【7】
雨の中を飛ぶ。バリアを張っていても、その事実だけで気分が悪い。
大嫌いでたまらない雨を含んだ空気と、その匂いに、頭の中がくらくらする。
苦くて酸っぱい胃酸が口の中に逆流してきて、押さえ込む。呑み込む。
「ん、ぐ――」
胸を抑えて新鮮な空気を取り入れようとするが、周り全てが雨、雨、雨。さらに気分が悪くなるだけだ。そもそも、未だに森を抜けられていないのが不可解だ。
もう、飛行を始めて五分は経過してるはずなのに。
「どう、なってんのよ……」
森を抜けられない。周りには木の幹が立ち並び、頭上では枝葉が暗い空を覆っている。
足下を振り返っても、真っ暗闇が横たわっているだけだ。地面も、アリスの家もどこにもない。
足もつかない闇の中で、ひとりぼっち。
それを自覚してしまうと、言いようもない孤独感に苛まれる。雨による苦しみとは別の痛みが胸をズキズキと疼かせて、呼吸を荒くする。
声を出した。しかし声が出なかった。叫んだ。やはり声が出なかった。声の出し方がわからない。自分の声はどこの誰にも届かなくて、誰も自分のことを振り返らない。誰も自分を見てくれない。誰も自分に気づいてくれない。なぜ自分はいるのか、誰が自分を必要とするのか、つながりがあると思っていたのは全て一方的で、いてもいなくても構わないと思われていることを思わないようにしていた。自分はみんなの中のひとりにすぎなくて、みんなの中からいなくなっても気づかれない。
今まで考えもしなかった――いや、今まで考えることを避けていた毒が、頭の中でぐるぐる回る。
パチュリーは空へ腕を伸ばす。
届かない。いくら掻いても空を切る。
いやだ、いやだ。
誰か、誰か。私を見て。
誰か私に気づいて。
魔理沙、小悪魔、レミリア、咲夜――
「<おすわり>」
びちゃり。
お尻が泥に浸る不快感。しかしそれによって、パチュリーは我に返る。
パチュリーは森の中に座り込んでいた。ちゃんと地面の感触がある。バリアはいつの間にかなくなっていたが、何故かあまり体は濡れていない。
「バカな子。飼い主の言うことは聞くものよ、パチュリー」
アリスが正面に立っていた。ネイビー色のダッフルコートに身を包んでいて、そのポケットに両手を突っ込んでいる。体は一滴も濡れていない。彼女の頭上に漂う三頭身ほどの人形が傘を差し、雨を防いでいるのだ。
「……私……――」
パチュリーは空を仰ぐ。自分の頭上でも、人形達が傘を差してくれていた。
それを確認してから、自分の頬に触れる。涙と汗でひどくベタついていた。
「私はこの森が好きだけど、この森が書く脚本は嫌いなの。低俗だわ」
アリスの声と共に、ダッフルコートがパチュリーの肩に掛けられる。重みのあるそれは、物理的な意味でも体を拘束するかのようだった。
アリスは膝を屈めて、笑顔で手を伸ばした。
「さぁ、帰りましょうパチュリー」
「あれ、お前たち何やってんだ?」
脈絡の繋がらない最後の言葉は、第三者のものだった。
魔理沙がひょこりと木陰から顔を出し、不思議そうにしていた。
【8】
同じく魔法の森にある魔理沙の家は、しかし、アリスの家と違って散らかり放題だった。
一応の導線は確保されているものの、本や茸やらよく分からない物品やらを隅に寄せているだけである。人里ではこう言った類の家をゴミ屋敷と呼ぶらしい。
「……ちょっと魔理沙、これ私の本じゃない。あれも、あの茸が乗ってる本も」
「ん、そうだっけ」
「そうよ、目録管理の為に込めた魔力を感じるわ」
バスタオルを頭までかぶり、暖炉の前で丸くなっているパチュリーは、震えながらも魔理沙を闇色の目で睨み付ける。魔理沙の性格上、本を杜撰に扱われるのは予想できることだったが、いざ目の当たりにすると腹が立つ。
「絶対に返してもらうから」
「そ、それで! だ」
魔理沙はごまかすように声を大きくすると、壁に背もたれて佇むアリスに目を向けた。
「結局、仲の悪いふたりで何やってたんだよ。それにパチュリーが図書館から出てくるなんて珍しいな、異変か?」
アリスは表情も変えず、何も答えなかった。ただ、無感動に部屋の中をぼんやりと眺めている。
「相変わらずだなぁ……」と魔理沙は苦笑していた。
しかしパチュリーは笑えない。
パチュリーは初め、魔理沙に事情を話して助けてもらおうと考えていた。
しかし事情を話す――ということは、自分が魔理沙に対してやろうとしたことを話すことになる。あのときは衝動的だったものの、いざ、自分が支配される立場となったことで深刻さが身に染みた。
パチュリーは魔理沙と目が合う。すぐ、顔を背ける。
「なんだよパチュリー。もったいぶるなって」
魔理沙は無邪気に追求してくる。パチュリーはチョーカーを見られないようにバスタオルをかぶり直しながら、うろたえる。
何か言わなければ、何か言わなければ。アリスが何か余計な事を言う前に――
その矢先、
「魔理沙」
アリスが口を開いた。
パチュリーは身が竦めて、顔を青くする。自業自得とは言え、好奇心に輝いている魔理沙の顔が軽蔑の顔にかわってしまうかもしれない。
なんとか遮ろうとするが、アリスの方が早かった。
「――パチュリーの新しい呪文に付き合ってるだけよ、私がね」
「……えっ?」
上ずった声を出してしまったパチュリーだったが、アリスの一瞥を受けて口を閉ざす。
「その都合上、パチュリーは私の家で過ごす必要があった。レミリアの許可も得ているわ」
「へぇー。なんだ、お前ら実は仲良いのか?」
何も知らない魔理沙は、それこそ本当に、嬉しそうに笑っていた。
「やっぱみんなで仲良くすんのが一番だよな。んで、その呪文っていうのは?」
魔理沙の問いに答えることなく、アリスは瞼を伏せる。
「雨、止んだようね」
「ん? ああ、おう。そうだな」
いつの間にか、雨の音は止んでいた。
「パチュリー、帰るわよ」
アリスは壁から背を離すと、パチュリーの手を握る。魔理沙が見ている前である。パチュリーはとっさに払おうとするが、相変わらず力が強い。
人の気も知らない魔理沙は、頭の後ろに両手を当てて頬を膨らませる。
「なんだよー、私はのけものかよー」
しかしすぐに、イタズラっぽい笑みを見せた。
「もしかしてアレか、お前たちデキてんのか?」
「はぁっ!?」
パチュリーはすぐさま撤回させようとした。
が、片手を上げたアリスが、それを制した。
「私は好きよ、パチュリーのこと」
そしてとんでもない事を言い始めた。
「……は?」
「いつも言ってたはずよ。私はパチュリーが好き、と」
魔理沙は自分で言い出しておきながら、全く想定してなかったらしい。ぽかーんとしている。
「あ、ああ。友達として好きってパターンか」
「ただひとりの存在として、好きよ」
アリスはパチュリーの手を強く握り直す。手のひら同士をあわせるように、指を絡める。パチュリーは「ひゃぁ!」とか変な声を上げたが、アリスは気にしない。
言葉を失っている魔理沙に対して、アリスは淡々、淡々と、続けた。
「パチュリーが好き。そこに微塵の悪意もなければ、ひとかけらの不純物すらも存在していない」
パチュリーを抱き寄せ、肩に手を回す。
「言い訳もしないし誤魔化しもしない。誰にも渡すつもりはないし、私もどこにも行くつもりはない」
その肩を優しく撫でて、細めた眼にパチュリーを映す。
「私の目はパチュリーだけを映しているし、これまでもそう、これからもそう」
身を預けるように、自分より下の位置にあるパチュリーの髪へ頭を傾ける。
「愛してるのよ、パチュリー・ノーレッジを」
狂気的な仕草がない。それだけの違いで、ここまで恥ずかしくなるものなのだろうか。パチュリーは頭が沸騰しそうだった。
「え、ぁ、アリ、なに、えっ?」
「以上。行くわ」
そして何事もなかったかのように、アリスはパチュリーの背中を押す。混乱したままのパチュリーは為すすべもなく、魔理沙の家を後にした。
【8.5】
扉が閉まった音で、魔理沙はハッと我に返った。
誰もいなくなった室内で、ばつが悪く頭を掻く。
「そっかぁ、マジかー。まったく気づかなかったぜ」
今思えば、パチュリーはアリスに噛みついてばかりいたが、それだけ意識していたということだろうか。だからふたりがそういう関係だったとしても、あり得ない話ではない。
ただ、
「それにしちゃ、なーんかおかしいよなぁ」
パチュリーは妙にアリスの顔色をうかがっていた感じがする。恋人に対するものというより、畏れに近いものだった。
そもそも体調の悪いパチュリーが、大図書館を出て、あまつさえこの有害な森に来ていることも信じられない。元気になったわけでもなさそうである。
それに意図的に隠していたようだったので突っ込まなかったが、チョーカーのことも気になる。
――そう、気になるのだ。
しかしその好奇心は、まったく別の発見によって何処かへ行ってしまった。
「……あ、あれっ。本が減ってるのぜっ?」
【9】
「悪かったわね、パチュリー」
いつの間にか日も落ちていて、枝葉の隙間から差し込む月明かりが、道を照らしていた。
道中、先を歩くアリスは振り返らずに口を開く。
「飼ったばかりのペットはすぐ迷子になるって忘れてたわ。目を離しちゃってごめんなさい」
「あ、謝るところってそこなの? もっと他に色々あるんじゃないの?」
「ちゃんと好きって伝えてなかったわね。それについても謝るわ」
「そういうことじゃなくて……」
パチュリーは俯いたまま、アリスの後ろを歩いていた。
視線を下げると、つっかけを穿いた自分の足がある。アリスが持ってきてくれていたものだ。アリスは踏み固められた道を選んでくれているので、雨上がりの今でも歩くのに支障はない。
「次に迷子になったら、目で道を探すよりも花の香りを探しなさい。私の知り合いが手入れをしているひまわり畑にたどり着けるはずよ」
「ねぇ」
アリスは初めて足を止め、パチュリーを振り返った。
僅かに首を傾げる、人形遣いの仕草、
「どうしたの? 歩くのに疲れたのなら抱っこしてあげるわ」
アリスは穏やかに微笑んでいた。魔理沙や他の者の前では決して見せない顔だ。それを言うなら狂気的な部分もそうなのだけど。
「なんで魔理沙にバラさなかったの?」
「嘘は何一つ言っていないわ」
「この<首輪>のことよ」
顎をそらし、チョーカーを月光に晒した。
「魔理沙は私のことを軽蔑したはずよ。あなたのよく回る口先はあれば、そう誘導できたじゃない」
ここまで言っても、アリスは訝しげに眉根を寄せる。
「そんなこと、する意味がないわ」
「魔理沙に渡したくない、って言ってたのはあなたよ」
「ペットは可愛がるものよ。虐めるものじゃないし、貶めるものでもない」
どうやら、アリスの主観では今までの一切に虐め要素は入っていなかったようだ。それはそれでゾッとした。
しかし、それが同時にアリスの本心であることも、信じられる気がした。
パチュリーは視線を彷徨わせてから、ちらりとアリスの顔を見上げる。
「――……怒ってないの? 逃げ出したこと」
「言ったでしょう、これは飼い主の責任よ」
アリスは前かがみになって、パチュリーと目の高さを合わせた。ガラス玉のような透明な瞳に、闇色の瞳が映り込む。
この瞳はパチュリーだけを映す。
アリスの言葉を思い出して、体の奥が暖かくなる。
「寒くて、寂しかったわよね」
「……別に」
体にかけられているダッフルコートを握りしめ、皺を作る。さっきまでコートの重みが苦痛に思っていたはずなのに、今は、
「今は、寒くないわ」
「そう。ならよかった」
アリスの手が伸びてくる。反射的に身を引いてしまったので、その指先が触れることはなかった。
ただ、寂しそうに眉を下げたアリスの顔を見て、少し胸がちくりとした。
「それじゃあ脱ぎなさい、パチュリー」
アリスの家に戻って早々、躊躇なく言い放たれた。
「……何を?」
「服を」
「……コートを?」
「全部。一切合切。一糸纏わぬ姿をさらしなさい」
パチュリーはくるりと反転。閉じたばかりの扉に手を伸ばす。
「<まて>」
ダメだった。動けなくなる。
「汚れたペットの体を綺麗にするのも、飼い主の勤めよ」
微動だに出来ない姿勢の中、アリスが背後から肩越しに横顔を覗いてきた。ガラス玉の瞳は危険な色でギラついて、つり上がった口角からは掠れた声が続いた。
「あんたは私のものよ、パチュリー。
あんたの全ては、有らん限りの全ては私のものよ。パチュリー。誰のものでもない、私のもの」
両肩に乗せられていた手が胸元に滑り落ち、首の所で腕を絡める。パチュリーの耳に唇が触れて、くすぐったさに身が震えた。
「あんたをお世話するのはこの私。――さ、行きましょ?」
全く抵抗できることなく、パチュリーは浴室へと引きずられていった。
「くそう、くそう……! やっぱ、大嫌いよ!」
絶対に負けない。絶対に負けてたまるものか。好き勝手されたままでいるものか。
パチュリーは改めて心に誓っていた。
髪の毛をわしゃわしゃシャンプーされながら、ではあるが。