辿り着き、ドアノブに触れた瞬間に引っ掛かりは確信へと変わり、扉を押し開く瞬間にはなんの疑問もない。『ただ、そこにある』ことだけを受け止めて、部屋の中に足を踏み入れれば、
「さっさと入るのかしら、冷めるのよ」
以前までとなにも変わっていない禁書庫が、その薄暗い部屋の主である少女もまた、変化のない姿でシャオンの正面――テーブルについて座るように促していた。
「……未来予知でもされてる気分」
「訳の分からないことをほざかないでほしいのかしら」
ちらと視線を持ち上げ、彼女本人が淹れたであろう紅茶を口にしながら――ベアトリスがそう退屈そうに呟く。
こちらのつまらない軽口にベアトリスは鼻を鳴らし、豪奢なドレスのスカートの中で足を組み替えるような仕草を見せる。それを目にしながら、ゆっくりと禁書庫内を彼女の方へ歩む。
「……ここしばらくの騒ぎは収まったと見ていいのかしら」
「ん、まぁ。一応」
魔女教の襲撃、という一つの争いならば終了した。また新しい問題も起きてはいるが。
シャオンのその答えに彼女は形のいい鼻を鳴らし、音を立てて本を閉じると椅子から立ち上がる。それから彼女は分厚い装丁の本を本棚に戻し、またすぐ隣の本を引き出そうと背伸びする。それを見て何の気無しに彼女に取ってあげる。
「はい、これでしょ」
「……生意気かしら」
「返すよ、そのまま」
見てられないからの裏のない行動だったが、彼女のプライドが少し傷ついたようで、恨めがましい目を向けられる。
それを右に流しながら手に取った本を渡すと、ベアトリスはそれを胸に抱えこみ、小さくつぶやいた。
「礼は、言わないかしら」
「はいはいどうも」
少なくとも、礼を言うべき場面であると判断している時点で彼女の心優しさがうかがえる。
魔女教やらなんやらと血なまぐさい輩を相手にしてきたこちらから見れば十分に癒しの存在だ。
「それで、なんのようかしら」
「紅茶を淹れて待ってくれていたんだ、言わなくてもわかってくれると助かるんだけど」
「お前の口から聞くことが重要なのよ」
――口の中が渇く感覚を覚える。
シャオンの期待が外れようとも当たっていようともどちらでも構わない、強いて言うなら希望的観測でも当たってほしいのだが、もし違っていたらあるいは想定しているものよりも酷い結果が待っているとしたら。
想像するだけで口が動かない、ここまで臆病だったのだろうか、自分は。
いいや、隠さなくてもいい。レムを守れなかったことが響いているのだろう。
だが、いまは動くべきだ――
「……ただ、その前にせっかく入れた紅茶を飲まないのは礼儀として最低なのかしら」
「あ、ああ。ちょうど喉が渇いていたんだ助かるよ」
ベアトリスは非難するように湯気の立つカップとシャオンを交互に見、飲めと暗に訴えかけてくる。
漂ってくる香りは心が休まるような温かさを感じさせる。
このシャオンの様子に、対策であるような淹れられている紅茶。それすらも見通していたのだったら、恐ろしくすら覚える。
シャオンの好みの甘さに調整されたそれはシャオンを落ち着かせ、勇気を与えてくれた。
改めて、カップを置き、彼女を見据える。変わらずこちらをただ見ているだけでそれ以外の反応はない。
「ともかく、まずは改めて、無事でよかったよ。ベアトリス」
「それは、オマエの役割上の心配かしら?」
「――いいや、単純に友人として」
その言葉に、それまで本に目を落としていたベアトリスの視線が持ち上がり、呆れたような声色でため息とともに言葉を吐き出す。
「オマエとはそんな関係にはなった記憶がないのよ……少しは勇気が出たかしら?」
「ああ、ありがとうね……ベアトリス、お前は……」
息を呑み、目をつむり、心臓の鼓動に耳を傾ける。
もしも、最悪の結果だったらということを考えるといまだに躊躇はしてしまう。
だが、彼女にここまで御膳立てをされたのだ、いまさら吐いた言葉は止められない。
だから、静かに、声を出した。
「レム嬢、彼女を覚えているか?」
――問いかけが音になり、引き返せない現実に弾けた。
■
ベアトリスの禁書庫。
それは所謂別世界であり、どこにもつながっていて繋がっていない場所だ。
暴食が持つ権能が世界を書き換えるものであるならば、世界から離れていた場所にいるベアトリス、彼女ならば、権能が発動した際にこの場所にいたのであれば、レムのことを覚えているのかもしれない。
「答えてくれ。ベアトリス、否定でも肯定でも、それが真実なら受け止める」
ベアトリスは静かにこちらの瞳を見ている。
感情が宿らず、なにを考えているのか読み取ることができない。
普段はあれほど、感情のわかりやすい少女なのに、今この瞬間だけはそれがまったく読み取れない。
「ベアトリス……?」
なぜ、なにも言ってくれないのか。
知っているでも、知らないでも、どう答えるにしても難しくない質問のはずだ。
だから、彼女が沈黙を貫く理由がわからない。
そして、疑問で頭を埋める中、ようやく彼女が小さな口を開き、
「――答えたく、ないのよ」
ジッと見ていた視線をそらし、想像していない答えを返した。
一瞬、思考が止まる。それから慌てて手を振り、
「ま、待て。答えたくないって……わからないってことか? 別にわからないことは恥ずかしいことじゃない、それが――」
「どういわれても、何があってもベティーの答えはそれこそ同じなのよ。答えたく、ない」
「なんだ、それ」
腕を上から下へ振り下ろし、シャオンはベアトリスの前に一歩、強く踏み込む。
椅子に座る少女はその激しい挙動にも目を向けず、固く唇を引き結んでいた。その頑なな態度に、焦燥感で焼かれていた心が燃え上がる。止まらない。
だが、それに対して冷静に答える。
「お前が聞きたい言葉を、どうしてベティーが言ってやらなきゃならないのかしら。……あまり騒がないでほしいのよ。書庫が、乱れるかしら。第一――――オマエが本当に知りたいと思っていることじゃない」
息が詰まった。
想定外の答えを受けたから、ではなく、もっと別の理由で、シャオンの思考は止まり真っ白になる。
それを見てベアトリスは一瞬申し訳ないように目を伏せ、詫びとでも言いたげに彼女は小さくつぶやいた。
「……お前の今の質問は、『暴食』に喰われた誰かのことを問い質す言葉なのよ」
「やっぱり――!」
「勘違いするんじゃないのよ、暴食の権能を知っていれば見当がつくかしら。ロズワールもにーちゃも……誰だって知っていることなのよ。それなりに生きているのならば知らない人がいないほどに、知られている恐ろしいことかしら」
「ロズ……!?」
思わぬ名前が飛び出し、喉が思わず詰まる。
ロズワールが暴食の権能を知っている――つまり、彼もまたレムを覚えている可能性があるということなのか。いや、それ以前に、
「……魔女教のことをどれだけ知ってるんだ? ロズワールも、エミリア嬢がハーフエルフだって知れ渡れば魔女教が動くってわかっていたはず。なのに、なにもなかったように見える」
「…………ベティーにはロズワールがどこまで考えていたのか計り知れないかしら。ただ、あれが……ロズワールがなにも手を打ってなかったってことはないと思うのよ」
「なら……魔女教の話だ。魔女教のことを知ってるってんなら、知ってることを洗いざらい話してくれ。今回のことで奴らとの戦いは必至となる。もちろん大罪司教のことも、『暴食』のこともそうだ。聞きたいことは山ほど……これのことだって」
次から次へと、ベアトリスが知る立場にあるとわかれば聞きたいことが出てくる。
だが、
「魔女教については、お前が知る必要はないのよ。それより、その白く染まりかけている髪の色。半端なところを見ると殺したのは、お前じゃなくて、あの人間ってことかしら。どちらにしろ、安心するといいのよ、魔女因子の移動は無事叶ったかしら」
「魔女、因子……?」
ベアトリスの問いかけに、シャオンは眉間に皺を寄せて首を傾げる。
その態度にベアトリスは怪訝な顔をして、こちらの感情を探し出そうとでもするように目を細めた。だが、心当たりはない。
「そんな単語初めて聞く、はず……それにこの髪は……」
「『導き手』のお前が知らないはずないのよ、それに知らないのだったら……なんでお前らは殺したのかしら」
「降りかかる火の粉を払っただけだよ、お前はなにが言いたいんだよ!」
噛み合わない会話に痺れを切らし、声を荒げるシャオンだが、対照的にベアトリスの態度は静寂に近づき始めている。
考え込むように唇に手の甲を当て、覚悟を決めた様に問いを投げてきた。
「オマエはどこまでわかって、いや。どこまで思い出せているのかしら?」
「――――」
主語がない、だが、シャオンには何が言いたいのかわかる、わかってしまう。
「最初は気のせいだと思っていたのよ、でもその髪の変化、魂の、オドの変化、それに演じる必要がない、二人しかいないこの空間でここまで会話が成り立たないとなると、確信したかしら」
――違う。
「シャオン――オマエは」
「――違う!」
その否定の声は今までで一番荒げたものだっただろう。
その言葉を一つ出すだけで、心臓が痛み、呼吸が荒くなる。だが、彼女から続きを聞きたくないために、口早に二の言葉紡いでいく。
「何を言ってるのか、全く分からない。オド、魂の変化なんて、分からない。この髪は……無理をしたからだ、それか、暴食の……」
能力の一つに違いない、と言いたい。
混乱により、何もかもが抜け落ちた表情を浮かべるシャオンに、ベアトリスが憐れむ目線をこちらへ向ける。
そして長く深く嘆息して、
「……今のお前が覚えているのかわからない。でも、これはあのバカと交わした契約の一つだから、教えるのよ。お前が本当に、全てを知りたいのだったら、その答えは『聖域』に向かうといいかしら」
「なに?」
「お前が忘れ……知りたいと思う場所。魔女因子の答えも、ロズワールの思惑も、全てがそこにあるのよ。欲しければ向かえばいい、場所は半獣のあの娘が導いてくれるかしら」
なにひとつ、判然としない内容に縋りつくように言葉を振り絞ろうとする。だが、言葉を言い切る前に背後に違和感が生じた。
――それは、空間が超常的な力によってねじ曲げられる音だと、わかった。そう察せた理由はわからないままだったが、
「まだなにも聞けてないのに……」
「――ベティーは答えに至る道を示した。これ以上、ベティーに頼るのはやめるのよ」
後ろ髪を引かれる――それは慣用句的な意味合いではなく、文字通りの物理的な力でもって肉体を背後へ引き倒そうとする。
空間が歪む――首だけ後ろへ向けてみれば、いつの間にか閉じていたはずの扉が開かれて、こちらの身体を呑み込もうとしているのがわかった。
風が吹いているわけでも、ましてや手足を引かれているわけでもない。
だが、言葉にできない圧迫感が正面から全身に圧し掛かり、目には見えない引力が背後から手足を掻き抱くように連れ去ろうとする。
「俺は――」
そのまま、背後の扉に吸い込まれるようにシャオンの体が扉を渡る。
渡ってしまえば、禁書庫から追い出されてしまう。すんでのところで扉の端を掴み、半ば投げ出されながらも踏み止まった。
息を吐き、歯を食い縛り、前を見る――正面に、悲しげな顔の少女がいて、
「もう一度だけ言うのよ、全ては『聖域』にある。お前の逃げたい真実も、犯した罪も、抱えた栄光も、ベティーとオマエの関係も」
ベアトリスは目を伏せることでなにも応じない。
そして、伸ばされる少女の指先が扉を掴むシャオンの指に優しくかかり――それを外した。
吸い込まれる。投げ出される。締め出されてしまう。
扉から、禁書庫から――ベアトリスという少女の、心から。
「――――」
後ずさり、扉から吐き出されるように廊下へ飛び出す。
追い出した扉が乱暴に閉まる。
「ベアトリス……」
開いた扉の向こう側は禁書庫ではなく、使われていない客間の一室となっていた。
ぐるりと視線を巡らせて邸内を見やるが、直感的にしばらくは会えないとわかってしまった。
聞きたいことも、知りたいこともなにひとつ聞き出せず、なにも得られないで摘まみ出された。
「なんなんだよ……」
答えを得られなかったこと、新たなる疑問に苛立ちを覚え、思わず壁を叩く。
拳から血が滲み、痛みを覚えるが、それよりも、彼女の言葉を忘れてしまいたかった。
――――オマエが本当に知りたいと思っていることじゃない。
「――クソ」
そんな、あり得ないこと、だが。図星を、突かれたのかもしれない、なんて思いたくなかった。
書き溜め分は終了…また溜めます