真冬の高校の中庭。強風に煽られた庭木。弱い光を受けて影が重なった葉叢は、触ったら切れそうなほど鋭く見える。
ベンチに腰をかけた僕の前に立つ香澄さんは、強風に背中を押されている。
魔法科高校の女子は少しヒールが高い靴を履いている。そんな靴でも、しっかりと大地を踏みしめて微動だにしない。体幹が優れているんだ。僕なら風に煽られてふらつきそうだ。
「香澄さん、隣に座りなよ。寒いでしょ?」
「?」
香澄さんは一瞬、怪訝な顔をした。この寒風の中だ。立っていようと座っていようと寒いに決まっている。でもすぐに、僕の髪も服も風に吹かれていない事に気がついた。
一歩、前に身体を運ぶ。そこはもう、僕の『空間』の内側だ。風がなくなって、温められた柔らかい空気に満ちている。
「これは…『魔法』?」
「うぅん、校内で正当な理由がないのに『魔法』を使うのは問題があるでしょ。僕は一応副会長だし。これは『念力』で外と内側で少しだけ空間をずらしたんだ」
「空間をずらす!?」
香澄さんは僕が『サイキック』だってことを知っている。
「空間と空間の隙間に、紙よりも薄い隙間を作るイメージかな。『魔法』だと起動式が何行程も必要だけれど、『念力』は漠然としたイメージで発動する。
今はベンチを中心に2メートル四方を囲っている。もちろん、香澄さんが入る時は『開いた』けれど…デジタルな『魔法』と違って、万人にわかる説明はちょっと難しいかな」
『サイキック』は、ぶっちゃけ、使えるんだから使えるとしか言いようがない。
「この程度なら、校内のセンサーには感知されないから…」
「悪用し放題ですね」
香澄さんが悪戯っぽく笑う。
「悪用してたら、僕の筆記試験の順位は上位に入ってるよ。空気を屈折させればカンニングだって簡単だもん。でも、今は流石に寒くて、これくらいのズルは…ズルなのかな?まぁ良いでしょ」
「そうですね。ボク…いえ、私も今日がここまで寒いとは考えていなかったので」
ふと、香澄さんは思いついたみたいだ。
「じゃあ、話し声も洩れないように出来ますよね」
この強風だと、中庭には誰も来ないだろうし、声なんてかき消されると思うけれど、
「うん。じゃぁ、声も洩れないように『閉鎖』するね」
「お願いします」
ベンチは強風のせいで、薄く砂が積もっていた。僕は砂を手で払うと、綺麗にアイロンがけをされたハンカチをポケットから取り出して、ベンチの僕のすぐ横に広げた。
古いフランス映画の主人公みたいに気障な行為に、
「え?」
香澄さんがとまどう。
「香澄さんの制服汚れちゃうといけないから」
「久先輩は、自分の座っている場所には?」
「ん?何も敷いていないよ。僕は、後で軽くはたけば良いやって思っていたから」
「久先輩は、妙なところで気が利きすぎますね」
香澄さんが呆れている。
「僕は…そのぉ、依存性があってね。誰かに尽くしたいって本能的に考えてしまう時があるんだ。
特に家族…親しい人にはそれが強くて。逆にそれ以外の人には全く関心を向けられないんだ」
「久先輩が、学校で一部の友人以外とは壁を作っているのはそのせいですか?」
「それは違うよ、僕の放つプレッシャーが他人を寄せ付けないだけだよ。
胆力の強い人は友人じゃなくても普通に接してくれたし。十文字先輩とか真由美さんとか渡辺先輩とか市原先輩とかはんぞー先輩とか…」
「それは…選りすぐりなメンバーですね」
たしかに、次世代を代表する魔法師の卵達ばかりだ。
まぁ、登下校を一緒にする友人達の中でも、美月さんとほのかさんは、積極的に僕に声をかけては来ない。実は、幹比古くんも、少しその傾向がある。幹比古くんは深雪さんにも遠慮があるし、性格的に繊細なんだよなぁ。
香澄さんは恐縮しつつ、洗って返しますね、と言ってハンカチの上に腰掛けた。洗わなくてもいいよ、僕は家事が好きだし。
「それで、お話って何?」
僕は少しお尻を横にずらして、香澄さんの方を向く。香澄さんも身体を僕の方に向ける。僕の左ひざと香澄さんの右ひざが触れる。
「その前に、久先輩、ご婚約おめでとうございます」
「うん、ありがとう」
「久先輩、何だか、嬉しそうですね」
「え?そう見える?そうかな…そうだね。僕にも本当の家族が出来たから、かな」
「本当の、ですか?」
「香澄さんも知っていると思うけれど、僕は孤児だ。両親も親類もいない。天涯孤独の身。魔法科高校に入学する前は、唯一の知り合いは烈くん…九島烈、だけだった」
「それが不思議なんですけれど、その縁で養子に入るなら九島家じゃないんですか?」
「現当主の真言さんは僕が嫌い、正確には烈くんが後ろ盾になった僕が嫌いだったから。真言さんも還暦を過ぎた立派な魔法師なのにね」
「1月2日の魔法協会を通じた四葉家の発表に対して、一条家と七草家の連名で抗議があったのは知っていますよね?」
「うん」
「その後、司波達也先輩と婚約した司波深雪さんに対して、一条家から、一条将輝さんとの婚約の申し出があったことはご存知ですか?」
「…は?」
公的に発表された達也くんと深雪さんの婚約に、後から横槍?
僕は、剛毅さんと将輝くんを知っている。二人は剛直で、情熱的だ。絡め手や、ケレンは使わないし、ましてや嫌がらせみたいなことはまずしない。
打算よりも直情で動く。
「従兄妹同士の結婚、それも2人の母親が一卵性双生児で、遺伝的に近親すぎるって懸念をしたんだ。剛毅さんは、十師族として国家への責任と忠誠を考えたんだね」
「正式に発表された婚約に?十師族の一条家が、そんな横紙破りをするなんて無茶です!」
「それは多分だけれど、将輝くんの深雪さんへの恋心を知った剛毅さんが、家のことより息子の願いを叶えてやりたいって考えた、親心だと思う…」
「久先輩は四葉家のご養子になりましたが、四葉家の事はお詳しいのですか?」
「うぅん、僕は四葉家の養子になったんじゃなくて、四葉真夜お母様の養子になったんだ。四葉家の事は、殆ど知らない」
お母様と僕の関係を簡単に説明する。誘拐事件の時、僕を病院まで迎えに来てくれたのは十文字先輩と真由美さんだった。その後、お母様が僕の事を気にかけてくれていたことを話す。
「事件の概要は真由美さんに聞いてみるといいよ」
あの頃の僕は一人で、身体同様小さく見えたはずだ。真由美さんや市原先輩がそんな僕の登校に付き添ってくれていた。
もっとも、真由美さんはあの誘拐事件の真相と結末を知らない。八雲さんが組織を突き止めて、僕が構成員を皆殺しにしたことを。
「お姉様…実は、一条将輝さんの婚約申し出を知った父が、一条家と同じような事を私達に相談したんです。四葉家の長子になった司波先輩に、お姉様を婚約者にって」
「それは、絶対に反対だよ!」
「私だって大反対です!お姉様と司波先輩なんて、絶対に嫌です」
反対理由がちょっと違うな。僕は達也くんと深雪さんの仲を裂くようなことは許せない。香澄さんは真由美さんが大好きで、達也くんが苦手、嫌いだ。真由美さんを盗られると思っている。でも、僕の反応に疑問を抱いた。
「久先輩、一条さんの時は反駁しなかったのに、お姉様の場合は即座に反対したのは何故ですか?同じ後出しじゃんけんでしょう?」
「だって、将輝くんの場合は、もう公表されているから。それに、誰にも相手にされない。はっきり言って、将輝くんはアスクラウンだ」
「あすくら…うん?」
スラング。間抜けな道化って意味だ。
「剛毅さんの考えに打算はないと思う。でも、香澄さんの前で謝るけれど、七草弘一さんの考えは、尻馬に乗るみたいな物を感じる。これまでも、四葉に事あるごとに噛み付いて来た」
「父は…そうですね。陰謀好きと言う悪癖は、主に四葉真夜さんへの、子供みたいな嫌がらせの延長線みたいでした」
弘一さんの行動は、どこか軽率な感じがする。尻馬…剛毅さんの直情に乗っかって、利を得ようとしている。
「真由美さんが、それを望むとは思えないし。そもそも、真由美さんは澪さんの弟の五輪洋史さんとお付き合いをしているんじゃ…」
「いえ、お姉様と洋史さんの交際は、もう自然消滅しています。失礼ながら洋史さんは、お姉様の相手には、少し器量が、それこそ胆力が足りませんし」
うん、2人が並ぶ光景が想像できない。
「そっ、それと、もう一件。父は、四葉真夜さんの養子になった久先輩にも、ぼ…私を婚約者に、正式に交際を申し込もうと考えているのです」
香澄さんの発言が脳に染み渡るまで、ちょっと時間がかかった。婚約?香澄さんと?いや、僕は澪さんと婚約しているし。
「この話も、無茶だと思いました。現実的じゃないです。久先輩と五輪澪さんの婚約は、公的に認められただけじゃなく、広く国民にも知れ渡っています。今さら反故にはできません」
「そうだね」
「そっ、それでも、私は、嬉しかった心を隠すのに必死でした。その後の、泉美の言動にドン引きして、お父様に本心を隠し通せたのですが、私は…」
泉美さんがどんなドン引き発言をしたかは、プライベートだ。でも、あの弘一さんが香澄さんの気持ちをわからないはずがない。弘一さんは娘だって利用するだろう。
…香澄さんの気持ち。
「ん?嬉しかった心?」
「はい!」
香澄さんが、僕を真っ直ぐ見つめて。
「私は、久先輩の事が好きです」
そう言った。
「久先輩と結婚したいとか、五輪澪さんに取って代わりたいとか、そこまでは考えません。私も七草です。立場はわきまえています。でも、私の気持ちを知っておいて欲しかったんです」
その告白は、高校生の、思春期の女の子にとってはとても勇気が必要だったと思う。しかも、その相手が僕みたいな人間になり損ねた化け物なら、なおさらだ。
香澄さんは、感情的にならず、努めて冷静に告白をした。
「知ってもらって、どうしたいのか私にも良くわからないです。でも、私は、久先輩が好きです!」
香澄さんが、僕の事を好き?
これまでの僕たちの関係は、僕が迷惑ばかりかけてきた。初めて出会った日からそうだ。僕に好意を抱く理由が思い浮かばない。
香澄さんが、きゅっと唇を結ぶ。柔らかそうな…くちび…
僕が好き?僕に?え?
良く考えようとした瞬間、今朝見た夢がフラッシュバックした。澪さん、響子さん、香澄さん。裸の3人のうちの1人。
あれは、ただの夢だ。僕は予知はできない。でも、魔法師の見る夢は、ただの夢と切り捨てる事ができない。
八雲さんの言葉も思い出す。2人、3人、4人…僕が望むのならば、現代のルールなんて、感情を無視すれば、どうとでも、なる…
「…あ」
かあっー
「え?」
香澄さんが驚くほど、僕の顔が、顔だけじゃなく、耳まで真っ赤になった。それこそ、火がついたみたいに。
以前、横浜での師族会議の前、十文字先輩にお嫁候補にご自身の妹か七草の双子、つまり香澄さんか泉美さんを薦められたことがあった。
あの時は、特に何も感じなかった。
試着室で二人きりになって、お互いの裸を見た時も、特に何も思わなかったのに…
僕は、少し脳乱気味になっている。好きって感情は、やはりわからない。わからないから、1人呟くように考える。
「弘一さんは、僕と響子さんの関係を知っている。澪さんとの婚約が、烈くんの口約束を反故にするものだったことを知っている。
でも、僕と響子さんの婚約は正式のものじゃない。書面に残されていない。師族会議までの話で終わっていた。九島家の公認も得ていないし。
お母様は、澪さんの恋心を知って行動してくれた。剛毅さんと同じ事だ。弘一さんの尻馬…お母様が打算なんて持つわけがない…僕の事を考えて家族になってくれた。
僕は恋愛がわからない。でも、これは好きって感情なんだと思う。好きなら良くて、打算があれば駄目なの?」
それは、本当なのかな…本当に決まっている。お母様は、いつも正しかった。
お母様のなさった事は剛毅さんと同じだ。でも、剛毅さんと弘一さんに向ける違和感や戸惑いに似た感情や疑問が、お母様に対しては湧きあがってこない。何でだろう。疑問も疑惑も、浮かぶ前に消えていく。
お母様は…
僕は、頭の中の考えを、つい、口にしてしまう癖もある。
「久先輩?響子さんとの関係って何ですか?響子さんって、藤林響子さんですよね。去年の夏、ご一緒に家に来られて、後見役だって。それにしては仲がお宜しいって思っていて…同じ?」
あ…お母様は、僕には、お母様だ。頂いた指輪を見つめていると、気分が落ち着いていく…
「公式?師族会議…もしかして、久先輩!」
「えっ、何?」
僕の顔からはもう熱は冷めていた。そのかわり、冷静だった香澄さんの感情に火がついていた。
「もしかして、九島烈閣下は久先輩の後見と引き換えに、孫でいまだ独身の藤林響子さんとの結婚を強要されていたんですか!?」
「はっ?いいや違うよ。僕と響子さんの婚約は、戦争で失った婚約者の記憶が薄れるまで響子さんの防波堤になるって、形だけのもので」
「九島閣下の発言は、軽々しいものじゃないですよね。久先輩は、戦略級魔法師になられるほど優秀な魔法師でした。その素質を知っていた閣下が、久先輩を取り込もうとするのは当然でしょう」
「僕と烈くんの関係は、そう簡単じゃなくて。そりゃ、烈くんは一筋縄じゃいかないけれど…」
「その非公認の婚約は師族会議にまで知られていたってことは、殆ど公認されたも同然ですよね」
「でも、書面にされたわけじゃなくて、公式に発表もされていなくて。だから、響子さんの経歴にも傷はつかなかった」
何だか、僕の言動は、恋人に浮気を追及される浮気男みたいになっている。僕は、浮気者だって、お母様に言った…
「じゃあ、私が、久先輩に婚約を申し込んでも、非公式だったら、私も傷つかないですよね」
ええっ!?どうして、その結論に達したの?経歴は傷つかないけれど、口さがない人たちからの誹謗は避けられない。
「理屈ではそうなるけれど」
「恋愛は、理屈じゃなくて、感情でしょう?」
香澄さんは、完全に頭に血が上っている。それに、恋愛を語られると、僕には反論の武器がない。
そうか、僕が混乱したのは、こんな純粋な感情を、面と向かって言われた事がないからだ。
澪さんは大人だから、僕にこうもはっきりとは告白しなかった。
光宣くんは、歪んでいた。九島家の思考にどっぷり浸かっていた。響子さんも、そうだ。
でも、香澄さんは、まだ真っ直ぐなんだ。七草弘一さんの思考に染まっていない。歪んでいない。
だから僕は、
「香澄さん!」
「えっ!?」
僕は、香澄さんに冷静になってもらおうと、ぐっと握る両拳を、僕の掌で挟んだ。熱い。
僕の体温は低いから氷嚢みたいだ。
僕の掌に香澄さんの熱が伝わってくる。
僕の冷たい肌を感じながら、香澄さんが硬直している。
恋愛感情は、僕には理解できないし、香澄さんを理解させる事も出来ない。
「…僕はね、人間として欠落した部分がある」
「え?」
だから僕は、考える。香澄さんを、こちら側に連れて来てはいけない。
狂気は、伝染する。
「僕は3歳から10歳まで、とある研究所で飼われていた」
「研究所?」
「その間、実験動物として人間的な対応や教育はまったくされなかった」
「入学前は施設にいたって…施設はサナトリウムじゃなくて、魔法師開発の研究所…?」
「毎日、酷い実験ばかり。痛くって怖くって、でも自分で選択した事だから、心を殺して…だから、人が当たり前のように持っている、感情、とくに恋愛感情がまったくわからない」
「わからない?」
「感情を育む環境になかった。でも、そもそも理解できない精神性だった可能性も高い。僕は、5歳の時に初めて人を殺した」
「5歳!?」
「相手は死刑囚だって言われたけれど、人を殺しても何も感じなかった。何人も絞首台がわりに殺した。その後、紛争地域で何十万人と殺している。当時の僕は、精神を侵されていたから、何も感じなかったのか…違う、僕はもともと歪んでいるんだ」
香澄さんは絶句している。最後は数百万を道連れに自殺した事は…黙っている。
「歪んだ木は歪んだ影しか映さない。僕は、人間じゃない」
「自然分娩で産まれていない、創られた試験管ベビーって意味…ですか?」
香澄さんの思考では、それが限界だ。常人の、思考。僕は人形じみているから、人造人間って、物凄く説得力がある。否定も肯定もしない。人でなしの『高位次元体』なんて存在、僕にだってわからない。
「僕は狂っている。澪さんも、ある意味、同じ世界にいる。響子さんも、たぶん、常軌を逸している。現代では『電子の魔女』は戦略級魔法師よりも脅威の存在だ。人の存在をただの数字にしてしまう」
「…」
「澪さんも響子さんも、僕と一年半以上一緒に暮らしていても、精神が変調しない」
「え?澪さんとだけじゃなく、響子さんとも、あの家で一緒に暮らしているんですか!?」
「五輪洋史さんや五輪勇海さんが、胆力に欠けているのは、澪さんの異常性に長年晒されて疲弊しているからだ。僕と共に在るには、まともな精神性では無理だ」
「私の気持ちは久先輩に届かない…ですか?」
「恋愛や愛情はわからないんだ」
「でも、久先輩は、五輪澪さんのことが、好きなんですよね」
「好きだよ。好きだって思い込もうとしている。怒りや憎悪はわかるのに、僕にはこの心の中に湧き上がる感情を言葉に出来ない。心にぽっかり穴があいている。僕にとって思い込みは重要だ。思い込むことによって真実に感じられる」
心に穴…以前、達也くんが僕を『視た』時、『視えないがゆえに、そこにない事が感じられる』と言っていたな。僕が恋愛を理解できないのは、『異次元の扉の鍵』が精神の恋愛を司る部分にあるのかも。そうなると、『肉体の三次元化』がコントロールできない以上、僕は一生恋愛はわからないことになる。
「久先輩の行動が、ちょっと、少し情緒不安定だったりするのは、そのせいですか?」
「僕の感情は、思い込み、形態反射だ」
僕たちの顔は、鼻と鼻がくっつくほど近づいている。僕は一生懸命、説明する。
「でも、魔法科高校に入学してこの2年間で、僕の感情は豊かになった。自由になった。昔は、笑うことさえなかったもの。僕はもっと大人になれば、恋愛感情も理解できるようになるかも知れないって最近考え始めたんだ。今は自分自身の『能力』で成長をとめているから、僕は子供だ。身体も精神も子供だ」
「成長を止めている?自分を虐げてきた大人に…非人間的な感情のまま大人になったら、研究所の大人たちと同じような人間になると危惧しているんですか?だから久先輩の身体は幼いんですか?」
「そうなの…かも」
70年前にあった事をすべて香澄さんに話すのはためらわれる。70年前、精通をした後のおぞましさは吐き気を催すほどだ。それこそ、大人の汚い世界の話だ。
八雲さんは、僕が過去の精神支配から解放されていると言った。
普通は、子供じゃいられないから、大人になるんだけれど、僕は『回復』で子供のままでいようとしていた。
もう、過去の事か…いつまでも引きずってはいられない。前を向かないと。
だからと言って、僕が狂気の存在であることにはかわりがない。
香澄さんが狂気に染まる前に、突き放した方が良い。
世界は、混乱の方向に向かっている。
達也くんは、優しい。ほのかさんを突き放す事が出来ないでいる。ほのかさんの立ち位置は、物凄く宙ぶらりんだ。達也くんが一言言えば、解決する。本来の達也くんは深雪さん以外に興味がない。ほのかさんが傷つこうと気にしないはずなのに、突き放せない。
ほのかさんは深雪さんに勝てない。それを知っているから、深雪さんに出来ない方法でアタックしてくる。達也くんも深雪さんも、問題を先延ばしにしている。いずれ持て余す。
今回の、四葉家の発表で、ほのかさんが自ら離れてくれるといいけれど、ほのかさんの依存性がそれを許すだろうか…ほのかさんは魔法師の世界のしがらみに忖度して気を配る立場にない。
香澄さんは性格的に、ほのかさんのような行動はとらないと思う。
香澄さんは真っ直ぐな女の子だ。でも十師族の直系としての責任も自覚している。
「香澄さんの気持ちは嬉しい。香澄さんは、素晴らしい女の子だ。性格的にも陽性で、必要なら静かにしている事も出来る。僕は、あんまり騒がしいのは苦手だからね。べたべたしないし、好き嫌いをはっきり言える。だから、こちら側には来ちゃいけない」
こちら側…この言葉は、誰かが言っていたな。誰だったかな。僕と同じ側にいる…女性…
香澄さんは、揺れる目でしばらく僕を見つめた。僕は会話するときは相手の目をじっと見るから逸らす事はない。
香澄さんは、僕を見つめながら、言った。
「その話は、五輪澪さんや藤林響子さんにもした事がありますか?」
僕は首を振る。
「言っていないけれど…いつかは伝えなくちゃと思ってる」
二人とも僕が尋常な人生を送っていないことには薄々気がついている。
僕は、大人になる事を拒んでいる。でも、今は…少し、違う。僕の立場は、複雑だ。
僕の悩みは極端だ。でも、大同小異、思春期の高校生なら多くが悩むよくある心情だ。
誰だって、いつか大人になる。子供のままじゃいられない。
僕が肉体的に大人になるには…八雲さんが言っていた…ハーレム?いや、いやいやいや。
それは、感情的に許せる。許せる心もどうかと思うけれど、現代の法律的には許されない。
「そうですか…私だけには教えてくれたんですね」
…あれ?
「久先輩、私達が出会ったのも、一昨年の九校戦会場でした」
…うん?
3人の出会いの時期は、ほぼ同時だ。でも、一緒に過ごした時間は、澪さんと響子さんのほうが圧倒的に多い。
「足りない時間は、これから追加すれば良いんです」
「?」
香澄さんが、僕の両頬を、掌で挟んだ。
優しく、熱い、女の子の手。
香澄さんの瞳が、熱で潤む。
「私は、本気なんです!」
僕は、どうやら方法を間違えたようだ。
香澄さんの瞳に宿る熱情は、戦略級魔法師・四葉久を圧倒する力を持っていた。
僕の隣に立つには、狂気が必要だ。
人の感情は、僕にはわからない。
僕の過去の告白は、香澄さんを遠ざけるどころか、逆に油を注いだ結果になってしまった。
香澄さんの顔が近づく。もともと触れるような距離だったけれど、もっと近くに…
香澄さんの唇が、僕の唇に重なった。
ちゅっ、って可愛い音がした。
「ぁえ?」
それはすごく短い、触れる程度の口づけだった。
でも、僕の背中を鈍い疼きが走った。
胸の奥が、切なくて、苦しい。お腹の下のほうがもやもやする。何だろう、この感情は…?
唇を離した香澄さんの顔は、トマトみたいに真っ赤だ。たぶん、僕の顔も、香澄さんと同じくらい赤くなっている。
目の前の香澄さんが、笑った。
「久先輩、ゆっくり大人になればいいんですよ。私達は、まだ高校生なんだから」
「高校生」
「まだ、これからなんです」
「…これから」
もやもやした感情の僕は、香澄さんの言葉を鸚鵡返しするだけで、精一杯だった。
香澄さんは、何を考えているんだろう。何をしようとしているのか…
香澄さんが、小さく笑った。
何処か見覚えのある、笑み。
「久先輩。私…その、これがファーストキスなんです」
「え?」
「久先輩は、どうですか?」
その揺れる瞳に、奇妙な力が宿っている。香澄さんは、真由美さんの妹で、真由美さんは…
ああ、この笑みは、小悪魔の笑みだ。
「僕は…セカンドキス…かな」
「セカンドっ!?そっ、それはやはり五輪澪さんですか?それとも藤林響子さん?」
「うぅん、真夜お母様」
「お母様…四葉真夜お母様、義母…それは、親子の挨拶で、キスの数に入らないんじゃないですか?」
「え?そうなの?じゃあ、僕のファーストキスは、香澄さんだね」
「そっ、そうですね。2人だけの思い出。高校生の、1月の中庭。北風の強い日の、二人だけの秘密」
女の子にとってキスは大事だろうけれど…
そんなに念を押してこなくても、僕は覚えた事は忘れない。だから、一生覚えている。
「ボク…私の心を奪った…責任をとってもらおうかな」
僕の隣に立つには、狂気が必要だ。
狂気は、伝染する。
僕たちはお互いの熱を感じられるほど、顔が近い。僕の薄紫色の瞳には香澄さんしか映っていない。
香澄さんの瞳には僕しか映っていない。僕は狂気そのものだ。香澄さんの瞳に、狂気がすでに宿っている。僕という狂気が…
暮れなずむ中庭は、相変わらず強風が吹き荒れている。誰も、中庭に近づこうとはしない。
僕は体調不良も忘れて、香澄さんの瞳を見つめる。
僕は、香澄さんの瞳に、何を見たんだろう…
ハーレムルート突入です(笑)。
真夜と澪。実は響子さんも狂気の人物です。
『電子の魔女』は、自宅の電脳部屋から文明を崩壊させる事ができます。
電脳部屋にこもって何をしているんでしょね。
その狂気のお宅に、香澄も足を踏み入れようとしています。
久は恋愛はわかりませんが、甘えさせてくれる女性には依存してしまいます。
誰も本気で愛せないかわりに、平等に好きになれちゃいます。
このラノベ主人公体質め!
さて、精神的にも肉体的にも、法律的にも未成年の香澄が、
どうやって久の自宅に入り込むのか…
ちゃんと考えていますよ。