「くちゅん!」
論文コンペが行われた京都から帰宅した日曜日の夜。練馬の自宅でリビングのソファに座っていた僕は、
「くゅちゅっん!」
身体が熱っぽくて、くしゃみが止まらなくなっていた。自分でも思うけれど、可愛いくしゃみだ。
僕は起きているうちは『回復』で体調は改善されている。病気にかかったことはこれまでに一度も無かった。
でも、何と言うか、気力が抜けたとでも言うのだろうか、『病は気から』とも言うし、要するに…
「風邪をひいたのね」
ジャージ姿の澪さんが僕の額に手を当てる。澪さんの手は冷たくて気持ち良い。
「あら、澪さん、それじゃぁ熱は測れないわよ」
「え?」
響子さんが小悪魔的笑顔で、澪さんを押しのけると、風呂上りの、良い香りのする身体を少しかがめた。薄いシャツから谷間が見える。ドキッ!
「くすっ」
響子さんの笑顔が僕の呼吸がかかる距離にまで接近する。
左手で自分の、右手で僕の額の髪の毛をそっと上げると、響子さんの額が、僕の額にぴったりくっついた。額だけじゃなくって、鼻の頭もくっついている。
「きょっ響子さん?」
「動かないのじっとして」
響子さんの眼から、視線を外せない。知性と稚気が混じった瞳に吸い込まれる…
鼻の頭以外に、柔らかい胸もむにむに当たっているよ。もしかして、下着つけてないの!あっボタンが外れて、シャツが肩からずり落ちて…うん、わざとやっている。
ますます熱が上がりそう。ドキドキ。
そんな僕の態度に、響子さんはにんまりする。ああ、ストレスが溜まっているんだね。
響子さんの帰宅も、僕と同じで日付がかわる頃だった。デスクワークが基本の響子さんは土浦の基地からでも、いつもは19時には帰ってくる。
周公瑾さんの逃亡を手助けしていたのが、宇治駐屯地の軍人だったこと、
昨夜駐屯地と周辺で爆発騒動が起きて(報道では単なる事故で済まされていたけれど)、国防軍が蜂の巣を突いたような事態になっているだろうから、響子さんも表情は少し暗い。
そりゃ、自分と同じ部隊に所属する達也くんが駐屯地を襲撃した張本人なんだから、ストレスも溜まるはずだ。
しかも、弟のような光宣くんが宇治橋のど真ん中で『魔法』をぶっ放して、周さんが逃走用に乗っていた自動車を爆破しているし…これくらいのいじわるは…我慢だ。ドキドキ。
僕はと言えば、その時、宇治川の上流で、晩秋の冷たい風に一人吹かれていた。
寒冷化時代の晩秋だ、デニムにパーカー姿の僕は、身体は頑丈ではないし、白いふくろうの姿は儚げで幽霊のようで、僕の魂も少し持っていかれたような気分になった。
土曜の夜は、一高定宿のホテルで寝ないで勉強とアーカイブを見ていたし、コンペ後の帰りのバスではうとうとしていたけれど、嫌な夢は見なかったから、その頃から調子が悪くなっていたんだ。
そういえば、帰りのバスの中は静かだったな。優勝を逃した五十里先輩が落ち込んで、花音先輩が大人しかったからなんだけれど…
「響子さん!いじわるはそれくらいで。うぅん、38度3分…久君は平熱が低いから、普通よりは高熱ね」
僕が発熱しているのは、一高の保健医の安宿先生でなくとも簡単にわかる。
澪さんが念のため体温計で熱を測ってくれた。僕の平熱は36度ない。人間、体温が2℃も上昇すると結構きつい。でも『回復』のおかげかそれほど身体は辛くない。
まぁ僕だって、たまには風邪くらいひくよね。何だか、普通の人間ぽくって、奇妙な気分だ。体調が悪いのに、ちょっと嬉しい。
「ん、平気だよ、たいして辛くないから、明日は学校に行けるよ」
「「休みなさい!」」
二人の声が綺麗にハモる。はい、お休みします。
美女二人が、甲斐甲斐しく看病してくれたし、『回復』もあって風邪は一日ベッドで横になっていたらすぐ治ったけれど、こう言う時の澪さんは僕にすごく甘いから、もう一日お休みをする。火曜日は二人してただの引きこもりだった。その間、家事をさせてもらえなくて、落ち着かなくて、普段しない場所の掃除をし始めて澪さんに怒られるのも、毎度の光景だ。
水曜日、すっかり体調も良くなった僕は、足取りも軽く一高に向かう。
コミューターで最寄り駅まで向かって、キャビネットに乗り換えるんだけれど、
「あれ?」
先週まで沢山いた、珍獣(僕だ)見物のギャラリーが全然いない。キャビネットの順番待ちの列に並ぶ僕に視線を向けてくる市民はちらほらといるし、魔法協会が雇った警備と警察官は、緊張感を持って鋭い視線を周囲に向けているけれど…何があったのかな。別に芸を見せるわけでもないし、一ヶ月程度の騒ぎだって言われていたから、まぁ、珍獣見物も飽きたんだと思う。
自分の番になってキャビネットに乗る。一高前駅までの往復のICカードをキャビネットの読み取り部に水平にかざすと、ウィンドウの隅に行き先が表示された。一高前駅。キャビネットは静かに発進する。キャビネット内は一応、安全だ。僕もなけなしの警戒感を解く。
流れて行くいつもの風景をぼうっと見つめていたら携帯電話が鳴った。
僕が名ばかり副会長になってからは一高前駅で達也くんや深雪さん、水波ちゃんとは待ち合わせをしている。今日は病気も治ったから登校することは昨夜メールで知らせてある。その待ち合わせの事かなって、端末のディスプレイを確認すると…
「あっ、『真夜お母様』からだ!」
電話の相手は『真夜お母様』だった。もしもしと、僕は元気良く電話にでて、朝の挨拶をかわす。『真夜お母様』のお声は、今日も素敵だ。どこで、どんなお姿で電話してくれているんだろう。僕は右手薬指の指輪を見つめながら、『真夜お母様』の事を想像する。
「今回は達也さんのお手伝いをしてくれたそうね。ご苦労様」
「ううん、僕は橋の上でぼうっと立っていただけで、何もしていません」
もっと、達也くんや『四葉』のお手伝いをしたいけれど、僕の立場では簡単じゃない。僕は『九島』側の立ち位置だ。今回は利害が一致したけれど、『四葉』のお仕事に僕は深入りできない。同じ十師族として『四葉』と『九島』が仲良くなればって思う。僕の存在が橋渡し、鎹になれれば…
「でもそのせいで風邪をひいたんでしょう?」
風邪で休んだことも知っているのか、さすがは『お母様』だ。いや、『お母様』なら子供の体調を知っているのは当然だ。
「季節の変わり目だったから、たまたまですよ」
「そう?ウチの経営するスパで療養なんていうのもいいけれど?」
「あっ、行きたいです。『真夜お母様』にもお会いしたいし…」
「夏に会っているけれど、そうね冬休みにでも五輪澪さんと一緒に来るといいわ」
「いいんですか!?」
「ええ、この国を護る『戦略級魔法師』お二人の緊張をほぐすのも『十師族』…、いえ久の『お母様』として当然ですもの。澪さんには清里の温泉に行くって誘いなさい」
『四葉家』の場所は秘密にされている。他の『十師族』も具体的な場所は知らないそうだ。もっとも烈くんや『電子の魔女』は知っていると思うけれど。清里は『四葉家』の本拠地のすぐ近く、勢力範囲内だ。
『四葉家』はさまざまな収入源があるそうで、清里にある高級リゾートスパもそのひとつ、大きなホテルじゃなくて一日数組限定の隠れ里みたいな宿だって。
僕としては、『真夜お母様』のお家の温泉に行きたいけれど。
「響子さんも誘って良いですか?」
「いいわよ、でも藤林さんは、お仕事で来られないでしょうね」
今の時代、年末年始に休日というのは公的機関、とくに防衛省や国防軍にはないんだそうだ。世界は動乱期だし、社会人は大変だなぁ。
その点、澪さんは自由業(ひきこもり)だから、スケジュールさえ事前に決めておけば、日曜も平日も関係ない。
『戦略級魔法師』として重圧に耐えている(そうは見えないけれど)澪さんに温泉宿でリラックスしてもらうのも国策に適っているよね。
入浴以外は、持ち込んだアーカイブを見て部屋に引きこもると思うけれど。
大きなテレビのある部屋だといいなぁって、澪さんの泊まる部屋は大概超スィートルームだからその心配は無用だ。
ただ、冬休みまでは二ヶ月もある。
「そうねぇ、それじゃ、お礼とお詫びを兼ねて良いものをプレゼントするわ」
メールの着信音。添付ファイルがある。携帯端末のディスプレイに、今度の日曜夜、都心にある遠月レストランのディナーのペアチケットが表示された。
「これは?」
「『彼女』とのデートに使うと良いわ」
彼女って何のことだろう…誰のこと、かな?
「『真夜お母様』と行きたいです」
「あら?私が良いの?でも、その日は用事があって行けないの。好きな娘と行って来なさい…」
「好きな子はいないけれど…?」
あっ、でも、これまでいろいろあって果たせていなかった香澄さんとのお買い物の約束があった。香澄さんには迷惑をかけているから、このお食事は香澄さんと行こう。
「ありがとうございます、『お母様』!」
「楽しんでいらっしゃい」
その時、『真夜お母様』がどんな表情をしていたのかは、当然、僕にはわからない。
一高前駅でキャビネットから降りる。ここで達也くんたちと待ち合わせをする。
何十人もの一高生徒が次々とキャビネットから現れて、一高に向かっている。顔見知りは…
あっ、香澄さんと泉美さんがいる!双子も僕に気がついた。つい数週間前なら、物陰に双子を警護する名倉さんがいた。でも今は別の警護がいる。顔見知り(双子に紹介された)だけれど、一応の警戒として、今頃、僕の存在に注意を向けているはずだ。
「香澄さん、泉美さん、おはようございます」
僕の声が、意外と大きくキャビネット乗り場に響いた。
二人にむかってとてとて歩く僕は、ふと、駅前の風景がこれまでと違うことに気がついた。
先週まで警察の手を煩わせていた、僕を見物する数百人のギャラリーの姿がなくなっていた。いなくなったわけじゃないな。今朝は20人程度が、こちらを遠慮気味に窺っている程度に激減していた。土曜まで、4日前との劇的な違いに、きょとんとする。二日学校を休んだだけで、いなくなるものかな?
「おはようございます、久先輩」
「おはようございます、久先輩。体調は…よろしいみたいですね。どうしたんです?」
香澄さんが僕の挙動に不審を抱いた。
「うん、あんなにいた観客が今日は全然いないなって思って」
「ああ、月曜日から来なくなりましたね」
「ひょっとして、寂しいんですか?」
香澄さんが、ジト目で、少し不機嫌になった。
「違うよ、むしろ、ほっとしているよ。これで衆目を気にしなくて…まぁ僕は引きこもり…あっそうだ、だったらちょうどいい」
僕は香澄さんに、延び延びになっていたお買い物の約束の話をする。さらに、ディナーの招待の話をすると、こちらも劇的に機嫌が良くなった。
じゃあ日曜日買い物に、と素直には決まらないのが、僕達の立場だ。香澄さんと約束をとりつけると、僕も香澄さんも関係各所に連絡をすることになる。
香澄さんは『七草家』御令嬢として、僕は『戦略級魔法師』として、いろいろと手配が必要だ。普通の高校生ならプライバシーの問題で悩むところだけれど、香澄さんは、それが日常だ。
香澄さんは、名倉さんの事件以降、少し考えがちになっていた。またぞろ、父親が画策していたんじゃないかって。
ただ、土曜日、犯人が『逮捕』されたって真由美さんに教えられて、泉美さんともども落ち着きを取り戻していた。香澄さん的にも僕とのお買い物は気分転換になるんじゃないかな。
僕は、荷物持ちには頼りないけれど、香澄さんのその機嫌の良さは、達也くんと合流してもかわらなかった。地に足がついていない。そんなに遠月のディナーが楽しみなのかな。僕もディナー楽しみだ。僕は色気より食い気だ。
今朝は達也くんと深雪さん、水波ちゃんに、双子に僕のメンバーで一高までの通学路を歩いていた。達也くんに観衆の話をすると、
「論文コンペでの光宣のデビューが鮮烈だったからな、世間の注目は今は光宣に向いている」
なるほど。論文コンペでのプレゼンは、当然、全国にも中継されているし、情報端末でもいつでも映像は見ることが出来る。
魔法師の歴史においても光宣くんの論文は画期的で、しかも『系統外魔法』は世間からすればオカルトの類で関心が高い。
本来ならコンペは九校戦よりも関心が低い、というより殆ど関心をもたれない。
同じように論文で有名になったジョージくんが『重力系』で玄人受けするのに対して、一般受けする論文の、神秘的で、目に見えないものを見えるようにする内容は、光宣くんの容姿とあいまって、今、世間の話題を集めているそうだ。
なるほど、見た目が男の娘の僕よりも、絶世の美少年の方が人気が出るしね。所詮、世間は『戦略級魔法師』という存在意義ではなく、肩書きや上っ面しか見ていない。むしろ、この距離感が通常で、世間の『魔法師』への誤解や不安に繋がっている。
今頃、二高の通学路には、黄色い悲鳴が上がりまくっているんだろうな。
僕に対する世間の興味なんて、秋の団扇のように、簡単に忘れられる程度の興味だった。おかげで僕は通常の学生生活に戻れるわけだ。
だからと言って油断は禁物だけれど。自分の身は、大切な人は、自力で護らなくてはいけない。
魔法科高校は、入学式、卒業式、九校戦と論文コンペしか行事が無い。だけれど、部活動がある以上、当然、対外試合や大会がある。魔法系も非魔法系の部活もだ。
11月にはさまざまな部活動の大会が行われていた。秋…いや、初冬のこの時期は、三年生が引退して、二年生と一年生が主力になる大会だ。
魔法科高校の生徒は部活動に熱心だから全国大会ともなると、その力の入れようはかなりのもので、放課後の部活時間中、校内のあちこちから怒号じみた歓声や『魔法』による爆発音が起きていた。
大会の結果は、部費に反映されるから、みんな必死だ。ちなみに、料理部に試合は…ない。でも、料理部は所属人数が多いから(半分は幽霊だけれど)、部費は潤沢だ。
試合会場への移動は、個人でなら公共交通機関を利用するけれど、団体での場合はクラブからの要請で、生徒会がバスの手配をする。引率の教師は、当然、いない。
情報のやり取りは、基本、校内端末で行う。
他の情報と混線なんて事はまずないけれど、人的なミス、入力ミス、勘違いの類はあるから、どう考えてもおかしな要請は生徒会からクラブまで人をやって確認を取る必要がある。
特に、秋から初冬の大会は三年生が引退をして、後を引き継いだ不慣れな部員が入力をするのでミスが多いんだそうだ。
一高の剣術部は団体で東京都代表として全国大会に出場が決まっている。魔法競技の剣術は競技人口が少ないから、高校生以下の大会は、大概魔法科高校の部活が県の代表になるそうだ。
大会会場は九段下の武道館に併設された体育館で、武道系の『魔法』競技の全国大会は多くがここで開催される。
荷物もあるので試合当日の朝、一高に集合してからバスでの移動になるそうだけれども、要望のバスの座席数を確認すると、部員数よりあきらかに多い。
引退した三年生が応援で一緒に会場入りするのは問題ないけれど、こちらは自由参加だから、それを考慮に入れても数が合わない。
「三年生も全員、一高に集合してからバスで移動する事にしたのかなぁ?」
生徒会室でバスの手配を担当していたほのかさんが疑問の声をあげる。
「これは、現役の剣道部員も数に入っているのかもしれないな」
「剣道部も…当日試合はありますが…全国大会に出場した選手は壬生先輩が引退した後は…ああ、応援ですか」
深雪さんが頷く。剣術は『魔法』と剣道を足したスポーツで人口当たりの競技人数は当然、剣道よりも少ないけれど、『魔法師』には人気の競技だ。剣術の術は術式の術なんだそうだ。
大学や警察では必須の技能だから、成績上位者ともなると卒業後の進路にも影響がある。
剣道は『魔法』を使えない一般人も出来る競技だから、全国的には競技人口は剣術より多いけれど、『魔法』が使える魔法科高校ではそれほど盛んじゃない。
壬生先輩…あぁ桐原先輩の恋人だ。九校戦のシールドダウンの練習中、桐原先輩を一生懸命応援していたし、コンペの時も警護担当だった。
僕との接点はあまりなかったけれど、剣道部員だったんだ。剣道部と剣術部の関係は去年の一時期までは険悪だったそうだけれど、部長同士が恋人だから、今ではすっかり仲が良いそうだ。
そんな事をぶつぶつ考えていると、達也くんが立ち上がった。
「俺が闘技場に行って確認してこよう」
端末で確認すれば良いのではと思うけれど、口頭でやり取りした方が、新しく部活の幹部になった生徒の錬度も上がるかもしれない。
京都でのコンペが終わって、生徒会も余裕が出来ていた。
足手まといの僕が生徒会室にいるのは、月曜と火曜日の放課後に生徒会室で行われたコンペの反省会に参加していなかったから、そのレポートを読まされていたんだ。反省会は、五十里先輩とあーちゃん先輩がそれはもう落ち込みまくっていてお通夜みたいだったそうだ。参加しなくてよかった…そもそも光宣くんと正面からぶつかって勝てるわけがない。理論も『魔法』もだ。
僕が光宣くんの参戦を黙っていた…のは仕方がないよね。
ちなみにレポートを僕が読んだ所で…と言う意見は、深雪さんの視線に封殺された。
達也くんが携帯端末を片手に立つと、「では、私も…」と深雪さんが着いて行きたそうな表情をする。留守番の子犬みたいだ。
深雪さんは、いつも一緒なのにちょっと離れるだけでもこんな表情になる。ちょっと過敏すぎるのではと思うけれど…ん?その表情は、これまでよりもどこか憂いが深い、気がする。
僕は深雪さんの表情を読むことに関しては、達也くんレベルかそれ以上だと勝手に自負している。深雪さんは、なにか悩み事があるのかも。それも人に言えない類の悩み。
達也くんは、そんな深雪さんを一瞬見つめた。達也くんも、当然ながら深雪さんの変化に気がついている。
奇妙な空気が生徒会室に満ちる。またか、と僕も小さな身体をさらに小さくしてレポートに集中、空気に巻き込まれないように避難する。
この生徒会室はいつもこんな感じだ。思春期の男女が狭い部屋に集まっているのだから、色々な感情が湧き上がるんだろうけれど…
副生徒会長の泉美さんの肩が少し落ちる。泉美さんは深雪さんの信奉者だけれど、この雰囲気だけは許容できないみたいだ。
水波ちゃんは、その雰囲気を極力無視して、自分の作業をしているし、ほのかさんは「だったら私がついていく…チャンスかも」とか考えて、椅子から腰が浮きそうになっている。雫さんは、現在校内の見回り中だ。『ピクシー』は壁際で、無表情。低周波のような羽音が、僕の『精神』に時折響くけれど、何を思っているかはわからない。
恋愛感情は理解できないし、思春期でもない僕は、何とかこの雰囲気から脱出する手段はないかと考える。
達也くんの視線が、すぅと僕に向けられた。
「久も一緒に来てくれないか」
「ん?僕?」
その僕の逃亡の手助け…を達也くんがしてくれるわけが無い。こう言う時の達也くんは非情なのだ。いつもなら僕はこの場に残されて、深雪さんのストレス発散人形になる…
僕は生徒会役員らしい仕事は免除されている。僕の一番の役割は、深雪さんのストレス対策だ。達也くんは無駄なことはしない。僕を連れ出したいわけがあるんだ。
深雪さんも、すぐにそれを察する。深雪さんが恋する(?)妹から、生徒会長モードに切り替わった。それだけで、生徒会の雰囲気が一変した。
光宣くんもそうだけれど、存在感のある人物は周囲への影響が強すぎる。その点、普段牙を隠している僕は、存在感が微妙にない。
「ん、わかった。じゃあ、僕はそのまま料理部に戻るね」
端末のディスプレイを消して、達也くんに続く。
「久」
「何?深雪さん」
「そのレポートは、ちゃんと全部、目を通すのよ。明日も、生徒会室に来るのよ」
重要なレポートは生徒会室の端末から外に持ち出すことができない。僕が、レポートを全く読んでいなかった事を、深雪さんはこれまでの経験から気付いている。
この雰囲気の生徒会室は、遠慮したいんだけれどなぁ。風紀委員長の幹比古くんが、雫さんと違って近寄らないのはこのせいだ。
生徒会で名ばかり副会長の僕は、達也くんの後ろについて剣術部のある第二小体育館に向かう。
達也くんは背が高いから、後ろを歩く僕の視線には大きな背中しか見えない。相変わらず背筋を伸ばして、前をしっかり見ながら歩くなぁ。
でも、僕の歩く速度にあわせてくれる気遣いは、いつものことだけれど、嬉しい。
達也くんは僕から話しかけないと、基本無口になる。その灰色の脳細胞で色々な事を思考しているんだ。僕のポンコツ脳とはレベルが違う。
ふと、ひと気がなくなった渡り廊下の入り口で、達也くんが立ち止まった。僕も立ち止まる。振り返って僕を見下ろす達也くんの表情はいつも通り、無い。
「久は、どうしていつも俺の後ろを歩くんだ?隣を歩けばいいだろう」
「え?だってそこは深雪さんの居場所だよ。僕のじゃないよ」
深雪さんが聞いたら悶えるような台詞だけれど、僕はいつもそう考えているから、すっと言葉になる。
「そうか…」
達也くんは、少し考えた。さっきの深雪さんの態度についてだと思うけれど、そんな達也くんの顔を、僕はじっと見ている。
僕は人と会話するとき、決して視線を逸らさない。じっと、相手の目を見つめている。相手の表情を読もうとする実験動物時代からの癖だ。
これが香澄さんや水波ちゃんなら視線を先に逸らすけれど、達也くんはじっと僕を見つめている。僕も瞬きひとつしないで負けじと見つめ返す。
放課後の高校の、渡り廊下で見つめあう二人…変なシチュエーションだ。でも僕は達也くんの言葉をじっと待っている。
「論文コンペが終わって、ここの所、俺にも余裕が出来た。久専用にFLTが贈った『光の紅玉』用CADの調整をしようと思う」
一息に言った。それだけの事を、わざわざこのタイミングで?って疑問はあるけれど。
「うん、あのCADは達也くんに調整してもらいなさいって『真夜お母様』にも言われているけれど…学校でするの?」
「いや、俺の自宅でするから、明日、CADを持って俺の家に来てくれるか?」
調整を達也くんのお家で?達也くんのお家は一度行ったことがあるけれど、玄関と広いリビングにしか入っていない。
やたらと大きなテレビがあったけれど、『真夜お母様』が招待してくれる清里の宿にも、あれくらい大きなテレビがあるといいな。
「ん?それだと放課後、家に一度帰ってからCADを持ってきたほうがいいかな、学校に『ルビー』を持ってくるのは、問題だよね」
『戦略級魔法』を使える、危険なCADを学校に持ってくるのは、さすがに問題だし、保管場所にも困る。
「そうなるな。では明日、来られるか?」
「うん、深雪さんのお邪魔をするのは悪いけれど、お邪魔するね」
「それは…まぁいい」
明日、達也くんの家に行く事になった。達也くんのお家も、僕の自宅くらい大きかったけれど、CADの調整はどうやるんだろう?
小体育館の闘技場からは、小気味いい軽快な音と、生徒達の気迫のこもった声が聞こえてきた。僕は達也くんにくっついて闘技場まで来ていた。別に生徒会の仕事は達也くんに任せればいいんだけれど、何となく深雪さんに怒られそうだったから…
闘技場は板張りで、靴のままあがってもいいんだけれど、達也くんはきちんと靴下まで脱いで裸足になって入ったから、僕もそれにならう。
闘技場には防具をつけた生徒が沢山いた。現代科学の頂点にある魔法科高校で、剣道の防具は妙にアナログだ。その中に桐原先輩と、並んでポニーテールの壬生先輩もいた。桐原先輩は面は外して、木刀を杖のように両手でついて、鋭い眼光で道場を睨みつけている。壬生先輩は胴着姿で防具はつけていなかった。
「おっ、司波に、多治見じゃねぇか。司波はともかく、多治見は道場に来るのは初めてじゃねぇか?」
「桐原先輩は引退したはずですが…練習相手ですか?」
「まぁな、俺を相手に練習するのが一番だからな。まぁ俺も受験勉強の息抜きだ」
受験勉強…嫌な言葉だなぁ。勉強って、『勉めを強いる』って書くんだよ。
「壬生先輩も?」
「ええ、剣道部は全国は逃したけれど…」
「練習相手には全国でも屈指の実力者の壬生先輩はうってつけですからね」
二人一緒にいたいんですね、と言う言葉を僕は飲み込んだ。コンペに向かうバスの中でも隣同士だったし。多分、受験勉強も一緒なんだろうな。
僕が闘技場に来たのは初めてだ。魔法科高校の劣等生のSSで壬生先輩がここまで全く出てこなかった作品も珍しいよね。
達也くんは端末を片手に桐原先輩に確認を取り始めた。達也くんの指摘どおり、剣道部の部員も応援でバスに同乗する予定なんだそうだ。ただ、その説明が全く無かったので、桐原先輩が新部長を呼び出した。新部長は達也くんを前にちょっと萎縮している。達也くんと自然に会話できる生徒は、少ない。とても同い年に見えないし、その声にも迫力があるからだ。桐原先輩が苦笑交じりに間に入って打ち合わせを始めた。
その間、僕は壬生先輩と並んで闘技場を見学していた。
剣道は、身体と技と精神力を鍛える競技で、勝ち負けも重要だけれど、礼儀をより重んじるんだそうだ。
試合に勝ったからって、ガッツポーズなんてすると勝利を取り消されたりするんだそう。
剣道部は竹刀で、剣術部は木刀と『魔法』を使うけれど、両部合同で練習する時は『魔法』は封印して、足運びや間合い、呼吸の確認をしているって、壬生先輩が説明してくれる。
壬生先輩は説明の間、僕の視線に合わせて腰をかがめてくれている。あまり僕の周りにはいないタイプの、『魔法師』というよりも、年相応の部活少女みたいな雰囲気だ。
その壬生先輩の持つ竹刀に目を向ける。木刀は当たると痛いけれど、これも竹の棒だから当たると結構痛そうだ。何でも歴史上の達人は、この竹刀で分厚い板どころか兜も断ち割ったとか。
「壬生先輩も相手の防具を突き破ったりするんですか?」
「まさか私の腕はそこまでじゃないわ。でも、剣道でも突き技は危険だから中学生以下は禁止されているのよ」
「『六三四の剣』で六三四のお父さんは剣道の試合中の突きが原因で亡くなりましたからね」
『六三四の剣』。剣道漫画の名作中の名作だ。裸足のソルジャーボーイだ。
「えぇと、ごめんなさい。良くわからないけれど…」
こちらこそ、ごめんなさい。これが八雲さんならファミコンソフトから青年編にいたるまで『六三四の剣』について熱いネタを交わせるのだけれど。僕が物珍しそうに竹刀を見ていたものだから、
「多治見君は剣道はやったことはないの?中学の授業とか…」
「僕は学校は魔法科高校が初めてだから。竹刀も木刀も持ったことはないです」
「そっそう?じゃぁ持ってみる?」
ちょっと返答に困った壬生先輩が、手にしている竹刀を僕に貸してくれた。教えてくれたとおりに握る。思ったより軽い。
「試合の終盤になると、疲労で軽い竹刀もだんだんと重く感じられるのよ。防具の籠手もあるからね」
なるほど…でも、筋力の足りない、いや身長の低い僕にはこの竹刀はバランスが悪いな。
竹刀の規定は高校生は117cm以内、重さ480g以上と決まっているから長さは身長にあわせたサイズを選んで良いそうだ。壬生先輩が、僕の身長にあったサイズを何振りかある竹刀の中から貸してくれた。重量は壬生先輩の竹刀よりほんのちょっとだけ軽い。壬生先輩の横に並んで動きに合わせて試しに振ってみるけれど、慣れていないからぎこちない。
壬生先輩は丁寧に教えてくれた。
「竹刀の振りかぶりは基本的に上段の構え、振り下ろしは膝の高さまで振り下ろすの。振りかぶる時に剣先が下がらないところで止めるのが重要ポイントよ」
体重移動をしながら、前後に素振りをする。すこし慣れてきて、
「結構楽しい。空気を切るような音は流石に出ないし、形だけだけれど」
「多治見君、筋がいいわよ。何度素振りしても同じ軌道で最初と最後の竹刀の位置がぶれないもの」
「そう…なんですか?竹刀を振るの初めてだから、教えられたままに振っているだけですよ」
その後、基本的な素振りを幾つか実演してもらって見よう見まねで竹刀を振るう。でも、すぐに素振りの速度が落ちてきた。基本的に筋肉がないし、握力も不足だ。なるほど、竹刀が重く感じられてきた。僕の鈍くなる動きに気がついた壬生先輩が、
「基本の素振りは覚えた?じゃあ、すこし私に向かって打ちかかってみて」
素振りばかりだと飽きると考えたのか、軽い気持ちで言ってきた。
「え?でも当たったら痛いですよ」
「鍛えてるし、慣れてるから平気よ。それに、多治見君の剣速なら避けるのも難しくはないから」
壬生先輩が竹刀を中段に構えた。剣先を僕の目に向ける正眼の構えと言うんだそうだ。両足を前後に広げて、後ろ足にすこし体重をかけて、重心を中心に、すり足でゆったりと構えている。流石に慣れた立ち姿で、一幅の絵のように綺麗な姿勢だ。
ただ、その目に警戒感は、まったくない。言葉通り、素人の僕の打ち込みは、容易く避ける自信があるんだ。事実、素の僕の動きなんて、ベタ足で、板張りの床をぺたぺた歩いている。
「お!多治見、剣道に興味が湧いたのか?」
達也くんとの打ち合わせを終えた桐原先輩が、壬生先輩と対峙する僕に気がついて声をかけてきた。壬生先輩と同じで、僕が剣道に興味を持ったことが嬉しそうだ。
「だが、多治見は剣術の方があっているんじゃないか?マジックアーツであんなに強かったんだ。『魔法』を使えば、今すぐにでも俺と互角以上に勝負が出来ると思うんだが」
「え!?多治見君は『戦略級魔法師』だけれど、そこまで強いの?」
多くの『魔法師』が、僕が中長距離戦闘が得意だと思い込んでいる。『戦略級魔法・光の紅玉』のイメージが強烈だから、僕と近接戦闘が結び付かないみたいだ。まぁ、この体型だからってのが一番の理由だけれど。
「壬生も九校戦のシールドダウンの練習試合を見ただろ。多治見は『魔法師』としては遥かに高みにいるからな。司波もそう思うだろ?」
「そうですね。純粋に技を競う剣道では久は難しいですね。動体視力に身体がついていけませんし。もちろん、剣の腕も素人以下ですが、そもそも体力と筋力が平均以下です」
大酷評だ。
「『魔法』を使った剣術では…久は強いですね。完全思考型CADがあれば、ですが」
お約束だ。
4月、マジックアーツで三人がかりでも秒殺された桐原先輩が頷いている。
その姿に好奇心と警戒心が湧いたのか、壬生先輩の表情が剣道家のモノにかわった。それでも、まだどこか油断がある。これまで蓄積してきた技術への自信…
「じゃ、多治見君。いつでもいいわよ」
「おっおい、壬生!」
「本格的な試合じゃなくて、剣道に少しでも興味を持ってもらえたら嬉しいから」
ええと…僕は剣道も剣術もたいして興味はないんだけれど。僕の貧弱な身体にスポーツは無理だ。実戦としての剣も、『魔法』や拳銃があるこの時代には無駄だと思うし。そもそも、剣なんて重くて目立つ物は、普段CAD以上に持ち運び出来ないよね。
にこにこと微笑む壬生先輩には悪いけれど、ここは適当に…
「やってみたらどうだ?久」
「えっ?」
これは、これまでもあった流れだ。こう言う時、何故か達也くんは僕の背中を押す。
まぁ、やってみるか。
ただ、僕の腕は、数分繰り返した素振りだけで痛い。竹刀が重く感じられる。
つと見ると、壬生先輩の身体がびくって反応した。意外と緊張しているようだ。無駄なところに力が、要するに力んでいる。意識して呼吸をしている。吸って、はいて、吸って…
僕は緊張はしない。恐怖心もない。剣への思いもない。じっと人外の動体視力で壬生先輩の呼吸を見ている。
いつでも良いって事だから別に避けられてもいいや、と言う軽い気持ちで、竹刀を右手にだらんと持った。特に竹刀を構えるでなく柄をやんわりと握る。闘技場のほかの生徒みたいに気合と共に打ち込むなんて事もできないし、壬生先輩が、息を吸う瞬間、鼻歌でも歌うように気軽に、するするっと歩いた。殺気も気迫も感じられない、朧のような気配で。
「え?」
「なっ?」
「………」
僕の無造作な動きは、壬生先輩の虚をついたみたいだ。壬生先輩と桐原先輩が声を上げた時には、僕はもう一足一刀の間境を越えていた。僕に間合いに入られるまで、壬生先輩は考え事でもしていたかのように無反応だった。壬生先輩の呼吸が止まる。
僕は引きずるようにぶら下げていた竹刀を、すいっと持ち上げる。力はまったく込められていない。壬生先輩のよりも短い僕の竹刀の剣先が、とんっと、壬生先輩の左手首にあたった。勢いもない、痛みも感じない、ただ触れた程度の接触だ。
「あっ、当たった」
僕は無造作に言ったけれど、見上げて窺った壬生先輩の顔が、真っ青になっていた。
さっきまでの笑顔は消えて、僕を見るその眼は、恐怖に揺れていた。
ここの所やることが多すぎて、続きが書けずにしょんぼりしていました。二週間ぶりに文章を書くと、タイプミスだらけでブランクを感じてしまいます。
やっぱり文章を書くのは楽しいです。それが下手の横好きでも(笑)。
原作は論文コンペから一気に冬休みまで飛びますが、
久にはたまっている宿題がいくつかあるのです。
運命の日までは、まだ永い。
お読みいただき有難うございました。