「織斑、篠ノ之、凰、オルコット、デュノア、ボーデヴィッヒ……お前らは手筈通りに動け」
機械音が唸るような響きの中で千冬の声が鋭く飛んだ。
大晃が己の精神世界へと飛んですぐ千冬が指示を出したのだ。
千冬に呼ばれた六人はそれぞれが口々に『了解』と答えた。
六人は丸い金属製の筒の前に立った。
大晃が入った筒の周りに六角形に配置されている、筒である。
その形状や材質もまた大晃のものと同じようであった。
六つの筒が一人でに開いたが、その中身も大晃のものと同じである。
「じゃあ、行くか」
六人は目配せすると、筒の中に足を踏み入れた。
椅子に座り、ヘッドセットを装着する。
「準備はできたな」
「はい」
「分かった、そのまま楽にして待っていろ」
扉が閉じると、筒の中には無音となった。
完全に外の音が遮断されているのである。
つまり内側からの音も外には聞こえないことになる。
外界との繋がりが、完全に消えてしまったようであった。
筒の中に響く千冬の声は筒の中のスピーカから出ている。
そして、こちらの声もマイクから拾っているのか、千冬は受け答えをする。
深海に潜るダイバーの命綱と同じで、数少ない下界との繋がりが、このマイクとスピーカーであった。
「……簪、調子はどうだ」
六人が中に入っている間、一人呼ばれていなかった簪は動いていた。
スコールとオータム、金子の視線が降り注いでいる中、宙にキーボードを浮き出させていた。
空間投影型のキーボードである。
それを八つ、簪は宙に呼び出していた。
四つは両手をそれぞれ挟み込むように。
もう四つは足の先にである。
簪の両手両足は宙に浮いた鍵盤を叩いているのである。
押す動作だけでなく、指を上げる動作すらも鍵盤を叩く一つの動きになっている。
投影型で実体が無いだけに打鍵の音は響いていないが、カタカタと鳴っている音を幻聴として聞いてしまうほどに、見事な動きだ。
簪はISを起動させて自らを宙に浮かせていたのだ。
だから、その四肢を余すことなく打鍵に使えたのである。
「大丈夫です。いつでも、始められます」
「そうか、ご苦労。そのまま一旦待機だ」
簪の自信満々の声を聴きながら千冬は思う。
変わったな、と。
もともと、簪は内気な少女である。
技能と知識自体に不足はない。
ISの知識も豊富で、ISを一つ組み上げるだけの、少なくとも、その根幹のシステムを構築するほどの才女だ。
実力に不満はない。
問題があるとすれば、そのほとんどは性格の問題だった。
内気で、しかも、自分に自信を持てない簪は、プレッシャーに弱かった。
すぐに自分を疑い、一度自分を疑うと止まらない簪は、ここぞという所で実力を発揮できなかった。
千冬の前もって知っていた簪のそういう性質は、今はどうやら変わっているらしかった。
この施設を完成させる為に奔走したスコールとオータム、金子の三人は今は特に役割はない。
簪が手を入れやすくする為に、施設の各種設定を調整してはいる。
それもこの三人にとっては片手間でできる程度のことであり、当然、その視線は忙しなく動く簪に寄せられている。
もし、以前の簪であったら――。
きっと、プレッシャーに押しつぶされていただろう。
押しつぶされなくとも、かなり動揺していたはずだ。
「更識」
「なんですか? 織斑先生?」
「お前の妹はだいぶ成長しているぞ……」
「先生、からかうのはやめてください」
千冬はプライベートチャネルで更識へと呼びかけた。
更識といっても簪のことではない。
ここにはいないもう一人の更識。
簪の姉、楯無のことである。
「では、もうすぐ始まるのですね」
「ああ」
「……分かりました」
「おい、映像を拾って見るのは構わんが、油断はするなよ」
「勿論ですよ」
「頼むぞ。私がISを取り戻した今、襲撃は無いとは思うが、可能性が全くのゼロというわけではないんだからな」
楯無はここにいない。
その理由は、もしIS学園に侵入してくる者がいた場合、誰かがそれを捉えなくてはならないからだ。
今日、ここでこの『イベント』があることは一般的には伏せられている。
一般的には知られていない、つまり、IS委員会や主要各国の指導者クラスの人間は知っているということだ。
しかも、ISが人間を乗っ取るという前代未聞の『イベント』だ。
得られるデータは貴重なものとなる。
国を捨ててまで欲する者が出てきてもおかしく無いくらいである。
千冬が現役として復帰したのにはそういう理由もあった。
正真正銘、世界最強が存在するとなれば、手を出しずらくなるからだ。
それでも油断はできない。
どこの国でもいい。
その国の上層部の誰かが、もしくはそういう人間と結託した複数人が、渦中の栗を拾う感覚で、何かを仕掛けてくる可能性を放置はできない。
「お前ら準備はできているか?」
「はい」
六つの筒の中のマイクが、口々に、はいと答える六人の声を拾う。
「簪、繋げられるか?」
「はい。すぐにやります」
簪はそう言って、キーボードのキーを一つ叩いた。
叩くと、ディスプレイが空間に表示された。
「ふむ……」
誰ともなく呟いた。
大晃と一人の少女がそこには映っていた。
「これが無手か」
大晃以外の人間はその少女を見るのは初めてであった。
白いワンピースを着た少女こそ、大晃を苛む存在、無手であった。
土砂降りの雨の中、動く二つの影があった。
二つの影はしきりに交差し、その度に鈍い音がなる。
重いハンマーが肉と骨を打つ、重低音であった。
「しゅッ!」
「しゃッ!」
呼気が二つの影から漏れる。
パンチを話す時の鋭い呼気だ。
二つの影が伸びた。
伸びた色付きの幻影は互いの影を打つかに見え、しかし、影は互いにそれを縫うように動く。
自由自在に形を変えることのできる影が、相手の領域を侵そうとしているようであり、器用に形を変えることでその侵略を防いでいるようであった。
複雑なルールの下で二つの影は互いの領域を削ろうとしているようであった。
やがて、二つの影の動きが止まり、その正体があらわになる。
途中から折れた木の中心でそれは呟いた。
「やるねぇ……」
「……」
大晃がふてぶてしく笑っていた。
現実世界での儚げな笑みなどでは無い。
拳を握り相手へと叩きつける快感。
久方ぶりに感じたそれへの大きな喜びが生んだ笑みであった。
「どうしたんだい? 随分とつれない態度だねぇ」
無手は答えない。
無言で、大晃を見ている。
ゾッとするほど冷たい視線だった。
価値を失ってしまったおもちゃに向ける子供の視線だった。
もはや、無手にとって大晃はその程度の価値しかない。
目的地へと案内する、ただの看板。
その看板も行き方が分かってしまえば、もはや用済み。
「ごめんね。飽きた」
無手は腕をかざした。
大晃が見過ごしてしまうほどに、無造作にである。
一体何をしているのか?
思いもがけない言葉と動作に沸いた疑問。
それらを置き去りにして大晃の肉体が駆動していた。
元より、ここは精神世界である。
大晃の肉はここに存在しない。
ここにある肉体は所詮、魂、あるいは精神の核が形をとっているに過ぎない。
その証拠に現実では痩せ細っている大晃の肉体は、今、闘うのに最高の形となっている。
しかし、そのイメージをなんと呼べばいいのか。
そう問われて答えるとすれば、肉体という他なかった。
収縮と拡大を複雑に繰り返す筋肉により、関節が回転し、その回転のエネルギーが一点へと収束する。
野生の獣ですらも習得していない、鍛錬の繰り返しによってのみ獲得できる動作。
滴り落ちる汗の匂いすらも、嗅ぎとれるほどの見事な動き。
大晃のイメージは正しく、最高の肉体として機能していた。
その大晃がいた地点を何かがえぐった。
それは衝撃波であった。
進路上の何もかもを吹き飛ばす、極小の竜巻。
竜の咆哮のような轟音と共に、胴体をくねらせた竜が、大地を抉っていく。
「こいつは……」
「確かにここはあなたの世界……でもね、もう違うのよ」
「……!?」
「この世界の半分はもはや、私のもの……」
無手が腕を大晃へと向けた。
竜の巨大な眼が放つのと同等の圧力が、腕の射線上に放たれている。
大晃は再び横へと跳んだ。
飛んだ瞬間にもう、その空間は竜によって喰い破られている。
「あなたのイメージ操作力には驚いた……、痛めつけられた肉体と精神でそこまでのことが出来るなんて、凄いよ。
あなた程度の人間にしてはね……」
竜が無手の腕から放たれた。
その度に大晃は跳んだ。
上に、下に、縦横無尽に跳ねる大晃を追って竜が飛び、その余波で大地が抉られ、削り取られていく。
その結果、生まれるのは、深さ数十メートル、幅が短くとも五メートルという深く広い溝である。
世界の土台が壊れる終末の光景。
世界の終わりを大晃は跳躍していた。
「自己を強固に確立することは所詮、精神運用の基礎の基礎に過ぎない。イメージ操作とその活用においては、その先がある」
天から降り注ぐ無数の水滴が大地とぶつかる時に生じる、湿った音。
その湿った音ですらも潤せぬような、乾いた声だった。
興味を無くした玩具を、手持ち無沙汰に弄ぶ。
無手はどうやらその程度の意識で、この破壊行為に及んでいるらしい。
「意思の力の一端を空間に放つ。それは数ある闘法の中でも、奥義に位置する……私にとっては些細なことだけれどね」
無手はそう言いながら、ようやく、笑った。
技を存分に放つ快感。
それに伴って現れる、目的へと近づいている実感。
その二つで無手は笑ったのである。
壊れるおもちゃを見て笑う、悍ましい無邪気さであった。
「ふふん。やっと楽しくなってきたわ」
無手がその本性を僅かに、表に出した。
純白のワンピースには似合わないどす黒い表情。
人の有機的な表情を虫が真似たような怖い顔。
その顔を見た大晃の肉が新たな駆動を始めていた。
それは今までに見せていなかった新たな動きであった。
「え!?」
だから、それは仕方がないことだった。
無手はその一瞬、表情を崩していた。
年相応の少女のような、もっとも無手の実年齢は不明であるのだが、外見相応のあどけない表情になっていた。
予想外のことが起きた時、人はこういう顔をする。
特にそれが絶対にあり得ない、と思っていたことが実際に起きた時にはだ。
しかし、無手とて猛者だ。
恐らく、悠久の時を生きてきたであろう、生命だ。
一瞬で立て直して、前へと出て行く。
拳を前に放つ。
が、それは当たらなかった。
「やっと、笑ってくれた」
大晃の拳が無手の懐に突き刺さっていた。
嬉しそうに頷きながら、大晃は更に拳を放つ。
左の拳を――。
無手はそれを右手で防いだ。
その時、もうすでに大晃の肉体の内では無数の動きが生まれていた。
蹴りと拳のコンビネーション。
肉に生じた動きを、四肢がなぞり、更に動きが生じ、更に四肢が呼応する。
無限に続く、円環のごとき動きに止める術などない。
そのことを察して無手はあえて一撃を受けた。
顔面に重い衝撃があった。
しかし、拳が最大威力を生み出す前に受けたために耐えきれない程ではない。
大晃の動きが止まった、一瞬で、無手は意思の力を一点に収束させた。
そして、それを放つ。
「喝ッ!」
「ぬお!」
無手を中心に広がった放心円状の薄い膜。
それが大晃を吹き飛ばす。
大晃はかろうじて体勢を立て直した。
無手の『竜』によって不安定となった大地に着地し無手と向き合う。
睨み合う両者。
無言であった。
無手の方から口を開いた。
「あなた……使ったわね?」
「ふふん」
無手はまだ驚愕を消化しきれていなかった。
大晃が無手へと接近した方法は、絶対にないだろうと思っていた方法なのだ。
「まさか、私の『竜』に突っ込んでくるなんて」
大晃は無手の放った衝撃波、竜と名付けるのに相応しい、それに自ら飛び込んだのだ。
しかし、大晃は竜によって傷を受けてはいなかった。
己の意識の存在感をほとんど零まで薄めることで、すり抜けたのである。
竜は空間を食い破りはしたが、空は空だ。
如何なる存在であろうと、空を侵すことなどできはしない。
大晃は駆動する力の塊であるのと同時に、空となっていたのだ。
「……よくもまぁ、やってくれたわね」
「いやぁ、それほどでも」
「謙遜はやめて。自己の意識を希薄にすること自体は簡単だけど、希薄になり過ぎれば存在そのものが消えて無くなる。
自己のイメージを保ちながら、なおかつ、己を希薄化させるのは高等技術よ。しかも、動きながらなんて、普通できない。
どこかで淀みが生まれる。でもそれは、つまり――」
途中から会話の体をなしていなかった。
ただ一人、無手は己の考えをブツブツと呟いている。
無手は考えがまとまったのか、顔を上げた。
「なるほどね、もう単純に『竜』は効かない、と」
「まあ、そうなるかな」
「ふぅん」
「なあ、嬉しいだろう」
「何が?」
「壊れたと思ったおもちゃが、存外壊れにくくてさ」
「……」
「俺はよう、知恵の輪だよ」
「知恵の輪?」
「ああ、俺を壊すならな、もっと丁寧にやらないとなぁ」
「……面倒臭いなぁ」
無手は、しかし、冷めていた。
もとより、どうせ解ける問題である。
その過程を楽しむ心が湧いたのは確かである。
だが、それは一瞬の陶酔に過ぎない。
目指すべきは『永遠』だけ。
それが手に入る喜びはあれども、その過程に、さしたる興味もない。
無手の本質的に大晃の存在はやはり重くはない。
「まあ、どうせすぐ解けるだろうけどね」
「ああ、試してみてくれよ」
再びやり取りが始まった。
一連の大晃と無手の闘いを克明に記録しているものがあった。
大晃は端末を通して仮想現実へと赴いている。
そして、端末は施設へと繋がっていた。
施設とは、IS学園の地下空間に建設された、研究施設のことである。
もともと、IS学園は研究施設を作る予定があった。
目的の中には仮想現実の構築がある。
それに、金子昇が注目したのである。
金子は研究の成果をIS学園に引き渡すことを条件に、この施設の一部を間借りしたのである。
その研究の成果により、仮想現実の技術は秘密裏の発展を遂げた。
そして、この施設のメインコンピューター。
仮想現実を他社の眼に映るように構築し、大晃をそこへと誘った、機械はこの闘いを、刻一刻とメモリに収めていた。
種々のパラメータも共に。
「ふぅむ」
広々とした空間は静かであった。
無音ではない。
それぞれの機械を繋ぐ機関が生む音。
それらが無数に重なり合って、低く積み重なっている。
その静かの音たちの上で、金子は頷いていた。
闘いは簪が空中に投影した大型のディスプレイに映されている。
金子は闘いの流れが悪くないものだと判断していた。
大晃は闘いの流れを掴むのが上手い。
自己を操作する方法も心得ている。
一夏たちの助けが入るにしても時間がかかる。
それまでは大晃が実力で粘るしかない。
そういう心配を金子は事前にしていた。
だが、これならば――。
ひょっとすれば、自力で倒せるやもしれない。
金子の頷きにはそういう響きもあった。
「あー、これはダメだね」
突如、声があった。
若い女の、あっけらかんとした声であった。
希望を塗りつぶす声であった。
金子が振り返った。
金子だけではない。
この場にいる、スコール、オータム、簪もまた、束へと視線を向けた。
「……束博士か」
金子の口から出たのは、世界に存在する天災の一つの呼び名であった。
束はディスプレイを見ている。
ディスプレイに向けていた視線が、金子へと移った。
束はにんまりと笑ってみせる。
「金子先生、お久しぶり」
「お前さんがどうしてここにいるのか……聞くだけ無駄なんじゃろうな」
「この私は思い立てば何処へでも行ける、ってそんなことは今更なのだよ」
「しかし、ここに来る間にはセキュリティがあった筈だが」
「ふふーん。この私にとっては、あんなものを解くのは、朝飯前どころか、その前の晩の夕飯前なのだよ」
何層もの防壁を敷き、更には二重三重に検知システムを張り巡らせてある、IS学園の誇るセキュリティ。
しかし、防壁には突破された形跡すらなく、検知システムも侵入者の存在を感知してはいない。
最高難易度のセキュリティを難なくすり抜ける、その在り様は如何に束が規格外であるのかを物語っている。
千冬を除く、金子以外の人間は、その異様な存在に身体を強張らせた。
「なるほど、しかし、それはおかしい」
「おかしくないよ」
「では、そこにいる娘は、一体なんじゃ?」
金子の指がある一点を指差した。
曲がりくねった管が作り出した、深い影である。
一見するとそこには何も見えない。
しかし、束はその金子の仕草を見て観念したかのように、手を挙げた。
「恐らく、その娘さんが、道中のセキュリティをどうにかして来たのじゃろう」
「なぁんだ。気がついていたんだ……」
「わざわざ、隠すことでもあるまい。呼んだらどうじゃ」
「出ておいで。クーちゃん」
束が暗がりへと声をかける。
すると、少女が現れた。
華奢な身体を、ゴシック調のロリータドレスで包んでいた。
陶磁器のように肌が白いことも相まって、儚い少女である。
どことなく、ラウラとも似ている。
少女はスカートの端を両手で掴んで、慇懃に頭を下げた。
「皆さま、お初にお眼にかかります。クロエ・クロニクルと申します」
クロエは頭を上げると、金子の顔を見つめた。
ほとんど無表情に見える、その顔は、薄くではあるが歪んでいた。
口を開いて、文句を言いたい。
しかし、今、会話をしているのは束であって、それに割り込むのは憚られる。
そういう葛藤があるらしい。
金子はそれを察して、クロエへと訊いた。
「儂に何かあるのかな?」
「……私は何もしておりません」
「ほう!?」
クロエの声には力があった。
何物かに対しての強い否定である。
華奢な見た目に反して力強い物言いに、金子の興味は移った。
「確かに私はここに来るまでの間、束様に代わり、感知されることなく防壁を解除してきました。
しかし、それは私の力ではありません。束様に授かった『ある物』のお陰です」
「その『ある物』とは?」
「そこまでは言えません。ただ――」
「ただ?」
「私がここまで束様を案内できたのは、全て束様の采配によるものです。
束様を嘘つき呼ばわりしないで下さい」
クロエは金子から目を離さなかった。
睨む、という風ではないが、熱のこもった視線を向けている。
無表情、しかし、その下には人間らしい感情がほとぼしっている。
怒り。
その感情が驚きへと変わった。
金子が孫をかわいがるような顔をしたからである。
クロエは少したじろいだ。
「悪かったのう。儂もそういうつもりで言ったわけではないのだが、すまなんだなぁ」
「……分かってもらえればいいんです」
クロエの返答を聞いてから、金子は束を見た。
「お前さん、いつの間に、娘なんぞこさえたんじゃ?」
「拾ったんですよ」
「何処でじゃ?」
「ドイツの研究機関……ここまで言えば、分かるんじゃないかな」
「十分じゃ」
ドイツで行われている、クローンの研究。
一部が実用化され、クローンの兵士の『製造』されていることは、金子も耳にしている。
「随分、懐かれているんじゃな」
「クーちゃんは忠犬だからね」
「大切にしてやることじゃな」
「言われるまでもないよ」
そこまで、話をしてから、金子は本題へと入った。
「お前さんは先程、これではダメ、と言ったのう。それ一体は、どういう意味なんじゃ?」
金子の瞳がきらりと光った。
簪は不安でたまらなかった。
束はISを生み出した『天災』である。
たった一人で世界の軍事力の根底をひっくり返した恐るべき存在だ。
その束が笑みを浮かべて、表示しているディスプレイを見ている。
ディスプレイを表示している簪にとってはこれが恐ろしい。
どのような些細な綻びでさえ、綻びとも言えないほんの少しの緩みさえも、束には手に取るように分かるだろう。
それを無遠慮に指摘されるかもしれない可能性は簪を不安にさせる。
疑問もある。
束は人に興味を持たない、ということはすでに知られていることだ。
そして、興味のない人間には冷淡かつ辛辣なのが束という人間のはずだ。
その束がどうして金子を先生と呼ぶのか?
それが簪には分からない。
「束」
「ちーちゃん、やっほー、遂に現役に復帰したんだね。いやぁ、感謝しなくちゃねぇ」
束の言葉には酷な響きがある。
感謝。
それは、今回の出来事について言っていた。
そもそも、千冬が現役に復帰したのは、出現した無手に対抗するためであった。
大晃の死をトリガーに現れるであろう無手を誰かが止めなければいけない。
そういう役目を千冬は己に課したのだ。
場合によっては、教え子を殺すことを千冬は覚悟している。
その千冬の覚悟をこの場にいる全員が、簪も含めて理解していた。
だから、感謝という言葉を束が吐いた時、簪はふざけるな、と思った。
もし、本当にそう思ったとしても、千冬の前で言って良いことではなかった。
簪は思わず束に怒鳴りそうになった。
「更識、お前はこいつの相手をするな。集中していろ」
「そうだよー。大ちゃんが死ぬか死なないかは、君次第なんだからね。
それに君みたいな凡人が私に口を聞くだなんて、ましてや説教しようだなんて、百年早いんだよー」
「……ッ!?」
千冬の声で簪は堪えた。
簪は思い直す。
今は大事な闘いの最中である。
仲間を大晃の精神内に飛ばして、その状態で安定させる。
それは至難の業だ。
胸の中に雑念がある状態で、それを成せるとは思えない。
束の言葉はいちいち癪に障るが、相手にしていられない、と簪は意識を手先、足先へと向けた。
束ももう、簪のことを見ていなかった。
「束、提案がある」
「提案?」
「束、お前見物に来たんだろう」
「まあね」
「ならば、わざわざ立ち見をする必要もない。椅子を用意するから、金子博士と一緒に座って見物すればいい」
千冬が金子へと向き直る。
「金子博士、構いませんか?」
「うむ。千冬殿がそうおっしゃるならば儂はそれでいいよ」
「そういうわけだ、お前もまさか断らないよな?」
「むむむ……」
束が考え込んだ。
「なんか、不気味だね」
「不気味?」
「ちーちゃんがいつもより優しい。なんか怖いな」
「別に優しくしているつもりはないさ。お前らをここに座らせるのにも、理由がある」
「理由が」
「何処かでうろちょろされるより、私の眼の前にいてくれた方が安心できるってことだ」
「なるほどねー」
「早く決めろ、その程度のことで迷うタマじゃないだろう、お前は」
「……分かった。座るよ。クーちゃんもそれでいいね?」
「私は束様に従います」
手頃な椅子が三つ用意された。
それに束、クロエ、金子が座った。
金子が改めて問うた。
「それで、一体何がダメなのじゃ」
束は答えた。
「大事なものを、置き忘れている」
「大事なもの?」
「精神世界に行っちゃった時にね、大事な物を置き忘れちゃったみたいだねー。どうにも」
「それは一体?」
大晃が置き忘れたのは、自身の一部といっても過言ではなかった。
「記憶だよ」
「なんじゃと!?」
その時だった。
互角に推移する闘いに変化が起き始めていた。
再び、場所は精神世界内に移る。
大晃と無手の闘いは、ほぼ互角に推移していた。
仮想空間内でのテクニックに関して、未だに発展途上であることを考えると、伸び代のある大晃の方が優勢である、という見方もできる。
「やはりね……」
なのに、この無手の態度はどうだろう。
どういう経路であろうと自分は目的地にたどり着く。
目的地にたどり着くのなら、その経路が何であろうと、些細な問題だ、と無手の乾いた表情が言っていた。
「あなたでは私に勝てない」
「ゲホッ!?」
異変が起きる。
ただ、無手と向かい合って、構えていた大晃。
突如、咳き込んだのである。
無手の打撃も衝撃波を受けた痕跡もないままに。
大晃には原因が分かるわけもなかった。
何故なら、己に足りない物を全く自覚していなかったのだから。
「ふふふ、無様ね。やっと、私好みの展開になってきたわ」
謎のダメージ。
その対処方法を大晃は知らない。
だから、助けが必要だった。
「助けに来たぜ」
背後から届いた声。
大晃が即座に振り返ると、そこには一人の男がいた。
白銀のISを纏った一人の男である。
「大丈夫か?」
一夏がやって来た。
簪による、精神の転送がようやく完了したのだった。
「何でこんな所に俺以外の人間がいるんだい?」
しかし、妙だと一夏は思った。
大晃の態度が見知らぬ、誰かに対して向けるそれであった。
それに大晃の言葉も今更すぎるものだ。
既に、一夏がこの仮想世界に赴くことも知っていたはずなのに、まるで、全てを忘れているかのようだった。
まさか、そんなはずは――。
一夏がそう思う暇もなく、大晃は言った。
「お前さん……、一体誰だい?」
「え?」
大晃はそう言って怪訝な顔をする。
それを見て、無手は禍々しく言った。
「あなたを痛めつけた甲斐があった」
驚愕から生まれた一瞬の隙をついた『竜』が二人に襲いかかった。