たぶん更新はあと数回で終わりますが、どうぞお付き合いください。
それは雨の降る日、頼卯はまだ小学生で、彼の隣には涼香がいた。
二人は校舎の中から、海のように世界を反射する校庭を眺めていた。
「雨が降るって、天気予報じゃ言ってなかったよな」
頼卯の拗ねたような独り言に涼香は小さく「うん」と返した。
午前中は晴天で、唐突に強い雨が降り始めたので、頼卯たちは学校で雨宿りすることにしたのだ。
通り雨だと考え安易に外に出るのを控えたことに、大嵐は後悔の念を抱き始め、それを察したように涼香は黙り込んでしまった。
「どうっすかなぁ。濡れて帰ったら母ちゃんうるさいし……」
「他の子の傘に入れてもらえれば――」
チラリと後ろを振り返った涼香は、それ以上続けずにまた黙り込んだ。
他の子、といっても、この島にいる小学生など両手両足で数えるほどであり、その全員が既に帰路についていることは上靴で規則正しい幾何学模様を描く下駄箱を見れば明らかだった。
「先生に借りるかなぁ」
「先生達は会議があるって言ってたよ」
「――だな。そこに割り込むのは面倒だし……。あと少し待って止みそうになかったら、しょうがないから走って帰ろう」
そして二人はまた沈黙に身を費やす。
その内、ふっと思い出したように涼香が話し出した。
「お兄ちゃんは、私のお兄ちゃんでよかった?」
その質問の内容と、あどけない声色の差に、たっぷり一秒目を丸くした後、頼卯は反射的に答えた。
「当たり前だ」
それが、兄としての務めというか、義務のような気がしたのだ。
しかし涼香は納得していない様子で、質問を深堀してきた。
「どうして? だってもし私がいなかったらお兄ちゃん、今頃家に帰ってるじゃん」
「は? ……あぁ、そういうことか」
涼香が言いたいことがうっすらと、分かってきた。
「私は走るの遅いし、風邪引きやすいから雨に濡れたらお母さんに心配かけるけど、お兄ちゃんなら走れば家まですぐだし、濡れたことに怒られても、それだけでしょ? 今お兄ちゃんが私と残ってるのって、私が一人じゃ帰れないから、でしょ」
涼香の言葉だけを聞くと、まるで涙を目尻に浮かべて無意味に自分を責める少女に聞こえるかもしれない。
しかし実際は、ただただ疑問に思ったことを尋ねるように、それこそ天気を尋ねるように気軽に、思ったことを口に出しているようだった。
そんな涼香に、大嵐は頭を悩ませる。
涼香はたまにこういう質問をする。答えははっきり出ているけれど、答えにくい質問をサラッと投げかける。
普段なら受け流したりできるが、今回はそうもいかないようだった。
なぜなら今は二人っきりで動けない状況、そして先ほどまでの沈黙が、追い打ちをかけて話題を変えることを拒んでいたからだ。
「――お兄ちゃんだからな」
それは悩んだ挙句、吐き出された言葉だった。
しかし、一度それが出るとまるで勢いづいたように、言葉は続いた。
「確かに涼香の言う通りかもしれない。けれど俺は涼香のお兄ちゃんで、涼香は俺の妹だ。家族は助け合うものだし、兄は妹を護るものなのさ」
その言葉に涼香はキョトンとし、次の瞬間には笑顔に変わっていた。
「なにそれ。変なの。別に護る必要なんてないのに」
「あるんだよ。妹のお前には分からないだろうな」
「そんなことないもん。私だって、お兄ちゃんを護りたいもん」
「生憎、妹に護られるような兄はいない」
「いつか絶対護ってやるんだから」
「何の決意だよ。というかなんでそんなに意固地になってるんだ?」
涼香も首を傾げ、首を捻る。しかし頼卯同様、答えに時間は要さなかった。
「家族は助け合うものだから?」
「なんで疑問形なんだ」
「まだ……よく分かんない」
涼香はもどかしそうに、自分の頭を捻り、脳でモヤモヤと浮かぶ心を形にしようとしていた。
「もういいよ、この話は」
大嵐が止めに入ったところで、涼香はぴったりの言葉を見つけたようだ。
「だって、ずるいもん」
「――は?」
軒下で座っていた涼香は勢いよく立ち上がり、大嵐を指さす。
「なんでも自分で背負ってずるい。お兄ちゃんだからって、私を勝手に背負わないで欲しい」
「はいはい、いいからこっち戻って来い。雨に濡れるぞ」
「だからさ、護るっていうのは、一方的なものじゃないんだよ」
校舎から飛び出た涼香を引き戻そうとしたが、その必要はなかった。
涼香の頭上から暖かい光が差し、それを受けた校庭は平たい太陽のようにまばゆく輝いた。
その中心で、涼香は無邪気に笑う。
「お兄ちゃんが私を護りたいと思うのと一緒に、私もお兄ちゃんを護りたいんだよ。これってきっと、護りたいって気持ちが糸になって、私とお兄ちゃんが繋がってるってことじゃん!」
「お前が何言ってんのか分んねぇぞ」
「だからさ、それを『こころ』って言うんじゃないのかな! 護って護られて、そんな『こころ』が私とお兄ちゃんの間にはあるんだよ」
涼香は幸せそうに、それこそ世界の真理に到達したように、クルクルと校庭で踊る。
この時の頼卯に、涼香の言っていることはさっぱり理解できなかった。
それでも、光のステージで笑う妹の言葉を、頼卯は笑うことができなかった。
*****
「あぁ……そうだったのか」
幼少の記憶が、キラキラした欠片のように舞い落ち、大嵐の心の、欠けた部分にピタリと挟まった。
「俺は忘れていたのか。『誰かを護る』ってことは、『誰かに護られてる』、『こころ』が繋がっているってことを。それを、涼香が、照月が教えてくれたんだ」
自分を気遣い、憎しみを突きつけられても護ると言ってくれた、あの少女が教えてくれた。
護ると言ってくれた時、心の奥底で浮かんでいた言葉。
俺も護りたい。
その時、既に照月と自分の心は繋がっていたのだ。
それ以上の答えは必要なかったのだ。
過去、現在、未来。
失ったものもある。得たものもある。
だけどそのどれも、護りたかったもの。
大嵐の瞳を透明な一膜が覆う。
あぁ、なんで気づかなかったのだろう。
あの時、涼香は俺を護りたかったのだ。
そして俺も、涼香を護りたかった。
その時心は繋がっていた。
そして今だって、俺は涼香を護りたいと思い続けている。
それはつまり、いつだって、いつまでも。
「俺達は繋がっている。そうだよな」
見上げた天井のシャンデリアが、幾重にも重なって輝いた。