「あんた、何やってんの?」
暗い部屋に開け放たれた扉からLED照明の光が差す、薄暗い部屋の中。板張りのフローリングの部屋の中心には、汗を流す半裸の男が一人。両腕を地面に突き立てた、腕立て伏せの姿勢。体からは蒸気のような汗が噴き出している。
フローリング内の照明が点灯し、明かりが部屋に満ちる。
「うわ、汗くさ」
ダークカラーのパンツスーツの女性は、部屋に入るなり、顔を顰めた。
黒いジャケットを壁にかけると、めんどくさそうに部屋の中央にいる半裸の男、ジョーを避けると、ベランダに面したガラス戸を開け放った。新鮮な空気が部屋を流れ、どんよりと湿った空気をリビングから押し流していく。
ストレートショートの髪を揺らしながら、女性はさっと足を振って、ジョーのわき腹を小突く。
「はいじゃまじゃま、脇によりなさいよ」
蹴られたジョーは回転しながら部屋の隅に移動すると、そのまま腕立てを続行する。
それを呆れた視線で眺めた後、女性は手提げのカバンを隣の和室に放り投げつつ、床に出来ている汗の跡に、うげっ、と顰蹙極まりない表情。
女性、篠崎玲子はびしと、ジョーに指を突き付けた。
「あんた後で掃除しなさいよ絶対」
「おう」
ジョーは調子よく答えた。視線を固定したまま、腕を曲げて胸を地面に近づける。そのまま維持する。
「珍しいわね家に居るなんて」
「そんなことないだろ」
「この前は結局会えなかったじゃない」
「急に帰ってくるからだろ? 事前に連絡入れてくれよ」
「急に予定が空いたりするのよ」
「人の事言えねえな」
腕を上げる。
そのまま静止して、息を整える。
「つれないやつ。一か月振りぐらいじゃない」
「……二か月だろ。で、今日はなんで帰ってきたんだ?」
「あれ、そうだっけ。 ――ちょっとパスポートが必要になったの。取りに帰るついでに息子の顔見ておこうと思ったわけ」
「ついで、ね」
ジョーは皮肉げに鼻で笑う。
「何、甘えてんの? 可愛いとこあるじゃなーい」
「…………」
短いやり取りで既にめんどくさくなったジョーは、目を瞑った。返事もしない。その態度を気にする様子もなく、玲子はさっさとリビングを出ていく。洗面所の水が流れる音が聞こえた。
腕を曲げる。ゆっくりと。胸を床スレスレまで下して静止。
まるで疲れる気がしない。今日はかなり体を動かした後だ。客観的に見て、疲労がある程度あってもおかしくない。だというのに、全く疲れたとは思えない。
何も考えずに繰り返す。ただひたすら体全体を酷使する。
集中する。
余計なものを排除する。意識が真っ白になるぐらいで丁度いい。
努力は嫌いだ。何かを強制させられるのも嫌いだ。
だが子供の頃から、何かを積み上げるのは嫌いではない。
久しい感覚。
息を吐く。腕をついたまま、少し体に酸素を溜める。長くやり続けたせいで、腕に乳酸がたまっている。心臓の下に置き続けた結果、血管が皮膚表面に太く浮かび上がっていた。
垂れ流している汗が、風に当たって体を僅かに冷やしていく。
熱が籠った体には心地よい。
わずかな休憩。
また、胸を地面に降ろしていく。力を抜けば、腕が震える。汗が顎を伝って地面に滴る。
何度も繰り返す。
とりあえず今日はこれだ。
時間を忘れるほど、何度でも繰り返す。
「そういう姿見るの結構久しぶりね」
どれほど時間がたったのか、白いインナー姿の玲子が空き缶片手にこちらを眺めていた。
「で、今度は何にハマったの? 水泳? バスケ? テニス?」
荒れる息。ちらりと視線をそちらに向け、床に戻す。少し息を整える。
「別に」
「ふふ………」
機嫌が良さそうな声。
「あ、そういやあんた、また勝手に飲んだでしょ。冷蔵庫の缶減ってたわよ」
「いいだろ、それくらい」
「飲んだらちゃんと補充しなさいよ」
「学生にアルコール買わせる気か」
「学生が飲むんじゃねえ」
ぐいっと缶を傾けて呷っている。結構酔いが進んでいるのか赤ら顔だ。
玲子はあまり酒に強くはないが酒好きで、酒乱気味だ。
「で、今度はどこに行くんだ?」
「えーと、なにが?」
「あ、もういいわ」
「ああ、シンガポールよ。シンガポール」
「親父は」
「あの人もそう。もう行ってる。ホントは中国に行くつもりだったんだけど、今あそこちょっときな臭いからね。華僑にわたりをつけてからってね」
「そうか」
ジョーは興味なさげに呟いた。実際あまり興味ない。
親の仕事についてのジョーのスタンスは必要最低限だ。干渉もしない。玲子もジョーの行動についてはほとんど口出しをしない。
篠崎家の家風は自己責任の自由、であった。
無関心な関係ではない。ではないが、顔を合わさないまま長い間空いてもお互い気にしない。
ジョーはまた腕立て伏せを再開する。
短くない期間を離れていても、お互いさほど近況を報告しあったりなどしないのは母と青年期の息子だから、というのもあるだろうが、結局は二人の気質なのだろう。
ジョーが無心で体を動かしている姿を、玲子はしばらく上機嫌で眺めていた。
―――ジョーは全くもって諦めが悪く、そして空気を読まなかった。
「な、なんで貴方がいますの………」
光鳥が呆然と呟いた。
梁山泊の家屋の一画にある縁側。太陽が煌々とし、洗濯日和な暖かい日中。
ジョーは、片足を縁側の淵に引っ掛けた態勢のまま手を挙げて、悠遊と応えた。もちろん、さわやかに笑うのも忘れない。
ジョーの目の前には将棋の盤面。相対しているのは岬越寺秋雨。こちらはきっちりと正座をしている。
ジョーは光鳥を待つ間、岬越寺と将棋を指していたのだった。
横には当たり前のようにお茶と茶菓子が置かれている。
部活帰りである様子の光鳥は、目をまん丸くして、こちらを見ていた。
「いやー、岬越寺さん強いなあ」
「ふむ、謙遜することはない。君も相当やる。しかし、後手右四間飛車とは……」
「あ、俺、戦型とかはあんまり詳しくないっすよ」
ジョーはそう言いつつ、銀を打つ。四の五という一見双方の王将からは離れた位置。秋雨はそれを一旦放置して、七三角打ち。飛車を六二から動かす、あるいはあわよくば奪おうという形。敵陣深くながら防御の構え。
盤面は中盤にしてすでに戦いに突入しつつあった。
見るものが見ればすぐにわかるだろう。
ここは今、骨肉を争う戦いの火蓋が切って落とされる寸前なのであった。
「あの、ちょっといいですか?」
やや苛立った声。
「あ、うす」
ジョーは素早く自駒をさっと駒入れにまとめた。自分の駒だけになった盤面を見つめた岬越寺が「うむ……」とちょっと残念そうな声を上げた。
「いや、あの、どうして貴方がまたここに?」
ジョーは立ち上がった。縁側から庭に降りると特に何も考えずにこういった。
「また挑戦に来た」
と。