【10】
アリスの背後に忍び寄ったパチュリーは、渾身の力で箒を振りおろした。
しかしアリスはフライパンを握ったまま、軽く避けてしまう。箒の先端が床を擦り、絡めていた埃を舞い上げる。
「じゃれてくれるのは嬉しいけど、料理中よ。バイ菌が入っちゃうわ?」
「目の前の有害生物の方が問題よ。消毒しなきゃね」
「あら、攻撃のつもりだったのね。服の糸くずでも取ってくれてるのかと思った」
「言ってなさい」
闇色の瞳をぎらりと光らせ、パチュリーは――あくまで自分としては最大限に――腰を入れて、箒を横に振り抜く。
が、握りこみが甘かった。手から箒がすっぽ抜けた。
パチュリー自身もコマのように回転したあげくに、転倒する。箒の飛んでいった方向から、がっちゃーんとか音も聞こえた。
あと、アリスの失笑も聞こえた。ムカついた。
「――っふふ……何やってんだか。<起立>」
ぐいん、と<首輪>に引きずり起こされる。
アリスはフライパンを置いて、膝立ちになった。そしてパチュリーの服の埃を、丁寧にひとつひとつ取り除いていく。
「はい、おしまい。遊びには付き合ってあげるけど、身の丈は考えなさいね」
パチュリーは拘束が解かれてすぐ、聞こえよがしな舌打ちと一緒に踵を返して、大股で歩き出す。
一度つまづいて転びかけたが、なんとか持ち直す。しかし視線を感じたので、目を鋭くして振り返った。
「転んでないから!」
「なにも言ってないわ」
「うるさい!」
あれから二日経ったが、パチュリーは未だに囚われの身だった。
ただ、家の中と、家の周辺ならば行動に制限はかけられなかった。アリスも家事や人形制作を行う時間があるため、常時監視されているわけではない。と思う。
だから、反撃の策を練る時間はあった。
「やっぱり私には魔法よ、魔法しかないわ。魔女だもの」
パチュリーは玄関扉を抜けて、家の裏手へと回る。
魔法の森も、陽気の良い今日みたいな日なら外でも過ごしやすかった。体は暖まるし、木漏れ日で明るいおかげで文字も読みやすい。風に揺れてこすれ合う枝葉の音も、心地良いBGMである。
きっと作業も捗るだろう。
まず、アリスがキッチンでフライパンを揺らしてるのを窓越しに確認する。よし、確認。
パチュリーは家の外壁に背もたれるようにして屈み込んだ。
「私よりちょっぴり優れてるのかもしれないけど、思い知らせてやるわ」
懐から取り出したのは、三冊の本。魔理沙の家から取り返しておいたものである、ざまぁ見ろ。
早速パチュリーは本を開いて、ページをめくって知識を漁っていく。一度読破している本なので、すらすらと頭に入って来た。
数分もしないうちに、内容は完全に頭に叩き込まれる。
「――理論的には十分に可能ね」
パチュリーは木の枝を使って、魔法陣を地面に描いた。それに手を翳し、今し方取り入れたばかりの呪文を口の中で反芻する。
――やがて、魔方陣から浮かび上がってくるようにしてそれは完成する。
手の平サイズの、美しい金色の宝石だ。
パチュリーの魔法は七曜を扱うものだが、そもそもは五行思想を根底に置いている。すなわち、木火土金水の5属性だ。今回作り出した宝石は、「土」の金色。如何様にでも姿を変えて流れゆく魔力を「水」として見立てることで、土剋水の理を以て一時的に無効化させる力がある。土は水を吸い取り、濁し、消してしまうものだ。
つまり、これは小さくとも立派な『賢者の石』。
これを使えばアリスの圧倒的な力を一時的に無力化できる。はず。
例えパチュリーの魔力が1でアリスが10000だったとしても、アリスを0にすればパチュリーが勝る。
とにかく支配権を一瞬でも奪えれば、紅魔館に送り届けて貰うよう命令すればいい。
さぁ、どんな風に命令してやろうか。
パチュリーはその場面を想像すると、悪い顔になってニヤけてしまう。これが愉悦という奴か。あの魔王みたいなアリスを使役してやる瞬間は、さぞや痛快であろう。
「――ただ、問題は使うタイミングよね」
この賢者の石は、言うなれば小さな爆弾だ。使えるのは一度きりで、下手をすれば自分も巻き添えを食らう。
アリスの至近距離で発動させなければ意味がないが――接近して使ってしまうと、パチュリー自身も巻き添えをくらう。投げつけようにも、パチュリーの身体能力が壊滅的であるのは今さっき実証された。
遠隔起爆も可能だが、そもそもどうやってアリスに渡すべきか。絶対に警戒されるだろう。
「そういえば魔理沙も似たようなのを使ってたわね。ディープエコロジカルボムだったかしら。柔軟な発想って羨ましいわ」
「何が羨ましいの? パチュリー」
ビクっ。頭上から声が降ってきた。
おそるおそる、パチュリーは仰ぐように顔を上げる。
アリスと目があった。窓から身を乗り出して、パチュリーを見下ろしている。
アリスは地面に置かれてある三冊の本を見て、苦笑いを浮かべた。
「いつの間に持って帰ってたのよ、ちゃっかりしてるのね。――あら」
それからパチュリーの手のひらの上で光る石を見て、片眉を上げる。
「それは?」
「えっ。あ、えーと……」
早速バレた。
汗がだらだらと伝い落ちて、露骨に声が震えてしまう。
「た、ただの失敗作よ。魔法もちゃんと使ってないと、腕が錆びつくでしょ」
「何の魔法?」
「それは、それは――……」
さまよわせた視線は、本の背表紙にたどり着く。
<五行思想術―報復編―>
<解呪と呪い返しの違い>
<呪物の強制送還>
まずいタイトルばかりだ。さりげなく、体の位置をずらしてアリスから見えないようにしておく。足の裏で魔法陣も消しておいた。
送還、送還……送――
「お、贈りものよ。あなたに」
「は?」
パチュリーは冷や汗を額に浮かべながら、今更撤回もできずに舌を動かし続ける。
「でも、ほら。見ての通りこんなに小さくて、失敗作よ。だから捨てようと思ってたところ」
「ふぅん」
アリスの顔を見られない。あのガラス玉のような瞳に見られると、すぐに嘘だと見抜かれる気がした。
だから、伸びてきた腕が賢者の石を持っていったのにも気づくのが遅れた。
「飼い主のご機嫌伺いをして、一体何を企んでるのかしらね」
アリスが賢者の石を日に翳す。やがてどこからともなく魔法の糸を取り出すと、賢者の石を吸着させた。
ネックレス状になった賢者の石は、今や、アリスの首もとにあった。
「似合ってる? ねぇ、パチュリー」
「う、うん」
パチュリーはこくこくと、機械的に首を何度も縦に振った。
そこで、我に返る。
これは大チャンスなのではないか。いま起爆させれば、一方的にアリスを無力化できるのではないか。
……しかし、出来なかった。
「ありがとう、パチュリー」
アリスは、笑っていた。
ただ笑っていた。
すこし照れくさそうに頬を染めて、眉を下げて、目を細めて、はにかんでいた。ほっそりとした指先は首元の賢者の石を弄くっていて、それに目をおとしては、くすり、と嬉しそうに笑顔を見せるのだ。
パチュリーの頬を、先ほどとは別の意味での汗が伝う。どうやらアリスほど悪役にはなれない性質らしい。賢者の石のことはもう忘れた方が良いかもしれない。
「それじゃあ餌の時間よ、今日はオムライスを作ったから――パチュリー?」
「え、あ。うん」
本を脇に抱えて立ち上がり、小走りで玄関に回り込む。
そして転んだ。
戸枠に――さっきと同じ場所につま先を引っかけたのだ。本が宙を舞い、腕を投げ出した状態で体が傾く。みるみる床が迫ってきていた。激突を覚悟して強く目を閉じる。
――しかし、それはいつまで経ってもこなかった。
代わりに洗濯したてのような柔らかい布の感触に顔を埋めていて、洗剤の香りが鼻腔を満たしている。
「手の掛かるペットね、本当」
こつんと。顔を上げてすぐ、アリスの額が、パチュリーの額に触れる。鼻先同士も擦れて、アリスの吐息が吹きかかってきた。
近い。すっごい近い。
「~~~~~~!」
転びかけた際のヒヤリとした心地から一転、まるで一晩中ぶっ通しで読書を行っていたときのように、ぐつぐつと頭の中が煮えている。
一方でアリスの方は平然としていて、
「よいしょ、と」
ひょい、とパチュリーは抱き上げられる。
「ちょっと」
「じたばたしないの、落ちちゃうわよ」
そのままアリスは椅子に座ると、テーブルに横付けするように椅子ごと体の向きを変える。
パチュリーはアリスに向かい合ったまま、膝の上だ。
「あの、アリス」
「いいから」
テーブルの上には、出来立てのオムライスがあった。相変わらずスプーンの一本だけだ。……卵にはハートが描かれてた。
その卵が一欠片、スプーンに掬い取られる。
「はい、あーん?」
アリスはスプーンをパチュリーの口元に寄せてきた。近い距離で向かい合うパチュリーの体を、背中に回した腕で支えながら。
食欲を刺激する、良い匂いだった。
「いや、だから。自分で食べるってば」
「食べてくれる気はあるのね、嬉しいわ」
「た、食べものに罪はないし。なんでいつもいつも、こう……」
ごくりとパチュリーの喉が鳴る。美味しそうだった。
チキンライスとアリスの顔を交互に見る。
……<首輪>を使われたら、どうせ逆らえない。と、自分を納得させて、
「……あーん」
パチュリーはふてくされるように目を背けて、自分で口を開いた。
【11】
ここ数日、雨は降らなかった。
だからなのか、アリスは家の裏手の畑に水をやっていた。
パチュリーはその傍のベンチに座って、ぼんやりとアリスの後ろ姿を眺めている。
時折、すぐ近くを大きめの蜂が通りすぎて、その度に悪態をついて身を低くしてるのだけど。
「今日は襲ってこないの?」
アリスはじょうろを持つ手は止めず、声だけを投げかけてきた。
からかうような物言いだ。パチュリーは口をとがらせる。
「私はあんたと違ってか弱いのよ。万全を期すためには休憩も必要だわ」
「そうね、昨日は一生懸命落とし穴を掘ってたし、疲れたでしょう」
「……本には効果的だと書いてたのよ、私は悪くないわ」
尚、その落とし穴は足首がハマるくらいの深さでくじけてしまった。腰と手首が痛くなって動けなくなったのである。
「アリス、ねぇ」
パチュリーの呼びかけに、アリスは「んー?」と声だけを返してくる。
「それ、楽しい?」
「ええ、楽しいわ」
畑で育てられているのは、花だ。
紫と青色で彩られた花々は、水滴を付着させて煌めいている。
パチュリーはアリスの返事に首を傾げた。
「水浴びで喜ぶ生き物を育むだなんて、正気の沙汰じゃないわね。単調作業みたいだし」
「水やりにもコツはあるのよ? 例えば、水は程ほどにしておかないと根が腐っちゃうし」
「知ってるわよそれくらい。私を誰だと思ってるの」
知識だけは豊富なパチュリーである。堂々と頷いて、鼻も鳴らしておいた。ふふん、と。
「ええ、子供でも知ってる基本的なことって幽香も言ってたわ」
パチュリーは口を引き結んでから、咳払い。
「――で、なに、誰。幽香?」
「友達よ。前に話したでしょう? 迷子になったら太陽の畑に集合って」
「……ああ、ひまわり畑のこと」
そういえば、そんなこと言っていた気がする。
そもそも迷子になるような機会すら、二度と与えられそうにないのだけど。
「太陽の畑はいい場所よ。雨期が過ぎたら散歩にでも行きましょうか」
「それまでには紅魔館に帰ってるわよ。いつまでも余裕ぶってられると思わないことね」
パチュリーのジト目は無視されて、アリスは隣に腰を下ろした。
パチュリーはそれとなく距離を取って座り直すが、すぐに詰められる。ため息をつくしかなかった。
しばらく、そのままお互いに言葉もなく過ごしていた。パチュリーも一度アリスの横顔を見て、花畑の周囲を飛び回る大きな蜂を目で追って、それから持ってきていた本を膝の上で広げる。
が、その視界が傾いた。ぐらり、と体も傾いている。
「花は好きよ」
アリスのつぶやきは、上だ。
「もちろん、一番好きなのはあんただけど」
「あのね、なんでいちいち……」
パチュリーはアリスの膝に頬を押しつけさせられていた。非難するように睨みつけるが、やっぱり無視される。
「花はね、脅さなくても縛らなくても、足を切らなくとも屈服させなくとも、一生涯、私の足下にひれ伏すしかないもの」
「あなたって暴走してるとき以外は比較的まともなのかと思ったけど、勘違いだったわ」
「理解してくれて嬉しいわ、マイペット」
細い指がパチュリーの帽子をどけて、髪に差し入れられる。指先が頭皮に触れて、そのまま紫の毛並みを梳いていった。
たまにそれが耳や耳の裏に触れるから、パチュリーはくすぐったくて身震いしてしまう。アリスが楽しそうに口元を緩めているのが癪だった。
「そうしたいから、そうするのよ、パチュリー。魔女は自分にわがままであるべきよ。私たちにはその資格があるわ」
「じゃあ私は帰りたいんだけど」
パチュリーは文句を込めて、アリスのお腹にぐりぐりと頭を押しつける。
アリスは少しだけ痛そうに眉根をよせる。しかし、笑みを絶やさぬまま頬を指で突いてきた。
「なら、追いかけるわ」
「紅魔館まで?」
「地の果てまで」
パチュリーは頬をひきつらせる。
「あなたね、待つってことを知らないの?」
「迎えに行った方が早いじゃない。戻ってくる保障もないし、手の中に置いておくに越したことはないわ」
パチュリーはムッとして、小さく呟く。
「信じてないのね。誰のことも、私のことも」
アリスは何も答えず、口を閉ざしていた。
パチュリーはそんな様子を興味深く眺めながら、口を開く。
と。
ブゥゥン――
耳障りな音がしたかと思うと、大きな蜂が目前に迫っていた。
「え、虫っ、ちょっ!」
パチュリーは、悲鳴を『二回』上げる。一回は蜂が迫ってきたことに対して。
もうひとつは、アリスが躊躇なくそれを握りつぶしたことに対してだ。
「自分のことは信じてるわ」
指の隙間から蜂の体液をこぼしながら、アリスは笑う。歯を剥いた嗜虐的な笑みだ。
久しぶりに酷薄さを再確認させられて、体が震えた。息を呑んだ――が。
パチュリーは深呼吸をしてから、言った。
「ありがとう」
アリスは、意外そうに目を見張る。
パチュリーは予想と違った反応を意外に思いながらも、言葉を重ねた。
「あなたはトチ狂った頭のおかしい魔女だけどね、アリス。助けて貰えたことくらい分かるし、お礼くらい言うわ」
身を起こしたパチュリーは、それでもなお少しだけ上にあるアリスの顔を見上げた。
「それに一から十まで悪意の塊ってわけでないのも、わかってきたし。それとも、他人の言葉は信じられないかしら」
「――……」
「……アリス?」
「……くっ、くく――」
笑っていた。
天を仰いで、自分の額に手をかざすようにして、声を押し殺して笑っていた。
パチュリーは口を尖らせる。純粋にムカついた。
「なによ」
「いえ、いえ。まさか、まさかね……あんた、自分の立場は、わかってんのよね」
それは脅しではなく確認の文句だ。アリスは手を伸ばして、パチュリーのチョーカーに触れる。
「あんたは私のペットなんだから、守ってあげるのは当然でしょ。ねぇ、パチュリー」
「いつまでもここで暮らすつもりは無いわ」
パチュリーは闇色の瞳で、ガラスの瞳を見つめ返した。それから、アリスの手に視線を落とす。
「――ここは、本が少なくて退屈なのよ」
そうこうしている内に、日は少しずつ傾いてくる。体も冷えてきたので、パチュリーはアリスに伴われて小屋の中へと戻ることにした。
うっかり「冷えてきた」と言ってしまったので、ぴったりと密着されて極めて鬱陶しかった。
森を照らしていた太陽は、再び雲へと隠れていく。
最後の日差しは、アリスの首もとで揺れる賢者の石を照らしていた。