「近づいてはいるが、いまだ見えないか」
アリシアが森から帰ってきてから風呂に入れず、汗や土で汚れている子供たちのために香料であるレモミをすりつぶし、塗っていたお陰で臭いは辿れる。それでもギリギリだが。
スバル達と別れて数分、まだ目的の少女の姿を視認することができていない。
そして、荒れた道を進んでいることに、シャオンの彼女に対する疑惑が膨れ上がっていく。どう見ても、意図的に追撃者を撒くような進み方だ。
だがそんな先の見えない追跡も終了を迎えた。
少し開けた場所、その中心部におさげの少女の姿を見たからだ。
「見つけた」
「あ、あの……」
彼女もこちらに気付き、村で初めて出会った時と同じような、怯えた表情と共に庇護欲を掻き立てるような震え声で語り掛けてくる。
事実シャオンも魔獣の森で彼女と遭遇したところで警戒せずに対応していただろう、
シャオンの推測が外れている可能性は十分ある。だが、こうして顔を合わせて話すとどうしても本能的に彼女がただ者でないことを察してしまっている自分もいるのだ。
「――その様子だと、気づいちゃったのね。残念だわあ」
黙っていると少女の雰囲気は豹変した。
見た目は先ほどと変わらず童女のまま。だが、目つきは明らかに年相応の者からはかけ離れたものに、そして彼女の背後からは数匹の魔獣が姿を現す。
「……今だったら村の中央でおしりペンペンですましてやる」
外れていて欲しかった予想は見事ど真中に的中し、最悪の結果となった。
「駄目よお。お役目、ちゃんと果たさないとママに叱られちゃうもん。なのにヴェルクったら私に任せて逃げちゃったのよお」
「ヴェルク?」
初めて聞くその名を復唱するが少女はどうでもよさそうに答えた。
「単なる仕事仲間よお。それにしても、いいのかしらあ? お屋敷の方を留守にしても?」
「ああ、それは大丈夫」
思った反応と違ったからか、メイリィと名乗った少女は目を白黒させた。
「一応忠告だけどお、お屋敷の方に向かっているのはギルティラウっていうつよーい魔獣よお。しかもお、ヴェルクから借りたミーティアで気配も物音も認識できない様に強化されているからあ、並大抵の子じゃ返り討ちよお?」
「――最高最強の番人がいるから」
意味が分かっていない様子の彼女に説明してやるほどの義理はない。ただ――
「リベンジできなかったのは残念だけど、今はあの獣野郎のほうに同情するよ」
禁書庫を守る精霊。
彼女と屋敷で戦うのならその勝敗はもう火を見るよりも明らかなのだから。
◻
「――――」
森の静かなる王――地域によってはそう呼ばれることもあるギルティラウは、他の魔獣と違って無用な雄叫びや物音を立てることを好まない。
その巨躯と異形に反して軽やかに荒れ地を飛び回り、音もなく獲物に接近して急所を一撃で抉り、仕留める。そういった奇襲、暗殺めいた狩りを最も得意としている。
自らの得意な分野で力を振るえること、そして『主人』の命令というのも相まってか、こうしてギルティラウは今、気分が高揚している。
「――――」
鼻を巡らせるギルティラウは、獲物のおおよその方向を探りながら『主人』の命令を反芻する。
この屋敷のなかに存在する獲物を狩ること――それが、ギルティラウに命じられた務めであり、『主人』の望みだ。
「――――」
勢いをつけ、ギルティラウは地面から屋敷の窓縁へ飛び乗り、そして窓縁から体当たりするように屋敷の中へ移動する。
さしものギルティラウであっても窓が割れた際の音を消すことはできない。だが、主人と共に来ていた茶髪の男が所持していた不思議な道具のおかげで察知できる生物はいない。
『主人』が、自分以外にも多数の魔獣を連れてきていることをギルティラウは知っている。自分より力も体の大きさも劣る魔獣の多くを引き連れ、森を通って退却している。
主人が自分を護衛に選ばず、単独で任務をするように指示したのにはきっと、この屋敷には自分が相手するのにふさわしいほどの強敵がいるからなのだろう。
故に、ギルティラウは獲物を狩りつくすまで、主人の護衛につかなかった。それに自分を唸らせるほどの実力者、その存在と戦えることができるという期待もあったからだ。
――その待ち望んだ結果が、これか。
ギルティラウの存在を認知できないのは仕方ないとして、警戒している様子はどこにもない。
未だ獲物に遭遇していないが、この有様では期待はできない。
今回の獲物は、自らの武器と誇りである爪で、牙で、振り払えばそれだけで散ってしまいそうな儚く劣った存在しかいない。
「――――」
――わざわざ主人の元を離れて相手するのが、この程度の存在か。
腸が煮えくり返りそうになる気持ちを表すかのように、ギルティラウの四肢に力が籠められる。
獲物をこの牙で食い千切り、血肉の一片たりとも胃に収めず、ばらまく。そうすることで、王者である自身の怒りを鎮めることができるはずだ。
「――――!」
ちょうどいいタイミングで、ギルティラウの嗅覚に獲物の臭いが引っ掛かった。臭いの発生源はここからそう遠くない。ちょうど近くの曲がり角の先、そこにいる。
呼気を乱さず、ギルティラウは首を伸ばして獲物の背へと飛びかかる――だが、
「――――?」
追いつき、爪の届く範囲にまで気配があった獲物の姿がどこにもない。
持ち上げた腕の振り下ろす場を見失い、ギルティラウは刹那の違和感に足を止めた。鼻の頭を震わせ、ギルティラウは首を巡らせる。
愚かで、脆く、弱い獲物の姿はどこにいったものかと。
「――はぁ、本当に来たのかしら」
「――――!」
背後で、声がギルティラウの耳朶を打った。
距離を取りながら、背後を見やれば、目の前に立つのは金色の頭髪の小柄な女だ。
主人とほとんど変わらない背丈の獲物を前にし、ギルティラウを襲ったのは驚きでも怒りでもなく、呆れだった。
だが、自らよりも小さな獲物をしとめるのに罪悪感はない。
弱肉強食、弱者は強者に殺される定めなのだから。ギルティラウは長い尾を振り、獲物の首を刈り取ろうとした。だが、
「汚ならしい尾っぽをベティーにぶつけようとするなんて、レディーに失礼なのよ」
獲物の不満そうな声と共に、ギルティラウの体を何か鋭いものが貫いていき、数本の穴をあけた。
叫びを上げようにも喉にも同様の穴をあけられ、ただ血液と共に息が漏れるだけだった。苦痛の叫びは意味のない音となり抜けていく。
「にーちゃの毛並みを見習うかしら」
よくわからないが、獲物に馬鹿にされたような発言を最後に、頭部を貫かれ、森の王者、ギルティラウの命は尽きた。
◻
「それでえ? 胡散臭いお兄さんはあ、どうするのお?」
言葉の意味が分からず、シャオンは首をかしげる。
「私をつかまえるのかしらあ? それとも、ころすのお?」
「……ひとつ、聞きたい。スバルがかかっている、魔獣の呪いをお前は解呪できるか?」
「無理よお。私はあくまで魔獣使いというだけで魔法使いじゃないんだからあ」
「っ! だったら魔獣たちに呪いを解くように――」
「それこそもっと無理な話だわあ。私から言ってもウルガルムが食事をやめるなんて絶対しないものお」
「なに馬鹿なことを聞いているの?」と、呆れた様子でシャオンのことを嘲笑う。
心を読むなど人外じみたことはできないが、恐らく彼女は嘘をついていない、そんな気がする。
「それでえ? 見逃すつもりはあ? お兄さんもお仲間さんのほうの手助けしたいんでしょう? 私を見逃してそっちの手助けに向かったほうがお互いにお得なんじゃないのお?」
「それはできない」
メイリィの提案を一蹴し、にらみつける。
「あいつらは、今頑張っている。だったら信頼してやるのが、仲間でしょ」
アリシアが、ラムが、そしてスバルがたった一人の少女を助けるために身を削って奮闘している。
本来だったら自分もそこに加わりたいがシャオンは自らの意思でこちらの役目を選んだのだ。
そのせいで彼等には苦労を掛けさせている。だったら限界まであきらめたくはない。
「ざんねーん。だったら魔獣の餌にならなくちゃあ。本当に残念」
「全部、森の肥やしにしてやるよ」
言葉とは裏腹に笑顔で、少女は殺し合いの開始を告げた。
◇
「うッらあ!」
「あははは! 素敵、素敵! いったいどういう仕組みなのかしらあ!」
逃げるメイリィを追いかける。
当然彼女もただでは捕まってくれない。彼女の武器である魔獣たちが主の外敵を仕留めようと一斉に飛びかかってくる。
だが、
「ワンパターンなんだよっ、畜生共、が!」
不可視の腕を、鞭のようにしならせ飛びかかってくる魔獣を弾き飛ばす。衝撃に耐えられずその体が破裂するもの、耐えたとしても再起不能の状態になるものとそれぞれだ。
このようにもう三十体近くになる魔獣を粉々にしているがまだまだ魔獣たちはいるようだ。
「ならこれはあ? 岩豚ちゃーん」
彼女が叫ぶと、一体の魔獣が森の奥から現れ、メイリィを背後にかばう。
漆黒の肌に、人間を一人二人は容易に一飲みにできそうな大きな口と、石臼のような平たい歯が特徴的な生き物だ。
明らかに今までの魔獣と別格な存在の登場に、足を止め、今までよりも威力を込めた一撃をその巨体に叩き込む。
「なっ!」
「ご自慢のその技も、岩豚ちゃんの皮膚を貫くことはできなかったようねえ」
魔獣の体に傷はつかず、わずかに後退しただけだった。
「……だったら、これでどうだ!」
反撃が来るよりも早く、歯を食いしばり、岩豚の体を二本の不可視の腕で掴む
「――っるあ!」
そして唯一柔らかい部分である眼球部を、尖った枝めがけ投げつける。
眼球がつぶれる音と共に魔獣の悲鳴が鼓膜をたたく。
岩豚はわずかに痙攣した後、動かなくなった。
「凄い凄い! 子供とはいえ岩豚ちゃんを投げ飛ばすなんて!」
パチパチと柏手を打ち、シャオンの戦いぶりを称賛してくる。だがすぐに嗜虐的な笑みを向け、
「でも、だいぶお疲れなんじゃなあい?」
確かにシャオンの体もだいぶ追い詰められている。
不可視の腕の使用による副作用で意識は微睡の縁に立っているようで、それに加え潰しきれなかった魔獣の攻撃の積み立ても拍車をかけている。
不可視の腕は使えてあと数回、魔法を使うならオドを削るしかない。それほどまでに追い詰められているのだ。だから――一か八か、賭けに出る。
シャオンの雰囲気から勝負に出ることを察したのかメイリィは笑みを薄め警戒する。
「次は何を見せてくれるのかしらあ?」
「うまくできるか知らねぇけど、とびっきりの魔法だよ。腰抜かさないでくれよ?」
そう軽口をたたき、シャオンは右手を地面につける。
「っ!」
イメージするのは大きな腕。そして今までとは違い、攻撃をするためではない。ただ、
「え?」
メイリィが初めて驚愕の声を漏らした。
彼女の視点に立てば納得だ。なにせ離れた場所にいたシャオンの体がはるか上空に浮き上がり、そしてすぐに彼女の前に落ちて来たのだから。
だが実際シャオンがしたことは単純なもの。
不可視の腕で自らの体を上空に押し上げ、そしてメイリィの目の前に落下するように叩きつけただけなのだから。
荒っぽい方法だったが、幸運にも負傷は微々たるもので、意識もまだ落ちない。百点満点はもらえないが咄嗟の行動としては十分合格点だろう。
「きゃっ!」
「よーやく、掴んだぞ。くそったれ」
右腕で彼女の首を拘束し、背後を魔獣に取られない様に木を背にする。
体格差から力づくで拘束を抜け出すことは無理だ。彼女自身もそれがわかっているから、抵抗はしていない。そして、周囲にいる魔獣たちもだ。
「魔獣どもが無駄に頭利いたのがよかったよ。おかげで主人もろとも襲い掛かるなんて馬鹿な真似されないからな」
「……たしかに急に飛んできたのは驚いたけどお、これからお兄さんはどうするのかしらあ?」
「え?」
万事休すといった状況なのに、楽しそうに声を弾ませメイリィは、
「――
曇りのない、瞳で少女はシャオンを見据えた。
◇
「ねえ、あなたの手で、私を殺せるのかしらあ?」
メイリィの口から出た”殺す”という言葉。
挑発的な言い方ではなく、純粋な疑問から出た問い。だからこそ、シャオンは固まってしまった。
「……勘違いすんな、お前がスバルの呪いを解呪しないっていうなら痛い目に合わせるが殺しはしない。気絶させて屋敷に連行だ」
「しないんじゃなくて、できないのよお。おバカさん」
クスクスと、今度は挑発するように笑うメイリィ。
自らの命を握っているシャオン相手にそんな態度をとるのはシャオンがそんな真似ができないと侮っているからか、はたまた死ぬことなどなんとも思っていない異常者だからか。
「……そうか」
彼女の真意はわからない。だが、やることは変わらない。
不可視の腕を使い、彼女の頭部に軽い衝撃を与え眠らせようとする。
「――あ?」
外れた。
彼女からだいぶずれた位置に、拳は叩きつけられ、地面は凹む。
「おいおい、いくら疲れているからってこの距離で外すなんて」
再び、能力を使用しする。
だが、同じような結果になった。
「どおしたのかしらあ?」
「……悪いが、絞め落として、気絶させてやる」
不可視の腕による気絶させる方法は断念し、少しでも力の加減を間違えてしまえば折れてしまいそうな首に、ゆっくりと力を加えていく。
「――っあ、くる、し」
だが、彼女が漏らす苦痛の声に、力を緩めてしまう。
「はぁ、はぁ。どうしたのお?」
呼吸を乱しながらもこちらに向けて問いかける。
殺されようとしているのに彼女の様子は今まで会話してきたと何ら変わりがなく、不気味にすら覚えた。
「――くそが」
殺せない理由はわかっている。
エルザや魔獣たちとは違い、彼女から抵抗の意思が感じられないからだ。
元の世界で生きる殺すだのとは無縁な生活を過ごしてきたシャオンに、人を殺すことは精神的にきつい。しかも、正当防衛でもなく、自分よりはるかに幼い人物が相手では尚更だ。
だがそれとは別に心のどこかで
「お兄さんって、優しいのね。でも、残念。私を見逃さないなら殺さなきゃ――」
「いっ!」
押さえつけている腕を噛み、メイリィは拘束から抜け出す。
そして、ステップを踏むように移動し、シャオンから距離を取る。
「まて――!」
焦るように腕を伸ばすがもう届かない。
彼女はウィンクをし、
「じゃあねえ」
枷となっていた主人が離れ、獰猛な魔獣の牙が、爪が、シャオンを飲み込んだ。
◇
「ふぅ、驚いたわねえ」
かみついた際についた、シャオンの血をなめ、現在行われている惨殺を眺める。
魔獣たちは新鮮な餌を堪能するかのように派手に血をまき散らせている。あの様子では数分を持たずに無残な姿態となるだろう。
流石にそんなものを好んでみるほど歪んではいないので獣たちが満足するまで目をそらしている。
「さっさとママのところに帰らなくちゃあ」
もう一人の”お兄さん”も気にはなるが今はこの森から抜け出し、愛するママの元へ帰ることが大事だ。メイリィは十分に仕事をした。これ以上無理することはよい子のすることではない、メイリィはいい子なのだからそんなことはしない。
「終わったかなあ? みんな、頼んだよ!」
殺戮の音が止んだのを確認し、移動手段である魔獣たちに呼びかける。しかし、魔獣たちはメイリィについてくる気配がない。
「どうしたのお? 早くいかなきゃ暗く――」
奇妙に思いながらも、イライラとした様子で魔獣たちの方向へ、シャオンのいる方向に首を動かす。そして、
「――あ」
メイリィは目にした、目にしてしまった。
魔獣に襲われた傷がひどく、意識はないようだが、死んではいない。
――何故立ち上がれたのだろう? 何故、光を帯びているのだろう? そもそも魔獣たちはなぜ攻撃をしない?
それらの疑問すべてを些細なものと片付け、ただ、彼を見つめ続ける。
愛しく、尊いものを見るように、熱烈な視線を向ける。
瞬きすることすら勿体無く、呼吸をすることさえ彼を見つめることに比べればどうでもいい。
「――素敵」
ふと漏れた声は掠れた声であったことに気付く。気付いたが、それよりも彼の姿を眺めているほうが大事だと思い直し、すぐに頭から消える。息苦しさも、胸の痛みも彼の放つ光で些事なものに変わっていく。
すべてをささげたくなるほどの熱烈な魅力。それを感じながらメイリィは涙を流す。
生理的反応か、感動により心が揺さぶられたからか。
――そんなものはどうでもいい、どうだっていいのだ。与えられた任務すら後回しにし、今はただ、彼の姿を心に、脳内に焼き付けるだけ、それこそ自分が生まれた意味だと、そう考えるほどに。
もっと近くで彼を見ていたい。そう考えると今まで動かなかった足が自然と動いた。
もっと間近で彼の姿を眺めたい、許せるならば彼とふれあいたい、彼の声を聞いていたい。彼のーー
「――――ォォォ!!」
「――っ!?」
遠くに待機させていた魔獣の雄たけびでメイリィの意識は復活する。
途端、襲いかかってきたのは、呼吸をしていなかったことが続いたことによる窒息寸前の苦しみと、見開きっぱなしになっていた瞳の渇きによる痛みだった。
立っていることが困難になり、膝をつき、酸素を求めて荒い呼吸を続ける。血の混じった赤い唾が垂れ、頭痛が彼女を襲う。
「っ、かふっ……は、はぁっ。 今のは?」
原因を確かめるためにメイリィは再び顔を上げる。すると再び彼の姿を目にしそうになる。
「――っ!」
だが今度は寸前で目を逸らす。
それでも、危険なものだと分かっていても頭が動きそうになる。このままではまた、彼の光に虜にされてしまう。そうなってしまってはもう逃げられない、そう本能的に訴えられているのだ。
だから体が動くうちに逃げなければならない。
「急いで!」
メイリィの行動は早かった。
悲鳴のように叫び、その叫びに呼応するように魔獣たちは主人である彼女を背に乗せ、未知の存在から離れていった。
よくよく考えると今回の話でシャオンさん幼女を魅了させてるんですよねぇ。
――色欲、レベル1