プロローグを追加しました。
ーーー停止した世界があった。大地は地平線を見ることが出来る程に平坦で、起伏は一切無い。広がる海は一切波を立てない。空には太陽も、月もなく、ただ薄い
そんな世界にいるのは二人の男。この世界では無い世界から持ち込んだ異物に背を預けて座り込んでいる二人は顔を合わせる事をしない。別に二人の仲が悪い訳ではなく、顔を合わせない事を変化として感じたかったから。顔を合わせない事に飽きれば打ち合わせたかのように隣り合って、この世界を眺めるだけだ。
二人の内の一人、ボロボロの白いコートを着た茶髪の男は目を閉じていた。眠っているのではなく、過去に経験した事を、懐かしい思い出を思い返しているのだ。すでに万を超えるほどに思い返してなお飽きない、愛おしいと断言できる過去。彼はそれを自ら捨てた。彼の名誉の為に言っておくなら、彼はそれを煩わしく思って捨てたのでは無い。寧ろ守る為に断腸の思いで捨てたのだ。
だから、彼はそれを思い返しては自責の念に苛まれる。後悔は無かった。思い出の中に現れる彼らを守りたかったから、自分はこの無変の世界にいる。それは反対に座っている男も同じ事だ。それでもーーー残してきた者たちのことを思えば、ひどい事をしたと後悔するのだが。
そうして彼はもう出会えない過去の
退屈か、と問われれば頷く。
辛いか、と問われれば肯定する。
やり直したいか、と問われればーーー迷わずに否定する。
彼はいつものように自身の歩んできた過去を反芻する。歩んできた道のりは僅かに二十五年、四半世紀でしか無い短い時間だったが、彼は忘れる事なく、薄れさせる事なく、穢れさせることなく、そのすべてを覚えていた。
そうしていつも通りに過去に埋没しようとしてーーー
「ーーー起きろよ」
ーーーこの固定された無変の世界ではあり得ないはずの変化が起きた。先に言った通りにこの世界では変化は絶対に起こり得ない。風は吹かない、雲は流れない、波は起きない。
故に、彼は聞こえた変化を幻聴だと切り捨てた。ここに来て始めの頃はよく聞いていて、また聞こえたのかと自身の女々しさに呆れる。
「おいコラ起きやがれ、聞こえてるんだろ?」
聞こえる幻想を無視して過去に埋没しようとしたところで、腹部に痛みを感じた。久しく感じてなかった痛み、それは経験から蹴られたのだと理解できた。
それでようやく幻聴では無いと気がついた彼は瞼を開き、視界に映った存在に驚愕する。永劫とも思えるような時間をこの世界で過ごした為に感情など無くなったかと思ったがそんなことは無かったようだ。
「よっ、久しぶりだな」
目の前で〝彼女〟が微笑んだ。自分の記憶の中の彼女と変わらぬ笑顔を見せられて、脳が痺れたように感じる。
ーどうしてここに?
永い間声を出さなかったからなのか、喉からは声にならない音が漏れる。だが、それでも彼女は言いたいことを理解したらしくどこか拗ねたような表情になった。
「どうしてだって?……お前を一人にしたく無かったからだよ」
そして彼女は恥ずかしそうに彼に抱きついた。何故、などと無粋な疑問が浮かび上がったが即座に切り捨てた。そして彼女の温もりを再び感じられた事に目から雫が溢れる。
会えない事を覚悟していた、触れ合えないと理解していたーーー別れたくは無かったが、それでも別れなくてはならなかった。そう思っていたのにーーー再びめぐり合う事が出来た。それだけで、彼は報われたような気持ちになった。
「それにオレ一人じゃないさ、あっちにも聖女様が来てるぜ?」
彼女が指差したのは外から持ち込まれた異物。耳を澄ませば、彼女以外の女性の声が聞こえる。
「ーーーもう、絶対に放さない」
彼女からの抱擁は強くなり、声には嗚咽が混じっている。もう二度と会えないと思っていたのに再会できたのならその感情は理解出来る。そしてその思いは彼も同じだった。
ーーーあぁ、俺も、お前を放したくない。
完璧であった世界があった。完璧であるが故に、変化など起こり得ない凍りついた世界。
だが、この世界に変化が持ち込まれた。ならこの世界は既に完璧などではなく、凡俗の……ありきたりな世界に堕とされたのだろう。
それでも、彼は凡俗の世界の方が嬉しかった。いかに完璧な世界だとしても、彼女がいない世界に意味など見出せないから。
世界は変わる。
時間は進み出す。