Re:ゼロから寄り添う異世界生活   作:ウィキッド

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禁忌

「うらっ!」

 

 獣が放った一撃を姿勢を低くし避ける。そして、逆にがら空きとなった獣の腹をめがけて拳を突き上げた。

 

「ぐっ!」

 

 無理な体制で拳を放ったからか、肩に鈍い痛みが走る。さらに、手甲越しでも動物の骨が腕に突き刺さる感触に顔を歪める。

 肉弾戦は不利と考え、転がるようにして距離をとる。

 

「エル、フーラっ!」

 

 マナを目の前の標的に向かって風の刃に変え、解き放つ。

 放たれた魔力の塊は、初日にロズワールから教わった際に放ったような不完全なものではなく、しっかりと形作られた風の刃が獣の腹を、顔面を浅く、だが確実に切りつける。

 魔獣は悲鳴を上げ、確実な敵意を持ってシャオンをにらみつける。思わぬ反撃を食らって奴なりのプライドというものが傷つけられて怒りを覚えたようだ。

 

「よしっ」

 

 致命打には到底及ばないものだが確実に攻撃は通ったようだ。ならば魔法を使っての攻撃ならば勝機はあるかもしれない。

 

「っていってもマナの量を考えないと」

 

 ロズワールとの特訓で注意されたこと、それは魔法使用時のマナの残量についてだ。

 彼曰くシャオンはマナの量は劣ってはないが、そこまで優れているものではないらしい。具体的にどれぐらい魔法を使えるかの見極めはまだできていないので自身の体調で推し量るしかない。

 本来だったら魔法ではなく不可視の手を使用したいのだが、問題点がある。それは副作用(・・・)だ。

 不可視の手の副作用は睡眠作用、使用すればするほど疲労感を伴って睡魔が襲ってくるものだ。

 限界を試したことはないが数回程度だったら強制的に眠りにつくことはないだろう。しかし、今の時間帯は夜の帳が降りきったともいえる時刻だ。

 日中に仮眠などができていたのならばまだしも屋敷の激務に追われそんな暇はなかった。なので一度や二度使用すれば生理現象に逆らうことができずに眠ってしまうだろう。 

 不可視の手は当たれば。芯に当てることができれば魔獣の息の根を止めることなど造作もないことだろう。だが、避けられたらそこでシャオンは魔獣の餌。所謂ハイリスクハイリターンというものだ。

 なので確実に当てられる状況に追い込んだ状況でなければ魔法を使って対処する必要がある。

 恐らく大量のマナを使うだろう。最終手段としては命を削る”オド”の使用も考慮しなくてはいけないかもしれない。

 

「オドは……いざとなったらだけど、な」

「そんなことしなくても魔鉱石をいくつか渡せるっすよ」

 

 話を聞いていたのかアリシアはガントレットに開いている穴から色鮮やかな石、魔鉱石を数種類取り出しこちらへ向かって投げる。

 渡されたのは赤と緑色の輝石、火と風の魔鉱石のようだ。

 

「……そこに入れてんのか」

「必要っすからね――っと」

 

 会話に割り込むかのようにアリシアに魔獣の牙が襲い掛かる。

 しかし彼女は身を引いて避け、逆に魔獣の顔面を勢いよく蹴り上げる。

 蹴り上げられた魔獣は情けない悲鳴を上げ、一度天井に体をぶつけた後動かなくなった。だが、いまだに魔獣の数は増えているようで、まだまだ戦闘は続きそうだ。

 

「――ッ!」

「あぶねっ!」

 

 目の前の魔獣はシャオンの体を吹き飛ばそうと 尻尾を鞭のようにしならせ薙ぎ払う。

 視線を後ろに向けていたシャオンは何とか回避する。そして、流れるように壁を蹴って魔獣の頭上を取る。

 シャオンの姿を追おうと標的が顔を上げた瞬間、

 

「ゴーア!」

 

 火の魔法を放つ。

 小さな、けれども触れただけで肌が焼けそうなほどの火球が魔獣の顔面に衝突する。先ほどよりも大きな悲鳴が響き渡る。当然だ、顔面に火球を当てられたのだから目の水分が乾き、激痛が伴うだろう。

 だが、これで終わりではない。

 

「味わえよ?」

 

 すかさずアリシアからもらった魔鉱石を投げつける。到着地点は――魔獣の口の中だ。

 

「――ッ!?」

 

 突如投げ入れられた異物に驚きを隠せない魔獣。しかし異物の正体を知ると慌てて吐き出そうとする。やはり普通の動物と違って幾分知能が高いのか、はたまた本能的行動なのか。どちらにしろもう遅い。 

 イメージするのは燃え盛る炎、そして吹き荒れる嵐だ。

 脳内で浮かばせたイメージを保ちながら、魔鉱石に遠隔でマナを働きかける。すると、

 

「――――ッ」

 

 魔獣の口内で大きな爆発が起きた。

 目をつぶるほどの光と共に魔獣は悲鳴を上げる。

もっとも口内が傷つけられたのだから声になっていないようなものだったが。

 

「どうだ、こんちくしょう……うぇ」

 

 強化された嗅覚によって獣の肉が焼け焦げた臭いがシャオンに襲い掛かり、思わず胃の中身を吐き出してしまう。

 

「っと、えづいている場合じゃない」

 

 流石に今ので倒れたとは思わない。運が良ければ気絶しているかもしれないが。

 口元についた胃液を拭い、煙の先を見ようと目を凝らす。そして、あるものが目に入った。

 

「……宝石?」

 

 それは魔鉱石によって焼き切られた魔獣の舌、正確には魔獣の舌の裏に位置する部分にあった。

 赤黒い肉の中に一つだけ碧色の輝石が埋め込まれていたのだ。

 詳しく見てみようと床に落ちた舌へ手を伸ばす。その瞬間、

 

「――ッ!」

「――がぁっ!」

 

 煙の中を忍び寄っていた魔獣によってわき腹に強い衝撃が加えられ、踏みとどまることができずに壁に叩きつけられる。

 その威力に肺の中の空気すべてが吐き出される。

 ゆっくりと床に落ちると骨の折れたような音が聞こえた。いや、実際に折れているのだろう。

 呼吸をするたびに痛みが走り、口から血があふれ出る。 

 急いで癒しの拳の使用を試みるが、腕が動かない。

 どうやら先の一撃で関節が外れてしまったようだ。無理やり動かそうにも痛みで動きがつい止まってしまう。

 

「ぐふっ!」

 

 そうこうしている間に魔獣の次の一撃がシャオンを襲う。

 

「くそっ……っ!」

 

 シャオンは今の一撃で虫の息だ。

 だが、魔獣の怒りは収まることなく、攻撃は続く。鋭い爪で腹を抉られ、押しつぶすかのように全体重を乗せた一撃でシャオンに体当たりを浴びせる。

 

「シャオン! このっ!」

 

 遠くからのアリシアの声と共に小さな炎が飛来し、魔獣を吹き飛ばす。

 どうやら彼女は近接だけでなく遠距離戦も十分にできるらしい。

 ボロボロの体になりながらも、そんな風に周囲に思考を回せるほどシャオンは落ち着いていた。理由は簡単だ。自分の命はもう持たないだろうと理解していたからだ。

 何度かの死を体験したからわかる。この感覚は生と死の境界線を越えてしまった感覚だと。

 うっすらとみえる視界にはアリシアの傷だらけの体が映る。どうやら彼女はもう一種類の魔獣の群れを退治できたらしく、今はシャオンを助けようとこちらに向かってきているようだ。

 だが、そうはさせないと吹き飛ばされた魔獣がすぐにこちらに戻り、彼女に襲い掛かろうとする。

――ああ、それは情けない。

 互いに大口をたたきあったのに、自分だけが役割を果たせないのは情けない上に身をも挺して手助けされるなんて。

 そんな考えから一つの決心が生まれる――こいつだけは殺すと。

 

「不可視の、手ぇぇぇ――ッ!!」

 

 震える体を無理やり立たせ、絶叫と共に一つの大きな腕を、不可視の手を発動させる。

 目の前の獣にはそれを視認することはできず、怒りに燃えているその顔を容赦のない一撃が穿った。

 あまりの威力に、獣の顔面には大きな穴が開き、空気の抜ける音と共にそこから粘り気のある赤黒い血が噴き出す。

 あふれ出るそれを受け止めるものはなく、流れに逆らわずに滴り落ちるそれは絨毯を赤黒く汚し、血だまりを生み出していく。そして、

 

「――ざまぁ、みろ」

 

 崩れ落ちていく亡骸に覆いかぶさるように、血だまりに飛び込むかのようにシャオンの体も倒れる。

 もともと体には限界が来ていたのに意地だけで意識を保っていたのだ。それに標的を撃破したことによる安堵感が加わったことから緊張の糸も限界が来たのだろう。

 

「シャ――ン、大――っすか!?」

 

 アリシアのこちらを心配する声が聞こえる。だが、その言葉に反応する力は生憎と残ってはいない。

――すまない。

 心の中で彼女に謝罪の言葉を口にし、目を、閉じた。

 

 

 目が覚めてシャオンの前に広がる視界は見覚えのある天井、ロズワール邸のものだ。

 小鳥のうるさいほどの囀りと、カーテンから漏れる光が朝だと嫌でも知らせてくる。しかし、

 

「さて、と。これはどういうことだ?」

 

 ループの始まりはいつも双子が起こしに来ていた。しかし、今回の世界では二人はおろか、エミリアもスバルの姿すらもなかった。

 

「……ループから抜け出せた?」

 

 だがその希望的観測を打ち砕くかのように部屋の扉が開き、声がかけられた。

 

「お客様、お目覚めになられましたか」

「お客様、お体の調子は大丈夫なのかしら」

 

 ”お客様”。

 シャオンがこのように呼ばれるということはまたループが始まってしまったということだ。

 残念ながらシャオンはあの魔獣と相打ちに、スバルも何らかの理由で死亡したのだろう。

 

「ああ、なんとかね」

 

 ループは始まってしまった。それだったらそれで仕方がない。ならば今回は抜け出せるように努力すればいい。

 そう気持ちを切り替えると控えめに扉がノックされた。

 

「目が覚めたのね。えっと……」

「ヒナヅキ・シャオン。貴方の名前は……聞いてなかったな」

 

 ノックをした人物はエミリアだった。そしてどうやらスバルはシャオンのことを紹介していなかったらしく、今は互いに名前の知らない状態のようだ。

 

「そう、シャオンね。私の名前はエミリア。家名はないの」

「そっか、よろしく。ところでスバルは?」

 

 いつも彼女のそばに鬱陶しいほどまとわりついてくる彼の姿がどこにもない。

 

「うん……ちょこっと機嫌が悪かったかも」

「なにがあったの?」

 

 エミリアの表情に浮かぶ陰りに、なにか問題が起きたのではないかと、半ば確信しながらも彼女に問う。

 

「実は――」

 

 

「悪いな……なんていうか、相棒が迷惑をかけたようで」

「ううん。スバルもいきなり起きて知らない場所だったらびっくりしちゃっても仕方ないもん。でも、あとでしっかりと謝ってもらわなきゃ」

 

 エミリアの話ではどうやらスバルは起き抜けにラムとレムに暴言を吐いてしまったらしい。その内容は詳しくは問いただしていないが、結構なものだったらしい。

 流石に初対面の人物にそんなことを言われると思っていなかったのか双子の様子も若干ながら気落ちしているようだ。

 

「じゃあ、エミリア嬢。あとは俺に任せといてくれ。なるべく期待は少なめで」

 

 とりあえずはなぜそんなことをしてしまったのかを本人から聞き出す必要がある。そしてそれを聞くことができるのは”死に戻り”をスバルのほかに知覚できているシャオンだけだろう。

 彼女の期待とスバルを気遣うようなものが入り混じった表情に見送られながら、扉を開ける。

 

「よぉ、スバル。元気か?」

「……シャオンか」

 

 ノックをしても返事がなかったので無理やり入る。そこにはベットの上で毛布にくるまりながら震えているスバルの姿があった。

 顔色は土気色で悪く言うならば死人そのものといえる。

 

「スバル、今は俺とお前しかいない、だから正直に答えろ。”前回”なにがあった?」

 

 シャオンの問いかけにスバルは体を震わせる。どうやらよほどひどい死に方をしてしまったらしい。

 だが、それでも数秒かけてようやく口を開いた。

 

「――レムだ」

「レム嬢? 彼女がどうした」

 

 その口から零れた名前はこれから自分たちの同僚になるであろう少女の一人だった。だが、彼女がなぜスバルをここまで怯えさせている原因になるのだろうか?

 シャオンの胸中が疑問で埋まる。だがスバルの発した次の言葉は、その疑問を晴らすようなものだった。

 

「あいつが……レムが俺を――」

 

 現実から目をそらすように顔を伏せながらも、はっきりとした声色でスバルは、

 

「――殺したんだ」

 

 そう口にしたのだった。

 

 

「ふむ、どうしたものか」

 

 あの後スバルに詳しい顛末を聞いた結果、彼は夜中に衰弱し、なんとかエミリアだけは守ろうと彼女の部屋まで向かっていた。

 その際に、現れたレムのモーニングスターによる一撃で、頭を粉砕。無事、ループの発動条件を満たしたようだ。

 恐らく、シャオンが嗅いだアンモニア臭と血の匂いはスバルの物だったのだろう。

 だが、ここで一つ疑問が生まれる。

――なぜ、魔獣たちの存在に気付かなかったのだろう。

 スバルの話を聞く限りレムはいつもと同じ姿だったらしく、戦闘の形跡もないらしかった。つまり魔獣と遭遇をしていないと考えられる。

 それにレムだけでなく、魔鉱石の爆発や、魔獣の悲鳴など大きな音が聞こえていたはずなのに誰も駆けつけなかったことが気になる。

 できるならば本人たちに直接問い詰めたい、だが五日目の彼等はもういない。今は好感度がゼロの彼等だ。

 ならば考えても無駄なことだ。それよりも今考えなければいけないのは別にある。

 

「なにも異常はない、よな」

 

 現在シャオンがいるのは正面の入り口だ。なにか魔獣が屋敷の住人に気付かれずに侵入できる仕組みがないかを確かめに来たのだ。

 ――侵入経路として考えられるものとしては窓、屋敷の入り口、あるかもしれない隠し通路から侵入してきた等だろうか。

 そもそもあの魔獣はいったい何だったのだろう。

 ロズワール邸付近の森に住んでいたものが彷徨ってきた、エミリアを狙ったほかの王選候補者による攻撃、大穴でロズワールが飼っているかもしれないペットの暴走。

 最後の可能性は冗談として、どれもあり得る可能性だ。

 それにあの舌についていた碧色の宝石も頭に残る。

 あれが個体独特の物なのか、誰かにつけられたものなのかによって今後の行動の指針が大きく変わるだろう。

 

「駄目だな」

 

 自分一人で考えていても知識不足で壁にぶつかってしまう。やはりここはもう一人分の知恵が欲しい。スバルの力を借りたいが彼は生憎と部屋にこもりっぱなしの状態。なにより彼もそこまで知恵があるほうではない。

 魔獣に詳しいのはロズワールだろうか。しかし前回の世界の情報では彼は当然なことではあるがスバルとシャオンに監視を突ける程度には疑っていた。

 いきなり魔獣について聞くにはもっともらしい理由付けが必要となる。そして、問題なのはそれが思いつかない。

 ならばあまりロズワールと関わり合いが少ないベアトリス、もしくはパックについて聞いてみるのがいいかもしれない。

 パックに聞いてもいいがエミリアにも必然的に聞かれてしまう。お人よしの彼女だ、恐らく口が軽い。

 そうしたら何らかの手違いでロズワール達に話が漏れてしまう可能性がある。なので必然的に、選択肢は書庫の主である彼女だけになる。

 ベアトリスに会うには”扉渡り”をクリアする必要があるが試練は困難なほど盛り上がるのだ。

 そう無理やり意気込み、振り返ると、

 

「――お客様、何をしているのかしら」

 

 桃髪のメイド、ラムが立っていた。

 

「なんだラム嬢か……えっと、この屋敷の防衛はしっかりしているのかなと」

 

 気配もなく音もなく後ろに立たれ驚いていたがそれを表には出さずに今行っていたことを軽くぼかして説明する。

 

「そう、王都で襲われたのだから仕方のないことかもしれませんわ。でもご安心を、当屋敷に攻め入ろうとする命知らずはいないわ。もしいたとしてもすぐに屋敷の誰かが気づくわ」

「そっか、なら安心だ。あ、ちょうどいいやまでの案内お願いしてもらっていい?」

「構わないわ。でもひとつ、聞きたいことが」

「なに?」

 

 彼女から自分に質問をするなど珍しい。先ほど暴言をぶつけられたスバルに関する質問だろうか?

 そんなふうに呑気に考えていたシャオンの思考は、

 

「なぜ――ラムの名前を知っていたの(・・・・・・・・・・・・)?」

「――」

 

 彼女の一言で世界が軋んだような感覚に陥った。

 息が詰まる。腿をつまみ顔に動揺が現れないよう試みる。

 

「……貴方たちは特例だけど現在、この屋敷にはよそ者を招き入れることは芳しいことではないわ。勿論、怪しい行動をするならお客様といえども”よそ者”は”よそ者”」

 

 瞳は鋭く、敵意むき出しのものでこちらを射貫く。その剣幕にわずかに気圧される。

 

「エミリア様の恩人であるお客様には正直に、話してくださると助かるのだけれど」

 

 その顔には正直に話さなければどんな手段を用いてでも話させると書いてあった。

 一回目と二回目のループで過ごした計10日間、ラムと接してきたからわかるが彼女は聡い。穴だらけの嘘などすぐに見破られてしまうだろう。

 やはりシャオン自身も謎だらけで焦っていたのだろう。

 今彼女の名前は知らないのに彼女の名前を呼ぶという一番やってはいけないミスをしてしまったのだ。

 こうなってしまっては馬鹿にされるかもしれないが、嘘をつけないのならば正直に答えるしかない。最悪、頭のおかしい奴と思われてもすでにスバルに対する彼女らの印象は最悪に近いものだ。

 今更シャオンの印象が悪くなってもあまり影響はないだろう。

 

「――信じられないかもしれないけど、俺とスバルは」

 

 シャオンは口を開く。馬鹿にされる可能性よりも、真面目に受け取ってもらえるわずかな可能性信じて、

 

「死に戻りを――」

 

 している、と言い切る前に、カチリ、と時計の針が止まったような音がした。

 いや、実際にはそんな音は鳴っておらずシャオンだけが聴いた幻聴だったのかもしれない。

 言葉にしようと、声を作ろうと、そう思った瞬間、それは訪れた。

違和感。言葉にはできないような違和感と共に五感すべてで感じさせられる圧力。

 世界から音が消え、色が消える。

その全てが、世界から完全に消えさっていた。

音のない世界、それは静寂といった単語すら生ぬるいほどの隔絶された空間だ。心臓の鼓動音も、体内を流れる血の音すら止まってしまっているのかと思わせられるほどの無音状態。

ただそうされたというだけで、全身を悪寒が駆け巡り、堪え難い不快感が臓腑を掻き乱すように暴れ回る。

そして、それは異変の始まりに過ぎなかった。

 世界から次は全ての存在の動きが消えた。

時間が引き延ばされ、一秒後ははるか時間の彼方へと、見えない到達点へと大きく変わる。

眼前のラムが浮かべる表情は疑いの面差しを浮かべたまま動かない。瞼はぴくりとも動かず、唇は固く引き結ばれたままで、呼吸すら止まっている。まるで出来のいい人形のようだ。

 そしてそれはシャオンもまた同様で、本来ならば口にするはずだった言霊は、永久に誰かへ届けられることはなく、消え去ってしまうだろう。

音は消滅し、時間が凍てつき、シャオンの覚悟をあざ笑うかのように世界すら静止する。

ふいにやってきた理解を越えた現象。神経の通わない体は欠片も動かすことができず、シャオンはただ混乱を抱えたまま思考だけは止めてはならないともがく。

なにが理由でこうなったのか。それを推し量る精神的な余裕はない。

 そして、その感覚の終焉は唐突にその姿を現した。

 

 ――なんだ?

 

疑念の声が脳裏に浮かぶ。

視線の先、固定された動かない視界の中、それはふいに生じたとしか思えなかった。  

 たださらに特異だったのは、その黒い靄だけが動き、ゆっくりと形を変えたことだ。

 なにもかもが停滞した世界の中で、黒い靄だけが緩やかな速度で形を変える。両手の上に抱えられる程度、そんな質量の靄はその輪郭を少しずつはっきりとさせていき、体感時間で十数秒もかけてようやく目的の形状へ辿り着く。

 

 ――それは、黒い掌だ

 

形を変えた靄は腕の形状を取っていた。長い五指を備え、肘の先ほどまでの長さしかない浮遊する黒い腕。

そしてソレは、明確な意思を伴ってシャオンに迫る。

 それと同時に直感的に悟る、悟ってしまう。”アレ”からはもう逃れることはできない。

 世界が静止してしまった時点でどのような抵抗も無意味で、どのような希望にすがることすら無駄となる。そう悟ってしまった。

 黒い指先は遮るものがないかのように、するりと胸へ忍び込む。そして、はっきりとその指先が、爪が内臓を軽く突き刺す感覚が伝わった。

 次に肋骨を撫で、さらに奥へと掌は進み、やがて人間の中心ともいわれる心臓。その直前で掌は動きを止めた。

 声も出せず、抵抗のできない体は冷や汗すら流すことすら叶わず、黒い掌の思惑もなにもわからないまま、全身を恐怖と鈍い痛みが駆け巡る。

その瞬間、シャオンに激痛が襲い掛かる。ただひたすらシンプルに、心臓を容赦なく握り潰されるような痛みが与えられ続けた。

 痛みに涙を流すことすらできない中、無機質な女性の声を耳にした。

 

『契約の、履行』

 

 その言葉がシャオンの頭の中に響き一拍、何かが潰されるような強い衝撃に襲われた。

 そしてその衝撃を皮切りに世界は再び稼働する。

 色の消えていた世界に再び明るさを伴って着色され、消失していた音はまるで何事もなかったかのように奏でられる。

 

――あれは、一体なんだったのだろう。

 

「――お客様っ!?」

「あ?」

 

 ラムの驚愕の声と共に体から力が抜ける。

 倒れそうになった体をなんとか、扉で支え現在の状況を確認する。

 目の前には静止する前と同じ光景が広がっている。どこにも異変はなく、ラム自身も目立った異変はない。

 ふと、自分の体に違和感を感じ、視線を下へ向ける。 

 

「……まじか」

 

 心臓に当たる部分。そこに掌サイズの穴があけられていた。当然、肉という蓋が外れたのだから、そこからは血が流れ始めていた。

 脳が状況についていけていないからか不思議と痛みはなかった。

 

「――あ」

 

 ラムの珍しく焦る表情を見ながら世界は回り、倒れる。

 ――そして、シャオンは再び命を失った。

 

 

 天井と壁の境もわからず、部屋の広さを想像することすらできないほどの漆黒に染められた世界。

 その世界のどこかで、一つの存在があった。

 

『――契約』

 

 かすれた声、誰に対して発せられているかわからない声が響く。

 

『――これは契約、導くものとしての、寄り添うものとしての逃れられない、契約』

 

 そんな言葉と共に黒い世界は消失し、影も意識も濁流に飲み込まれるがごとく消滅した。

 




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