昔の夢を見ていた。下らない内容の。
ぼんやりと、天井を見つめる。梁が縦横に伸びている、昔ながらの組入り天井。畳の固い感触が、妙に肌に張り付くように感じられた。
顎の痛みに呻きつつ、体を動かす気にはなれずに天井をただ見上げる。
敗北の感触が、体に纏わりついていた。
「おや、起きたかね」
傍らから声が聞こえた。視線を向けることなくジョーはただ茫然としている。
「……ああ。どのくらい寝てました?」
「ほんの数分だよ。軽度の脳震盪だ。気絶というよりは衝撃による失神に近い。脳に異常はないはずだが、もう少しは安静にしておきたまえ。何かわからないことは?」
「こういう時は顔に水をぶっかけて起こすもんだと思ってました」
軽口を叩くも、自分でもはっきり自覚できるレベルで声に力が乗っていない。
「そうしても良かったが、君を丁重に扱ってほしいと光鳥が言っていたからね」
「……光鳥ちゃん」
閃光のような一撃がジョーの頭の中で鮮明に再生される。指で顎を無意識の内になぞっていた。僅かな痛みは、それが寸分違わない現実だと告げている。
「…………」
何もかもがマヒしてしまったかのように、何も考えられない。このままボンヤリしているかどうか、それすら考えるのが億劫で、横たえていた体をゆっくりと起こす。体力は既に回復している。顎の痛みを除けば、肌に張り付くシャツが気色悪いぐらいで、至って普通の状態。頭から濡れた手ぬぐいが落ちた。
「ふむ、もう少しゆっくりしていても大丈夫だが」
白髪交じりのちょび髭の男、確か、そう岬越寺と言ったか。思い返しながら、ジョーは首をこきりと鳴らした。
「いえ、もう平気です」
「君は中々、頑丈な体をしているね」
「それが取り柄なんで」
手ぬぐいを手渡すついでに、視線を周囲に巡らす。
「あれ、光鳥ちゃんは?」
「二人なら、少し外しているよ」
「んー、あー、そりゃそうか……」
ジョーはここに来た経緯を思い出した。
きっと幻滅されただろう。あれだけ啖呵切って、結果はこのザマ。そりゃ興味も失くすだろう。
胡坐を掻いたまま、表情こそ変わらなかったものの、自然と視線は下に向かう。
「いや、そうではないよ。彼女は君に気を遣ったんだ」
「?」
「君が落ち込むと思ったんだろう」
落ち込む。どうなんだろうか。自分の内心を探ってみても、はっきりとしない。軽くもなく重くもなく。ただ結果だけがストンと胸の内に収まっている。そんな感じだった。
あるいはこれから落ち込んだりし始めるのだろうか。
「俺、喧嘩で負けたの初めてでしたよ」
秋雨が何か返事をしたのかどうか、そもそも自分は誰に向けて喋っているのか、何も考えずにジョーは呟く。
「負けるなんて、考えたことがなかった」
喧嘩で気絶するのは初めてではない。囲まれてリンチにされたことも一度や二度ではない。しかし、決してジョーは敗北しなかった。最後には必ず相手をぶちのめしてきた。
最後の一撃。何度も反芻するように思い返す。
どうやっても勝てない。何をしていても、勝てなかっただろう。そう思わされてしまった。
それが、ジョーにとって決定的な敗北だった。
上限だと思っていた場所のはるか上があることを知らされるような。
「彼女はね、特別なんだ」
岬越寺は静かな声で言った。
「篠崎君、君は十分に強い。日本の高校生の中で、君に勝てる人間はほぼいないだろうと、私は思う。いわんや、中学生では到底相手にならないはずさ。ただ光鳥は少し、住んでいる世界が違う」
「…………」
「私の目から見ても、光鳥の武術の才能は類を見ない。少し変に壮大な話に聞こえるかもしれないが、特別な選ばれた人間と言ってもいいかもしれない」
「…………」
「だからといって、光鳥は才能だけであれだけ強くなったわけではない。彼女は決して少なくない時間を、人生を武術の為に使ってきた。様々なものを犠牲にしてね。普通の生活をしている者には、異様に聞こえるかもしれない。世界が違うとは、そういうことだ」
「…………」
「いや、すまない。起き抜けに長々とした話をしてしまった。私は、君に何かを強制するつもりはない。ただ知っておいて欲しかったんだ。君が何をするにしても、ね」
「光鳥ちゃん」
「………どうも」
帰る前に、ジョーは一言告げるつもりで光鳥の前に立った。自分がどんな顔をしているかは分からないが、恐らく光鳥の方がよっぽど渋い顔をしているだろうな、と思った。
勝った方がそんな顔なのは、なんだかチグハグではある。
嫌悪ではなく、気まずそうな顔だ。
「怪我、ありませんでしたか?」
「ああ、あんなこと言った割に、顎の一発でダウンだったし」
「篠崎さんは、その、弱くはありませんでした」
「………そっか」
「はい」
「………」
「………それと、あの、お返事をさせてもらいます」
「うん」
「ごめんなさい。わたくし、今は誰かとお付き合いするつもりも、誰かに守ってもらうつもりもございません。ですからお付き合いはできません」
「あ、おう」
――なんか随分落ち着いた気分のハズが、ここだけ結構グサッときたんだが。
いや、分かっている結果なのだが。
短いやり取りを少しするだけの、他人行儀なやり取りを終わらせる。
ぎこちなく、短い別れの挨拶を済ませ、会話はそれっきり途絶えた。色々喋りたいことは無数にあったが、それを言葉にする気にはなれなかった。
古い正門を通り、背を向ける。律儀な見送りの視線を感じつつ、足を交互に出す。
顎の痛みが、なんだ妙に情けなかった。