【5】
パチュリーはベッドから跳ね起きた。
呼吸は荒く、肺が痛い。背中も痛い。全身が汗ばんで、濡れた寝間着が体温を奪っていく。動揺に揺れる闇色の瞳は、ブランケットのかかった自分の下半身と、白い両手を辛うじて映していた。
「ゆ、夢……?」
背を丸めて、両手で顔を覆った。体内の全ての空気を入れ替えるよう、大きく息を吐く。
「サイアク……。喉乾いたし……」
指の間から見える、狭い視界。そこに白いカップが映った。
「ありがとう小悪魔。珍しく気が利くわね」
パチュリーはそれに手を伸ばし、両手で包み込むように持ってから水面を覗き込む。
「ねぇ、今日は何日――」
匂いに違和感を覚える。
鼻腔を湿らせたそれは、いつもの蜂蜜紅茶ではなかった。ジンジャーでもない。
「アッサムの、ミルク……?」
顔を上げた。
同時に、頬に手が触れる。
肌に張り付いた髪を、ほっそりとした指先が摘んで落とす。白い指は滑らかな陶器のように美しく、丸みのある爪は光沢を帯びていた。
その指はパチュリーの目元、色濃い隈をなぞる。視界が一瞬だけ歪み、すぐに正常に戻る。
「おはよう」
アリス・マーガトロイドがそこにいた。
「なんっ――」
パチュリーは叫びかけて、そこで初めて周囲の光景が目に入る。
明るい室内。澄んだ空気。
ミルクティの匂いに混じる、古木とニスの香り。ドールハウスを思わせるインテリア。
気を失う寸前の記憶が濁流のように流れ込んでくる。言葉を出すどころか、力そのものが抜き取られていくかのような、凄絶な記憶がよみがえる。
そしてティーカップを持っていることを完全に忘れて、手を引いてしまう。
「あっ」
と、声を出したときには遅い。ミルクティがひっくり返り、ブランケットを濡らした。乳製品の例に漏れず、それはじきに酷い異臭へと変わりゆくだろう。
パチュリーは反射的に謝ろうとするが、その前に、アリスはため息をつく。
「……もう、世話が焼けるわね」
アリスはパチュリーの体からブランケットを取り除いて、腕の中で折り畳む。それを屈むようにして床に置くと、小さな人形が拾い上げて部屋の奥へ消えていく。
パチュリーが一連の動作を見送ってると、
ぎし、り。
ベッドが軋む。二人分の加重によって。
「粗相をしちゃあ、ダメでしょう。ねぇ? パチュリー」
アリスは身を乗り出して、パチュリーの体に手をおいた。喉が一瞬、呼吸を忘れる。
アリスは笑っていた。酷薄に唇の端をつり上げ、妖しく濡れた瞳にパチュリーの顔を映して笑っていた。
美しくておぞましい人形(ひとがた)の顔が、平静を保とうとするパチュリーの心をかき乱す。怖くてたまらない。泣き出したかった。小悪魔の名を叫びたかった。意味がわからない。何がしたい。何故こんなことになっている。何故自分はアリスの家に連れてこられている。小悪魔は? レミィは? 魔理沙は?
――そんな葛藤や不安を心の見えないところに押しやって、パチュリーはどうにか、冷ややかな顔を繕った。
「触らないで、人形遣い」
細い非力な手で、アリスの手首を掴む。
「余興にしては品がなさすぎるわね」
「お気に召さなかったかしら」
「……小悪魔は何してたのよ」
「ちょっと脅かしたら逃げたわよ」
パチュリーのこめかみに筋が浮かぶ。あの役立たず。帰ったらお仕置きしよう。
「どきなさい、アリス」
パチュリーはアリスの手を払い、素足で床を踏みしめる。滑らかでひんやりとした床だ。スリッパも用意されていたが、使うのは癪だった。
「帰るの?」
「帰る」
小屋は狭くはないが、一人暮らしで使っているであろう広さだ。玄関までも十歩程度で辿り付ける。
「お邪魔したわね、二度とこないわ」
パチュリーがドアをゆっくりと押し開いた、途端。
植物の強い匂いと、湿った冷たい空気が身を包んだ。パチュリーは口元に手を当てて、息をのむ。
「森……――魔法の森……」
「魔女は人里離れた森の中に住まうものよ。物語の定番でしょ」
その声はうなじをくすぐるほどに近かった。ぞわりと肩を竦ませて、振り返り、後ずさる。いつの間にかそこにいたアリスが、愉快そうに首を傾げていた。
パチュリーは頬をひきつらせる。アリスに対する苛立ちもあったが、ぬかるんだ泥が素足に冷たくこびりついたからだ。ローブの裾に茶色が跳ねて、不愉快だった。
「そんな定番は使い古されてるのよ。じゃあ、さようなら」
パチュリーは空を見上げる。幾層にも連なる枝葉が邪魔で見えづらいが、太陽は頂点を少し過ぎた辺りだ。空を飛べば暗くなる前には戻れるだろう。
しかし、くつ、くつ、と喉を鳴らす笑い声に、気をそがれる。
パチュリーは視線を戻した。戸口にもたれかかり、腕を組み、俯いて笑うアリスを睨みつける。
「……何?」
「ここがどこだか分かってるの? ねぇ、パチュリー」
アリスの指先が、視界の半分以上を覆う緑に向けられた。
「魔法の森。ここは魔法の森なのよ、パチュリー。この場所から飛んで帰るだなんて、よっぽどの馬鹿しか言い出さないわ。もしかしてあなたは馬鹿だったのかしら」
嘲りを隠そうともしない言葉に、こめかみがヒクつく。それでも、パチュリーは知識の本棚を漁っていった。
魔法の森。闇と茸と毒の満ちる、妖怪ですら足を踏み入れることを躊躇う魔性の土地。茸の胞子から発せられる瘴気は強い幻惑効果があるものの、魔法使いにとっては魔力を高める源ともなるらしい。だからアリスや魔理沙も住んでいるのだろう。それと、変わり者の商人が住んでいるとも聞く。
しかし、裏を返せばそれくらいしか住んでいないのだ。この空気は誰にも有益であるわけではないようで、パチュリー自身の魔力も周囲に順応しないのが肌で感じられる。
「――脅しにしては、非論理的ね。飛べないほどじゃないわ」
一度口を閉じて、出来るだけ声に力を込めて言葉を続ける。
「そもそも、なんで私を連れてきたのよ。小悪魔はともかく、レミィが黙っていないわ」
「なんで?」
アリスは体を起こし、まっすぐ、パチュリーを見据える。
「なんで、何故? 何故、か。何故――く、ふふ……」
アリスが肩を揺らす。
ざわ。
木々が揺れた。風も吹いていないのに。
「ナンセンスだわ。ナンセンスよパチュリー」
アリスが一歩、踏み出した。泥は一粒も跳ねなかった。
木々の枝が、頭を垂れるかのように手折れていく。大気に溢れる魔力がアリスに従い、彼女を中心に渦を描いて足下に平伏する。それを踏みしめ、アリスは立っているのだ。地べたはいずるパチュリーよりも高みに、この場の誰よりもの高みに、世界をも踏み台にして、それが当然であるかのように無防備にも両腕を広げ、高らかに唱った。
「私たちは魔女なのよ、パチュリー・ノーレッジ。したいことをする為に魔女を目指した、やりたいことをやる為に魔女を目指した。そして魔女になった。それでも尚、何故を求めるのなら――」
唇がめくりあがり、歯を剥いた。逆光がアリスの背を照らす。表情は陰となり、しかし、それでもなお毒水のような眼光だけがパチュリーの心を締め付ける。
「私が欲しかったからよ、パチュリー。《吸血鬼"モスキート"》も《従僕"スレイヴ"》も関係がない。パチュリー・ノーレッジ、あんたが欲しかったのよ」
「な、なんなのよ、あなた……」
ダメだ、と思いながらも、おそれが声ににじみ出る。
アリスは熱い息を漏らした。火傷しそうなほどに煮えた、恍惚の、白い靄のような息を。
それはパチュリーの鼻先を湿らせる。ぴくん、と身が跳ねた。いつの間にかアリスは眼前にいたのだ。そのまま後ろに倒れられたら距離を離せたのに、腕を掴まれてしまう。引っ張り寄せられてしまう。
「嗚呼――……良い。良いわ、素敵よ」
もう一度、吐息。それがパチュリーの唇を濡らす。紅茶の匂いがした。心を落ち着かせてくれるはずの葉の香りは、今は諦観を促してくるようだった。
「ねぇ、パチュリー、もっと見たいのよ。あんたのことがもっと見たいの。仮面も服も、皮も肉も、神経も骨すらも取り払った末にあるパチュリーが見たい、剥き出しのパチュリー・ノーレッジが見たいの」
限界まで見開かれたガラスの眼は、それこそ、パチュリーの奥底までを覗こうとしているようだった。腕を握る力は強く、足が棒のようになって動かない。
そして、
アリスは傘を差した。
「え?」
パチュリーが上を向いた、瞬間。
ざぁ、と世界が流水に満ちる。激しい通り雨が傘を打ち据え、布をノックする音を連続して響かせる。
「ひっ……!」
パチュリーは情けないことに、悲鳴を上げてしまった。ここまで我慢してきたのに。
が、頬に熱を感じて顔を上げる。パチュリーは反射的に傘の真ん中まで入ろうとしていた。自分よりも背の高いアリスの肩に、顔を埋めていたのだ。
パチュリーは前にも後ろにもいけずにいた。最悪だった。大嫌いな対象が前にも後ろにもいるのだから。
――するとアリスが、ふぅ、と息をつく。
「お腹、空いたでしょう? 餌の時間よ」
アリスは柔らかい言葉で、パチュリーの腕を引いた。
パチュリーは反抗しようとしたが、首もとの違和感に気づく。
<首輪>が、そこにあった。これが、今の自分とアリスの関係性を示していた。
「っ……――」
唇を噛みしめて、パチュリーはアリスの後に続いた。
飼い主に引かれる犬のように。
【6】
餌の時間、と言われた。
ご飯の時間でなかった時点で、いやな予感はしていた。だから食器が床ではなくテーブルの上に置かれたときには、パチュリーは心の底から安心した。ため息が漏れ出る。
その食器はクラシック式――外の世界の言葉で言えば、オールドイングランド式の白磁の陶器だ。アリスの家のインテリアも同じ趣向に統一されており、ゴシック的で派手さを好む紅魔館のそれとは違って落ち着きが感じられる。ホワイトの色彩を多めに使っているにも関わらず、オーク材の木目と年季が温かみのある色へと変化させていた。
「さぁ、召し上がれ」
わざわざ隣に座ってきたアリスを横目にする。何をされるか怖いというのもあったが、紅魔館で食事をとる際は基本的にひとりなので、落ち着かない。いるとしても背後に小悪魔が控えているくらいだ。
しかしすぐに、器に注がれたクリームシチューの香りに目と意識を奪われてしまう。
白く濃密なクリームの中に、赤と黄色、そして細かなパセリの彩りが散りばめられている。一口サイズに切った人参とジャガイモはじっくりと煮込まれて表面がとろとろになり、野菜と肉のエキスがたっぷりと染み込んでいるのがわかった。
魔女だからといって、何も食べずに平気であるわけじゃない。
魔女は捨食捨虫の法で自身の成長を止め、永遠の命を得ている。しかし五感が消失するわけでもなく、身体機能が停止しているわけでもない。人と同様、最低限以上のものを求めてしまう。
パチュリーも例外ではなかった。見下ろす料理は憎たらしい程においしそうで、結局ミルクティすら飲めなかった渇いた喉に唾液が染み渡る。
もう一度アリスを見る。頬杖をついて、にこにことパチュリーを見ていた。
パチュリーは文句のひとつでもつけようと、あるいは言い訳をしようとして口を開き……結局、閉ざした。
「……いただきます」
小さく小さく呟いてから、スプーンに手を伸ばす。
……そこで気づいた。
スプーンがない。
いや、あった。アリスの手の中に。
「――アリス」
「なぁに?」
「シチューは熱いわ」
「出来立てだもの、当然ね」
のらり、くらりと、わざわざスプーンを揺らしながらアリスは答える。
パチュリーは膝の上で両手を強く握り込む。シチュー皿に叩きつけたくなる気持ちを押し殺しながら、極力、感情を消した声で続けていく。
「……ペットは、餌に直接、口を付けろ、と言いたいの?」
「まさか」
アリスは身を預けていた右手から体を起こすと、意外そうに両手を上げた。どこか大仰で、演技めいて見えるけれど。
「そんなことしたら、可愛いペットが火傷しちゃうじゃない」
「それがわかってるなら――」
荒げそうになった口を制するよう、スプーンが差し出される。
持ち手ではなく、皿状の方を。
そこにはクリームに浸ったにんじんが乗っている。
パチュリーの思考は停止し、何をしたいのか理解できなかったが、
「ほら、あーん?」
「ふ、ふざけないで!」
こればかりは屈辱的だった。手のひらをテーブルに叩きつけ、勢いよく立ち上がる。椅子が倒れたがお構いなしだ。
瞳の中の闇を怒りに沸騰させて、パチュリーは言葉を荒げる。
「あんまり調子に乗らないことね、アリス・マーガトロイド。私はあなたより劣っているかもしれないけど、無能な犬ころであるつもりはないわ。家畜のように餌をねだるつもりも媚びるつもりもない。飼い主ごっこがやりたいのなら、他所を当たって頂戴!」
ぐぎゅるるるる。
お腹の悲鳴が全てを裏切った。
パチュリーは耳まで熱くなる。アリスが口に手を当てて失笑する。顔が燃え上がりそうだった。
「だ、だからって、食べる理由には――」
「<おすわり>」
ぽすん、と。アリスが戻した椅子に、パチュリーは腰を下ろした。
アリスの左手が、ワイングラスでも持つようにパチュリーの頬を下から掴んで持ち上げる。
「はい、あーん」
「ふゃ――」
顔を覗き込まれながら、スプーンの先端が唇に触れる。熱さに思わず口を開くと、そのまま流し込まれた。
丸飲みするわけにもいかず、舌の上を滑らせ、噛みしめる。
……非常に悔しいが、美味しい。
口の中でほどけて溶ける具に、そこから咥内いっぱいに広がるうまみは、空腹で乾いた体に染み渡っていく。
いつの間にかシチューとその具は口の中から消えていて、自然と今度は自分から唇を開いていた。慌てて閉ざす前に、二口目が注ぎ込まれる。
「ぁ、ふ……ぁ……」
少しだけ熱くて、目元に涙が滲む。喘いだせいで、口の端からクリームが垂れる。
「あらあら」
からかうような、そんな声。滲んだ目は細い指先に拭われて、顎を伝うクリームをすくいとられる。
アリスはその指を、自らの口に含んだ。パチュリーは目を見開いて見やったが、それ以上のことはなにもできない。
「おいしいわ。ねぇ? パチュリー」
アリスの唇は歪み、濡れている。
パチュリーの背筋に薄ら寒さが走る。おぞましいことに、それは決して、不快なだけではなかった。
「パチュリー、聞いてる?」
三口目――は、口の手前で止まっていた。
鼻腔のすぐ下にある香ばしい匂い。お腹が鳴るほどの食欲が二口程度で満足できるわけがなく、口の中には唾液が溢れる。
ごくり、と喉を鳴らす。
パチュリーは舌を突き出して、求めた。舌にぬらりと纏わりついていた唾液が滴り、糸を引いて、落ちる。
けれど、逃れるようにスプーンは下がった。その向こう側には、喜悦に笑う飼い主の顔がある。
言わずとも、言いたいことが分かってしまう。アリスは求めていた。自ら望むことを――『おねだり』を求めていた。
どうしてここまで、恥辱を煽ってくるのか。
パチュリーは耐えた。鼻息を荒くして、瞼を震わせる。握り込んだ拳の爪が手のひらに食い込んで、血の気が失せていることだろう。素足も丸めて開いてを繰り返して、繰り返して――
どれだけの時間が経っただろう。
「……そう、残念ね」
アリスはスプーンをおろした。その姿が視界から消えて、遠ざかっていく。
パチュリーは戒めを解かれ、テーブルの上に両手をつく。荒い呼吸を繰り返しながら振り返ると、アリスがキッチンへと消えていった。
ふと、そばにあった姿見が目に入る。
パチュリーの顔が映っていた。
垂れ落ちた目尻に涙を溜めて、開きっぱなしの口から舌を垂らす無様な顔。八の字に下がった眉と緩んだ目元は、媚びてへつらうように弱々しい。なのに頬は色づいていて、情を煽るかのようだった。自分でも、自分のこんな顔を見たことなかった。
まるで犬のようではないか。
歯を強く食いしばる。
「くそう。くそう……!」
溢れそうになる涙を堪える。惨めだった。悔しい。負けたくないのに、負けたくないのに。
どうすればこんな思いをせずに済むのだろう。大図書館に帰って、あの淀んだ闇の中に身を沈めれば逃れられるのだろうか。
――そうだ、逃げよう。逃げてしまおう。まんまと逃げおおせてやろう。
何をしているのかは知らないが、アリスはキッチンから姿を見せない。今がチャンスだ。
パチュリーは席を立つ。卓上に残されたシチューに目が行ったが、視界から引き剥がす。
音を立てないように、玄関扉を開く。真っ暗な空を見上げる。
幸いにも雨は小降りになっている。魔法でバリアを張れば、なんとか帰れるかもしれない。
「――いえ、大丈夫よ。絶対大丈夫」
パチュリーは胸に手を当てて、自分に言い聞かせる。完全に体を覆うようにバリアを張れば、少なくとも体が濡れることはない。だから大丈夫。絶対に大丈夫。濡れずに帰る事が出来る。
何より、アリスが言っていたから。
『ここは魔法の森なのよ、パチュリー。この場所から飛んで帰るだなんて、よっぽどの馬鹿しか言い出さないわ』
「……バカにして。見てなさい」
パチュリーは、暗闇の滞留する空へと飛んだ。