2日目の朝、善吉は重たい瞼を持ち上げ窓から見える遠くの海を確認し、脳を徐々に回転させる。
寝間着を脱ぎ、旅行鞄の中から『艦隊楽戦ファイト!』と書かれたTシャツを取り出す。今回の仕事について母親に伝えると意気揚々とこのTシャツを作ってくれたのだ。
艦娘たちの服のサイズが分かれば全員分作っても良かったのだが、その時間はあいにくなかった。
「うん、やっぱり母さんが作るTシャツは俺の中のやる気をさらに高めてくれるぜ。ありがとう母さん!」
独り言にしては大きな声が部屋に響く。母親である人吉瞳もきっと満足しているだろう。
「朝飯は……バイキングだっけか」
時間は6時、練習を始めるのが8時からなのでまだまだ時間がある。
「少し外走ってくるか」
善吉は軽くストレッチをして部屋を飛び出した。元来身体を動かすのが好きな性分であり、演奏や指揮はそれなりに体力を使うとはいえ、やはり足りずに身体が疼いていた。
部屋を飛び出した善吉は昨日海にまで続いていた道を走ることに決めた。距離も往復1時間程だろう。なにより朝から海を見れるのは気持ちが良いと考えた。
エントランスには受付に一人と、変わらず筋骨隆々なガードマンが二人いた。彼らに軽く挨拶をし、カードキーを使い外に出る。うっすらと香る潮風と暖かい日光が善吉を迎え、善吉は嬉しそうに伸びをする。そして最初は歩くように、徐々にスピードを上げ、ランニングのスタイルに帰結する。
「ふっ――ふっ――ふっ」
規則的な呼吸音が静かな道を滑る。人の気配が全くしない道を、悠然と走れる自分は幸せ者だと、善吉は走りながら口角が上がるのを抑えることができなかった。
そのまま20分ほど走り続け、時折近道や山道を交え、無事昨日艦娘達を迎えた港に着いた。そこで善吉は海上を滑る少女達を見つけた。
「時津風! この下に珊瑚があるよ! 綺麗な魚も!」
「雪風はしゃぎ過ぎ。でもやっぱり海の上は気持ちいいねぇ」
「あんまり燃料使い過ぎたらダメよ。一応これ資源の無駄遣いかつ無断使用なんだし、ホテルに燃料がどれだけあるかも分からないんだから、もしもの時のために鎮守府に帰れるくらいは残しておきなさいよ」
「天津風は五月蠅いなぁ。ほら、足元に鮫いるよ」
「ぎゃっ!」
「うっそぴょーん。……卯月の真似ぇ」
「と・き・つ・か・ぜ!」
雪風、時津風、天津風の陽炎型3人組が楽しそうに遊んでいた。3人はこちらに気づいていないようだ。善吉はそのまま3人が海を滑る姿を眺めていた。
一本線で視界を空と両断する広い海の上を、自由気ままに踊る彼女たちは、善吉に不思議な安堵感を与えると共に、小さな嫉妬を生んだ。
「あ、善吉!」
時津風がこちらに気づき、港に戻ってきた。
「おはよー善吉ぃ」
「おう、おはよう」
時津風は善吉のTシャツを見て苦い顔をする。
それに続いて天津風は少し不安そうに近づいてきた。
「お、おはよう……」
「なんだよ暗い顔して。さっきまであんなに楽しそうだったのに」
「だって任務でもないのに勝手に海に出て怒られるかなって」
「あー、それなら気にすんな。朝から気持ちが良いもん見せてもらったし、あとでライさんにでも頼んで燃料? 寄越してもらうさ」
それを聞いて天津風はホッと胸をなでおろす。
そして善吉のTシャツから目を逸らす。
「あれ善吉、おはようございます! 変なTシャツですね!」
雪風が最後に港に帰ってきた。ゆっくりとした動きながら、しなやかにバランスをとる姿は美しかった。
「お、おはよう――にしても、海を滑るってのは気持ちよさそうだな」
嫌な感想が聞こえたが聞こえないふりをして話題を変えた善吉に、天津風は複雑な視線を送った。
善吉の正直な感想を聞いた雪風と時津風は首を傾げ、そのままクスクスと笑う。
「おいおいなんだよ。笑うことはないだろう」
「いや、善吉が私達のしれぇと同じことを言っていたのでつい」
「そうだ! 肩貸してあげるから少し海に出てみる?」
「大丈夫なのか?」
「艤装を貸すことはできないけど、肩を貸すくらいならできるよ。曳航みたいな感じ?」
時津風の言葉に雪風と天津風が頷く。
「じゃあ……少しだけ頼む」
雪風と時津風が善吉と肩を組み、天津風は前から腰を支えるように持つ。スロープ状に海に続く緩い坂を、ゆっくりと進む。
「体重は全部私たちに預けていいからね。たぶん身長的に膝くらいは浸かっちゃうと思うけど」
「おう! 頼む!」
善吉の足が海面に触れ、冷たい海水が善吉の膝半分まで覆う。そしてコンクリートの感触が足裏から消え、海水が流れる感触が足裏をくすぐる。
「善吉って意外と重いねぇ。筋肉?」
「バランス取りにくいです」
時津風と雪風から愚痴が零れるも、善吉はすさまじい興奮に襲われ何も聞こえていなかった。
「俺、海面を滑ってんだよな! すげぇ!」
足元の遠く先に海底の砂浜が見え、自分が浮いているような錯覚を持つ。時折魚が足元を通るのを見るたびに歓声を上げ、足元から目が離せなくなっていた。
「後ろから腰持つわよ」
天津風が一度離れ、善吉の背中に回る。その時、初めて善吉は前を向いた。
「――すげぇな」
善吉の視界に映ったのは、美しい青空でもなく、眩しい太陽でもなく、ただ壮大に広がる海だった。
一片の凹凸も見えないその水平線に、自分が今立っていること、先に何も見えないこと、周囲には雪風たちがいるにも関わらず、善吉は孤独感に包まれ、神秘的な何かと、同時に畏れを抱いた。
「お前たち、こんな怖い海で戦ってるのか」
3人はポカンとした後、またクスクス笑う。
「なんだよ、またお前たちの提督さんと同じこと言っちまったか? キャラ被りは辛いぜ」
「いいえ、全然ちがいますよ。しれぇは、『こんな美しい海で戦ってるのか』って言ってました。でも、たぶん同じような意味だと思います」
怖くて、美しい。
雪風の言葉がスッと胸に収まり、善吉は笑いをこらえきれなかった。
「カッカッカッカ! すげぇなぁ、艦娘も、提督も」
「そんな悪魔超人みたいな笑い方しないでよ」
時津風は呆れたようにつっこみ、雪風と天津風は笑顔を浮かべていた。
「いてっ」
突然、海面に浸かっていた膝に何かがぶつかった。同時にバランスを崩し、雪風達の手から離れ、善吉は海に沈んでいった。
「大丈夫ですか善吉! いったい何が」
「あ、これさっき雪風が見つけた珊瑚礁じゃん。うわ、所々欠けてる。珊瑚礁って出来上がるまでにすごい時間かかるんだから気をつけなきゃだよ」
「プハッ! 俺の心配してくれよ!」
善吉は膝をさする。幸い切ったりはしていない。
「あ、そろそろ帰らないと練習間に合わないわ。雪風、時津風、行くわよ」
天津風はいそいそと港に進路を変え、他の二人もそれに付いて行った。
「おい! 引っ張っていってくれよ」
「あたしまで濡れたくないし。じゃ、陸で待ってるからねぇ」
時津風はひらひらと手を振り、再び手を貸す気は皆無のようだ。雪風も、できれば手を貸したいが濡れたくないという顔で視線を逸らす。
すいすいと滑る3人を眺め、善吉は額に青筋を立てる。
「待てやゴルァァ! クロールの善吉と呼ばれたかった俺を舐めるなよォォォォォ!」
「呼ばれてはいなかったんですね……」
「うわ早い、てか怖い。急いで天津風」
「はいはい」
結局そのまま鬼ごっこのような形になってしまい、港に戻る頃には四人とも全身海水につかったようにびしょびしょで、シャワーや朝食を考慮すると、完全に練習に遅刻することが確定していた。
それでも善吉に後悔はなかった。
この日見た海、そしてその海で舞う少女、それらを知れただけで、善吉の胸には後悔が消し飛ぶほどの感動が生まれていたからだ。