ネムは、足早に寮へと向かっていた。すっかり遅くなってしまった。ネムは、シクススから習った、メイドの歩き方を放課後もずっと練習していたのだ。
今日の授業は、メイドの歩き方が内容だった。
教室も、歩き方を練習するということで、これまで使っていた貴族の部屋を意識して作られた教室ではなく、壁が四面すべてが鏡張りになっている部屋で授業が行われていた。
「メイド服は別名エプロンドレスと言います。単なる作業着ではありません。私たちはドレスを着ているのだと、常に自覚をしてください。舞踏会の会場へと続く廊下を歩いているかのごとく優雅に、ですが、それと同時に仕事をしているという緊張感も表さなければなりません。その優雅さと緊張感、この両方を成立させる歩き方を私たちメイドはしなければならないのです」とシクススが説明をし、実際にその歩き方を実演をした。そして、教室の中をぐるぐると壁に沿って生徒たちは歩く。横目で自分の歩いている姿を確認しながら。
「ネム、歩くときは背筋を伸ばして」
「もうちょっと内股になるように歩いてみて」
「腰が上下に揺れているわ。腰の水平は維持したまま。今度は足の動きに吊られて腰が一緒に動いているわ」
「つま先が先に地面に付くように歩いて」
歩き方というのは、自然と身につく。呼吸をするのと同じくらい自然なことだと思っていた。だが、メイドとしての歩き方はネムの想像していたよりも難しかった。今まで自然と歩いていた歩き方とは違う歩き方。
背筋をまっすぐに伸ばして歩く。これは意識することによって簡単にできた。しかし、腰の水平を維持したまま歩き、足の動きによって腰が動かないようにしなければならない。一瞬でも気を抜いてしまうと、元に戻ってしまう。
歩くときは背筋を伸ばして少し内股になるように歩く。腰の水平を維持して足の動きに腰が付いていかないようにする。つま先が先に地面に付くように歩く。
数時間の練習でなんとかシクススさんに指摘されない歩き方になることができたが……。
「ネム、カルチェラタンを最も美味しく淹れることのできるお湯の温度は?」
と唐突にシクススに質問された。
「えっと…… たしか……」
「ネム、歩き方が崩れているわよ。他のことを考えながらでもメイドの歩き方ができるように」とシクススがすかさず指摘をする。
「はい!」
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授業が終わった後も、ネムは歩き方の練習を続ける。今まで生きてきて身に染みついている歩き方ではない歩き方を習得する。神経をすり減らす集中力のいる練習だった。気を抜いたらすぐに歩き方が崩れている。
やがてクラブ活動の終わりの鐘が鳴る。教室から出て、寮へと戻らなければならない時間であった。だが、真っ直ぐに寮に戻る気にはなれない。
「よし、今日はいつもと違った道を通って帰ろうっと」とネムは誰も残っていない教室の扉を閉めながら言った。帰り道も、メイドの歩き方の練習をしながら寮へ帰ろうと考えたからだ。
校舎と寮は、小川の流れる公園を突き抜けるのが近道だ。しかし、ネムは公園を迂回して帰ろうと考えた。
そして夕暮れの道を進む。公園であれば魔法による電灯が灯って明るい道も、ネムが選んだ道には無かった。ネムの左には、黒々した森が広がっている。昼間であれば、木漏れ日が美しい森であるが、夜はその姿を変える。何処か不気味で、恐ろしい。トブの大森林であれば、人は絶対に夜に森に近づいたりはしない。カルネ村で夜に大人しく寝ない子供を叱る慣用句に「寝ないならトブの森に連れてくよ」という言葉があるくらいだ。
ここはエ・ランテル。第四防壁に囲まれている。危険な魔物なんていない。恐くなんか無い。
ネムはそう思いながら、メイドの歩き方に集中する。腰は水平に。優雅に美しく誇り高く。
そんな中、ふっとネムは立ち止まり振り返る。何かの視線を感じたからだ。自分を何かが見ている。だが、そこには誰もいない。気のせいかとネムは歩みを再開するが、どうも自分の背中にねっとりとした視線を感じる。
ネムはもう一度だけ振り向くがそこには何もない。ネムは恐くなった。ネムはメイド歩きを止めて、早足で寮へ向かう。しかし、視線を感じ続ける。ついには全力で走る。
全力で走ると、明確に分かる。自分を追いかけてきている何かがいる。全力でネムは逃げる。そしてやがて息切れする。そして、ネムは肩で息をし、両膝の上に手を置いて呼吸を整える。そして、その間にも荒い呼吸に紛れた足音が聞こえる……。そして近づいてくる。
「にゃぁ」
森から姿を現す猫。そしてそのままネムに首をさすって欲しいと頭をネムにすり寄せる。
「あ! もしかして、もう引っ越ししてきてたの? ナザリック学園の森にも来るかもって聞いてたけど」とネムは、猫を優しく撫でる。
「先週から? そうだったんだ! って? え? 言葉が頭に聞こえる?」とネムは首を傾げる。他にも、もっと首の根元をくすぐって、など猫の思いが伝わってくる。
「え? 誰かあそこに隠れてる? 誰が?」とネムは、猫の視線の先を見つめる……。
「誰かそこにいますか?」ネムは、猫が指し示す方向に向かって声を掛けた。猫も、毛を逆立ててその方向を睨んでいる。
がさぁ、という音と共に茂みから人影が出てきた。
「いやぁ、どうやらばれてしまったようだね。怪しい者じゃ無いよ。女の子が一人で人気のない道を歩くのを見かけてね。危険がないか見守っていたんだよ」と、男は両手を広げ、武器を持っていないことをネムに示しながら近づいてくる。猫は一層の警戒を示し、呻き声を上げていた……。