眠い、と出木希は素直な感想を内心で呟いた。少し本に熱中してしまい、寝不足なのだ。
だが、今ここで寝るわけにはいかない。何せいるのは職員室である。ここで寝るような者はおそらく本物の阿呆だろう。
時間は昼休み。職員室内も賑やかであり、希はその中で自身のクラスの担任の前に立っていた。
「……やっぱり、答えは変わらないか?」
担任の問いかけ。そこには確認するような響きが込められていた。希は小さく頷きを返す。
担任の机の上にあるのは進路希望調査票だ。といっても時期的に進学であろうと就職であろうとほとんど決まっており、これは最後の確認に近い。そして通常、その性質上複数の希望が書かれていてしかるべきなのだが、希の場合は一つしかなかった。
――就職。
それも、内定が出ているも同然の状態である。むう、と担任が小さく唸る。
「前から聞いていたとはいえ、勿体ないな。お前なら国立大学にも平然と合格できるだろうに」
担任のその言葉に、流石に買い被り過ぎだという意思を込めて首を左右に振った。だが、本来の出木希という少女の能力を考えると割と冗談抜きで実現できかねないところが恐ろしい。
とはいえ、本人にその意志が微塵もないのが現状である。進学をする理由もなければ、意味さえないと希は考えていた。
「まあ、以前から聞いていたし、止めはしない。それに、今年は少ないが去年まではお前のように就職を選ぶ生徒も多かったからな」
その言葉に希は首を傾げる。ここは進学校だ。希のように就職を選択する者は稀であるのが当り前だと思うのだが。
「去年前に卒業したのは、大災害を在学中に経験した生徒ばかりだった」
「――――」
その言葉を聞き、思わず押し黙る。希も家族を失った第一次侵攻――あの爪痕は、決して癒えてはいないのだ。
「卒業を機に県外へ行く生徒もいたが……まあ、この多くは進学だ。進学しなかったのは、ここを出ていくことができなかった者だ」
どこか思い出すように言うその言葉に込められた想いは、何なのか。
希にはとても、想像できない。
「近しい誰かを失った者は多い。かくいう俺も、父を亡くしてな。……無茶苦茶だったよ。出ていくことも考えたが、できなかった」
その理由はきっと様々だろう。確かに当時の三門市は危険だった。しかし、出ていった先で生活しようというのは相応のリスクが付き纏う。
それこそゼロからの生活を強いられるのだ一種の賭けだっただろう。生きていくにはお金が必要である。進学を諦めた者にも、それは現実として突き付けられたはず。
「ボーダーができた時も、正直俺はあまり信用していなかった。どこまでいこうと民間の機関だ。何ができる、とすら思っていたよ」
ボーダー設立時の風当たりは強かったと聞いている。当り前といえば当たり前だ。現代兵器が一切通用しないトリオン兵という相手を、一民間企業が相手取るというのだから。
1000人以上の命が失われ、その十倍以上の犠牲者が出た悲劇。それを防ぐなど、とても信じられなかったと彼は語る。
「だが、今は信用してる。俺はいざとなったら嫁と子供を連れて逃げるくらいしかできないが、ボーダーはアレに立ち向かう集団で、今も俺たちを守ってくれている。……生徒に頼るというのも情けない話だが、ここで生きていく身としては頼るしかなくてな」
戦う術があり、抗う力を持つのが希のようなボーダー隊員だ。だが三門市に暮らす者の大半はそうではなく、それ故に彼らは信じ、頼るしかない。
この背と両肩に乗った、あまりにも重い〝責任〟というモノを――改めて、感じる。
「俺たちにできることがあるなら何でも言ってくれ。できることなら何でも――」
――――――――――!!
大気を切り裂くような警報が鳴ったのは、その時だった。
通常、門が開いた時――ほとんどが警戒区域だが――三門市では警報が流れる。しかしその警報は警戒区域を中心に鳴るのが基本で、音もそこまで大きくない。
だが今回のこれはいつもの警報とは明らかに違った。それが告げているのは――
(……遂に……)
ポケットの端末が鳴る。緊急の招集。それが意味するのは一つ。
――大侵攻。
遂に、この時が来たのだ。
『門発生、門発生! 大規模な門の発生が確認されました! 警戒区域付近の皆様は直ちに避難してください!』
ラジオ放送を始めとして、あらゆる放送に割り込む形で避難勧告がなされる。見ろ、と教師の一人が窓の外を指差した。
「基地の方が真っ暗だ……!」
暗雲に包まれたように、ボーダー基地のある方角の空が黒く染まっていた。これは、と希と話していた担任が呻く。
「どういうことだ……!?」
通常、門が開いても一つか二つである。そこから出てくるトリオン兵の数も限られており、そうそう市街地まで被害が及ぶことはない。
だが、今回は。それこそかつてのような規模となる可能性がある。
騒然とし、パニックになりかける職員室。しかしそこに、決して大きくない少女の声が響き渡った。
「――トリガー、オン」
ポケットからトリガーを取り出し、告げると共に希の体がトリオン体に換装された。鈴鳴第一の隊服でありながら、エンブレムを持たぬ隊服。全員の視線が希を捉えた。
「…………急ぎ、避難を……」
呟くように言うと、僅かにパニックが収まった。戦える人間の存在が、彼らの理性を取り戻す。
そして、そのまま職員室を足早に出ようとする希。その背に、担任が言葉を紡いだ。
「出木。……無理はしないようにな」
了解、と小さく告げて。
出木希は、走り出す。
思考はすでに切り替わっている。少女の施行を占めるのは、たった一つの意志。
もう二度と、あの日を繰り返さないために。
少女は、走り出す。
◇ ◇ ◇
先日のイルガーの件がそうだったように、トリオン兵が市街地に辿り着くことはほとんどない。だがそれは規模が小さかったからであり、今回のような大規模な侵攻となるといつも通りの対応では対処できないのが現実だ。
事前の会議では、最悪――というより通常の想定において市街地への侵入はあり得ることとされていた。そしてこの規模。これがあくまで第一波であることを考えても、相応の被害は覚悟しなければならないだろう。
「非番の隊員も全員招集をかけろ! 全戦力で迎撃に当たる!」
ボーダー本部司令室。そこには今回の作戦指揮にあたる忍田を中心に幹部、OPが集結していた。大画面には続々とトリオン兵の姿が映し出されており、その数は依然増え続けている。
「トリオン兵はいくつかの集団に分かれ、それぞれの方角へ進軍を開始しています。本部基地から見て西、北西、東、北東、南、南西の6方向です」
本部長補佐、沢村響子が冷静に状況を告げる。敵兵の分散は、正直厄介だ。こちらの戦力も分散するし、戦力が分散すればそれだけ掃討にも時間がかかる。
「現場の部隊を4つに分け、東、北東、南、南西の敵にそれぞれ当たらせろ!」
「了解!」
「ちょ、ちょっと待ってください本部長」
忍田の指揮に対し、片手を上げて言葉を紡ぐのは根付だ。彼の額には汗が浮かんでいるが、最前線に立つ身ではないことを考えれば焦るのは当然だろう。
「西と北西はどうなるのです?」
「問題ない。――すでに、迅と天羽が向かっている」
おお、という声が上がった。共に個人で強力な戦闘力を発揮する二人だ。扱いにくい部分はあるが、こういう時には頼りになる。
「防衛装置を起動し、足止めをする。鬼怒田室長」
「わかっておる。だが、頼り過ぎると基地内のトリオンが枯渇するぞ」
鬼怒田たちの開発した迎撃装置がトリオン兵たちを捉え始めた。そしてその間に、防衛隊員たちも到着する。
「問題ない。少しでも間が作れれば、それで間に合う」
それを合図とするように、いくつもの報告が上がる。その内容は、至極当然のものだ。
『東隊、現着』
『柿崎隊、現着』
『諏訪隊、現着』
『香取隊、現着』
『嵐山隊、現着』
『鈴鳴第一、現着』
続々と入る報告。だが相手の数が多い。油断は一切許されない。
「……トリオン兵の第二波きます!」
状況は更に変化する。
追加されるトリオン兵たち。その数は膨大だ。現在の戦力のままでは、遠からず押し込まれる。
だが、こちらも続々と隊員たちが集結している状態だ。戦力において不足はない。
(……市街地への被害も覚悟は必要だな)
元より無傷で終わるとは考えていなかった。しかし、想定以上の被害が出るかもしれない。
己の出陣さえあり得る――忍田は、内心で呟いた。
◇ ◇ ◇
屋根の上を駆け抜ける希。彼女が走る方向は避難する市民たちとは逆であり、避難する者たちからは相応の視線が向けられる。
それは自分たちを守ってくれる者へ向ける期待の目だ。だが生憎というべきか、ひた走る少女にはそれを気にする余裕がない。
『現場に到着したわ。隊長たちは基地から見て東の方角よ。出木さんも合流をお願いできる?』
「…………了解……」
現在希が目指しているのは、鈴鳴第一との合流だ。正式な部隊員ではないし所属は本部であるが、一応有事の際は基本的に鈴鳴第一の隊員として戦うようにという通達が出ている。
眼下を見ると、市民たちの避難は順調とは言い難い状態だった。恐怖と恐慌により、トラブルも発生している。理由はいくつかあるが、第一にトリオン兵が遠目とはいえ見える状況というのがあるだろう。抗う術を持つ隊員ですら尻込みすることのある相手である。力を持たぬ市民にとっては恐怖の対象でしかない。
そして希には理解できない感覚であるが、多くの市民が4年前のことを『忘れていた』ことにも理由がある。あの日の悲劇から僅か4年と希は思うが、4年という歳月は存外長い。そしてその間、大きな侵攻がなかったことが市民の意識を緩めてしまっていた。
最善の選択をとるというのは難しい。理屈では冷静になるべきとわかっていても、実際にそれができるかどうかは話が別だ。だから混乱し、避難が遅れ、そしてそれがさらなる混乱を招く――わかり易い悪循環だ。
そしてそれを希は理解していた。だから、走る。
要は自分たちが――ボーダーが食い止めればいい話だ。目的も手段もわかりきっている。ならば後は、実行するのみ。
『前方! 警戒!』
警告と共に、希は二つの盾を構えた。それとほぼ同時に、衝撃が両腕を揺らす。
受け流すようにして砲撃を防いだため、近くの建物に着弾した。悲鳴が上がるが、希にそれを気にする余裕はない。
(……バンダー……)
砲撃用のトリオン兵だ。その射撃の威力は高いが、近接戦闘における対応力は低い。
接近して倒すのが最善だ。希は迷いもなく、全力で駆け抜ける。
「――――」
二射目が来た。しかし今度はたて一つで受け流すようにして防ぐ。建物が吹き飛び、しかし、その時にはすでに更に前へと進んでいる。
そこから更に一発。今度は射線を読み、避け切った。同時、強くレイガストを握り込む。
「スラスター、オン」
振り抜かれた腕より放たれたそれが、正確にバンダーのコアを貫いた。おお、と声が上がるが、しかし、希にそれに応える余裕はない。
――女の子。
そこには、モールモッドを前に怯えた表情を浮かべる小さな子供がいた。
自身が立っていた屋根を蹴り飛ばし、レイガストを振り上げる。そして加速した斬撃をモールモッドへと叩き込んだ。
倒せたわけではない。だが、ダメージは通った。その体がこちらを向くのに合わせ、コアを貫く。しかし同時に、背後から別のモールモッドが迫りくる。
『背後!』
その動きは最早反射運動だ。何千、何万と繰り返し、積み上げてきた戦いの記憶。その全てが最適な動きを実現させる。
ブレードを切り飛ばし、懐へと入り込む。距離は0。同時、全力で踏み込んだ。
加速された拳がコアを打ち抜き、モールモッドの体を吹き飛ばす。その体はこちらへと迫ってきていたバムスターを巻き込み、吹き飛ばしながら沈黙する。
「………………」
チラリと、背後を見た。呆然とこちらを見つめる小さな瞳。足から血が流れているが、おそらく転んだ時の怪我だろう。
希が何かを言う前に、走り寄ってきた女性が少女を抱え上げた。おそらく母親だろう。こちらに頭を下げ、走っていく。
救えた、と思った。助けることができたと。
希がいるのは最前線だ。ここから先に、守られるべき市民はいない。いるのは全てトリオン兵であり、敵だけだ。
「ボーダーだ! ボーダーが来てくれたぞ!」
まるで救いの主が現れたかのように喜ぶ市民の声。たった一人の防衛隊員だ。さぞ頼りないだろうと思う。
――しかし、四年前はそれさえなかったのだ。
ただただ脅威から逃げ惑い。何もかもから背を向けて。
誰もが、そうするしかなかった。
「…………本部所属――いえ……」
だが、今は違う。
守られて、逃げて、守られて……見殺しにして。
泣くことさえできなかったあの時とは、違うのだ。
「…………鈴鳴第一所属――出木、希……」
眼前には、十を超える敵の数。
背後には、無数の守るべき命。
「――戦闘を、開始します」
あの日とは、違う。
今の私は――戦える。
新たなモールモッドがこちらへと突っ込んできた。振り抜かれるいくつものブレード。しかし、それを難なく捌いていく。
至近に寄るのは難しくない。距離が消えれば、そこは希の領域だ。
突き刺すような一撃により、コアを貫く。今度は吹き飛ばすような真似はしない。崩れるようにモールモッドは倒れ伏す。
「エスクード」
そして、少女は自身と背後を隔てるように壁を展開させた。鈴鳴第一への所属を機に新たに投入した、守るための力だ。
これは避難する市民たちを守るためのものであると共に、一つの意志表示でもある。
もう誰も、死なせない。
あの日の悲劇は、繰り返さない。
少女の願いは、いつだってそれだけだったから。
少女は、駆ける。
かつては、逃げるだけだった相手に。
立ち向かうことすら、許されなかった相手に。
(……お父さん、お母さん、優)
敵は多数。こちらは一人。だがそれは、少女にとってはいつものこと。
誰かと共にありたいと願いながらも。
ずっと、そうすることはできなかったから。
(今度こそ、私は)
ふと、思う。
それが、意味のない仮定であり想像であったとしても。
どうしても……考えてしまう。
あの日、この力があったなら。
――失うことは、なかったのだろうかと。
◇ ◇ ◇
今結花からの連絡に、来馬辰也は唇を噛み締めた。出木希――新たに隊員となった少女が、別の場所で一人で戦っているというのだ。
彼女の実力は知っている。容易く落とされないことも理解していた。だがそれよりも気になるのは彼女の精神性だ。
予測では第一次侵攻を上回るとされる今回の大規模侵攻。この状況において、彼女が最後まで冷静でいられるかがわからない。
「出木さんはこちらに来れないのかい?」
『その場合、ラインを突破されます。討ち漏らしたトリオン兵が出木さんのところに向かっているみたいで……』
厄介だ、と思った。鈴鳴第一は現在、他の部隊との合流を目指しながらトリオン兵の掃討を行っている。その過程で出木と合流するつもりだったのだが、悪い形で彼女の動きが止まってしまった。
何せ数が多いため、どこであれ討ち漏らしは出てくる。来馬自身、何体かは討ち漏らしていた。
それに出木が対処しているというのは良い。むしろフォローとしては完璧だ。だが問題なのは彼女は一人であり、そして彼女がいる場所は現状避難が最も進んでいないエリアである南であるため、退くことができないという点だ。
おそらく彼女は退かないし、己の身を犠牲にしてでもトリオン兵を掃討しようとするだろう。出木希とはそういう少女だ。復讐者であり、それ以外を捨て去るような在り方をする。きっと今も、身を削るようにして戦っているはずだ。
「援護に向かいたいけど……!」
「あまり余裕はないですね」
村上の頷きが返ってくる。彼女が加わってくれた方がありがたいし、何より一人にはしておけない。だが、自分たちがここを動くのも難しい。
何せ敵が多過ぎる。時間はかかってしまうのは明白だった。
『現状、出木さんは持久戦の構えです。しかし、あまり余裕は』
出木自身から通信が来ないのもそれが理由だろう。状況を把握できる今が連絡をしているが、短い返答しか来ないらしい。それだけ余裕がないに違いない。
当り前といえば当たり前だ。十を超えるトリオン兵を余裕で捌ける者など、一部のトップランカーくらいなのだから。しかも彼女の下には更にトリオン兵が増えているはずだ。悠長に通信をしている暇もないだろう。
『じゃあ、急いでこいつら倒さないとだめですね!』
快活な声が届く。太一だ。そうだね、と銃を構え直しながら来馬は頷く。
「とりあえず、トリオン兵の掃討を続けながら南へ向かおう。できれば他の隊とも合流して、援護に向かうよ」
「「「了解」」」
それまで何とか耐えてくれ――そう、出木に伝えようとした時。
――何かが割れるような鈍い音が、響き渡った。
倒したトリオン兵の腹から、そいつが現れる。
「……こいつは……?」
見たことのないトリオン兵の姿に、自然と警戒が強くなる。同時、複数の部隊から同じような報告が上がった。
曰く――新型のトリオン兵の出現を確認した、と。
状況は、次のステージへ。
トリガー構成
出木希
所属:鈴鳴第一及び本部技術者研修生
【メイントリガー】
レイガスト
スラスター
シールド
メテオラ
【サブトリガー】
レイガスト
スラスター
シールド
エスクード
検討を重ねた結果、当初はバッグワームを加える予定だったところをエスクードに変更。そもそも囮の役割を担うことが多い上に先頭においては両手でトリガーを使用するそのスタイルにおいて、バッグワームはあまり相性が良くなかった。
エクスードは出してしまえばその場における障害物となるので、実は来馬と別役との相性は抜群。要するに更に落ち難くなった。この前情報の時点で面倒臭すぎるという意見がいくつも上がっているとか。