最近確認されていたイレギュラーゲートの問題は、予想外のところから見つかった。
――新型ネイバー、『ラッド』。
攻撃能力を持たず、周囲の人間からトリオンを集めることでゲートを開くという特殊なトリオン兵らしい。ゲートが正隊員の近くで開くことが多かったのは決して偶然ではなく、正隊員の方がトリオンを多く持っていたからのようだ。
と、そんな理屈を一通り説明されたボーダー隊員は一斉に動き出した。S級隊員迅悠一曰く「害虫駆除」とのことだが、成程確かにその通りである。
全隊員を導入し、昼夜を徹して行なわれた駆除作業。数の暴力は偉大だと、そんな風に改めて思った。
『よーし、作戦完了だ』
ラッドが何十と詰め込まれた袋を出木希が担いで移動していると、そんな通信が届く。わっ、と周囲から歓声が挙がった。
『みんなよくやってくれた。おつかれさん!』
その言葉にそれぞれが思い思いの感想を漏らし始める。希も袋を下ろすと、静かに息を吐く。
(……間に合った……)
今回の作業がこれほど大々的に行われたのには理由がある。単純に時間が無かったのだ。強制的にゲートを閉じていたのだが、それも残り一日と少ししかないという状況であり、急ぐ必要があった。
とはいえ、数の力は偉大である。終わってみれば問題も起こらず、無事に終了した。
自分の持ち分を終わらせて帰ろう――そう内心で呟き、袋を所定の場所へ下ろした時、あら、と聞き覚えのある声が響いた。
「出木ちゃんじゃない。久し振りね」
そこにいたのは、大阪の祖父母の下に身を寄せていた希をスカウトした人物――A級6位部隊、加古望だった。見知った人物に、希も頭を下げる。
「…………お久し、振りです……」
「変わりないようでなによりね。……いや、あなたにとってはその方が良くないのかしら?」
苦笑しつつ、加古が歩み寄ってくる。スカウトしたということと、下の名前の読み方が同じであるということからか加古は希に事ある毎に声をかける。希としてもそのセレブオーラに気圧されこそするがちゃんと話せる数少ない相手だ。
「おい、あの人ってA級の加古さんじゃ……?」
「一緒にいるのって例のソロ隊員の……?」
ちなみに周囲からはソロのB級隊員でありながら加古が声をかける事態のせいで注目が集まっている。とはいえ加古はそんなことを気にしないし、希はそもそも自分が注目されていると思っていない。
「…………戻って、おられたんですね……」
「丁度昨日ね。帰ってきたらこの騒ぎだもの。驚いたわ」
肩を竦める加古。彼女たち加古隊は他府県へとスカウトに出ていたのだ。一年前にそうして見出された希にしてみれば、懐かしい記憶である。
あの時のことは、ずっと忘れないまま。いつでも思い出せる。
彼女もまた、光を示してくれた人だから。
「折角だし色々話したいけど、流石に疲れたわね……。あ、そうだ。よかったら明日うちの隊室に来ない? 炒飯作ってあげるわよ」
炒飯、という言葉に近くで加古に声をかけようとしていた堤が肩を震わせ、180度Uターンして逃げるように立ち去って行った。その顔が真っ青だったことには触れてはいけない。
太刀川慶を一度殺し、堤大地を二度殺害する炒飯。しかし、希の表情は変わらない。いつもの無表情だ。
「…………よろしいの、ですか……?」
「もちろんよ。黒江もいるしね。それじゃ、待ってるわ」
ひらひらと手を振り、立ち去っていく加古。その動きにいちいち気品があるせいで人の視線が自然と集まっていく。
凄い人だ、と改めて希は思った。きっとああいう人が人を惹き付け、隊長と呼ばれるのだろうと。
そんな風に、思った。
◇ ◇ ◇
学校から帰ると、ボーダー基地に直行した。今日荒船と学校ですれ違ったが、初めて軽く挨拶された。いい人だと思う。思わず頭を下げることしかできなかったが。
ちなみに二宮隊の犬飼澄晴とも同じ学年なのだが、彼は何度か話しかけてくれている。まともに言葉を返せないでいる自分にも話しかけてくれるので、彼も間違いなくいい人だ。
ちなみに学校では友人もおらず、常に一人でいるのに犬飼というイケメンや後輩であり生徒会副会長でもある完璧美人こと綾辻遥が話しかけるため、ただでさえ無表情で何を考えているか読めず、声を発することさえ稀な希は他人がより近付き辛くなっていることに本人は気付いていない。悲劇といより喜劇である。
「…………失礼、します……」
加古隊の作戦室をノックすると、扉が開いた。挨拶と共に中へ入る。そこにいたのは二人の人物だ。
一人は加古隊の隊長であり、今回希を招待した加古希。もう一人は最年少A級隊員にして、希の入隊時記録の二倍以上を叩き出した天才忍者ガール黒江双葉である。孤月を背負うという忍者スタイルをとる彼女を希は密かに格好いいと思っていたりする。
「いらっしゃーい。ちょっと待ってね、今準備してるから」
満面の笑みで出迎えてくれた加古はエプロンを着けていた。ありがたいことに炒飯を作ってくれるというのは本当のことだったらしい。料理スキルが全くない上に他人の料理を食べる機会がほとんどない希にとって、彼女の炒飯はとてもありがたいのだ。
ここに堤大地がいれば逃げ出していただろうが、彼はいない。故に問題なしである。
「お久し振りです、出木さん」
キッチンに消えた加古に代わり、黒江が顔を出した。何気に女性としては高身長な加古と同じくらいの背である希にしてみれば見下ろす形になるのだが、希は礼儀正しく頭を下げる。
「…………お久し振り、です……黒江さん……」
希は黒江双葉という少女に敬意を持っている。彼女の戦闘能力は高く、その才能の凄まじさは加古が勧誘したことからも折り紙付きだ。実際、緑川と並んで個人戦ならば希と黒江の戦績は五分ぐらいである。
「どうぞ、座ってください」
そしてどうしてか、この少女は自分に敬意を持って話しかけてくれる。木虎にはやたらと当たりが強いのだが。
ソファーに座り、黒江も対面に座る。ちなみに同時刻、全く別の場所で三輪秀次が「動くな、ボーダーだ」と言って空閑遊真というネイバーと接触しているのだが、希はそんなこと知らないし知る術もない。
「…………スカウトは、どうでしたか……?」
「正直、駄目でした。何人かは誘いをかけましたが、おそらく来てくれないでしょう」
黒江が左右に首を振る。スカウトは主に本人のトリオン能力を測ることで行われる。加古や黒江を始め、加古隊は美女と美少女で構成されるため男を中心に受けにくる者が多いがその成果は芳しいと言えないようだ。まあ確かに、そうそう能力の高い者もいないだろう。
それに、トリオン能力が高いと即戦力になると言えばそうではない。それこそ二宮隊隊長、二宮匡貴のように相手を圧殺できるほどのトリオン量があれば別だがそれも当てる技術があるという前提の上で成り立つモノだ。技術を習得する力と精神力が無ければ、大成することは難しい。
「出木さんのような人がいてくれればいいのですが……」
その黒江の言葉に首を振る。平均より多いというだけで、希のトリオン量は絶対的に多いわけではない。むしろ希の場合、スカウトはそのサイドエフェクトが原因だ。〝瞬間完全記憶能力〟――その力は、呪いの如く強力であるが故に。
「あの、後でランク戦をして頂いてもいいですか?」
「…………喜んで……」
黒江の提案に、希は頷く。ありがとうございます、と少女は笑った。
ちなみに同じ頃、三輪秀次が「ふざけるな、遊びじゃない。こいつは二人がかりで確実に始末する」と米屋陽介に対しすこぶるシリアスモードに入っているが、彼女たちは知らない。
それからは、黒江が最近のことを話しているのを黙って聞いていた。彼女は緑川と幼馴染らしく、彼のことについても聞かれた。とはいえ、ランク戦をしたことぐらいしか話せることがないのだが。
「それにしても、まだ隊には入らないんですね」
思い切り心臓を貫かれたかのような衝撃が来た。表情が変わらぬまま、体が固まる。
「おかしいですね……。出木さんなら、どの隊でも欲しいと思うんですが」
完全にこちらが固まっていることに気付かず、考え込むように言う黒江。全くね、とキッチンから出てきた加古が頷きながら微笑んだ。
「正直、イニシャルがKなら今すぐ欲しいくらいだもの」
「…………ありがとう、ございます……」
頭を下げる。これは何度も言われていることだ。一度主義を曲げようかと加古が本気で悩んだことがあったのだが、それは希が断った。自分の為に彼女の主義を曲げさせたくはない。
加古隊への所属はかなり魅力的――それこそ喉から手が出るほどに、という表現がピッタリであるくらいだったが、加古には非常にお世話になってきた。これ以上迷惑をかけたくなかったというのがある。
加古望という人物は、出木希の闇に光をくれた人だから。
「できたんですか?」
「ええ。はい、熱いから気をつけてね。――『納豆がけ炒飯カスタード風』よ」
チャーハンに納豆が混ざり、更にカスタードクリームがかけられた凄まじいモノが出てきた。ここに諏訪辺りがいれば立ち上がって抗議しただろうが、生憎この場にはいない。
「…………いただきます……」
そして一切の躊躇もなくそれを口にする希。表情は変わらない。ゆっくりと、味わうようにして食べている。
その光景を前にして驚愕に目を見開く黒江の隣に座った加古は、満面の笑みを浮かべていた。
「美味しい?」
「…………はい……」
大体加古のこの笑顔のせいで犠牲者は文句一つ言わず炒飯を食い切るのだが――噂ではあの二宮匡貴も犠牲者の一人――希の場合は関係ない。要は感性がおかしいのである。
「出木ちゃんはゆっくり食べてくれるから好きよ。皆はどうしてか、急いで食べようとするから」
「…………美味しいから、ではないでしょうか……?」
黒江が更に驚愕の表情を浮かべるが、二人は気付かない。ちなみに現在席を外している加古隊の他の隊員二名は似たような光景を見て「こいつら正気か」と呟いたと言われている。
ゆっくりと、無表情ながらも止まることなく食事を進めて行く。そうして希は食べ終わると、ハンカチで口元を拭き、深々と頭を下げた。
「…………ご馳走様、です……」
「ふふ、お粗末さま。ねえ、出木ちゃん。いつでも来てくれてもいいのよ? 炒飯ならいつだってご馳走するから」
「…………流石に、そこまでご迷惑をかけるわけには……」
希が首を振る。迷惑じゃないのにー、と加古が言う隣で黒江も頷いていた。実際、希が食えば犠牲者は減るので間違ってはいない。色んな意味で。
「でも、うちに入隊する云々は置いておいて……どうしてスカウトが無いのかしらね。ランク戦シーズンも今月で終わりだし、私たちがスカウトで抜けてる間にどこかが補強でスカウトしてると思ってたんだけど」
「むしろ、来月の休みの期間にあるんじゃないですか? 急に入っても連携が取れなくなる可能性がありますし」
「んー、そうなのかしら」
首を傾げる加古。正直、希も次の月にスカウトが無ければ絶望的だと思っている部分がある。今はランク戦のシーズンだ。いきなり連携訓練も不十分な隊員を入れても弱体化する可能性があるし、ランク戦が落ち着く一月に隊員の移動があるのも通例だ。
だから、出木希は努力を続ける。何が足りないのか――何もかもだ。だから、少しでも見てもらえればと彼女は思うのだ。
それが、どれほど細い糸であろうと。
縋ることしか、できないから。
「そういえば、出木さんのスカウトの時ってどんな風だったんですか?」
ふと、思い出したように黒江が聞いた。この二人は希がほとんど喋らないことをよく知っているし、そして喋らないことを不愉快に思わない。だから非常に居心地がいい。
加古はそんな黒江の言葉に困った表情を浮かべた。彼女がこちらを見るのに対し、頷きを返す。
「…………大丈夫、です……」
プライベートなことでもあるが、隠していることでもない。上層部は知っているし、知られて困ることはない。少なくとも、今の自分は。
ちなみに隠していないのにほとんど喋らない、というこのよくわからないスタンスのせいで彼女へのイメージが出来上がっていたりするのだが、やはり本人は気付いていない。
「そう……そうね、一年くらい前かしら。懐かしいわね」
どこか遠くを見るように、彼女は語る。そして同時に、希の脳裏にそれが浮かぶ。
決して薄れることも風化することもない、その記憶が。
…………。
……………………。
………………………………。
第一次ネイバー侵攻――そこで家族を失った出木希は、逃げるように父方の祖父母のいる大阪に身を寄せていた。全てを失い、壊された少女の日常はしかし――地獄であったと言える。
まともに眠れた日など、一日も無かった。
少しでも眠りに落ちれば、忘れることを許さぬ記憶があの日の地獄を繰り返す。決して変わらないのに、忘れられないのに、その日を繰り返す。
涙を流して目を覚まし、頭を抱える毎日だった。
生き残った自分。
生かされた自分。
世界の全てが己に悪意を向けていると思っていた少女にとって、それは永遠の地獄だった。
〝あの子でしょ? 例の大災害の被害者〟
目の隈を隠すために、外界の全てを拒否するために伸ばした前髪。
三門市から来たことは知られていた。誰にも話さずにいたのに、いつの間にか知られていた。
何もかもが、己にとっての敵だった。
〝あなた、凄いトリオン量ね!〟
そんな時に、出会ったのだ。
誰も目を合わせようとしなかった――祖父母以外に、決して向き合おうとしなかったこの目を、真っ直ぐに見つめてくれた人と。
〝そう、なの……。ごめんなさい、軽はずみなことを聞いて〟
彼女は、年下である自分に頭を下げた。その上で、言ったのだ。
〝復讐を否定する人もいるけど、私はそう思わない。前を向けるなら、それでもいいって私は思う。……もしも、少しでも興味があるなら連絡を頂戴〟
興味を持った。まともに喋ることもできなかった自分の目を見つめて、嫌な顔一つせずに――真摯に、真っ直ぐに、向き合ってくれた人に。
変われるか、と彼女に問うた。
こんな自分でも、何かができるのだろうかと。
〝変われる。絶対に。私たちはもう、あの悲劇を繰り返すつもりはない〟
加古望という人は、力強くそう言った。その姿が、あまりに眩しくて。
こんな風に前を向けたらと、そう、思ったのだ。
己の話をした。初めてだった。自分自身のことを他人に話すのは。
決して上手くないその話を、彼女は真摯に聞いてくれた。そして、言ってくれたのだ。
〝大丈夫よ。未来はある。私の知り合いにね、『未来が視える』って胡散臭いことを言う人がいるんだけど……よく言うのよ。『未来はいくつものレールに別れていて、その行動で良い未来を選択できる』って。それが本当かどうかはわからないわ〟
だけど、と彼女は言った。
〝それだけ苦しんだんだもの。未来はきっと明るい。少なくとも、私は――ボーダーは、あなたの味方よ〟
祖父母には反対されたが、必死に頼み込んだ。そうして、彼女に改めて会いに行った時。
頭を下げようとした。よろしくお願いしますと、そう告げようとして。
〝私とあなたは、これからは仲間。よろしくね〟
差し出されたその手を、両手で握り締めて。
そうして、歩き出すことができた。
その日、久し振りに。
ちゃんと、眠ることができたのだ。
…………。
……………………。
………………………………。
加古が話し終えるのを、希は静かに聞いていた。黒江もだ。希が何も言わなかったのは、自身が話せば無駄な時間がかかると思ってのことである。
あの日、光をくれた加古望という人物のことを希は心の底から尊敬している。彼女の部隊に入りたいと思ったことは幾度となくあるが、これ以上迷惑をかけることはできない。主義を曲げさせてまで己をねじ込みたくないのだ。恩人だから。
「…………」
話を聞き終えた黒江の瞳から、涙が零れた。思わず固まる希に対し、加古がハンカチで黒江の目元を拭う。
「……すみません。出木さんに、そんな辛い過去が……」
涙を拭いながら言う黒江に、希は首を振る。己にとっては重い過去だ。しかし、これは決して特別ではない。
「…………私だけでは、ありませんから……」
「そうね。三輪くんも四年前にお姉さんを亡くしてるし、風間さんもお兄さんを亡くしてる」
身内を失っているのは自分だけではない。どれほど辛い過去であろうと、深い傷であろうと、己だけではない。その重さは本人にしかわからないが、だからと言ってその重さを自慢する気もない。
「じゃあ、出木さんはネイバーへの復讐のために……?」
「…………ない、と言えば嘘になりますが……、違います……」
首を左右に振る。復讐の心が無いわけではない。家族を奪ったネイバーは憎いし、あの日のことを忘れることもない。
ただ、それよりも。
出木希は、前に進むためにボーダーへと入隊したのだ。
「…………恐怖が、消えませんでした……。だから、私は……」
入隊する前に、加古の好意で事前に訓練を受けたのだがまともに立ち向かえるようになるのに二週間かかった。目にするだけで恐怖が蘇り、あの地獄がフラッシュバックする。そんな毎日だったのだ。
どうにか戦えるようになり、入隊式を迎えた。そこで木虎に出会い、嵐山に出会い、多くの人に出会っていったのだ。
「でも、前には進んでるわ」
「…………そう、でしょうか……?」
「もちろん。私が保証するわ」
自信満々に言う加古。そう言ってもらえると、嬉しく思う自分がいる。
「あの」
そんな自分に、黒江が立ち上がって頭を下げてきた。
「改めて……私と、ランク戦をして頂けませんか?」
「…………喜んで……」
その言葉に。希は、頷きを返す。
加古が、その姿をどこか嬉しそうに見つめていた。
◇ ◇ ◇
黒江双葉とのランク戦は、いつも以上に熾烈であった。そもそもその機動力は緑川に比肩し、直線のスピードでは彼をも上回るのだ。容易く捌ける相手ではない。
その上、希薄もいつも以上であったように思う。感情を前面に押し出すタイプではないが、それでもいつも以上に気合が乗っていたように思う。
結果は5-5。本当にギリギリの戦いである。
現在は途中でこちらを見つけた緑川と黒江が戦っている。いつもなら米屋がいる所だが、姿が無い。何故だろうかと一瞬思ったが、そういう時もあるだろうと希は結論付けた。
飲み物を買い、ぼんやりと二人のランク戦を眺める。流石というべきか、二人共に速さを生かすスタイルであるためその戦闘が非常に映える。更に共に幼馴染であるせいか容赦もなく、いつの間にか増えた観客も歓声を上げている状態だ。
その歓声に背を向け、休憩スペースに足を向ける。しばらく歩いた先にあるのは、人が滅多に来ない休憩所だ。やはりというべきか、誰もいない。とはいえ、ここに来るのは三輪か、もしくは人のいない場所で息を吐きたいという変わり者くらいだが。
「………………」
カフェオレを買い、静かに口にする。黒江双葉――やはりというべきか、A級部隊で活躍する攻撃手というのは凄まじい実力を有している。まともにやり合えるくらいでないと、おそらく部隊の役には立てないのだろう。
いきなり、階段飛ばしに強くなることはあり得ない。少しずつ、確実にやっていくしかない。
「お、いたいた」
不意に声をかけられた。自分にわざわざ声をかけてくる者は少ない。それもこの場所となれば、候補者は二人しかいない。
三輪は快活に声をかけてくるという事をしないし、そうなると嵐山か――
「…………お疲れ様、です……」
「いやー、丁度よかった。いなかったらどうしようかと思ったよ」
――迅悠一。未来を視る、S級隊員。
迅はいつものようにぼんち揚げの袋を片手に持っていた。時々だが、彼はこの場所に気まぐれに現れる。そうして二言、三言何かを言っては立ち去って行くのだ。
だが、今回は違った。彼の側に見覚えのある人物がいる。
「…………三雲、さん……」
眼鏡をかけた真面目そうな少年――三雲修だ。彼ははこちらが名を呼ぶと、えっ、と驚いた表情を浮かべる。
「えっ、どうして僕の名前を……?」
「おいおいメガネくん、自分を庇ってくれた人にそれは失礼だろ」
覚えられていなかったことに軽くショックを受けていると、迅が笑ってそう言葉を紡いだ。えっ、と再び三雲が驚愕する。
「も、もしかして出木先輩ですか……?」
「そうそう、希ちゃん」
そんなに印象に残らないのだろうか。まあ、確かに地味だが――と希は思うが、現在の彼女はトリオン体でなく生身である。ロングスカートにセーターを着、その上から厚手の上着を羽織る姿は髪型もトリオン体と違うこともあって普通は気付かない。
ちなみに基地内ではほとんどトリオン体で過ごしていた希だが、先日嵐山に「生身で過ごした方がいいと思うぞ」と何となしに言われ、そうしている。とはいえブースにいる時やランク戦室にいる時はトリオン体であるため、現在一部で謎の髪の長い女性が現れているというちょっとした噂が流れていたりするが。
「あ、あの、ありがとうございました! 僕を庇って頂いて……!」
慌てるように頭を下げる三雲に、希は首を左右に振った。自分の発言など大した影響力はない。精々、頭数が増えたくらいだろう。彼がクビにならずに済んだというなら、それはおそらく嵐山や木虎の言葉があったからだろうと思う。
「メガネくんは凄いぞ。昨日のラッド、アレ見つけたのもメガネくんだ」
「えっ、迅さん――」
その言葉に、希ははっきりと驚愕を得た。開発室でも一切原因が掴めずにいたイレギュラーゲートの原因を、たった一人で突き止めたというのか。
「…………凄い、ですね……」
訓練用トリガーでモールモッドを二体、それもあれほど鮮やかに始末したことといい、とんでもなく有望な人物である。
「いやあの、それは……」
しかも威張らず謙虚に、自分などに頭を下げるほどの器の大きさである。こんな新人がいるなら、成程自分が至らないのも当たり前だと軽く落ち込む。
表面上は相変わらずの無表情なので、そんな雰囲気は微塵もないが。
「そうそう、凄いんだこのメガネくんは。それで希ちゃん、この後って時間ある?」
「…………予定は、特に……」
今日は防衛任務もないので、予定は全くない。というか防衛任務が無ければ基本的に用事はない。友達もいないため。
「ならさ、ちょっと玉狛まで来ない?」
遊びに誘うような気楽さで、迅悠一はそう言った。
「希ちゃんがきてくれた方が、色々良くなりそうなんだよね。どうかな?」
その誘いに。
こくりと、出木希は頷いた。
◇ ◇ ◇
途中で、空閑遊真という木虎に食ってかかった少年と雨取千佳かという少女の二人と合流した。共にボーダーの隊員ではない。今は新入隊員が入隊するシーズンではないし、そもそもボーダーに所属している人間で――あるいは出入りしている人間で、出木希が覚えていない人間は一人もいない。
それこそ清掃員の顔さえも一人一人覚えている。名前も聞けば忘れないし、すぐに一致する。そんな自分が知らないのだから関係者ではないはずだ。
どういう関係なのだろうか、と一歩下がった位置で四人の後を付いて行っていたのだが、その途中で少年の思いがけない言葉に体が反応した。
「それで結局、どうなったの?」
「一応は手打ちだな、表面上は。向こうはそんな気ないだろうけど」
「ふーん。俺が近界民なのがそんなに気に入らないのか?」
体が動いたのは一瞬だった。ほぼ反射の行動。ポケットからトリガーを取り出し、少年に向けるように構える。
少女が驚いて後ずさり、三雲が驚愕の表情を浮かべた。少年は特に驚いた様子もない。首を傾げるだけだ。
(……ネイバー……と、今……)
冗談かもしれない。だが、冗談で口にすべき言葉ではない。そして冗談でなければ、何もしないわけにはいかない。
ネイバーへの恐怖を打ち払うため、文字通り血反吐を吐きながらトラウマに立ち向かい続けてきたのが出木希という少女である。復讐心でも義務感でも義侠心でもなく、純粋な恐怖で体が動いた。
トリガーを起動しないのはギリギリの理性が働いたためだ。迅悠一がおり、三雲修がおり、雨取千佳という一般人――あるいは彼女も近界民なのかもしれない――がいる。真意が読めないという思いが、動きを止めた。
「迅さん、どういうこと?」
「あー……そうか、説明を忘れてたな」
頭を掻き、迅が苦笑する。視線を向けると、意を決したように迅は告げた。
「こいつはネイバーだ。それもブラックトリガー持ちのな。……ネイバーが許せないっていうのなら、戦おうとしてもいい。実際、昨日の三輪隊はそうして遊真に攻撃した」
三輪隊――その名が出たことで更なる驚愕が浮かぶ。
だが、確かに三輪秀次――彼ならネイバーと聞いた時点で即座に攻撃を行っただろう。それがわかるくらいには、彼の心の奥底にある想いを知っていた。
「ふむ、ようわからんが……やるなら、相手になるよ?」
少年の瞳が変わる。背筋に悪寒が走った。
ほとんど本能だ。トリガーを起動しようとして、しかし、それは別の声で遮られた。
「待って下さい! 空閑は確かにネイバーですが、その、悪い奴じゃありません!」
その言葉に、トリガーの起動を断念する。迅へと視線を送ると、彼は頷いた。
トリガーを下ろし、ポケットにしまう。空閑が首を傾げた。
「あれ? いいのか? 昨日の奴はいきなり撃ってきたけど」
おそらく三輪のことだろう。彼ならやりかねないと思いつつ、希は首を振った。ふう、と三雲が息を吐き、雨取も安心したように息を漏らす。
「あの、この間の学校でネイバーを倒したのは空閑なんです。本当は……」
「………………」
空閑へと視線を向ける。空閑は笑みを浮かべたまま、そうだよ、と頷いた。
「だけど、俺が助けたのはオサムだけだ。オサムが学校の奴を助けようとして、それを俺が助けた」
つまり、あのモールモッドを鮮やかに始末したのはこの少年ということか。それを聞き、希は一度深呼吸をすると、改めて空閑と向かい合う。
そうしてから、ゆっくりと頭を下げた。
「…………ありがとう、ございました……」
空閑が驚いた表情を浮かべた。本来は自分達がしなければならなかったことを、彼がしてくれた――救ってくれたのだ。ならば、きっと敵ではない。
「変な人だな……。ネイバーを憎んでないの?」
「………………」
その問いに、首を左右に振った。少年がじっとこちらを見つめる。そして、あれ、と首を傾げた。
「ウソじゃない……? ますますよくわからんな」
何のことだろうか、とこちらも首を傾げる。そんなことをしていると、迅がやっぱりか、と頷いた。
「もしかしたら、とは思ってたんだけどな。もっと早く嵐山に確認しとくべきだったなー」
何故ここで嵐山の名が出てくるのだろうか、と思ったが何も言わずにおいた。迅はまあいいや、と呟くと、改めて空閑の方へと向き直る。
「それで、さっきの続きなんだが。色々考えたけどこういう場合は、やつぱシンプルなやり方が一番だな」
「シンプルな……」
「やり方……?」
うん、そうだと迅は言った。
「遊真、お前――ボーダーに入んない?」
出木希から見たボーダーの皆さん
・加古望
希をスカウトした人物であり、前を向くとはいかずとも立ち上がるきっかけをくれた大恩人。割と真剣に『K』のルールを覆してでも希の加入を考えてくれたが、それは希自身が固辞した。なのでスカウトを断ったという話は事実といえば事実。炒飯については希曰く全てが美味。その事実が彼女の噂に更なる脚色を加えた。悲劇っちゃ悲劇。
・黒江双葉
珍しく希に敬語を使う数少ない隊員。緑川はあれだし、出水や米谷を含め大部分は勝手に同年代、もしくは年下と認識している。成功例はともかく、失敗例を残さず食べきる希に畏怖に近い感情を抱く。最近、希の電話帳に彼女の番号が記載された。