葉を最後に曹操は振り返り、その場から去って行った。
曹操が見えなくなってから、田中は大きくため息をついた。
まずいことになった。
その苦い感情だけが田中の中に満ちていた。
今後、曹操と会うことは多くなることは間違いない。
その度に、あのような問答を行うと思うと胃に穴が開きそうな思いであった。
田中はやることが完全に裏目に出続けた自分のあまりの不運さを呪った。
「帰ろう……」
心身共に疲れ切った田中は、そのままくるりと振り返り、南皮の自宅を目指して帰って行った。
「華琳様、どうでしたか?」
青髪の美人が曹操に話しかけた。
彼女の名は夏候淵。
夏候惇の従弟にあたり、史実では軍の拠点間を迅速に移動し行う奇襲攻撃や後方支援などを得意とした前線型の将軍である。勇猛ではあるが、冷静さや慎重さに欠く所があり、史実でもそこにつけ込まれ定軍山に散る。
「彼は勘だけど優秀な人間だわ。彼を仲間に引き入れた者がこの大陸を制するでしょうね」
「大陸を……。まさか、華琳様!漢王朝は倒れるとお思いですか!」
「ええ、近いうちに間違いなく倒れるわ。黄巾の乱が起きてから早5年。未だにその混乱からこの大陸は立ち直れていない。さらに漢王朝の暴政ぶりが民の怒りに拍車を掛けている。破滅へ道はまっしぐらよ」
夏候淵は言葉を失った。
確かに状況を考えれば、そのような結論にたどり着く。
しかし、漢が倒れるなど普通、考えることではない。
そのような常識にとらわれ、曹操は情勢を見ている。その能力の高さに改めて舌を巻いた。
「彼もそのことを予見して私に仕えようとはしなかった。彼ほどの能力があれば、先のことなど容易に想像が付くであろうから断られることは分かっていたわ」
分かってはいたものの現実は厳しかった。
彼は容赦なく自分の弱さを見抜いていた。
これから起こるであろう乱世にはもっと力がいる。
今回の話で突きつけられた非情な現実に、曹操は悔しさを禁じ得なかった。
「いずれ力を蓄え、必ず、彼を私にひざまずかせる!」
決心した曹操だった。
「華琳様、彼に会った目的は何だったのですか?」
夏候淵は聞いた。
彼がなびかない可能性が高いのは分かっていたはず。それにも関わらず、会った理由を夏候淵は知りたかった。
その瞬間、曹操は悔しそうな顔を一変させ、獰猛な笑みを浮かべた。
「何、麗羽へのちょっとした当てつけよ。今頃、彼女は彼に疑念を抱いている頃合いだと思うわ」
曹操はあの場に間諜が潜んでいたことに気付いていた。
しかし、今回の目的の一つは袁紹に疑念の思いを抱かせることでもあったため、特に手を出しはしなかった。
これも将来、彼を手に入れるための布石。
曹操はその手を早くも打ち始めていた。