もう、何度目になるかわからない光景、その光景はとある男によって変化を遂げていた。
「……おも」
ちょうど腹に当たる部分に感じる重さを感じ目が覚める。
ゆっくりと開けた瞼の先には相変わらずの威圧を感じさせる三白眼。腹立たしいほどの笑みと、無駄にきれいに生え揃っている歯を輝かせながら、
「グッドモーニング! ヒナヅキシャオンくん!」
重さの原因はシャオンに跨がり、指をさして大声で挨拶をしたスバルだった。
訳がわからず口を開けて呆けているとスバルはベッドから跳び跳ねるように離れ、ポージング。
「いやぁ、いくら屋敷のベッドが気持ちよくても寝すぎは損だぜ? 俺を見習ってもっと早く起きたほうがいい。なんせ早起きは三文の徳! ……えっと三文っていくら?」
「姉さま姉さま、お客様ったら自分で言ったことの意味がわからない様ですよ」
「仕方ないわ、レム。お客様の頭は残念なものだから」
「そりゃないぜ、ラムちー、レムりん」
代り映えのない双子の毒舌に、慣れたようにスバルは受け流す。それどころかあだ名で呼びかけるほどの余裕があるようだ。
「ラムちー……!?」
「レム、りん?」
スバルのつけたあだ名に驚きと疑問を隠せないレムとラム。
しかしそんな様子を気にすることはなく彼は高笑いを続ける。
「……えっと、状況がよくわかんない」
正直な感想を口にするとスバルはくるりとその場で一回転。そして、こちらに指をさし、
「心配をおかけしました! 皆様のナツキスバル、復活完了いたしました!」
元気に、大声でそう宣言したのだ。
◇
現在、男同士の話があると言ってスバルとシャオンは二人きりで部屋にいる。
怪しい目で見られたがそこは目覚めたばかりで混乱している、互いに状況を整理したいと伝え事なきを得た。
「さて、俺たちが今することは三つある。一つ目は屋敷の住人からの信頼の獲得、つまりはレムによる襲撃の回避だ」
レムの襲撃。それは二度目の世界でのスバルの死因だ。
彼女の凶行はスバルに対して抱いている嫌悪感……もとい警戒心が限界を超えたために起きたともいえる。それを防ぐには確かにレムから信頼を得ることが鍵となるだろう。
彼女がそこまでスバルを嫌う原因は一つ、”魔女の臭い”だろう。
それがどのような匂いなのかは強化された嗅覚でも知りえないものだ。恐らく、特定の者にしか嗅ぎ取れないものではないのだろうか?
だったら臭いに対しての対策はできそうにない、信頼を得るにはほかの方法を考慮する必要がある。
「二つ目に呪術師の発見および対処だ」
「呪術師?」
スバルの口から出た、初めて聞くその単語に首をかしげる。
「ああ、そっかお前は前の世界で……」
「死んだよ、よくわからん手にハートキャッチされた」
言いづらそうに言葉を選んでいるスバルを遮り自身の顛末を口にする。
正直、死因についてはよくわからないので抽象的な説明で具体性にかけてしまうが仕方ない。伝わらなくても仕方ない、そうあきらめていたシャオンだがスバルは、神妙そうな顔を浮かべていた。
「……死に戻りについて誰かに話したか?」
言い当てられたことに驚き、目を見開く。
「ああ、でもなんで知ってる? まさか、オマエも前回の死因も?」
「いや、俺の方は別の死に方だ――詳しく話す」
前回の世界、シャオンがスバルを訪れた後にベアトリスが部屋に訪れ”五日目の朝までスバルを守る”という契約を結んだらしい。
ベアトリスは精霊だ。それも陰の魔法、そのすべてを知り尽くしているといっても過言ではないほどの使い手。
そんな彼女に守られ、なおかつ禁書庫にこもっていたスバルは無事五日目を迎えることができたらしい。
ただし――
「――四日目は超えることができた。しかし、レム嬢が死んだ。そして、衰弱死の原因はベアトリス曰く”呪術師”による呪術。そして、死に戻りをするために自殺した」
スバルの表情には悔しさがにじみ出ており、血が出るほど強く唇を噛み締め、耐えている。
シャオンがいない間に何が起きたのかは理解した。だが、スバルの心情は知りえない。
最後に会った時は彼は双子に恐怖を抱いていたはずだ。だが、現在ではその二人をも救おうという気概を感じられる。
「……すごいな」
「なにがだよ、結局自殺してリスタートさせるしかない状況しちまったのは俺の責任だろうが」
確かにそれは前回何も行動を起こさなかったスバルの責任かもしれない。
だが彼の責任でもあるならシャオンの責任でもあるだろう。自分も何もできなかったのだから。
それに拾った命をわざわざ”自身の手で絶つ”など並大抵の覚悟ではできないことだろう。
「それで最後に、魔獣の襲撃。これに関しては俺はわかんないぜ? 少なくとも俺は一度もそいつらと遭遇していない」
「もともと、俺だけを狙ったのか、それとも偶然俺がその牙に襲われたのかわかんないけど、確実に来るだろうな」
二度目の世界で起きる固有イベントなどと楽観視できる次元はとうに過ぎている。一度目に起きなかった理由はわからないが必ず起きると考えて行動する必要がある。
「まぁ、わからんことだらけだ。それで? 作戦は? あるんだろ? スバル」
「ああ、今回俺は――」
◇
仕事を始めて二日目、特に何事もなく生活できている。ただ、不安があるとすれば、
「あちゃー! おっと、レムりん。だいじょうぶだぜ? 後片付けもすべてこのスバルくんがやっておきますとも!」
スバルのことだろうか。
割れた花瓶の破片と、花を素早い手つきで片づけるスバル。その様子を少し離れたところで見つめるレム。
――一度目の世界でみた光景だ。
「……ねぇシャオン」
「なんだい、エミリア嬢?」
いつの間にかそばに来ていたエミリアがシャオンに声をかける。
彼女の質問に答えるため掃除の手を止める。
「うーんとね、なんだかこう、もやもやしてるの。うまく言葉にできないんだけど」
「はい?」
「スバル、何か変じゃないかしら?」
「――変、とは?」
エミリアの疑問にシャオンの意識が切り替わる。
感覚を鋭く研ぎ澄まし、彼女の言葉一つ一つに意識を向ける。些細な行動も舐めように観察する。まるで変態のような行動だが、作戦のためなので仕方ないのだ。
スバルの立てた作戦は――一度目の生活を繰り返すことだった。
そしてスバルがシャオンに頼んだことも簡単なことだった、もしもスバル自身が不自然な振る舞いをしてしまったらサポートしろ。それだけだった。
だから今、エミリアがスバルに対して違和感を感じているならばなるべくそのことから意識を遠ざけ、フォローする必要がある。
だが、彼女は困ったように眉を下げるばかりで肝心な理由を話そうとはしない。
「それがよくわからないんだけど、なんていうか……無理をしているような、うーん」
そういってエミリアは再び思考の海にその身を投げたようだ。
そう、彼女の言う通りスバルはだいぶ無理をしている。笑顔を張り付けてはいるが心が擦り切れてきている。あれでは数日と持たないだろう
「君もそれを知っているのに放置するのはどうなのかなぁ?」
「……パック、わかるんだ? というよりもいつの間に」
胸ポケットに潜り込んできたその灰色猫の言葉に静かに答える。
先ほどまでは感じていなかった生暖かさが胸に感じる。パックが能動的に体温を消していたのか、はたまたそんなことに気付くことすらできないほどに焦りを感じていたのだろうか?
「接触すれば心の状態ぐらいは読み取れるからねー僕たち。それより彼、だいぶぐちゃぐちゃになってたけど……止めないの?」
「本来だったら止めなきゃいけないんだけど、やむにやまない事情があってね。少なくとも俺には止められません」
スバルの考えた作戦は確かに有効だろう。決められたレールに乗っていけば必然と同じ到着点に向かうのだから。それに加えて二度目の世界とは違い死の原因も判明しているのだ、もしかするともしかするかもしれない。
だが、一度目と今回の世界とでは大きな違いがある。それは、プレッシャーだ。
なまじ救いたいと思えるものが増えたから彼にかかる重圧も増え、さらに失敗したら待っているのは確実な死なのだから心が休まることはない。下手をすればこのループを超える前に廃人になる可能性のほうが高いかもしれない。
だが、彼の行いを止めることはできない、現状一度目の方法を繰り返す以外に代案を出せないからだ。
もしもスバルが出した案に変わるものがあれば即座にそれを出し、スバルに薦めていただろう。
「……自分の力不足に腹が立つばかりだよ」
「ふーん」
興味なさげにパックは返事をし、あくびを一つ。そして、
「――よしっ! あ、ごめんね。お仕事中だったのに呼び止めちゃって」
「いやいや、気にしないよ。パックの毛並みも堪能できたから」
自身に憤りを感じているとエミリアがようやく意識を現実に戻してきたようだ。
「あ、パック。もう、いつの間にシャオンのポケットにいたの」
「にゃあん」
そういってエミリアはパックの体を優しくつまみだす。それを彼はくすぐったそうに体を震わせ、すぐに彼女の髪の中に忍び込んだ。
「もうっ、パックったら。あ、シャオン、私ちょこっとやることができちゃったから行くわね?」
エミリアはパックが潜り込んだことで乱れた髪を直し、そしてこちらに軽く謝りどこかに走っていった。
恐らく、
エミリアもスバルの異変に気付いたはずだ。根拠も、なぜそう思ったのかわからないが彼女はスバルの今の状況を読み取ったのだ。
だったらもうシャオンには止めることはできない。
「誇れよ、スバル――お前の惚れた女は思ったよりもすごい女だ」
覚悟を決めた様子のエミリアを眺め、どうやら自分の出る幕はなさそうだと判断し、再び掃除を再開した。
◇
――気持ち悪い。
「お、ラムちー! 今の見たか!? 俺の包丁さばきってば、たったの一日でかなり洗練されてきてね!? 石川五右衛門も腰が砕けるほどだ!」
――気持ち悪い、気色が悪い、吐き気がする。
「レムりん、見て見て! この繊細な細工を可能とする技量――今、俺の指先は輝くっ!」
――不快だ、不愉快だ、胸がむかむかするほど、不快で気持ち悪い。
「エミリアたんてば会うたび見かけるたびに俺の心を掻き乱すな! マジ罪作りすぎてギルティってるよ!」
――気持ち悪い辛い気持ち悪い痛い気持ち悪い苦しい気持ち悪いあきらめたい気持ち悪い嫌だ気持ち悪い許して気持ち悪い。
「お? なんだぁ、シャオン! 相変わらずうさんくせぇ顔だな! ほれほれ、もっと俺を見習って明るく! にこー!」
――気持ち悪い我慢しろ気持ち悪い悟られるな気持ち悪いまだできるはずだ気持ち悪いあきらめるな気持ち悪い耐えろ気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い――助けて。
笑顔を浮かべ、舌を全速力で回す。
任された仕事にも全力で取り組み、失敗も恐れず果敢に挑み、手が空けば即座にやり忘れたイベントがなかったか、記憶の中を模索する。
どんな些細なことでも、起こせる限りの出来事に自分を刻み込む。それこそ、実際にナイフを体に突き立てるように。
そうでなくてはいけない。そうしなくてはならない。そうでなければ、そうでなければ――この場所にいられなくなる。
だから一秒だって無駄にはできない。起こり得る可能性の全てを吟味して、必要なイベントのあらゆる成否をシミュレートして。
もっとうまく笑えるはずだ。もっとうまく笑わせられるはずだ。
頭を空っぽにしたように振舞え、だが、思考の歯車は決して止めるな。
無意味で無駄で大げさなアクションを取れ。警戒することが無駄だと思わせられるように、愚者を演じるのだ。
使えないほど馬鹿だと判断されるのは避けろ。切り捨てられない様に自身の能力を見せつけるのだ。
考えるよりも先に行動だ。だが、動く前に己の行動の意義を自分に問いかけ、ナツキスバルという人間はどういう人間なのかを世界に見せつけろ。
不自然になっていないか常に気を配れ。いつみられているかわからないのだから、一秒どころか刹那の間すら油断してはいけない。
だが、気を配っている姿を悟られるな。あくまで自然体を演じるのだ。失敗は、できないのだから。
そう――失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない失敗できない。
繰り返し繰り返し、頭の中で警鐘が鳴り続けている。その響きが強すぎて、視界が歪んでいるような錯覚に陥る。だが、
「おっと、ラムちー、別にサボっちゃいないぜ? お給金は出るんだからちゃんときっちりかっちりお仕事はやり遂げますとも。先輩はふんぞり返って部屋でステイしながらシエスタかましててもいいぐらいよ?」
浮かばせるのは笑顔だ。気味の悪いくらいの笑顔を浮かべ、自らの役目を全うするのだ。
だがラムの前でできていたとしても、肝心のレムの前で地金が晒されれば全てはおじゃんだ。自然で天然にナツキ・スバルを装うのだ。
簡単だ、簡単なのだ。
なにも知らないこと、なにもわからないこと、なにも気付かないこと、なにもしないこと。得意だったはずだ。それしかできなかったはずだ。簡単なことのはずだ。笑いながらそれぐらいできたはずだ。
へらへらと、つぎはぎだらけの仮面を張りつけたままで歩く。
屋敷の中だ。どこで誰と出くわすかわからない。自由はないと知れ。空白の時間は未来を掴むために埋めろ。
「お、う、ぇ……」
ふいに込み上げてきた嘔吐感。中身はもれず、呻きだけが口の端から溢れ、スバルはしかし微笑みを決して崩さない。
そのまま足はスキップを刻み、踊るように滑るように近場の客間へと忍び込む。そして、部屋に備えつけられた洗面所へ向かい、
「……うぇっ、おうぇ……ッ」
すでに空っぽの胃の中身を、洗いざらい流しへとぶちまける。
もう何度目かの嘔吐。当然ながらこんな心理状態で食べ物を受け付けるほどスバルの体は丈夫ではない。
あふれ出るのは黄色い胃液。 数多の嘔吐で胃が傷ついているのだろう。
それでも収まらぬ嘔吐感を満足させるために、流しの水をがぶ飲みして腹を満たし、直後にそれをぶちまける。繰り返し繰り返し、弱音を吐き出すかのようにその無意味な行動は行われた。
「はぁ……はぁ、はぁ……」
乱暴に口元を袖で拭い、青白い顔つきでスバルは荒い息をつく。
圧し掛かるプレッシャーにそれだけで殺されそうだ。このまま気の休まる暇のない時間が続けば、それだけで衰弱死できそうな気がする。
本末転倒な自分の状態を自嘲する。
しかし渇いた笑みも、軽口もなにひとつ浮かばない。
浮かぶのはひたすらに、胸中からわき上がってくる不安と絶望感だけだ。
――ちゃんとできているだろうか。
振り返ってみれば、屋敷の人間との関係がもっとも良好だったのは無知だった一回目の頃だったと思える。
ならば一回目を踏襲し、同じ状況をなぞらえてみるか。
「ちげぇ、それじゃ二回目と同じ顛末だ」
頭のなかで産み出した解決策を即座に否定する。それをするのは二度目のトレースに他ならない。
二度目のケースは一度目の内容をなぞり、その上で衰弱の魔法にレムの鉄槌を追加された形だ。すでに誤った道を通るだけに他ならない。
三度目も問題外とすれば、やはりスバルが見習うべきは一回目になる。二回目のときとはやり方を変えて、一回目をなぞるのではなく一回目よりうまくやるという方向で。
一回目はあらゆる仕事の能力が低かったが、代わりに与えられた仕事には真っ向から取り組む姿勢を見せていたと思う。
二度目は一度目の成果と近しくしようとしたのが見抜かれ、手抜きと判断された結果の不信感がスバルを殺した。
ならば今回は一度目と同様に全力で、その上で一度目のときよりもちゃんとした成果を出してみせる。
ラムもレムも、そうすればスバルを見限るまい。彼女らに粛清されるルートさえ外れれば、スバルの懸念はひとつ取り払われる。
だが問題は、
「依然、呪術師の行方に見当もつかねぇってことだ」
前回の世界で屋敷の住人であるレムが殺された以上、呪術師は外部の人間だと考えられる。
屋敷を狙う人間――王選関係者だとすれば、それらの関係性に明るくないスバル達には手詰まりともいえる状況だ。
呪術師の正体を暴くにあたり、屋敷の関係者の協力は絶対に必要不可欠だ。
少なくとも、警戒を呼び掛けることは無駄にはなるまい。ぶち当たる問題としては、現状のスバルとシャオンのよそ者コンビがこの屋敷でどれだけの発言力を持っているかだ。
「信用も得てない状態で、進言とか誰が聞き入れる? はっ、馬鹿じゃねぇの」
おまけにその情報源を明らかにすることができない制約付きだ。無理矢理話そうとすればあの手が襲う。
幸いにもシャオンとは違って殺されてはいないが、だからと言って強行に踏み切れる勇気はない。
故にもどかしさも遠回りさえも許容して、ひたすらに胃に穴の空くような窮屈さを堪えながら時間を過ごしている。
時間が足りない。時間がないのがもどかしい。この苦痛の時間にこれ以上耐え切れる自信はない。早く終わってしまいたい、だが終わるわけにはいかない。言葉が届かない。届かせる道を築くには時間がいる。その時間がない。どうにかしなくてはならない。気持ちが悪い苦しい。
思考が幾度も辿り着いた袋小路へと迷い込む。
昨晩も、この答えの出ない螺旋に飲み込まれて一睡もできなかった。理由のはっきりしている不安を、解決策の見つからないまま手探りで振り払う無力さ。
いっそ、ただひたすらに『危ない』とだけ叫んでみる選択肢が選べれば良かった。ネジのとんだ狂人だと思われても、それで屋敷の全員の命が救えるのならば悪くない賭けだとも思う。
事前に対策が行われ、屋敷の全員が無事に五日目を迎えられる。状況の悪化に呪術師が撤退を選ぶ。そうなれば大団円だ。
――だが、その場所に自分がいられないのは耐えられない。
スバルの望みは、屋敷の全員が生存し、その上で円満な状態で五日目を乗り越えることにある。
強欲だろうが、傲慢と罵られろうが知ったことか。ナツキスバルという人間は元々狡猾で、汚い、ただの無力な人間なのだから。
「……シャオンには頼れねぇ」
唯一の協力者であるシャオンの力を借りることはなるべくしたくない。
今回のループを乗り越えたとして、いつまた同じように死のループに巻き込まれるかわからない。
スバル的にはそうそう死ぬような出来事に巻き込まれたいとは思いたくないが、
そうなった時にスバル一人で解決できなければならない。
そうしなければ、そうしなければ――スバルがエミリアの傍にいる価値がなくなってしまう。
つまらない意地、と言われてしまえば否定はできないがスバルにとっては大事なことなのだ。
気付けばいつしか薄れた嘔吐感を振り切り、スバルは強張る頬を叩いて己を叱咤。もうすでに痛みを感じる余裕すらなかったが無理やり顔を自然なものに戻す。影のない、表面上は輝かしい笑顔を無理やり貼り付ける。
それから客間の外へ向かう。現状、割り振られた仕事は終えた空き時間だが、そんな時間すらも今は惜しい。自らの有能さをアピールしなければならない。
「やっと見つけた」
扉から身を乗り出したところで、そうして声をかけられた。
振り向くと、そこには弾む息を整えるエミリアの姿がある。
風に揺れる彼女の銀髪は、スバルの意識を切り替えた。
一瞬、顔の筋肉がこわばるが即座に状況に対応、胃の痛みも胸の痞えも閉塞感も全て忘却させる。
今はエミリアに振り返り、頬を好色につり上げろ。
「おやおやぁ、エミリアたんから俺をご指名とか嬉し恥ずかしい! なんでも言って、なんでも命じて! 君のためならたとえ火の中水の中、盗品蔵の闇の中だってもぐっちゃうよ! あ、でもロム爺と戦闘はゴメン! あの爺さんマジで迫力だけはあるから!」
愛しい君を笑顔を張り付けて出迎える。――それと同時に何か、自分の中の、何かが削れていく気がする。
我ながら変わり身の早さに舌を巻きたい気分。が、それと向かい合うエミリアのリアクションは予想とは違うものだ。
てっきり、呆れたような顔。もしくはしっかりと仕事をするようにたしなめる、そんな反応を予想し、期待したのだ。だが、
「スバル……」
「おいおいおいおい、よくねぇぜ、エミリアたん。俺が一晩寝ないで考えた渾身のネタをスルーだなんて。一度使ったネタは鮮度の関係で二度と使えないんだぜ? こんな非道、流石のスバルくんも、涙が隠せません!」
袖を噛んで泣いて悔しがるアクション。歯茎から血が出るほど力み、苦しさを悟られない様にごまかす。
が、これに対してもエミリアの反応は乏しいものだった。
エミリアはスバルの予想の反応をことごとく裏切り、ただ哀切と痛ましさをないまぜにした瞳でスバルを見てくるのみだった。
「え、エミリアたんてば黙っちゃってどったのよ。そんなに美人で黙っちゃったりしたら、俺が芸術品と勘違いしてお持ち帰りして部屋の片隅に飾りつけて毎朝毎晩おはようからお休みまでよろしくのキッス、しちゃうぜ?」
予想のどれとも違う反応。怒る分にはまだ対応できた。呆れられる分にもまだ対応できる。
だが、こうして痛ましげな目を向けてくるということは――。
「――あ」
自分の被っているボロボロの道化の仮面が、彼女にはばれているということではないだろうか。
そんな不安が差し込んだ瞬間、スバルは常に彼女の傍らに存在する灰色の猫の存在を思い出す。
――精霊は心を読める。
精霊を名乗るその猫の特性を思い返せば、スバルがこれまで行ってきたことの無意味さが知れる。
それに気付かされてしまった瞬間、スバルの虚勢は瓦解する。
張り付いていた微笑は形もなく消え去り、代わりに浮かび上がるのは叱られるのを待つ幼子のような弱々しい表情だ。
――怖い。
彼女の次の言葉が、怖くて仕方ない。
なにもかも見抜かれている相手の前で、それでも気付かれていないと踊り続けたことの罰の悪さ。そしてなにより、彼女にだけはそれを知られたくなかったというちっぽけな自尊心がいたく傷付いた。
だがなによりも、――エミリアに幻滅される。それだけは嫌だった。
しかし、なにを口にすれば言い訳が立つのかそれすらわからない。状況を打開する術がないのはここでも同じ。
口を開こうと何度も試みるものの、肝心の言葉が見つからずに踏み出せないスバル。そんなもどかしさを抱え込むスバルを見ながら、エミリアはふいに「よし」と小さく呟き、
「スバル、きなさい」
「……へ?」
「いいから」
ぐいとスバルの腕を掴み、彼女が向かうのは今しがたスバルが出てきたばかりの客間の中だ。
体半分が出ていただけの部屋に引き戻され、スバルは彼女の意図がわからずに疑問符を頭に浮かべる。
が、エミリアはそんなスバルの疑問に取り合わず、腰に手を当てて部屋の中をぐるりと見回すと、
「じゃあ、座って、スバル」
床を指差し、変わらぬ銀鈴の声音でそう言ってきた。
指に従って地面を見やる。床には絨毯が敷かれており、誰も使用していない部屋ではあるが清掃は行き届いているので汚くないが。
「座るならベッドでも椅子でもよくね?」
「いいから座るのっ」
「はい、仰せのままに!」
いつになく強い口調で言われ、思わずその場に正座で従う。スバルが座るのを見届け、エミリアは満足そうに頷くとすぐ傍らへ。
自然、低い体勢から彼女を見上げることになるが、そんな邪まな気持ちを抱くことすら今は浮かばない。
ただただ、エミリアの真意を読み取るのに必死になるばかりだ。
「……うん」
小さく、そう呟いたのはエミリアだ。
確かめるように、あるいは自分に言い聞かせるように息を呑み、エミリアはスバルの隣に同じく正座。
すぐ触れ合えそうな距離に美貌があるのにドギマギしつつ、スバルはその白い横顔から感情が見えないかジッと眺める。ふと、その彼女の白い横顔が紅潮し、耳がわずかに赤いのが見えた。
「特別、だからね」
「――え?」
言い含めるような言葉に疑問符が浮かぶが、それを口にするより前にスバルの後頭部がなにかに押される。
自然、正座していた体は力に抗えず、そのまま勢いに流されるままに前のめりになり――柔らかい感触に迎え入れられた。
「ちょっと位置が悪い。それに、ちくちくする」
もぞもぞと頭の下でなにかが動き、エミリアの照れ臭げな声がすぐ傍で聞こえた。
驚きに視線を上げ、目の前の光景にさらに驚きが重なって目を見開く。
すぐ真上、それこそ顔と顔が触れ合いそうな近くにエミリアの顔がある。それは上下が反対に見えて、「ああ、自分が逆さになっているのか」とどこかぼんやりと遠い感慨が浮かび上がる。
「膝、まくら?」
「恥ずかしいからはっきり言わないの。あと、こっちの方を見るのも禁止。目、つむってて」
額を軽く叩かれ、掌で瞼を覆い隠されて視界が遮られる。が、スバルはそんな彼女の抵抗を手で除けて、
「恥じらうエミリアたんも最高だけど……そもそも、これってどういう状況? 俺、いつの間にご褒美貰える手柄立てたっけ?」
「そういう変な強がり、よくないわよ」
額を再度叩かれる。しかし、今度はそのまま額に手を当てたまま、エミリアは逆さのスバルの前髪を指ですくい、
「言ってたでしょ、スバル。疲れ切ったら膝枕してって。だからしてあげる。いつもってわけにはいかないけど、今日は特別」
「特別もなにも、まだ二日目ですよ? これでグロッキーに見えたってんなら、俺ってば古今無双の虚弱体質……」
「なに言ってるの。打ちのめされてるの、見てればわかるもの。詳しい事情は、きっと話してくれないんでしょ? こんなことで楽になるだなんて思わないけど……こんなことしかできないから」
スバルの言葉を遮り、エミリアは慈愛の眼差しのままでそう語る。前髪を梳く指はいつの間にか髪をかきわけ、ゆったりと幼子をあやすように頭を撫で始めていた。
小さく笑い、そのエミリアの行動を跳ねのけようとする。
それは見当違いだと、そんな格好悪い真似なんかしちゃいないと、彼女の前で張り続けると決めた虚勢を張り続けるつもりだった。
「はは……エミリアたんてば、そんな……俺、が……」
なのに、声が上擦り、喉が詰まり、次の言葉が出てこない。
頭を撫でられる柔らかな指の感触から、どうしてか意識を切り離すことができない。
「疲れてる?」
「ま、まだまだ、やれる。俺ってば意外と体力は、あるほう、だから……」
「困ってる?」
「優しくされると、ほら、惚れ直しちゃいそうで、あ、困っちゃう。……はは」
短い問いかけに、応じるスバルの言葉は虚ろにしか響かない。
そして、エミリアはそんなスバルにそっと顔を寄せて、
「――大変、だったね」
「――――」
慈しむように言われた。いたわるように言われた。愛おしむように言われた。
たったそれだけのことで、たったその一言だけで、スバルの内側にあったボロボロの堤防が決壊する。
先ほどまで怖がっていた心はどこかに消える。
溜め込んでいたものが一気に外へと噴き出す。止めることはできない。
それは封じ込めたつもりで、しかし欠片も消すことのできずにいた激情の吹き溜まり。それがあふれ出る。
「……うん。大変……だった。すっげぇ、辛かった。すげぇ恐かった。めちゃくちゃ悲しかった。死ぬかと思うぐらい、痛かったんだよ……!」
「うん」
「俺、頑張ったんだよ。頑張ってたんだよ。必死だった。必死で色々、全部よくしようって頑張ったんだよ……! ホントだ。ホントのホントに、今までこんな頑張ったことなんてなかったってぐらい!」
「うん、わかってる」
「恐かったよ。逃げ出したかったよ。すげぇ辛かったんだよ。また、あの目で、見られたらって……そう思う自分が、嫌で嫌で仕方なかったよ……ッ」
死に戻りによって大切だと思った存在、心が休まる場所、それらがなくなったことによる恐怖。自分にしか解決できないというプレッシャーに苛まれてきた。
それでも、あきらめたくなかった理由は、
「好きだったからさぁ、この場所が……大事だと、思えてたからさぁ、この場所が……! だから、取り戻したいって必死だったんだよ」
――大切な場所だったからだ。自身の体も、精神もすり切らしてでも守りたいと思えた場所だったからだ。
一度爆発した感情は堰を切ったように溢れ出し、道化師の仮面が外れ、露わになった臆病者の顔を涙で盛大に汚していく。
涙が止まらない。鼻水が垂れてくる。口の中にわけのわからない液体が溢れ返り、嗚咽まじりのスバルの泣き声をさらに聞き苦しいものへと変える。
みっともない。情けない。大の男が惚れた女の子の膝の上で、頭を撫でられながら大泣きだ。死んでしまいたいほど情けない。死んでしまうかと思うぐらい、心が温かなものに満たされている。
スバルの泣き言を聞くエミリアの相槌は優しい。「わかってる」だなんて言っていても、スバルの体験のひと欠片も彼女に届いていないのはそれこそわかり切った話だ。
それなのに、エミリアの声には鼻で笑い飛ばすことのできない重みが込められていた。
理由はわからない。スバルがそう感じただけで実際は違うのかもしれない。
でも、それでもよかった。その温もりに救われたような気になっていたのは事実なのだから。
泣き続ける。泣いて、泣いて、泣き喚いて、いつしかみっともない泣き声は遠く彼方へ消えて、静かな寝息だけが客間に落ちていた。
◇
――レムが客間を訪れようとしたその時、扉から少し離れた場所でとある男が立っていることに気が付いた。
猫のような細い目をした、新しく屋敷にやってきた人間の一人。ヒナヅキシャオンだ。もう一人の人間、ナツキスバルとは違って魔女の臭いはしないがうさん臭さは彼を超えるだろう。
そんな彼は部屋の中に入らず、ただ静かに部屋をわずかな隙間からのぞいていた。
「なにをしているんですか、シャオンくん。それにスバルくんは――」
彼は首で部屋の中を指す。中を覗け、ということだろうか。
警戒は解かず、静かに指示に従うとそこには確かにスバルはいた。ただし、エミリアの膝の上で静かに寝息を立てている状態だが。
「……邪魔しないようにしよ?」
彼の声と表情には今まで過ごしてきた中で一番やさしさに満ちていたようにレムは感じた。
気のせいかもしれない、だが少なくともレムが感じていたうさん臭さは彼から消えていたことは確かなことだった。
「そう、ですね。全く、姉さまにスバルくんは今日はもう役立たずだとお伝えしないと」
「代わりに俺が働くさ。……なぁ、レム」
「はい?」
シャオンの表情はレムからは見えない。だが、その声色は先程浮かべた表情と変わらずやわらかく、暖かった。
「スバルは、不器用で、変な奴だがいい奴でもあるんだぜ? それだけは保証する」
「そう、ですか」
「うん、それじゃ俺は俺でやる仕事あるから」
そう告げ、シャオンはレムとは正反対の方向に歩みを進めていく。
その背中を瞳に入れながらレムは考える。
姉さまやエミリア様の近くにいるあの魔女の臭いが染み込んだ男が憎い。だが、先ほどの幼子のような寝顔は本当に警戒に値する、憎むべき存在なのだろうか?
過剰に反応しているだけで、本当はただの人間なのではないのか?――自身が過去にとらわれているだけで。
わからない。結局のところは何もわからない。優秀な姉とは違って、ただの代替品である自分には何もわからない。
「……花瓶のお水、取り替えないといけませんね」
自身の分からない気持ちから逃げるように、レムは足早に客間から遠ざかっていった。
次回の投稿は諸事情で遅くなると思います。