二階の一室で、雪風は一人楽譜とにらめっこしていた。
楽譜に合わせてトランペットを響かせるが、一人では合っているのか自信が持てず、一通り楽譜に合わせて吹けるようになった頃には、眠気が脳に霧をかけていた。
「んー」
音を鳴らすつもりがマウスピースから口が外れており、まぬけな声が漏れた。
「カカ、疲れてんのか?」
後ろから小さな笑い声が聞こえた。慌てて振り返ると、善吉が島風を脇に抱きかかえていた。
「善吉さん! それに島風さんも!」
「こいつ屋根の上でトロンボーン吹いてたぞ。どこのパズーだ」
ぽいっと部屋の中に投げられた島風は三回転ひねりで着地する。
素晴らしい運動神経だ。
「だって雪風が覚えるの遅いんだもん」
「うぅ、すいません……」
俯く雪風を見て、善吉は島風の脳天にチョップする。
「痛い善吉!」
「うるせぇ。お前は覚えが早いんじゃなくて、粗いんだよ。さっき吹いてたところ、かなり曖昧だったろ」
「そうだっけ?」
とぼける島風に、善吉は叱責の言葉も失う。
「まぁいいや。トロンボーンは感覚が重要だって言ったろ。俺と雪風はもう大体できるから、それに合わせろ」
「えっ! 雪風の音合ってましたか!?」
「あぁ。だが少しリズムが足りないな。秋月は今自主練させてるから、俺が調律してやる」
「調律?」
首を傾げる島風に、善吉は胸ポケットから取り出した小さな楽器を見せる。銀色の輝きを纏う片手に収まるその楽器は、有名でありながら多くの人間が特別意識しない楽器だ。
「それって……」
「そう『ハーモニカ』だ」
ぴったり一秒、部屋全体が沈黙に包まれる。
そして、島風の笑い声が部屋中に響き渡る。
「ぜ、善吉。ハーモニカって。ぷぷぷ」
「笑うな。ハーモニカは凄いんだぞ。いいから楽器構えろって」
少しの間、島風は笑いを堪えられなかったが、善吉の真剣な表情と、雪風に後押しされ渋々とトロンボーンを構える。
「いいか、俺の音に合わせるんだぞ」
善吉は試しに低音から高温まで段階的に鳴らす。
その音色は美しいが、やはり他の楽器と比べると少し見劣りする。
「わかったー」
「分かりました」
「じゃあ――さんハイッ!」
善吉の合図に合わせ、二人はそれぞれの楽器に息を吹き込む。楽譜通りの音色が流れるが、雪風は少しリズムが乱れ、島風は少し音階が乱れている。
やはり少しずれている。雪風と島風が互いに感じた時、急に音色が合わさり始めた。
(なんで急に?)
雪風が楽譜に目をやりながら、耳に入ってくる音の一つが、トランペットとトロンボーンをリードしていることに気づいた。
(これ、善吉のハーモニカ?)
島風は耳に入ってくる音色に合わせ、自身の音色を調整する。その結果、三人の音色は重なる。さらに音階の差をはっきりと伝えているので、それにつられて演奏する雪風の演奏は、リズムが伴うものに完成していった。
(というか、なんか善吉髪が……)
気づけば、善吉の髪色は漆黒に染まり、纏う雰囲気は日本刀のように鋭いものになっていた。改神モード、善吉モデルである。
(善吉さんの演奏が、雪風達の演奏の骨組みになって、その存在を確かなものにしているというか、とにかくすごい!)
雪風と島風はいつの間にか口角を上げ、演奏を楽しんでいた。
それを見た善吉もまた、ハーモニカを吹きながら笑顔を浮かべていた。
一曲の演奏が終わったところで、善吉は涼しい顔で二人の問題点を指摘し始めた。
「島風、音階は合ってきたが、演奏がたまに先走る。雪風はもっと自信いっぱいに吹け。音程とリズムは問題ないぞ」
「すっごいね! 善吉のハーモニカ、すごかった!」
島風の言葉に雪風も首を勢いよく縦に振る。
「まぁ安心院さん直伝だしな。それに俺の性格に合ってんだ」
その言葉には自分はあくまで脇役が似合っているという皮肉もこもっていたが、雪風達はそれに気づくこともなく、純粋に感心していた。
「今の感じで二人で合わせてくれ。明後日には秋月も一緒に練習できると思う」
そう言って、善吉は扉に向かってゆっくりと歩を進める。部屋を出て行くまで、善吉は一年の文化祭を思い出していた。
あれからもう一年以上経つ。
阿久根高貴と喜界島もがな、彼らとの演奏、そして黒神めだかとの戦いを。
「あの後も色々あったけど、あの頃が一番青春してたような気がするぜ」
過去は美化されるもの、しかし美化されるのは思い出を時間をかけて磨いたからであって、決して悪い事ではない。磨いた時間は、自分が頑張った時間だ。そのことを善吉は誇りに思う。
「善吉さんは本番もハーモニカを吹くんですか?」
「いんや、言っただろ。俺は指揮者だって。指揮棒奮うので両手は塞がってる」
その言葉に雪風は不安げな顔になる。
「それは……大丈夫なんでしょうか……?」
「大丈夫だよ。『本番までに』俺の調律は必要なくなるさ」
善吉は何かを企んでいるような表情を浮かべ部屋から出て行った。