「では始めましょうか」
気負わない様子で光鳥は告げる。
「それはいいけど、光鳥ちゃん靴履いた方がいいんじゃない?」
親切心でジョーは言った。体重の軽い光鳥が一撃で不良を倒しえたのは即ち硬く重さもある靴があったから。ジョーはそう理解していた。不良との喧嘩で、靴を履いた状態と履いていない状態には大きな差が出ることを実感として知っていた。
「いいえ、たぶん不要ですわ」
「……ま、いいけど」
どうせ、まともに殴り合う気はない。それならば、あまり関係ないだろう。ジョーはそう結論付けて光鳥と向かい合う。
油断はしない。
「では、私が立ち合いをしよう」
秋雨が、両者の間に立った。それはもうどうでもいい。ジョーの視線は目の前で無造作に佇む少女に向いていた。距離は歩いて数歩分のすぐに手の届く距離。強い意思を秘めた目をしている。ジョーに武道の経験はない。空手や柔道、ボクシングといった格闘技を習った人間との喧嘩ならばあるが、ジョー自身は素人。
とりあえず適当に腕を上げて構えのようなものを取る。
「始めっ!!」
鋭い声が響いた。
先に動いたのは光鳥。たっと、軽やかに距離を詰めると上段に蹴りを放つ。速い。先日の時と変わらぬ電光石火。ジョーが動きを認識した時にはすでに足の甲が腕の上を通り、左頬に迫っているのを理解。
それを、―――かわす。
「ほお」
風切り音が顔を叩く。抑えきれず笑みを浮かべる。視界が激しくブレる程の急制動。上体を後ろに下げての回避は成功。どこかで感心するような声を聞いた。
――――よし。
向かい合う少女は、足を高く振りあげた状態。ジョーは体制を立て直す為、右足を下げ上体を起こす。そのまま手を伸ばす。同時、光鳥は蹴りの勢いのまま回転、ジョーの側面に回り込むと、流れるような動作で死角からの蹴り。またも上段。ジョーは獣じみた感性でそれを察知すると、屈み込んで避ける。全身のバネを使って飛び上がると、無防備な蹴り足を掴みに行く。光鳥の足が先に地面に付き、ふわりと距離を開ける。ジョーは追わない。
今度は、光鳥の急激な加速。開けた距離を自分で詰める。繰り出された掌底を下がってかわす。足の次は手だ。素早い掌底と手刀のコンビネーション。喧嘩で負けない為には相手に掴まれないことがもっとも重要。ジョーは驚異的な身体能力と動体視力をもってそれを成していた。
嵐のような連続を一つ一つかわしていく。
「…………はぁ、はぁ、はぁ」
今度はジョーが距離を取る。光鳥は追わず、攻めが一旦中断される。
息が上がったのはジョーのみ。光鳥は勝負開始時のまっすぐな視線のままジョーに問うた。
「どうして、軸足を狙わなかったんですか?」
「へ?」
「途中、蹴り足ではなく軸足を狙えばわたくしは倒れたかもしれませんのに」
「はぁ、はぁ、倒したら怪我させちゃうかもしれないから」
「そう……」
光鳥は口を僅かに弧を描かせる。さっきと同じ微笑みだ。ジョーは思い返す。
「ありがとうございます。もう、大体わかりましたわ」
優し気な口調。ジョーは意図を理解出来ずに内心、首を捻った。
光鳥は構えを解くと無造作にジョーに歩み寄った。無防備に近づいてくる少女に、ジョーは僅かに戸惑う。気を持ち直し、胸元辺りの襟をつかもうと腕を素早く伸ばす。光鳥の体がブレた。
奇妙な浮遊感と回転する視界。
「一本」
静かな声が耳に響いた。体に衝撃。ジョーは強かに体を地面に打ち付けられ、肺の空気を吐き出した。畳とはいえ覚悟していなかった衝撃に一瞬視界が暗転する。
見上げれば、光鳥がジョーを見下ろしている。
素早く起き上がって距離を取る。
足を突き出した格好で静止している光鳥。どうやら畳とジョーの頭の間に足を差し込んで致命傷から守ってくれていたようだ。
「受け身の仕方がなっていませんわ。ま、路上の喧嘩では受け身はあんまり意味がないからしょうがないのかもしれませんけど」
淡々とした指摘。ジョーは、投げられたことにすら気が付かなった。
「まだやりますか?」
「……当たり前だ」
混乱しながらもなんとかそう返す。
「分かりましたわ」
今度は速攻。光鳥は先ほどの連撃を繰り出した速さでジョーに迫ると、右の掌底を繰り出した。集中を乱しながらも、上体を後ろに下げて避ける。
少女はすくい上げるようにジョーの軸足をひっかけた。態勢が崩れるが警戒をしていたジョーは体を捻って両手両足で地面に着地する。一瞬の静止。
「一本」
ピタリと、ジョーの頬に少女の右足の指先が触れた。
「上体を反らす動きは下半身がそのまま残ってしまいますわよ」
視線を横に向けると、静止した光鳥の足がある。これが振りぬかれていたら。流石にジョーもゾッとする想像だった。
「っう」
「まだやりますか?」
「………ん、やる」
「そう、ですか。では」
光鳥は足を引っ込めて、ジョーが立ち上がるのを待ってくれている。ジョーはゆっくりと体を起き上がらせながら、思考は深く、内面へ。背中からは冷や汗が流れていた。
速さは変わっていないはずなのに、まるで違う。どうなってんだ。
向かい合うのは、先ほどと変わらない小さな少女。構えも取らず、無造作に立っている。
なのに今のジョーにはまるで、違って見えた。
荒れる息を落ち着かせる。歪む視界を元に戻す。
今度はジョーから腕を伸ばす。注意深く、今までにない程集中する。かわされる。この避け方は先ほど見た。原理は理解出来ないが、内股と足を外側に向けるのを交互に繰り返す歩法。回転しながら、体の側面へ、死角へと動く。そこに手を伸ばす。分かっていれば死角ではない。掌底で跳ね上げられる。守りがなくなり無防備な体に、掌底が来る。捻じってかわす。そのまま体を丸め、勢いで横飛びをする。
一本。
追いすがられて、崩れた態勢に寸止めの一撃が来た。見えても避けれない。
両手を上げ、ガードを固め、相手を待つ。鋭い縦の一撃でこじ開けられる。そのまま一撃。
一本。
……………また一本。
一本。一本、一本………。
「ぜえ、ぜえ、ぜえ」
ジョーは息も絶え絶えになりながら、もはや意地だけで立っていた。岬越寺は止めなかった。
「まだやるかい?」
とだけ聞いて、ジョーがやると答える限り試合を止めなかった。ありがたい。ジョーは深く感謝した。
冷や汗は止まっている。意識は研ぎ澄まされ、まるで視界が広がったの如く辺りを鮮明に映している。自分の心臓の音がやけにうるさく、体の隅々まで自分の認識が駆け巡っている。
目の前の少女は僅かに驚いているようだった。
つまらなそうな表情では面白くない。ジョーは歯をむき出して獣の如き表情で笑った。
「まだ、やるんですか?」
「やる」
諦めたため息を付いたのは、誰だったか。
「………わたくし、誰かに守ってもらうつもりはありませんの」
「そうか」
「次は当てます。それでもやりますか」
「やる」
「岬越寺先生、まだ続けるんですか?」
黒髪の少女の声。
「本人がやると言っている以上は決着じゃない」
声のやり取りが聞こえていたが、それすら段々と遠ざかっていく。聞こえなくなっているのではなく、意識が無駄を省いていくように。余計な物がそぎ落とされていく。
たん、と畳を蹴る音がした。ここで、ジョーはこの日一番の集中が来た。世界がゆっくりと流れていくのが見えた。ほとんど目で追えなかった少女が、今はまるで止まっているかのよう。左の掌底を顎に向けて狙っている。ジョーはワザと上体を反らす動きでかわす。紙一重の回避。崩れた態勢、そのまま無理な姿勢で、ジョーは腕を振り上げた。
今までしなかった、今までの動きをフェイントにした動き。
それすら、軽々と打ち払われ、そこで意識は途絶えた。