――いいか、サクヤ。風はすぐにどこかにいっちまうからなぁ、これだと思ったら、迷うんじゃねえぞ?
サクヤ・クランブルは、自らにボードを教えてくれた、いまはもう亡き父の言葉を思い出す。決して運動が得意とは言えなかったサクヤに、辛抱強く教えてくれた父。そのおかげでいまの自分があると思えば、サクヤは何度感謝してもしきれない。
一度目の“風”は、もうかなり昔のことだ。照りつける真夏の陽差しの中、青い空をバックに吹き抜けた“風”。その姿に憧れて、幼いサクヤは空を自由に駆けることを志した。
いまはまだ、自由にとは言えないけれど。その熱はまだこれっぽっちも冷めていない。
二度目の“風”は、ほんの数日前のことだ。初めて踏み入れる海域だからとまだ船を海上に出さず、監視鏡からぼんやりと空と浮遊島を覗いていたときのこと。突然水面からしぶきが上がり、何事かと思えば、“風”が吹いていたのだ。
ああ、もし風に色をつけるのならば、あんな色だろうか。春の陽だまりのような、優しい色。
その“風”は、サクヤがなにか行動へと移す前に空の彼方へと消えていった。見間違えだったのだろうか。それとも――またあの“風”に出会えるのだろうか。その思いは、サクヤの気持ちをいっそう奮わせた。
そして、いま。三度目の、そして再び相見えた“風”は、「ご、ごめんなさい!」という言葉を残してサクヤの目の前から消え去ろうとしていた。
――これだと思ったら、迷うんじゃねえぞ?
サクヤの頭に、父の言葉が繰り返される。
追わなきゃ!
***
全ての大地が海底に沈んだ異界。
スローダイン船団は、船団という名の通り何十隻もの船の集まりである。この世界で暮らす方法は二つに一つ。反重力鉱石を地盤に持つ浮遊島に住むか、サクヤが属するスローダイン船団のように船に住むか。比率は圧倒的に後者のほうが大きい。
ゆえに、船の中はおおよそ船内とは思えないほどの快適さに保たれている。揺れは最低限に抑えられ、空調は完全に制御されている。
そんな船内を、サクヤはボードを片手に歩いていた。目指すはもちろん海面へ続く上部の扉だ。2、3日前、一瞬だけ見えた“風”はサクヤの心を震わせた。
あんな風に速く。
あんな風に自由に。
早く飛びたいとうずうずするサクヤだが、船が海面まで上昇するスピードは一定である。普段なら気にならないはずの待ち時間が待ち遠しく、そわそわしながらも現金なものだとサクヤは自分に苦笑いをしたい気持ちになった。
そんな中でふと、同じく船が上がるのを待つボーダーの話し声が聞こえてくる。
「そういえば、この海域ってどこの国になるんだ?」
「おまっ、それくらい調べておけよ……。ここはシグラーになるな」
「……聞いてもわかんねえや。聞き覚えがない」
「それだけなにもなく平和ってことだ。羨ましい限りだ」
シグラー。浮遊島の所有数が多い国で、たまにレースの協賛として名前があるのを覚えている。
サクヤの中での認識なんてそんなものである。正確には船団に住む大多数の人間の。レースで勝って有名になって、いつか自分の浮遊島に住みたい欲求はあれど、それらを束ねる国なんて海に住む人間は詳しく知らないのだ。海と空は、数字で測る以上の距離がある。
つらつらとそんなことを考えていれば、いつの間にか船は海面から出ていた。
風を切り、障害物のない海の上を走る。スピンにターン、トリックを次々と決めていく。その姿を見て、かつてはサクヤが運動音痴だったと信じる者はいないだろう。
複雑なトリックを完璧にこなしても、サクヤの顔はいまいち浮かない様子だ。
レースはトリックとスピード、その両方によって結果が出る。速いだけでも、トリックが上手いだけでもいけないのだ。そしてサクヤは、自分が満足できるスピードを出せていなかった。
これじゃあまだ……。
弱気な思考が脳裏をよぎる。先日見た“風”のせいと言うべきか、その思いは普段よりいっそう強くなっていた。
幸いなことに、近日中に開催されるレースはない。サクヤは日が暮れるまで、ひたすらに自分の中にいる“風”と競っていた。
***
「ご、ごめんなさい!」
“風”は迷ったらすぐに消えてしまう。
だから、答えはすぐに出た。
「待って!!」
速い。一直線に目の前を走る“風”の少女をサクヤはひたすらに追いかける。それなのに、ふたりの距離は少しずつ離れていく。その速さに、もう追いつけないから諦めろという思いが一瞬頭をよぎる。それでも、これを逃したら後悔するぞという思いのほうが圧倒的に大きかった。そして、その思いは確かにサクヤに力を与えた。
障害物が何もない場所から周囲に浮遊する岩の群島へ、いつのまにかふたりのレースは様相を変えていた。
サクヤの目の前の“風”も、その影響を受けていた。
「うわ! わわ! ひえー!」
もともと風は小さな障害物にも影響を受けるものだ。それが群島ともなればなおさら。
ときには浮遊する岩を簡易の足場としてひょいひょいと進むサクヤは、目の前でそれらを掻い潜って危うげに飛んでいく少女の様子に、こらえきれず声をかける。
「ちょっと、無茶はやめなさい! ぶつかるよ!」
それがいけなかったのだろうか。ちらりとサクヤのほうを確認した少女は予想外に縮まっていた距離に驚いたのか、緩めていたスピードを上げた。
周囲に浮遊する岩がある状態で緩めていたスピードを上げれば、やがて避けきれないものが出てくる。
サクヤの目の前を飛ぶ少女の眼前にひとつの岩が迫る。曲がるにしても止まるにしてももう遅い。
助けなきゃと思ったサクヤの頭の中で、何かのピースがかちりとはまる。瞬間、サクヤの体はボードを蹴って飛び出し、周囲のあらゆる岩を利用して少女の頭上でほんの少し併走する。
そのほんの少しで十分だった。
「手を……!」
差し出したサクヤの手を少女は迷いなく握る。そのか弱く柔らかい感触に驚きながら、サクヤは前転する勢いで少女の軌道を岩の上に逸らした。サクヤ自身も足元に追い付いたボードをすかさず操作して、ふたりで回転するように、減速しつつ浮かぶ岩の群島を抜けた。
「……あ、ありがとう」
「どういたしまして。あなた速いけど……ちょっと不器用だね」
「こんなところ……飛んだことなかったから……」
「それにしても、声をかけただけで、どうして逃げたの?」
「えーと……それは……。外の人には気をつけろって言われたから……」
箱入り娘のような理由でちょっと笑ってしまう。少女もサクヤのその笑顔を見てようやく力が抜けたのか、へにゃりと笑う。そして握ったままの手を見下ろして呟く。
「あなたの手ってとても安心する。力強くて」
「そんなこと、初めて言われた」
そんなにごつかったっけとサクヤは思ったが、同じく見下ろした手を見て納得した。つやつやの肌の小さな手は、少女がとても愛されている証だ。まさしく箱入り娘なのだろう。それに比べれば、海で育ったサクヤの手は確かに力強く見えるのかもしれなかった。
「アタシはサクヤ。あなたの名前は? どこの船団から来たの?」
「せんだん……? あっ、私はグレイス・シグラーと言います。よろしくお願いします!」
グレイス・シグラー。それはいま現在いる海域がある国のお姫様ではなかったか。それも、たったひとりの。
サクヤは笑顔のままひっそりと冷や汗を流すが、そうとは知らない少女――グレイスは、繋いだ手にぎゅっと力を入れてキラキラした目でサクヤを見る。
「それで、せんだんっていうのはさっきのお城みたいなヤツですか!? あれはいったいなんなのでしょう!?」
「船団ね」
「せんだん、船団……」と小さく呟くグレイスを見つめ、サクヤは苦笑する。迷わず飛び出して掴んだ“風”は、とてもかわいらしいお姫様だった。
「きっと見た方が早いわ。さあ、アタシの船を案内してあげる」
目を輝かせ笑顔で頷くグレイスの手を改めてしっかりと握りしめ、サクヤは自分の住む船に向かって飛び始める。今度こそ、この“風”を逃がさないように。